47番 恵慶 八重葎の河原院に往時を偲ぶ 

38番~46番、恋歌が続きました。一転して法師による秋の歌。源融の築いた豪壮な河原院の寂れた様を詠っています。歌の主題は何なのでしょう。

47.八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり

訳詩:    むぐら生い茂る屋敷のさびしさ
       訪れてくる人もない
       けれどごらん そんなに見捨てられた庭だから
       忘れずに訪れてくる秋の姿は
       かえってこんなに眼にしみる

作者:恵慶法師 生没年未詳 10世紀後半の人 出自未詳 播磨国の講師だった
出典:拾遺集 秋140
詞書:「河原院にて、荒れたる宿に秋来たるといふ心を、人々よみ侍りけるに」

①恵慶法師 
・生没年未詳→親交のあった42清原元輔(908-990)と同じ時くらいに生きた人と考えておきましょうか。村上~冷泉~花山朝における中堅歌人。三十六歌仙に入っている。
 →拾遺集18首 勅撰集計55首。中堅よりもうちょっと上位であろうか。

・出自未詳、、、親も先祖も奥さんも子どもも出家の経緯も何もかも分からない。
 →48源重之・42清原元輔・49大中臣能宣・40平兼盛・紀時文らと仲良しだったので王氏末流或いは賜姓源氏末流かとも言われている。まあそんなところか。藤原氏が入っていない。

 →花山院(986熊野御幸に供奉)や権門(源高明、藤原頼忠ら)に出入りしてた由でこの辺は素性法師に感じが似ている。

・播磨国 国分寺の講師僧を務めた(ことがある程度かも)。
 【注】:国分寺・国分尼寺:741年聖武天皇が国家鎮護のため各国の国府に建立した寺院
     僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を配置 総国分寺は東大寺、総国分尼寺法華寺

  →播磨国の国分寺20人の僧のリーダー格だった。けっこう偉かったのだろうか。でもあまり線香臭い感じはしない。

②47番歌の舞台 河原院について
・14番歌の項参照 風流貴公子源融が六条に造営した贅を尽くした邸宅。
 (風流人のサロン。奥州塩釜の風景を模した庭園、池には難波から毎日二十石の海水を運ばせ海の魚介を飼育、塩焼きを行った)

・河原院の推移
 850(推定)河原院最盛期 源融、風流人を集め悦に入る。
 895    源融没 河原院は融の次男源昇が相続
 910(推定)源昇、宇多上皇に献上(仙洞御所に)
       宇多院、寵姫京極御息所との愛の巣として活用
       源融の幽霊が出たが宇多院が一喝、幽霊は引き下がる(今昔物語)
       (他にも怪異・猥雑な説話が残っている)
       →この頃はまだそこそこの状態を保っていたのか。

 その後   宇多院は源融の三男仁康に返却
       →持て余したのだろう。それとも幽霊で気持ち悪くなったのか。
 
 920(推定) 仁康は河原院を寺にする。この頃からすたれ始まる。
       →贅を凝らし過ぎてるだけにちょっと手を抜くと荒れ方も凄まじいのだろう。

 950(推定) 寂れた寺、源融の曾孫安法法師が住んでいる。
       ここに昔を偲ぶ歌人らが集い河原院サロン(河原院歌人)となっている。
       (重之・元輔・能宣・時文ら、取分け恵慶は安法と親友だった)
       →そうして詠まれたのが47番歌ということ。

・一世を風靡した豪邸が寂れていく様は歌人の詠み心を刺激したのであろうか、幾多もの歌が詠まれている。

 紀貫之 融が亡くなって間もなくの歌だろうか    
  君まさで煙絶えにし塩竃のうらさびしくも見えわたるかな 古今集852
  問ふ人もなき宿なれど来る秋(春)は八重葎にもさはらざりけり 古今六帖

