51番 「歌枕見てまいれ」 実方中将 えやは伊吹きのさしも草

さて、百人の歌を訪ねる談話室、51番歌、後半戦に入ります。紅白歌合戦なら途中のニュースが終り2度目の幕開きといった所でしょうか。そして登場するは「王朝の花形は前半期では業平、後半期では実方」(目崎p203)と謳われた藤中将実方であります。各解説書にも、虚か実か、逸話が満載。正に談話室に相応しい人物と言えましょう。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
51.かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:    こんなにもこがれていますと
       それだけでも伝えたいのにとても言えない
       私はまるで伊吹のさしもぐさ
       火がついて 私は燃える 熱して燃える
       でもあなたには この火は見えない

作者:藤原実方朝臣 ?-998 @40才前後か 忠平の曾孫 従四位上左中将
出典:後拾遺集 恋一612
詞書:「女に初めて遣はしける」

①藤原実方 生年不詳だが998年に40才で没したとして958年生まれとしておきましょうか。
・26忠平-師伊-定時-51実方 父定時が早逝し叔父済時の養子となる。
 →北家だがちょっと傍流。まあ中の上クラスの貴族って感じか。

・円融朝で侍従、花山朝では近衛少将~近衛中将と近臣武官を務める。
 容姿端麗、和歌を能くし風流貴公子としてもてはやされた。
 当然女性関係もお盛んで光源氏のモデルとも称される。
 →う~ん、だって紫式部とはほぼ同年代でしょう。まあ存在は知ってたでしょうが。

・実方の逸話 有名なので箇条書き列記のみとします。
 〇東山で桜狩、雨が降ってきたが実方は濡れるにまかせ歌を詠む。人々は誉めはやす。
  桜がり雨はふりきぬおなじくは濡るとも花のかげにやどらむ(撰集抄)
  →ちょっと鼻につくパフォーマンスではなかろうか。

 〇これを知った行成(50義孝の息、三蹟)が宮中で実方の振舞を批判する。
  行成「歌はおもしろし。実方は烏滸(をこ)なり」
  →言い過ぎ。受けると思ったパフォーマンスを酷評されれば怒るのは当たり前。

 〇殿上での諍いで実方、行成の冠を打ち払う。行成は冷静に振舞う。
  一条帝が見てて行成には昇官、実方は左遷「陸奥の歌枕見てまいれ
  →冠を打ち払うのは拙い。冠は命の次に大事、寝る時も離さなかった(ホントかいな)
  →本当に左遷だったのか疑問。まあ一条帝には実方は「好かんヤツ」だったのかも。
  →それにしても「歌枕見てまいれ」はこれぞ王朝のセリフ。尊敬するしかない。

 (実方が「歌枕見てまいれ」の辞令をもらったのは995年@37才。麻疹の大流行で道隆、道兼ら公卿8人が死亡した年である)

 (実方の陸奥行きに48源重之が同道している。陸奥生まれ陸奥育ちの重之故友人実方を励まし面倒みるためいっしょに行ったのか。それはそれでいい話ではなかろうか)

 〇陸奥へ下った実方、笠島道祖神の社前で落馬、それが元で落命(998年@40才)
  →これもウソくさい。でも神社の前で下馬するのはマナーであろう。実方の直情径行ぶりは都人からよく思われてなかったということか。

 〇死後霊となり雀に姿を変えて宮中に舞い戻り台盤所(台所か)の食を食んだ。
  →ここまでくると色男も台無し。作り話にしても悪意に満ちており失礼であろう。

 以上、実方中将の逸話には虚構と真実が入りまじってる感じがする。
 でも 虚構X虚構=真実 かも知れず。まあ実方像は当たらずとも遠からじか。

②歌人としての実方
・拾遺集7首、新古今集12首、勅撰集計64首 実方朝臣集 中古三十六歌仙

・55藤原公任、48源重之、52藤原道信と交流
 →重之は陸奥まで同道した仲
 →52道信とは同じ近衛中将だったこともあり親友(年は実方の方が13才ほど年上)

・本来定家は実方の有名歌として次の歌をあげていた。
  いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島のけぶりならでは(詞花集188)
  →百人一首では技巧の「かくとだに」を採った。定家に心境の変化があったのだろうか。

