謹賀 新年!!
さあ、新しい年が始まりました。お正月いかがお過ごしでしたでしょうか。爺は年末からの嵐が正月に過ぎ去った後のんびりゆっくりさせてもらいました。
談話室、張り切ってまいります。どうぞ今まで同様よろしくお願い申し上げます。
さて、年頭を飾るは48番歌源重之、馴染みがない人でしたが、、、。
人生前半は華やかな宮中での青年武官、人生後半は九州から陸奥まで地方官吏を転々。源重之って興味深い人でありました。
48.風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな
訳詩: 烈風に 波は岩をうち 波は砕けてやまぬ
私は波だ 岩をうっては砕け散る あの波だ
この心は あの人の固い岩の面をうって
砕け散るばかり
砕けて私は嘆きに沈む ただひとり
作者:源重之 10世紀後半の人 60才余で没か 清和帝の曾孫 五位 三十六歌仙
出典:詞花集 恋上211
詞書:「冷泉院春宮と申しける時、百首歌奉りけるによめる」
①源重之 出没 940-1000 と考えておきましょうか。40兼盛・51実方と同年代です。
・清和帝の曾孫。武家の頭領へと続く清和源氏の流れ。父源兼信が陸奥守でそのまま陸奥に土着したため重之は生まれ育った陸奥を離れ伯父の参議源兼忠の養子となり中央官吏への道に進む。
→父兼信、陸奥に残ってしまう。こんな人もいたのですね。余程住み心地がよかったのか。
・東宮憲平親王(後の冷泉帝)の帯刀先生(東宮警備の長)を務め親王に百首歌を奉献
967冷泉帝即位 近衛将監 従五位下を爵位
→20~30代 青年武官として東宮・帝に近侍。和歌もできるし意気揚揚だったろう。
→光琳かるたの絵、武者姿がよかったのに。。
・その後円融帝時代(969~)になると時流に乗れなかったのか地方回りが始まる。
相模権守、信濃守・日向守・肥後守・筑前守を歴任
晩年は藤原佐理(三跡の一人)に随行し太宰府へ
最晩年は陸奥守になった51藤原実方に随行し陸奥へ、その後陸奥守となって陸奥で没す。
→前半は宮中の青年武官、後半は九州~東北地方を歴任。商社マンさながらの人生であります。
・源重之の交流関係
人柄もよかったのか多数の歌人との交流あり、河原院歌人として、42清原元輔・47恵慶法師・49大中臣能宣らと歌の交流。取分け親交があったのが40平兼盛と51藤原実方。
1. 40兼盛は安達が原黒塚(福島県二本松市)に住む重之の妹たちを詠んだ戯れの歌を贈っている。
みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか
→黒塚の鬼婆伝説を踏まえたもの。親しみがこもっている。
2. 51藤原実方の陸奥守赴任に随行して陸奥に下った。
→これは面白い。何故そんなことしたのか。51番歌の所でやりましょうか。
②歌人としての源重之
・拾遺集に13首 勅撰集計66首 三十六歌仙
憲平親王に仕えていた時(30代の頃か)百首歌を奉献
百首歌、46曽禰好忠の項参照。百首歌を作った草分け的人物である。
・地方官転出後は地方暮らし、旅の歌、不遇を嘆く歌などが多い。
でも合間を縫って977頼忠家歌合、985円融院行幸和歌などに出詠
→歌人として有名、実力もあったのだろう。
・東宮への百首歌から
吉野山みねのしら雪いつ消えて今朝は霞のたちかはるらむ(拾遺集4)
鶯のきゐる羽風にちる花をのどけく見むと思ひけるかな(玉葉集218)
荻の葉に吹く秋風を忘れつつ恋しき人の来るかとぞ思ふ(玉葉集1662)
→至極分かり易い素直な歌ではなかろうか。
・その他 興味深い歌
1. 音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ(後拾遺集)
→これをそっくりいただいたのが源氏物語蛍の巻、蛍の光に浮かぶシルエット姿を見られた蛍兵部卿からの贈歌に対する玉鬘よりの返歌
声はせで身をのみこがす蛍こそ言ふよりまさる思ひなるらめ(源氏物語玉鬘3)
2. 松島や雄島の磯にあさりせし海人の袖こそかくは濡れしか(後拾遺集827)
→重之は陸奥になじみがあった。松島雄島には何度も訪れていたのだろう。
→これを本歌取りして詠んだのが殷富門院大輔の90番歌
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色は変はらず(千載集)
・源重之には勅撰集18首入集の女流歌人「重之女」(名前がないのは悲しい)がいる。
春の日は花に心のあくがれて物思ふ人とみえぬべきかな(続千載集88)
③48番歌 風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな
・これも東宮に奉献した百首歌の一つ。源重之の代表歌。
・一読しただけでは何のことやら分かりにくい。
風をいたみ。→77瀬を早み、1苫をあらみ
どっしりして壊れない岩=強い女性、 岩にあたって砕け散る波=弱い私
→そう思うとこの歌ぐっと親しみが出てくる。何時の時代も弱いのは男!?