 曽禰好忠 好忠集より
  八重葎茂れる宿に吹く風を昔の人の来るかとぞ思ふ 
   
 恵慶法師 47番以外にも多数詠んでいる。恵慶集より
  すだきけむ昔の人もなき宿にただ影するは秋の夜の月
  草茂み庭こそ荒れて年経ぬれ忘れぬ物は秋の夜の月
  跡絶えて荒れたる宿の月見れば秋となりになりぞしにける

 藤原定家
  月かげを葎の門にさしそへて秋こそきたれとふ人はなし 拾遺愚草

③47番歌 八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
・八重葎=カネムグラ つる性の雑草、荒れたる屋敷の象徴
 光琳かるたの絵はまさにカネムグラである。

 →39番歌の項参照 以下はコメント返信欄より抜粋
  【「葎」 カナムグラ(八重葎) これは盛夏でしょう(夏の季語です)。夏になるとつる性植物が木を伝い垣根を伝い屋根にまで生え上る。カナムグラ、ヤブカラシ、カラスウリ。それと秋にかけては葛(クズ)がすごい。伝わる物がなくてもつるを伸ばし風に揺られる様は恐ろしくさえなります】

 →当地(流山)の様子だが、今12月初旬でまだカネムグラは青々として衰えていない。一方あれだけ猛々しかった葛はすっかり枯れ果てている。

・「人こそ見えね」 一般の人か、住人か、源融か?
 →全てを包含しているか。でも源融の面影は当然あってのことだろう。

・「人こそ見えね秋来にけり」
 →解説本にもあるが18藤原敏行の古今集秋の冒頭の名歌に通じるのであろう。
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

・本歌は年月の推移(河原院の荒廃・王氏源氏の衰退・藤原の興隆)季節の推移(廻り来る秋)を同時に詠んだものであろうか。
 →盛者必衰、栄枯盛衰世の習い。

④源氏物語との関連
・八重葎・葎は荒廃した(主人を亡くした)宿の象徴として描かれている。
 1.源氏物語桐壷8 野分の段(桐壷帝の名代で命婦が故桐壷更衣の里を訪れるシーン)
  草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎にもさはらずさし入りたる。
  →「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」(桐壷更衣)
   源氏を残して逝かざるを得なかった更衣の絶唱であります。

 2.源氏物語帚木4 雨夜の品定め
  恋の道の先輩左馬頭が源氏に中の品の女の素晴らしさを説く場面
  さて、世にありと人に知られず、さびしきあばれたらむ葎の門に、思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ限りなくめづらしくはおぼえめ。
  →そして葎の門で巡り合ったのがかの末摘花でありました。

・荒れ果てた河原院をモデルにして紫式部は夕顔の巻を書いた。
 源氏物語夕顔11 源氏が中秋の名月の夜、夕顔を連れ込んだ「なにがしの院」
  
  日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見わたされて、木立いと疎ましくもの古りたり。け近き草木などはことに見どころなく、みな秋の野にて、池も水草に埋もれたれば、いとけ疎げになりにける所かな

  →紫式部は光源氏の人物形成に源融をかなり意識していたのであろう。

【年末、1週お休みします】
 年末28日は休載とします。それぞれにお忙しく百人一首どころではないかと思いまして、、。爺宅も年末は10人家族になる予定で26日以降は民宿のあるじ業に専念するよう仰せつかっております。年始は1月4日に48番歌を登載します。どうぞご理解方お願いいたします。
 →28日にご挨拶がてら「年末年始書き込み帖」を載せますので休みの間の思いの丈はそちらにコメントください。 

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18 Responses to 47番 恵慶 八重葎の河原院に往時を偲ぶ 

  1. 小町姐 のコメント:

    やっと恋歌から離れ秋の情景に写りました。
    さびしい秋の歌はいっぱいありますが皆様それぞれに好きな歌がおありでしょう。
    百人一首の中でも恋の歌以外の季節の歌ではやはり秋が一番多いようです。
    私がその中で一番好きなのは87番の
       村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ(寂連法師)
    この歌は子どものころから好きだったし一枚札の為やはり一番に取りたかった札です。