・さてここで清少納言との関係を考えてみましょうか。
●枕草子に実方が登場するのは2ヶ所 これだけでは二人の仲は分からない。
 〇33段(講談社学術文庫版による)小白河といふ所は
  →当時一番華やかだった義懐(45伊尹の息・50義孝の弟)の回顧が中心で実方は脇役で登場するのみ。
 〇85段 宮の五節出ださせ給ふに
  五節の儀の準備中、実方が来て女房(小兵衛)に歌を詠みかける。女房が躊躇しているので清少納言が返歌を作ってあげたが結局は実方には届かなかったという話。
  実方 あしひきの山井の水は氷れるをいかなるひものとくるなるらん
  清少納言 うは氷あわにむすべるひもなればかざす日かげにゆるぶばかりを
  →ちょっと微妙な話。この歌がやり取りされる仲なら結構進んだ仲でしょうが。。

●実方の歌に出てくる清少納言 
 〇元輔が婿になりて、あしたに
  時のまも心は空になるものをいかで過ぐしし昔なるらむ
(拾遺集850)
 
 〇清少納言、人には知らせで絶えぬ中にて侍りけるに、久しう訪れ侍らざりければ、よそよそにて物など言ひ侍りけり、女さしよりて、忘れにけりなど言ひ侍りければ、よめる
  忘れずよまた忘れずよ瓦屋の下たくけぶり下むせびつつ
(後拾遺集707)

  (清少納言の返しは「葦の屋の下たく煙つれなくて絶えざりけるも何によりてぞ」)

  →この二つの詞書を見ると実方が清少納言の所に通っていたことがあるのは間違いなかろう。長くは続かなかったのはどちらが引いたのだろう。枕草子の感じでは清少納言が乗り気ではなかったのかも。

③51番歌  かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
・要は「私のこんなに燃える想いをあなたは分かっていないんでしょうね」ということ。
 伊吹-言う もぐさ=蓬→燃える→火(思ひ) 掛詞と縁語が満載
 →コテコテの技巧の歌。度が過ぎてうるさ過ぎる感じ。
 →細かく分解せずおおまかにつかむ方がいいのかも。

・伊吹山 栃木市の伊吹山(180M)か近江の伊吹山(1377M)か
 →両方とも灸に使うもぐさの名産地らしい。なんぼなんでも180Mでは低すぎないか。

・派生歌
  けふも又かくや伊吹のさしも草さらば我のみ燃えや渡らむ(和泉式部 新古今集)
  色にいでてうつろふ春をとまれともえやはいぶきの山吹の花(定家)

・伊吹山のさしも草は枕草子で清少納言も珍しく歌に詠んでいる。
 第300段 「まことにや、やがては下る」と言ひたる人に、
  思ひだにかからぬ山のさせもぐさ誰か伊吹のさとは告げしぞ
  →これは実方への歌ではなさそうだが実方の51番歌は当然頭の中にあったのであろう。

 さて、51番歌は「女に初めて遣はしける」歌だが相手は誰だろうか?
 →これだけ技巧に技巧を凝らした歌が分かる女性、そんな技巧を評価してくれる女性、そりゃあ清少納言をおいて他にないでしょう。普通の女性がもらったら「ヤヤコシヤヤコシ」で敬遠するしかありますまい。

④源氏物語との関連
 51番歌に関してはライバル清少納言に敬意を表して源氏物語には言及しないことにします。代りにやはり奥の細道でしょう。

 奥の細道 笠島
  鐙摺・白石の城を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば「是より遥か右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云ひ、道祖神の社・かた見の薄今にあり」と教ゆ。此の比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、箕輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
     笠嶋はいづこさ月のぬかり道

 そして西行法師
  朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて枯野のすすき形見にぞ見る(新千載集)

 →実方が陸奥で亡くなって西行は約200年後、芭蕉は700年後に当地を訪れ実方を偲んでいる。実方も両御所の訪れは嬉しかったことだろう。

(ちょっと長くなりすぎました。スミマセン)

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16 Responses to 51番 「歌枕見てまいれ」 実方中将 えやは伊吹きのさしも草

  1. 小町姐 のコメント:

    実方、王朝社交界の花形、風流貴公子、女性にはモテモテだった由。
    百々爺さんの解説からも虚実ないまぜの話題が溢れんばかりです。

    でもこの51番ぱっと見、さっぱり意味がわかりません。
    かくとだに?えや?さしもぐさ?何?
    わかるのは燃ゆる思いぐらいで恋の歌と知らされる。
    解釈を読んで初めてなるほど~って感じ
    何度も繰り返し読んでみるとリズムよく覚えやすい歌だとは思います。
    それに「えやはいぶき」の「いぶき」が気に入りました。
    このいぶきは断然近江の伊吹山と思いたいですね。
    そうですか、清少納言も伊吹山にふれているのはうれしいですね。