・物思ふ 重要古語 思いにふけるの意→色んな思いがあるのだろうが一番は勿論恋の思い
百人一首には8首出てくる。
40ものや思ふと人の問ふまで 43ものを思はざりけり 48物を思ふころかな
49ものをこそ思へ 80ものをこそ思へ 85もの思ふころは明けやらで
86月やはものを思はする 99もの思ふ身は
→王朝人は思いにふける人たちであった。現代人は悩める人たちであろうか。
・くだけて物を思ふ = 恋の歌の常套句であった。しきりに出てくる。
山賤のはてにかりほす麦の穂のくだけて物を思ふころかな(曽禰好忠)
風吹けば岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな(伊勢・伊勢集)
→これでは全く同じ。伊勢集の方がおかしい。後世の誰かが伊勢の歌として増補紛れ込ませたのであろう。源氏物語空蝉5でも空蝉が詠んだ歌と同一歌が伊勢集に載っている。どうも伊勢集は怪しい歌集である。(「源氏物語 道しるべ」空蝉(4・5)参照)
有名なのは梁塵秘抄にあるこの歌。どの解説書でも触れられている。
山伏の腰につけたる法螺貝の、ちやうと落ち、ていと割れ、くだけて物を思ふころかな
→武骨な山伏のイメージと物思いにふける繊細なイメージの対比が面白いとか。
・定家の派生歌
おのれのみくだけておつる岩浪も秋吹く風にこゑかはるなり(藤原定家)
④源氏物語との関連
歌人源重之にも歌意にも直接思い当たるところはないが強いもの(岩)に立ち阻まれて弱い自分(波)が物思いにふけるという心に沿った場面として上坂信男は次を挙げている(百人一首・耽美の空間)。
・光源氏という大きな存在にわが恋を妨げられた柏木の心情
・明石の浜辺で明石の君に心魅かれてやまない源氏が波の砕ける景を見て自省する場面
・紫の上の存在を意識して控え目に振舞う明石の君の内心の表現
→柏木は潰され死んでしまい、源氏は立ち直り栄光の道へ、明石の君はしたたかに生きる。それぞれでありました。
明けましておめでとうございます。
本年も爺のコメントをしっかりと読み、またいろいろ勉強もし書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
お正月は、孫一家が年末近くに海外へ行ってしまったので、拙宅は穏やかで静かな年明けとなりました。近所の武蔵野八幡宮に初詣に出かけたほか、昨日は、東京国立博物館を訪れ、大好きな長谷川等伯の”松林図”を見てきました。折りよくやっていた正月のイべント”和太鼓 湯島天神白梅太鼓”、これは若い女性10人ぐらいの威勢のいい太鼓演奏も見れました(聞けました?)。
松林図は”博物館に初詣”と題した新春特別公開で、昨年に続けて見に出かけましたが、超有名なこの絵にしては、信じられないほど空いていてゆくっりと鑑賞できます。以前、同じ国立博物館の通常の特別展で見たときは、TV・雑誌・新聞で紹介されたりもし、押すな押すなの満員でしたので、今は超穴場であります。17日(日)までやっていますので、興味のある方にはお勧めです。
さて、48番歌、恋に弱い男の歌とはいえ、どこか男らしい強さが響いていて、いい歌だと思います。恋の歌の常套句=”くだけて物を思ふ”が効いているのでしょう。
源重之、全く知らない人物でしたが、爺の解説や挙げてくれている歌など読むと、なかなかすばらしい歌人ではありませんか。