    この47番歌 八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
    荒れ果てた庭にもそれなりの風情はある事よ、案外捨てたものではない。
    過去の栄光と没落を懐かしむ気配が感じられると同時に空しい思いも漂います。
    世は宇多、醍醐帝から村上~冷泉~花山朝へ。恵慶法師、生没、出自は未詳とのこと。

    「葎」と言うのは枯れたように見えてものすごい生命力旺盛のようですね。
    八重葎で思い出す源氏物語の場面。
    百々爺さんが挙げて下さっている「桐壺」野分の段。
    「夕顔」なにがしの院。印象に残っている場面です。
    そして源氏が惟光と共に訪れた末摘花邸。そこは荒れ果てた八重葎。
    源氏物語「蓬生」 国宝・源氏物語絵巻の場面が思い出されます。

    年末のお休み了解です。
    それぞれ家事や育爺婆にご活躍ください。

    • 百々爺 のコメント:

      ・38番から46番まで続いた恋の歌には季節が全く詠みこまれていない。秋になると人恋しくなるとは言うもののそれは一般的な話。人に恋したら季節などは関係ない、四六時中、三百六十五日恋する人のことを思い続ける。それが恋というものなんでしょう。
       →改めて恋歌の情熱を感じます。

      ・秋の歌、百人一首では16首 季節の歌合計が32首ですから半分は秋の歌ということになります。87番「村雨の、、」分かり易いし好きな方が多いんでしょうね。おっしゃる通りカルタの狙い目の最たる札でしょう。
       →「雨」「露」「霧」と三つも気象現象が詠みこまれている。中学校の理科の教科書に載せればいいのにねぇ。また87番歌のところで。。

      ・源氏が空蝉、夕顔、末摘花と「中の品の女」を追い求めるのに常に同道したのが(お傍去らずの)惟光でしたねぇ。なにがしの院(河原院がモデル)で物の怪に取り殺されてしまう夕顔、おろおろする源氏、その時に限ってどこかへしけ込んでいた惟光、、、。面白かったですね。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    この歌は、拾遺集巻3の秋に

    河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を人びとよみ侍りけるに

    という、詞書がある歌と。

    読んだときの響きや流れのよい歌とは思うしこれまでは好きでしたが、考えてみると、”宿のさびしさに”と直接さびしいと言い切ったところが、あまり好きになれなくなっています。また、初秋はそんなにまでは寂しくはないとも思います。

    爺が引用してくれた

    曽禰好忠 好忠集より
      八重葎茂れる宿に吹く風を昔の人の来るかとぞ思ふ

    のほうが、小生にはよい。

    これも爺が引用してくれているが、

    恵慶集より
      すだきけむ昔の人もなき宿にただ影するは秋の夜の月
      草茂み庭こそ荒れて年経ぬれ忘れぬ物は秋の夜の月
      跡絶えて荒れたる宿の月見れば秋となりになりぞしにける

    も、秋はさびしいのだと、秋の夜の月とあえて夜をいれ、また なりにぞしにけるとこれでもかと引導を渡すような歌と成っており、
    藤原敏行の

    秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

    のほうが、初秋の寂しさはこの程度どまりと思うので、好きであります。

    古典文学の素人が、定家の選んだ歌をうんぬんするのは、僭越ながら、感想をかきました。

    いよいよXMAS&年の瀬を迎え、爺宅も賑やかに成るようで、結構・結構、次回お休みも了解です。
    拙宅は、孫たちが海外に行ってしまい、”さびしい”年越しですが、LINEで毎日テレビ電話もできるので、程よい”さびしさ”にとどめ、のんびり過ごすつもりです。

    それでは、来年もよろしくおねがいします。

    • 百々爺 のコメント:

      ・秋の「寂しさ」の分析ありがとうございます。
       「寂しい」が出てくるのは他に28番「山里は冬ぞ寂しさまさりける」と70番「寂しさに宿を立ち出で眺むれば」でしたかね。
       →直接「寂しい」なんていったら台無しになってしまう。俳句ではよく言われます。確かに「秋来ぬと」の歌は秀逸だと思います。

      ・お孫さん一家のシンガポール生活始まったようですね。テレビ電話はほんと助かります。時差も殆どないし年越しは繋ぎっぱなしでいいじゃないですか。寂しくないですよ。

  3. 百合局 のコメント:

     一年前、源氏物語の旅の最後に河原院跡と一時思われていた「枳殻邸(渉成園)」を訪ねました。14番歌の作者源融を偲ぶものが幾つかあり、庭園の美しさとともに印象深かったです。
     同行三人のうち、今は亡き九代目仁王(白髯大将)さんも大いに気に入って楽しそうにしていたのが目に浮かびます。 春の花の頃にもまた来てみたいねと、言っていたのに・・・

     現在も地名として「元塩竈町」は残っています。
     枳殻邸の北東、源氏物語の六条院のあったあたりで、現在、「本覚寺」「上徳寺」のある場所一帯に河原院はあったようです。
     「本覚寺」は源融の河原院塩竈の第のあったところで、今この辺を本塩竈町というそうです。源融像が安置されているとのことです。
     「上徳寺」は「塩竈山」と号し、これも河原院跡に建つお寺だそうです。
     また木屋町通五条下ルの高瀬川沿いの道路に「此付近源融河原院址」と書かれた石碑があるようです。
     河原院の広大さが偲ばれますよね。

     安東次男は次のように書いています。
    「人こそ見えねといいながら、作者は残暑初秋の廃園の其処此処に、華やかな古人の面影を立たせている趣きで、実際には仲間たちの賑やかな話し声もきこえているらしいところが、この歌の見どころであろう。~ 紹鴎利休時代、この歌の小倉色紙を茶の湯の掛物に用いたころから、とかく侘好みに解されるようになるが、本来はそうした歌ではない。人こそ見えね秋は気にけりに、はずむ心のリズムも見えている歌である。~ 定家や芭蕉は、この立秋の歌に恋の余情を読み取っているらしいところが、たいへん面白い。」

     謡曲『紅葉狩』にある「八重葎茂れる宿の淋しきに、人こそ見えね(知らぬ)秋の来て、庭の白菊移ふ色も憂き身の類ひと哀れなり」はこの47番歌をほぼそのまま使っています。

     謡曲『遊行柳』にある「人跡絶えて荒れ果つる葎蓬生刈萱も乱れ合ひたる浅茅生や」は「八重葎茂れる宿の淋しきに人こそ見えね秋は来にけり」に拠っています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうか、旅の最後に九代目仁王・源智平さんと「枳殻邸」に立ち寄られたのでしたね。写真もいただきました。私と小町姐さんは在六少将さんの案内で雨の長谷寺に行ったのですが、家に帰るや否や九代目仁王さんより私宛に次のメールが届きました。よっぽど「枳殻邸」が素晴らしく私に自慢したかったのでしょう。。
       
       【九代目仁王さんのメール】
       そろそろお帰りでしょうか。お別れの後、百合局さん、源智平どのと枳殻邸を堪能、午後3時半ごろの電車で帰ってきました。祇園で軽く一杯……と思っていたんだけど、やっぱり一人ではねぇ。
       
       雨の中ではあったけど、枳殻邸は素晴らしかったよ! 池泉回遊式の庭園、茶室などの佇まい、晩秋~初冬の風景がよかったけど、また春、夏にも行ってみたいと思わせる所でした。今回の「京都路」では御所に続く第2位かな? 第3位が祇園の夕食、白川の宿の宴会その他もよかったけどね。京都駅のすぐそばだから、是非、再訪したいと思います。