    実方、結構目立ちたがり屋ではないのだろうか?
    花見の時に雨が降り出したにもかかわらず装束が濡れるにまかせていたなんて・・・
       桜狩り雨は降りきぬ同じくは濡るとも花の蔭に宿らむ
    確かに行成の言うとおり歌は素敵ですよね。
    「春雨じゃ濡れて行こう」でもあるまいし袖を絞れるほど濡れそぼるなんて粋でも何でもない。
    単なるやせ我慢のええかっこしいの感じがしないでもありません。
    他にも逸話、伝説の数々、断片を読んでいるとそう感じるのである
    たとえば加茂の御手洗川に自分の姿を映して見惚れていたなんてナルシストそのものじゃないですか。

    ただ親友だった次の52番藤原道信朝臣が身まかった時の歌は涙を誘います。
      見むといひし人ははかなく消えにしをひとりつゆけき秋の花かな(実方中将集)
    清少納言とは和歌のやり取りや枕草子にも登場するとか、でも彼女はつれない、これも貴方なんか目じゃないわと袖にされたのじゃないでしょうか?
    それに引き換え実方の方は結構清少納言との関係を記している。
    ここからも実方の自己顕示欲と言うか目立ちたがりの傾向がみえます。

    又、行成を恨んで彼の冠を打ち落とした事件からは短気でプライドの高さもうかがえます。
    でもこのときの天皇の御言葉が良い。
    一条天皇に「歌枕見てまいれ」と陸奥へ左遷された面白い逸話の持ち主。
    嘘か本当かは別として天皇も粋な計らいをなさいますね。
    この逸話から何となく一条天皇に好感が持たれます
    実方の陸奥守赴任に随行して陸奥に下った源重之はなんて友情に厚いのでしょう!!
    友達関係には恵まれていたようですね。
    陸奥赴任が後世、200年後青年西行、700年後芭蕉に大いに影響を与えたとすれば実方の左遷もまんざら無駄ではなかった、そんな感じがして私は実方のマイナス面を帳消しにしてもなお余りあると思うのです。
    実方自身は陸奥赴任をどうとらえていたか、後の世にこのようなエピソードが残るなんて思いもしなかったでしょうね。
    一躍実方を文学歴史上の人物に仕立て上げているのは大したものです。
    陸奥の歌枕は実方あったればこそ、よくぞ冠を打ち落としてくれましたぞ、藤原実方朝臣
    様よ!!

    • 百々爺 のコメント:

      幅広く感想を述べていただきありがとうございます。談話室らしくてとても助かります。

      ・「目立ちたがり屋」「ええかっこしい」「ナルシスト」「自己顕示欲」「プライドの高さ」、、、実方中将の外見はそんなところなのでしょう。問題は人としての中味。ちょっと伺いしれませんがまあ私の正直な実感だとちょっと敬遠したい人物のように思われます。一条帝もそんな所から実方を敬しつつ遠ざけたのかも知れません。

       →技巧を重んじる古今調の歌ここに極まれりで実方のかっこつけの生き方(立ち居振る舞い)そのものが古今調だったと言えましょうか。

      ・「歌枕見てまいれ」には参りますね。この言い方一条帝→実方以外には見当たらないので恐らくは一条帝のオリジナルなんでしょうね。素晴らしい。私もこの一言で一条帝を高く評価しています。

       →一条朝は980-1011 今後60番後半までが一条朝の歌です。歌人たち何れも何らかの形で一条帝とは関わってきます。じっくり考えていきましょう。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

     奥の細道を読み、藤原実方なる人物に強い興味を抱くようになったものの、そのまま調べず仕舞いになっていましたが、西行や芭蕉を旅に誘い、歌に詠まれた実方、この51番歌を読み、爺の解説を読み、漸くどんな男か解ってきました。