音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ(後拾遺集)
解りやすくて好きです。また、関連として挙げてくれた歌
声はせで身をのみこがす蛍こそ言ふよりまさる思ひなるらめ(源氏物語玉鬘3)
これもいい歌、まさに王朝文化最盛期、源氏物語最高の名場面でしたね。
上に書かれている青年期の歌は、すばらしいと思うが、人性後半の地方官時代の歌も
さもこそは 人におとれる 我ならめ おのが子にさえ 後れぬるかな
昔みし 関守もみな 老いにけり 年のゆくをば えやはとどむる
などは、青年期同様、解りやすく素直に気持ちを詠んだいい歌と思います。
爺の解説にあるように、この重之は平兼盛と藤原実方と親交が深かった由、兼盛の歌が引かれているので、ここでは最後に、実方に同行し陸奥に下ったときの重之の歌を、”百人一首の作者たち”から引用しておきます。
実方の君のもとに陸奥国に下るに、いつしか浜名の橋渡らんと思ふに、はやく橋は焼けにけり
水の上の浜名の橋も焼けにけり 打ちけつ波や寄り来ざりけん
お孫さん海外でちょっと寂しくなりましたね。まああっと言う間に戻って来ますよ。それまで元気な爺ちゃんでいなくっちゃね。ますます諸活動に精を出してください。
→好きな等伯をじっくり見れてよかったですね。混雑を避ける、これにつきますね。
源重之、清和帝の曾孫。まだこれくらいだと賜姓源氏の雰囲気が漂うのでしょうか。皇族は離れたが王氏としてのプライドもあるだろうしそれなりに回りからは崇められるだろうし。
百人一首で源氏を名乗るのは8人。
14源融 嵯峨帝の子
28源宗于 光孝帝の孫
39源等 嵯峨帝の曾孫
48源重之 清和帝の曾孫
71源経信 ここからは天皇に遠くて何代目かよく分からない
74源俊頼
78源兼昌
93源実朝 これはもう賜姓源氏と言うより武家の頭領の源氏でしょう
源重之の歌を詠むと時代のトップには立てなかったが(この出自では仕方がない)王氏末裔として悪くない人生を生きた男と見受けたのですがいかがでしょう。
新年草々PCを開いてびっくりポン!!
48番 青年武官 源重之 くだけて物を思ふ
ややっ!!今日から始まるのでした。
束の間の冬休み、正月ボケしたのか小町姐、すっかり失念しておりました。
重行さん、不遇だったとはいえ、なかなか魅力的なお人じゃないでしょうか?
好もしく親しみやすく感じます。
陸奥で生まれ陸奥で没したと言うのもいいですね。
陸奥と言えば安達が原、安達が原と言えば黒塚。歌舞伎で見た黒塚が思い浮かびます。
なるほどあちこち地方官を勤めてサラリーマンの転勤族さながらですね。
人品卑しくなく氏、素性もよく友人にも恵まれ恨まれたり憎まれたりしていないのも人柄温厚バランスのとれた人間に見受けられます。
それに何よりわかりやすく良い歌を多く編みだしていて歌人としても一流ですよね。
本歌取りされている歌もあったり伊勢集の歌などは全くそのままですね。
風吹けば岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな
風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな
この歌、惚れた弱みなのか自分を波に相手の女性を岩に例えている。
弱気な男の歌にも関わらず浜寺八麻呂 もおっしゃっているように男らしく力強い響きがあります。
荒々しい岩と波から来るイメージが大きいからでしょうか?