       →余程お気に入りだったのでしょう。今度は一緒に行きたいねって返信したのですが。。

      ・「元塩竈町」とか「本塩竈町」が地名として残っているのですか。京都の町の地名はすごいですね。塩竈の人もびっくりでしょう。それにしても広いところですね。六条あたり、宮中からは遠かっただけ広大な場所を占められたのでしょうね。六条院しかりですかな。

      • 小町姐 のコメント:

        そうですか、九代目仁王さんからそのようなメールが届いていたのですか。
        源智平さんが送ってくださった渉成園の写真を眺めています。
        いつか九代目仁王さんがお気に入りだった渉成園を皆で訪れたいですね。
        私は「小説を書いてね」とお願いしたのですがもう叶わぬ夢、カルタ取りもできなくなりました。

        名古屋にも塩竈とつく神社が二つもあるし塩釜口という地下鉄の駅もあります。
        陸奥の塩竃とはなんらかの関係があるのでしょうね。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    恵慶法師は三十六歌仙に入り、勅選集に55首も撰ばれているにもかかわらず、生没年・出自とも未詳なので人物像が掴みにくいのですね。でも、花山院や権門に出入りし、当時の一流歌人と親交があったことから推測すれば、世俗と着かず離れずの生活を送っていた僧侶でしょうか。

    47番歌は曽禰好忠の「八重葎茂れる宿に吹く風を昔の人の来るかとぞ思ふ」という一首を本歌取りした歌との説明(神田龍一)を見ましたが、好忠は「煙(けぶり)絶えもの寂しかる庵には人こそ見えね冬は来にけり」という歌も作っています。そうすると、47番歌は好忠の初めの歌の前半と後の歌の後半をコピペして作った歌のようで、季節が冬になっているとはいえ、「こんなの許されるのかよ」という気がします。

    一読したところ、47番歌は「年月の推移に伴う人の世の移り変わり」と「確実に巡って来る季節の推移」を対比して詠んだもので、漢詩の「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」と同じ発想の歌かと感じました。でも、漢詩は多分春をイメージで作られたものなので、今ではちょっと違うかなという気がしています。

    荒れ果ててしまったとはいえ、47番歌が小生の憧れの人である源融が作った河原院で詠まれたのは嬉しいですね。小生は河原院と言えば、「枳殻邸(渉成園)」を思い出します。百合局さんのコメントに出てくる昨年末に枳殻邸を訪れた同行の最後の3人目は小生です。枳殻邸は東本願寺の別邸なので、庭や建物の手入れは完璧、とても優雅で美しく、源融が住んでいた頃の河原院最盛期を思わせるものがありました。庭には塩釜(塩を作る釜)、塩釜の手水鉢、源融の供養塔など、河原院ゆかりの物もいくつかありました。実は小生は枳殻邸の存在すら知らなかったのですが、百合局さんの計画に便乗したお陰で素晴らしい場所を訪れることができ、大いに感謝しています。それにしても、同行3人の一人であった九代目仁王と幽明境を異にすることになったのは悲しく寂しいです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・47番歌は好忠の二つの歌の上+下ですか。ほんとそれってなしでしょうね。好忠も怒らなかったのですかね。コピペの問題、現代の大学教育の現場では大変に由々しき問題だと聞いています。確かに便利で私もよくやりますがやはり使い方次第。若い人たちには基本的なところをキチンと教育しなければダメなんでしょうね。現代の課題だと思います。

      ・「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人(&建物)同じからず」いいですね。私も47番歌はこの心情を詠ったものだと思います。

       この心は35番歌にも通じますね。

       人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香ににほひける 貫之

      ・枳殻邸、清凉寺京都には源融ゆかりの場所が色々ありますね。さすが智平どのが憧れて名前をいただいたお人ですね。源融で一番羨ましいのは何といってもその財力でしょうかね。