    50番歌の 藤原義孝 歌才と美貌は父(伊尹)譲りでもてた 田辺聖子によれば”今業平のように思われたかも”についで出てきた 51番歌 藤原実方 同じく田辺聖子によれば”恋多き才子の東国をさすらうというところは、かの業平に似ている”
    と、業平似のモテモテ君が2歌続いて登場する。
    目崎徳衛によれば”中将実方は美貌、色好みと流離・漂泊というイメージにおいて、あの在五中将業平と好一対のもう一人に中将である。王朝の花形は、前半期が業平 後半期が実方”とうまくまとめてくれている。

    また、実方の逸話の数々、爺が完璧なまでにまとめてくれている。
    50番歌、義孝の息子行成とのいざこざとその顛末、52番歌 藤原道信との親交、62番歌 清少納言との恋、落馬して死に、和歌の天才西行と俳聖芭蕉に詠われ蘇った男、実に面白い人生を歌の世界でも送った人物と感心する。

    奥の細道は、爺が名文を含め引用してくれているので、ここでは、西行の山家集を目崎徳衛氏の本から

     みちのくににまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚のみえけるを、人に問ひければ”中将の御墓と申すはこれがことなり”と申しければ、”中将とは誰がことぞ”と又問ひければ、”実方の御事なり”と申しける。いとかなしかりけり。さらぬだにものあわれにおぼえけるに、霜枯れの薄ほのぼの見えわたりて、後に語らむも言葉なきようにおぼえて

      朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて枯野のすすき形見にぞ見る(新千載集)

    家系を見ると、なかなか面白い(「百人一首 今昔散歩」より)。

      -時平ー敦忠43
    基経
         -実頼ー頼忠  ー公任55-定頼64

            -伊尹45-義孝50ー行成
            -兼通
      ー忠平ー師輔ー兼家  -道隆ー伊周ー道雅63
       26        ー道兼
                 -道長
            -為光  ー道信52
         -師尹ー定時  -実方51

    最後に、今週金曜日から2週間、孫一家に会いにシンガポールへ行きますので、この間ブログへの投稿はお休みさせていただきます。
    PCはもって行きますので、皆さんのコメントは楽しみに読ませていただきます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・50義孝も51実方もそしておそらく52道信もみなみな風流貴公子ということで17業平になぞらえられる。今さらながら在五中将在原業平の存在の大きさを感じます。まあみんな若い時のイメージなんですよね。義孝は21才、実方は40才、道信は23才で亡くなっているんですから。

       →業平は56才まで生きた。でも晩年の様子はあまり語られてません。きっと晩年は何やかやあったのでしょうね。我らが光源氏だって40才過ぎてからは苦悩の人生だったのですから。

      ・西行山歌集よりの引用ありがとうございます。
       これによると西行は実方の墓の在りかを知ってて訪ねたのではなく偶然見かけて聞いてみると実方の墓だと分かったということですね(勿論実方の墓所はどこにあるのかなあという思いはあったのでしょうが)。それはよかった。
       →枯野のすすきの歌いいですよねぇ。墓所によく似合います。

      ・家系、じっと眺めると色んなことが見えてきます。主流と傍流、紙一重なんですけどね。

      ・シンガポールへの孫見ツアー、いいですね。私も先年ニューヨークに7~8年通いました。大いに楽しんできてください。
       
       →厳寒の日本~酷暑のシンガポール~厳寒の日本。
        これぞ人間熱処理ですな。

  3. 百合局 のコメント:

    この歌(ラブレター)は、もらった女性の教養、和歌に対する知的水準が問われますよねえ。普通の反応は「ええ~~! これ何、よくわかんなあ~い」でしょうね。
    おそらく相手は清少納言でしょう。
    「枕草子」300段は、わずか2行ですが、この2行に清少納言の思いがある、とも考えられます。実方が使った「させも草」「伊吹」を歌に入れて、やはり清少納言は実方を思い、どこか頼りにもしていたのではありませんか?

    「今昔物語」四、二十四の37「藤原実方朝臣、於陸奥国読和歌語」には、実方が親友源宣方との別離に、また、道信、愛児との死別に歌で衷情を吐露した話があります。

    謡曲『実方』は、西行が陸奥に下り、実方の遺跡を弔って和歌をたむけると、実方の亡霊があらわれて歌物語をするのですが、その西行の歌が「朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて枯野の薄かたみにぞ見る」です。謡曲のなかでは少し変えてつかわれています。
    謡曲『阿古屋松』では「これは藤原実方なり、我さる事ありて陸奥に下りぬ。~ 都にて聞き及びし当国阿古屋の松の在所を教へ候へ。~」とあり、実方に阿古屋の松のありかを教えた老翁は実は、塩竈明神の化身だったという話。