重之さんは何故おのれを岩に打たれてくだけ散る波に例えたのでしょう?
思うにまかせない片恋の嘆きの激しさを詠んだとすれば岩をも砕く波ですからもうひと踏ん張り当たって砕けて欲しいですね。
私の頭の片隅には東映映画の冒頭の荒々しい岩と波の映像が浮かんでいます。
今「散崋」紫式部の生涯、上巻を読み終え丁度、父為時に伴い越前の国府に赴くところで下巻に続きます。
式部が時代の背景や趨勢を敏感に感じ取りつつ同時代に生きた人物から影響を受けて源氏物語に投影しているのかが小説とは言え興味深い所です。
正月ボケ?何をおっしゃる小町姐さん。どうぞ今年も月曜の朝は談話室でお願いいたします。
→爺は専ら予約投稿なので、、、。無責任なものですが。
「重之さん」ですか。娘婿みたいな呼び方ですね。親しみがあっていいじゃないですか。
そうか、岩をも砕く波ですか、それは強烈ですね。そもそもひ弱であるべき女性を岩に例えるのもちょっと失礼かもしれませんね。どっちが矛でどっちが盾かなんて恋には似つかわしくない例えじゃないでしょうか。
おっしゃる通り岩と波は東映映画のタイトルシーンですよねぇ。
大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも(実朝)
(私もみなさんに触発されて杉本苑子にかかっています。「山河寂寥」、面白いですね。「散華」も読んでみます)
新年明けましておめでとうございます。
新年は箱根駅伝で明け、10人の若武者のエネルギーに感化され、100人の選良歌人の歌を楽しむ意を改めた次第。
その割には、日々に疎くなったのかリズムが壊れているのか、談話室再開にもスロウレスポンス。小町姐の心境解らんでもありません。
我が家は現在、日の消えたような静けさの中にあります。まさに台風一過状態。
そうです。孫台風が東上・帰省したのに合わせ、我が家のかみさんまで便乗、神無月なのであります。従いまして現在はわが世の春、ニューイヤーコンサートの録画を流しながら、パソコンに向かうという至福の時間の中にあります。
本日夜の新年会を済ませば多寡爺も東上、ツインズ待つお江戸入りを果たします。等伯展、時間を作りぜひ拝見したいですね。日経小説で安部龍太郎氏の作品を毎朝たのしみにしていた日々を思い出します。
さて48番歌の重之さん、なかなかの好漢ですね。いたく物思いに耽ってますね。きょうび「失恋してボロボロ状態」なんてセリフがありますけど、まあこういう状態なんでしょうな。しかし岩に砕ける波しぶき。勇猛ですね。決してめそめそなんかしていない。むしろ男くさいではありませんか。このくらいド~んと行きたいですな。やっぱり地方を経験していたからでしょうか。東北の荒い海の風景なんぞを実見していたせいでしょうか。男くさいですね。やっぱりなかなかの好漢ですね。
相次ぐ転勤の後に、父同様陸奥守となって陸奥で没す。リタイアー後の田舎暮らしを彷彿とさせますね。襷をつないでゴールを目指す箱根駅伝が浮かびますね。
彼にはいろんな想いはあったでしょうが、晩節を汚すことなく故郷へ帰り、彼なりの想いを遂げたのではないでしょうか。
・箱根駅伝、青学の完勝でしたね。これだけのぶっちぎりは珍しいんじゃないでしょうか。神野が伊勢路では今一つだったので山登り大丈夫かいなと恐々見てたのですが杞憂でした。大したものです。大拍手を送りたいです。
・そうですか。「神去なあなあ」ですか、偶にはいいじゃないですか。束の間の至福の時、有意義に過ごしてください。
→またの東下りの際は前広に声かけてください。
・ウジウジせずドーンと当って砕ける。これぞ男ですよねぇ。小町姐さんじゃないですが東映映画、「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」が思い浮かびます。
♪~~背中で吠えてる 唐獅子牡丹~~