       →昨年末の枳殻邸訪問、特別なものになりましたね。思い出を大切にしてください。

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    なんとなく気忙しくなってきましたね。来年2月のイベントの出演交渉、3月の練習日程取り、来たる26日の演奏会を控え、来賓の案内、食事の手配、チケットの読み込み等、分刻みののスケジュールとなってきました。おまけに当地区のコミュニティ会則改正案の検討等が重なってきております。

    ボランティアといえども、なかなか結構忙しいんであります。集中していると帯状疱疹の痛みも和らぎますねえ。

    47番歌、寂しい秋がいっぱいの歌ですね。恋の歌がダントツに多いのは当然として、季節の歌32首のうち、半分が秋。つまり恋が多く、秋が多いのが百人一首の特徴でしょうか。第1番からして秋(天智天皇)ですもんね。

     秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

    5番もわかりやすい。

     奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

    そして文屋親子

     吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ
     白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける

    みんなみんな「秋は寂しい」のオンパレードですね。平安歌人の好みに合っていたんでしょう。
    そして47番歌の登場

     八重むぐらしげれる宿のさびしさに人こそ見えね秋は来にけり

     ほとんど履歴のわからない法師ではありますが、歌はしっかり残しているんですね。出家して人間関係は疎らだったのか、山里の庵に誰も訪ねてこない。来るのは、物悲しい秋だけ。しみじみと述懐してるんですね。

    現代だって秋は、歌謡曲やポップスにたくさん歌われてます。
    山口洋子作詞の「誰もいない海」。いいですね~。誰もいないと言いながら、知らん顔して人がゆきすぎたりしますけれどね。
    26日の演奏会に歌う高田三郎作曲吉野弘作詞の「こころの四季」にも秋の素晴らしいフレーズがちりばめられています。

     人は見えない時間にみがかれている
     雨がイチョウの金の葉をおとす
     秋がそれだけ透きとおってくる
     薄いレースの糸を抜かれて~

    やっぱり日本人の感性にぴったりなんでしょう。秋はね。

    26日には早くも東京から長男夫婦が帰省します。6歳と3歳の孫たち、多寡秀爺の歌、最後まで聴いてくれるでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・帯状疱疹ですって? 気をつけてくださいよ。多寡爺、いつもの元気なところ見せなくっちゃ。26日のビッグイベント大変でしょうが楽しみですね。素晴らしいことです。しっかりビデオ撮らなくっちゃね。孫の学芸会をビデオに撮って爺ちゃんが楽しむって普通でしょうが爺ちゃんの歌う姿をビデオに撮って孫に楽しんでもらうってなかなかないですよ。

      ・そうか、ご先祖の文屋親子も秋の歌でしたね。26日に歌われる「こころの四季」なかなか凝った歌詞ですね。「秋がそれだけ透きとおってくる」
      79番歌を思い出します。

       秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ 藤原顕輔

  6. 枇杷の実 のコメント:

    源融が隠棲の為、築造した六条河原院とはどんなものか。百合局さんのコメントにありますが、もう少しネットで調べると、平安京の北は六条坊門小路、南は六条大路、東は東京極大路、西は萬里小路に囲まれた8町に及ぶ敷地であった。当時の一町は約120m四方であったことから(京都〈千年の都〉の歴史)河原院の広さは約11.5ヘクタール。京都御苑の八分の一、東京ドームの2.5倍のスケールである。
    現在位置では北は五条通,南は正面通,西は柳馬場通,東は鴨川を範囲として、その中には本覚寺(河原院御殿)、上徳寺(塩竈山)など18社寺が立ち並ぶ。
    ご案内のように、融の死後は子の昇が相続し、昇は宇多上皇に献上して仙洞御所となった。後に融の三男の仁康に与えられ寺となったが、仁康が祗陀林寺を創建する際に河原院の本尊が移された後は主もなく、数度の火災、鴨川の氾濫で荒廃した。
    源融の曾孫安法法師が住んで一時、文人達のたまり場となってからの記録は探せど見当たらない。おそらく秀吉が応仁の乱以降、焼け野原となった京都を復興させるまで放置されていたのはないか。江戸時代に入って跡地の一部に渉成園(枳殻邸)が築造され、徳川家光が東本願寺に寄贈し、その飛地境内(別荘)となって今に至る。