    実方の辞世は「陸奥の阿古屋の松を尋ねわび身は朽人となるぞ悲しき
    名取市に実方朝臣の墓と歌碑があります。

    謡曲『加茂物狂』には「これこそさしも実方の、宮居給ひし装ひの、臨時の舞の妙なる姿を、水に映し御手洗の、其えにしある世を渡る、橋本も宮居と申すとかや」とあり、京都、上賀茂神社の橋本の社には衣通姫と一緒に実方もまつられています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうですよね。「かくとだに」51番歌の相方は清少納言と言うことにしてしまいましょう。実方は源宣方とも親友だった由。源宣方って知らなかったのでwikiで見たら『「枕草子」に「源中将」の官名で登場し、清少納言とは昵懇な間柄であった』とありびっくりしました。ということは親友と言いながら実方と宣方の間には清少納言をめぐる恋の鞘当てなんてのがあったのかもしれません。
       
       →実方中将を主人公とし清少納言やら源宣方やらを配した小説でもあったら面白いでしょうに。。

      ・「阿古屋の松」は出羽(山形県)の歌枕なんですね。平家物語巻二「阿古屋之松」ちらっと読んでみました。正に謡曲「阿古屋松」の話が出てくる。平家物語にも実方中将が出てくるのには驚きました。まあ「陸奥と言えば実方」だったのでしょう(平家物語によると実方は出羽に出向いて阿古屋の松を訪ねている。その時のことを辞世に詠んだのですね)。

       阿古屋の松を詠んだ古歌
       みちのくのあこ屋の松に木がくれていづべき月のいでもやらぬか

      ・上賀茂神社(橋本社)に衣通姫といっしょに祀られているんですか。小町姐さんが言われる御手洗川に自分の姿を映して見惚れていたという逸話からですかね。衣通姫といっしょにだなんて実方は「してやったり、業平中将を越えたぜ!」と溜飲を下げているのかも。

      • 小町姐 のコメント:

        百々爺さん、記憶力がすごいですね。
        教えていただいてありがとう!!
        「阿古屋の松」が平家物語巻二にあるなんて私は全く気づきませんでした。
        さっそく「阿古屋之松」読んで驚きました。(梶原正昭 岩波文庫)
        実方中将、歌人、トラブルあり、歌枕等々・・・結構書き込みしているにもかかわらずです。
        みちのくのあこ屋の松に木がくれていづべき月のいでもやらぬか
        老翁、それは両国が一国なりし時読侍る歌也。十二群をさきわかッて後は出羽国にや候らん」と申ければ、さらばとて実方中将も出羽国を越えてこそ阿古屋の松をば見たりけれ。

        • 百々爺 のコメント:

          いや、阿古屋の松どこにあるのかいなとチェックしてみたら平家物語が出て来たので引っ張り出して読んだだけです。そもそも平家物語に陸奥は関係ないですもんね。実方が登場するのにもびっくりしました。

  4. 在六少将 のコメント:

    いやあ、いい歌ですね。百人一首のなかでも上位ランク間違いなしの、大好きな歌になりそうです。
    技巧云々を通り越し、技巧さが全然鼻につかない点がすばらしい。俳句で言うところの類想的なものもない独創性。まさに才能のなせるわざ。こんな歌詠みがいたことに感動です。
    今となっては、ついぞ実方の塚に詣でなかったのが悔やまれます。

    • 百々爺 のコメント:

      率直なるコメントありがとうございます。

      51番歌、高評価ですね。実方中将も喜んでいることでしょう。
      万葉派の在六少将どのがコテコテガンジガラメの「かくとだに」を大好きだとおっしゃるのちょっと意外でした。でも技巧も通り越せば技巧でなくなると言うことですか。なるほど。何度も口に唱えているとリズミカルで口調もいいですよね。

       →私は技巧の51番歌を読むといつもガンジガラメの歌を贈ってくる末摘花に辟易して源氏が返した歌を思い出します。

       唐衣また唐衣からごろもかへすがへすもからころもなる(行幸13)