→薫にもちっと当たって砕けろ精神があったらねぇ。。
暖かでのんびりとしたお正月をすごした身にとって、この歌は心にどーんと響きました。いい歌ですね。
第一句、第二句、第三句の終わりにくり返されている「み」の音が効果的で、それで調べが美しいのでしょうね。
人間も好ましく感じます。「歌枕見て参れ」と帝に左遷された実方についていって、二人とも再び都に帰ることなく、陸奥に果ててしまうところなんかいいですね。
「大和物語58」から重之(の父?)と兼盛の親交がわかり、話は謡曲「安達原(黒塚)」にはかかわりのない内容ですが、「みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」の歌とともに、女性を鬼とふざけてよんだのは今の世も同じで興味深いです。
実方の歌枕調査には重之も同行しただろうし、後世、謡曲『安達原』や『阿古屋松』に使われた場所にも足を運んだことでしょう。
陸奥でその晩年を過ごしたことは良いことのように私には思われます。
徳川美術館に「伝行成筆本重之集」があるようです。(重之による百首歌の最古の伝本)
のんびりとお正月、よかったですね。リフレッシュして文藝に伝統芸能に精を出してください。
・48番歌、調べが美しいですか、なるほど。「み」の音と並んで「の」のリフレインも畳みかける調子で心地いいですね。
・そうか、大和物語58段が源重之関連なんですね。当時「みちのく」と言えば「安達の原」も「名取」も「塩竃」もいっしょくただったんでしょうね。賜姓平氏の兼盛と賜姓源氏の重之の交流、、、いいと思います。
・女性を鬼とふざけてよぶ場面、思い出しました。夕霧が落葉の君を訪ねた後まともに自邸に帰れず六条院に寄ってそれからやっと自邸の雲居雁の所へ帰る場面(夕霧30)
雲居雁「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなりはてなむとて」
夕霧「御心こそ鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎みはつまじ」
→夕霧にとっては痴話喧嘩かもしれないが雲居雁にとっては真剣だったのだろう。
・それにしても源重之、晩年(50才以降か)大宰府に行って戻るとすぐ陸奥へ。この生き様には興味をそそられますね。51番歌の所でも考えてみたいと思います。
新年明けましておめでとうございます。
今年も百人一首を勉強してまいりますので宜しくお願いします。
この歌、田辺聖子が云うように、最初は何を意味しているのか分からない。先ず風をいたみの初句から分からない。解説本を読んでようやく理解できる。
ネットを読むと、「砕けてものを思ふころかな」は、平安時代の歌によく使われる恋の悩みの表現で、ある種ありきたりとも言える。そこに序詞で嵐の海の情景を詠み込んだことで、陳腐な恋の言葉が劇的な名歌に姿を変えている。この辺りが名手と言われる重之の凄いところで、逆巻く波に寄せて激しい情念を歌い込んだ印象の強い、男性的な一首とありました。
重之は伯父の源兼忠の養子になるまで陸奥で育った。父に同行して多賀城を訪れた時に歌枕で有名な「沖の石」を眺め、自然の厳しさを体得したものと思われる。
後に都に出て、叔父のサポートもあり、帯刀長として真面目に働き青年将校となる。ある時、絶望的な片思い(身分違いの懸想)をする。重之は歌才を持って、何度もアプローチするが、所詮、田舎育ちの無骨者、都の女御は岩として動かず、心を開かない。挑んでは跳ね返される、己の哀れな姿が昔眺めた岩の情景に重なり、この歌の序詞となるというストーリー。
現在の「沖の石」からは想像しにくいが、当時は、まさに東映のタイトルシーンの情景だったのでは。このシーンは千葉県銚子の犬吠崎灯台近くにある岩場を撮影したもので、シリーズ「旗本退屈男」で使われるようになったとか。