    さて、#47恵慶法師のこの歌、人は来なくなったが秋は巡り来ると詠む。
    源智平さんがコメントするように、この歌の上手いところは「人」と「秋」を対照的にしたところ。自然と人事の対比は#28「山里は・・」、#35「人はいさ・・」にも共通しているとか。

    以下は(百人一首で読み解く平安時代 吉海直人)から
    この歌の解釈としては、単に秋の季節的な侘しさや荒廃した廃園の侘しさを詠じている以上に、河原院という特定の場所である事を重視したい。同じく河原院の荒廃を詠じた貫之の歌によっても察することができる。
    君まさで煙たえにし塩釜のうら寂しくも見えわたるかな」(古今852 貫之)
    河原院は歴史的背景を有しており、又、「葎の宿」は単に荒れ果てた寂しい心象風景ではなく、一種の美意識として確立していた。そう考えることで、来ない男の訪れを待ち続ける女の立場で詠まれた歌、という恋物語的解釈も可能となる。

    皆様、良いお年をお迎えください。

    • 百々爺 のコメント:

      ・さすが京都に住んでおられた枇杷の実さん、六条河原院について実感のこもった地理的説明ありがとうございます。京都御苑の八分の一なんですね。

      「京都源氏物語地図」によればこの区画がそっくり「六条院」ということになります。源氏が六条御息所所有の区画を譲り受け周りを買い足して作り上げたのが「六条院」。春の町に紫の上、夏の町に花散里、秋の町に秋好中宮(この区画が六条御息所の区画だった)そして冬の町に明石の君。

       →紫式部は源融の六条河原院を思い浮かべて六条院を創出したに違いありません。

      ・吉海先生の解釈紹介ありがとうございます。「来ない男の訪れを待ち続ける女の立場で詠まれた歌」ですか。私も先生の本参照しましたがこの部分???マークをつけてました。ちょっと考え過ぎに思うんですがそこまでを含めたのが王朝人の美意識というものなんでしょうかね。

  7. 在六少将 のコメント:

    カナムグラ(八重葎)とあったので調べてみました。
    古代の葎=今のカナムグラ
    なんですね。
    これは写真で確認すると、大和川河川敷を一面覆っていたもののようです。小さな棘のあるいかにも毒々しい実をつけていたので外来種と勘違いしていました。これが家や庭を覆うと間違いなく「八重」状態にちがいありません。

    万葉集にもいくつか「葎」が詠まれていますが、内容としては自分の家を謙遜して使う例が目立ちます。

    思ふ人来むと知りせば八重葎覆へる庭に玉敷かましを不詳 巻11-2824
    玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋も妹と居りせば 不詳 巻11-2825
    むぐらはふ賤しき屋戸も大皇の座さむと知らば玉敷かましを 橘諸兄 巻19-4270

    あるいは、「むぐらvs玉敷く」の対比で使われているとも言えます。
    平安時代以降になると「むぐら=荒廃した家や庭」と一般に敷衍されたようですね。

    浜寺八麻呂さんは、俳句的感覚をおもちの方とお見受けしました。ぜひご一緒にどうですか。
    ただ、恵慶さんの、
    跡絶えて荒れたる宿の月見れば秋のとなりになりぞしにける
    は「秋隣り」をもってきたことで、秋の月との重複が緩和されているようにも思えるのですが、いかがでしょうか。