      技巧を使わなければ平淡に過ぎようし使い過ぎれば鼻持ちならなくなる。難しいところなんでしょうね。

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    実方、行成、一条帝にまつわる逸話の数々、誠に虚実入り混じるゆえに真実がどこに在るのかを追求するのは、難しくもあり野暮というもの。その紙一重に真実がかくされているんであろうということで理解しておきましょう。
     実方と行成、因縁浅からぬ関係にあったのでしょう。激情型と冷静沈着型でもなさそう。行成も結構直情径行であったとの記述もある。

    いずれにしても、殿上での諍いで実方は行成の冠を打ち払い、行成は冷静に振舞う。
    一条帝がこれを見ていて行成には昇官、実方は左遷。「陸奥の歌枕見てまいれ」とのたまう。百爺の指摘の通り、本当に左遷だったのかは疑問。陸奥に紛争があり武官の誉れ高い実方が派遣されたという説もある。この二人に適材適所の人事発令をしたのが一条帝。かくして「歌枕見てまいれ」のセリフにつながった。決まりましたね。二人より一枚も二枚も役者が上ということでしょうか。尊敬するしかありません。

    私なんぞ、陸奥といえば飛んでゆきましたでしょうに。行きたいスポットが山ほどある。そして山も山ほどに。ドメスティックな現役時代の勤務地でしたが、北海道、東北、中四国、九州の勤めはありませんでした。多寡秀のこれからの課題はこの地域です。

    51番歌、技巧に富んだ歌ではありますが、雰囲気で読んだほうがよさそうですね。

     

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうか、実方って武官の誉れ高かったのですね。それじゃあ鎮守府将軍を従えて陸奥平定に尽力せよという趣旨の異動だったのかも知れません。「陸奥の争乱鎮めてまいれ」では風情がないですもんね。

       →でも優秀武官実方中将も神社前で落馬するようじゃサマになりませんね。

      ・まだ行きたい所が残っている、いいじゃないですか。私も国内殆ど知らないのでこれからが楽しみです。

  6. 枇杷の実 のコメント:

    恋する気持ちをなかなか言い出せない。悶々とした胸の内を伊吹山の百草を引き合いに詠んだラブレター。「女に始めて遣はしける」と詞書があり、初のラブレターにしては倒置法や序詞、掛詞など駆使して、修辞にこりすぎの様に云われる。
    それでもこの歌、何度も唱えているとリズム感もでてきて「さしも知らじな燃ゆる思ひを」でピシッと決まって良い歌だと思う。

    歌よりも実方に纏わる伝説がいろいろあって面白い。
     「桜がり 雨はふりきぬおなじくは ぬるとも花の かげにやどらむ
    自慢の歌を、満座の激賞の中で若い藤原行成だけが批評する。「技巧に過ぎて、真実味が無い」・・と、正岡子規ばりに。
    後刻、清涼殿で行成に出合った実方は、清女との三角関係もあり、若気の至りでカットとなって行成の冠を杓で叩き落とす。それを偶然一条天皇に目撃され、「陸奥の歌枕をみてまいれ」とツボを得たお仕置きでお灸を据えられた。

    目崎徳衛は、この伝説には信頼すべく史料はなく、むしろひどく治安の乱れていた辺境を鎮定する使命を帯びて、つまり在地豪族に睨みの効く貴種なればこそ実方が選ばれた・・と書いている。当時の陸奥守は要職であった。
    社交界の花形で人気の貴公子が突然、地方に下ることになり仕事に励むが志半ばにして横死、殉職して中央へのカムバックは果たせなかった。その実方の生き様がのちの人々のあわれを誘い、伝説・噂話となり語り継がれた。
    後世では江戸城中・松の廊下で武家作法の不備を詰られ、カットなって切りかかる刃傷沙汰がある。これは伝説ではなく史実であるが、若き浅野内匠頭も脇差しではなく、せめて杓を使っていたなら・・。

    松戸では 十年経て 菊が咲き

    • 百々爺 のコメント:

      ・リズム感のあるいい歌ですか。私もそう思います。
       言葉の響きだけ考えると27番歌「みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ」に通じるものがあると思うのですがいかがでしょう。

      ・そうか、実方と行成には清少納言争奪戦も絡んでいたのかもしれませんね。実方を主人公とする小説(映画)ますます面白くなるじゃないですか。この事件の時実方38才、行成24才。やはり清女は若い行成の方に乗り換えていたのだでしょうかね。でも行成のこき下ろしは若輩の身としてはいただけないような気もします。