余談ですが、先月、伊豆海岸を散策したときに見た「俎板(まないたいわ)」にも同じ情景がありました。日蓮が鎌倉幕府にうとまれ、流罪となって放置された岩です。通りかかった漁師に救われ、赦免されるまで地元に留まり、古刹「蓮着寺」開山の所以となった所です。境内に育つヤマモモの大木(国天然記念物)に圧倒されました。
百人一首には岩が二つあり、もう一つは#77「瀬をはやみ・・割れても末に会はむとぞ思う」
砕けても割れても定家百に入れ(柳多留)
ついでながら
どぜう食む浅草ロック思い出に
百人一首もそれに俳句の方もよろしくお願いしますね。
・嵐の海の情景、いいですねぇ。私たちは東映映画のタイトルバックを思い浮かべますが(これって犬吠崎ですか、一度行ってみなくっちゃ)当時の都人は海など見た事もない人多かった筈でただただ想像の世界だったのでしょうね。48番歌(77番歌もそうだが)、どこか特定の歌枕を詠みこんでたらもっと迫力があったのかもしれませんね。
・48番歌には背景があるのですか。重之の恋の相手は誰だったのでしょう。その辺が分かるとこの歌もっともっとリアルなものになると思いますが。
・「どぜう食む浅草ロック思い出に」 ロック=岩ですか、なるほど。
覚えていますか、3年前(手帳みたら2013.4.25でした)に九代目仁王の発案で東京下町めぐり第一弾として浅草界隈に繰り出したことを。
ヨシカミ(昼食)~ロック座(観劇?)~散策~飯田屋(どぜう)
仁王さん、終始ご機嫌でしたねぇ。。
百々爺どの
今日、今年初めての古典の会がありました。
いつも準備その他で早めに行くのですが、今日は百々爺作のクイズからアレンジして5問ほど白板に書くため、いっそう早く出かけました。
その場ですぐ参加者が答えられたのは一問だけでしたので、宿題としました。
私が敬愛する先生も「うーん、こういう切り口もあるんですねえ。すぐには答えられないですねえ。今度別の講座で使わせてもらいますよ。」とおっしゃっていました。
受講生は70代が多いので、いつもとは違う頭の使い方ができて良かったように思いました。これでみんなが自宅に帰ってから百人一首を取り出して調べてくれたら嬉しいのですけれどね・・・
いつも楽しいヒントをくれる百々爺、ありがとう!!
今年もよろしくお願いします。
お正月だしいい話題を提供できましたね。お役に立てたなら嬉しいです。
百人一首はわずか 31文字 X 100首 = 3,100文字 の中に様々なものが織り込まれている訳でそれを分解したり整理しなおしたり、色んな遊び方ができるかと思います。今日読んでいた冊子には読み手が下の句を読んで絵札を取るなんてカルタ取りの方法もあるのでは、、、なんて書いてありました。面白いかもね。
こちらこそ今年もよろしくお願いします。
明けましておめでとうございます。ちょっと出遅れましたが、本年もよろしくお願いします。
出遅れた理由は1/4はゴルフの初打ちとためいき会選評の投稿、1/5~6は長女と2人の孫娘との伊東温泉方面へのドライブ旅行などで忙しく遊び回っていたためです。それに加えて、1/3夜にパソコンがダウンしてしまい、旅行先から投稿する気も失せてしまったこともあります。この投稿は家内のiPadを借りて、作成していますが、慣れないキーボードは使いずらいですね。
これだけ出遅れると、48番歌や源重之については、書くことが無くなるので、たわいない話をいくつかさせていただきます。
・今回のドライブ旅行で嬉しい驚きを感じたのは、小3の孫娘が百人一首の歌20首を覚えてくることという冬休みの宿題を課せられていると知ったこと。娘に頼まれて、百々爺の資料を参考に代表歌・有名歌を20首選び、車の中で解説しながら、皆で朗詠しました。この分だと、来年の正月には我が家でも百人一首のカルタ取りを楽しめるかもしれません。