    九代目仁王さんのメールには弾んだ気持ちが前面に出てますね。二番目だという御所での写真もまた、その弾んだ気持ちがよく出た表情だと思います。

    文屋多寡秀さん、帯状疱疹とは大変な年末ですね。ビッグイベント頑張ってください。

    それでは、みなさん良いお年をお迎えください。

    • 百々爺 のコメント:

      ・万葉集の葎の紹介ありがとうございます。まさに古代から日本を覆いつくしているのですね。外来種に負けないしっかりものだと思います。

       むぐらの宿だけど玉を敷いて客人を迎えるということですね。ウチなんかも偶に来客があるといってやっとそこら辺掃除する、それといっしょですかね。

      ・一日一句で「関連」が載せられてますがどうやって「関連」記事がピックアップされるのですか。多分自動的に引っ張ってくるのだと思いますが。一度「談話室」でも試してみましょうか。

      • 在六少将 のコメント:

        「関連記事」のアルゴリズムがよく分からないのが気味悪いですが、過去記事を思い出させる効果があるので試行しております。
        談話室にも仕掛けてみますね。

  8. 小町姐 のコメント:

    【余談19】  2015・小町姐・ラストコンサート
    本題よりも余談が多く小町姐のおしゃべり好きが止まりません。
    今年のラストコンサートはクリスマス12月25日、本日でした。
    誰もプレゼントをしてくれる人がいないので自分自身へのプレゼントである。
    今日のコンサートはキエフ国立フィルハーモニー交響楽団。
    チャイコフスキーとメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が2曲演奏される。
    他に組曲「くるみ割り人形と」とイタリア奇想曲の豪華プログラム。
    スラブの名門オケと名古屋出身のヴァイオリンニスト、大谷康子の共演で今回使用されるのはストラディバリウス(1709年製)。デビュー40周年との事である。
    華やかなクリスマス公演で今年最後を飾る。
    「メン・コン」の愛称で親しまれている三大協奏曲の一つ「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」は先日公開された山田洋二監督の映画「母と暮せば」の挿入曲である。
    映画のストーリーは長崎の原爆であるがこの曲が軸になっている。

    この曲を始めて聴いたのは高校時代である。
    クラス担任がHRの時間に音楽室でこの曲を流してくれた。
    クラシックを聴いて初めて涙を流した思い出の曲であるが実はこの曲を生で聴くのは今回が初めてである。
    最近はこの曲を聴くたびに昔のことよりも源氏物語の「紫の上」がイメージとして浮かぶ。
    華々しく技巧的な曲にもかかわらずその哀調を帯びたヴァイオリンの音色が「若紫」の鮮烈な印象から晩年の「紫の上」の生涯に重なり合うのです。
    古典文学と古典音楽、分野こそ違えそのイメージがクロスオーバーするのもやはり古典の持つ普遍さゆえに響き合うのかも知れない。
    音楽は目には見えないけれど人の心に大きな影響を与える不思議な力があることを感じる。
    今年も音楽に、文学に力を貰い励まされて一年が終わろうとしている。
    私の2015年、ラストコンサートツアーは幕を閉じたがは来年に向けても継続できることを願ってやまない。
    願わくは映画を見るような気軽さでそして外国のように手頃な価格で聴けることができたらどんなに良いだろう!!

    • 百々爺 のコメント:

      いつもながら楽しい余談を寄せていただきありがとうございます。談話室が輝きますよ。

      いいクリスマスプレゼントでしたね。心地よげに演奏に聴き入る小町姐さんが思い浮かびます。「メン・コン」って言うんですか。検索したら一発で出て来ました。YOUTUBEで二三聴きました。そうかこの曲なんですね、いい曲ですね。

      なるほど、このヴァイオリンは女三の宮降嫁後の紫の上の心境かもしれません。若菜冒頭でこの曲流れたらピッタリでしょうか。

      (本日陽希くんの第五集ですね。御在所楽しみです)

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