・今回行ったわけではありませんが、熱海のMOA 美術館には源重之の肖像画(源重之像:上畳本三十六歌仙切)があります。また、城ヶ崎には枇杷の実さんのコメントにある俎岩があります。東伊豆を旅行する機会に、立ち寄ってみては、どうでしょうか。
・源重之の娘である重之女は「人を思うおもいを何にたとえまし室の八島も名のみなりけり」という歌を詠んでいます。この「室の八島」は百々爺などと一緒に読んだ「奥の細道」の最初に登場する草枕で懐かしく感じました。ちなみに、室の八島はニニギノミコトの后となったコノハナサクヤヒメが3人の皇子を産んだ産室で、日本書紀にも出て来る天孫にまつわる面白い話もありますが、説明は長くなるので省略します。
最後に、智平も、1)源重之が魅力的な人物で、生涯も悪くなかった、2)48番歌は失恋の歌かもしれないが、力強く男らしい歌である、という大方の皆さまのコメントに賛成します。
こちらこそ今年もよろしくお願いします。
ホモ・ルーデンスにもパソコンは必須。調子の悪いパソコンなどさっさと新品に取り替え談話室にもスムースに来られるようにしてくださいね。
・お孫さんいい宿題もらいましたね。小学校3年生で百人一首20首ですか。素晴らしい。恐らく簡単に覚えられるでしょう。してやったりじゃないですか。20できればあとは行けますよ。来年の正月には完読記念旅行大カルタ大会の予行練習ができるんじゃないでしょうか。
・源重之女の歌の紹介ありがとうございます。彼女も父重之に随行して陸奥などに所縁があったのでしょうか。「室の八島」、神社フリークの曽良が活躍する所でしたね。神話の世界にも詳しい智平朝臣にはピピッと反応する地名なんでしょうね。
番外編
浜寺八麻呂氏御推奨の東京国立博物館に初もうでしてまいりました。
感動の作品がてんこ盛りで、しかもおっしゃる通り、信じられないほど空いていて、ゆっくりと鑑賞できました。同じ国立でも奈良の国立博物館(白鳳展・正倉院展)の混みようとは大違い、額面通りの超穴場・穴時であります。
そのⅠ 等伯の代表作、いやいや日本水墨画の代表作、松林図屏風。この部屋はさすがに人も多く、3回挑戦してやっと人壁無しで、実物のみ綺麗にカメラに収めることが出来ました。普通カメラなんてご法度なのに、この鷹揚さは何でしょう。勿論一部作品に禁止マークが付いてはおりますが。その3回の間ズーッと立ち尽して松林図に魅入る妙齢の麗人が私には屏風以上に気になりました。
そのⅡ 葛飾北斎筆、冨嶽三十六景の三役そろい踏み。凱風快晴・山下白雨・神奈川沖波裏。浮世絵のほとんどの名品は海外蔵の帰国展が多い中、東博・蔵とすればそれだけでも驚き。欧米系外人さんもワンサカの人だかりです。詳細映像は東京国立博物館のwebをご覧あれ。
その他、古今和歌集(元永本)上帖、一休宗純筆・七言絶句「峯松」、御陽成天皇筆・山部赤人像賛、狩野永敬筆・十二か月花鳥図屏風、土佐光起筆・女房三十六歌仙図屏風、紫式部部日記絵巻断簡等、数え上げたらきりがありません。
「こいつは春から縁起がいいわい」
夢見心地の中、満足の体でツインズ待つ公園へ、大急ぎでダブルトーハク(東博・等伯)を後にしました。
思い出に残る東博初詣、よかったですね。感動が伝わってきます。
・「女房三十六歌仙」なんてのもあるのですね。調べてみたら36人中百人一首に19人が入っている。逆に百人一首に入っていて「女房三十六歌仙」に入っていないのは2持統天皇(これは女房でないし時代も平安時代でないから当然でしょう)と88皇嘉門院別当(どうして入っていないのだろう?)。
・正月明けの今日この頃&五月連休明け直後くらいがどこへ行くのも何をするのも超ガラガラで狙い目ですよね。去る金曜日にゴルフ行ったのですが値段は安いし前後半とも2時間足らずで回れました。いつもこうだといいんですが。
→多寡秀ツインズ、今年もいっぱいシアワセをもたらしてくれることでしょう。楽しみですね。