      ・菊バウアー、やりましたね。賜杯が松戸市に持ち帰られたことってかつてありましたっけ。初めてかもしれませんね。

       →この前の日曜日は錦織~県別駅伝~トップリーグ(すごかった)~菊バウアーとずっとTV見ていました。

  7. 源智平朝臣 のコメント:

    藤原実方は王朝の花形として、智平が憧れる在原業平と並び称されているようですが、小町姐さんがコメントしているように、恰好付け過ぎの目立ちたがり屋&ナルシストであり、純粋に恋に生きた業平とはちょっと違うのではという気がします。でもまあ、実方は容姿端麗で和歌も上手な風流貴公子だった上、いろいろなエピソードを後世に残してくれ、さらには、西行や芭蕉にも偲ばれた人物なので、智平も彼が王朝後期の花形であることに異議を唱えないことにします。

    ところで、実方と清少納言との関係については、田辺聖子や百々爺は「清少納言は実方をほんとに愛していなかったようである」という見方をしていますが、ネットを見ると、清少納言の実方に対する思いは本物だったというと指摘もあります。

    その一つは、実方の陸奥への左遷が決まった時の歌のやり取りを根拠としています。
    ‐まず、実方の左遷話を聞いて、清少納言はびっくりして「思ひだにかからぬ山のさせも草誰か伊吹の里は告げしそ」(解釈:貴方が陸奥の伊吹の里にまで行かなくてはならないとは・・・驚くばかりです)という歌を贈った。
    ‐これに対して実方は「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじな燃ゆる思ひを」(51番歌。解釈:要は私の燃える思いを知らないでしょう)と返歌した。
    ‐さらに清少納言が「とこもふち淵も瀬ならぬなみだ河袖のわたりはあらじとぞ思ふ」(解釈:貴方との別れが悲しすぎて袖が涙で濡れています)と返した。
    以上は一般人のブログからの引用なので、学問的な正確さは保証できないものの、これを読むと清少納言の実方に対する思いは並々ならぬものがあったと考えられます。

    もう一つは、徳原茂実武庫川女子大教授の「清少納言と藤原実方との贈答歌について」と題する論文です。この論文は百々爺が解説で取り上げている後拾遺集707の歌のやり取りについての新しい解釈を提示しています。その要旨のみ記せば、
    ‐実方は清少納言と人知れず交際していたが、しばらく音信が絶えていたので、久しぶりに実方に会った清少納言が「お忘れになったのね」と言ったところ、実方は「忘れずよまた忘れずよ瓦屋の下たくけぶり下むせびつつ」(解釈:貴方を忘れてなんかいないよ。通気の悪い瓦葺の建物の下で焚く煙にむせるように心の中でむせびながら愛しているよ)と詠んだ。
    ‐これに対して清少納言は「葦の屋の下たく煙つれなくて絶えざりけるも何によりてぞ」(解釈:通気の良い葦葺の小屋の下で焚く煙は燃えていると見えないものの、消えないのは何がそうさせているのでしょう)と返した。
    徳原教授は、清少納言の返歌は自らの長らく秘めた実方に対する思いを率直に表に出した歌であり、実は清少納言は実方を長い間真剣に愛していたと云えるのではないかと指摘しています。

    では、なぜ清少納言は枕草子で実方をそっけなく扱っているのか。智平の考えでは、才女の韜晦が理由であり、清少納言は密かに実方を慕っていたものの、それが噂になったり、男好きの女と思われたりするのを嫌ったからと推測する次第です。

    長くなりましたが、最後に51番歌はコテコテの技巧の歌かもしれませんが、とても口調が良いし、歌の意味も下の句だけ読めば明確なので、悪くない歌だと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      さすが調べ上手ですね。色々探し出していただきありがとうございます。

      ・51番歌は清少納言への贈歌ではなく清少納言から贈られた歌への返歌であった。。。なるほど、それは面白い。左遷を心配してお見舞いの歌を贈ってくれた清少納言に「ありがとうござんす、私のあなたへの燃える想いは遠くへ行っても変わりませんよ」というお別れの歌だったということですね。素晴らしい解釈だと思います。

      ・62番歌のところで清少納言の一生を振り返ろうと思うのですが定子中宮に出仕する前、清少納言は橘則光と結婚したものの間もなく別れたようなのでその頃実方が清少納言邸に(婿のように)通ったことがあったのでしょう。でもこれも結婚には結びつかず時々通ってくる、清少納言もそれを受け入れるみたいな緩やかな恋人(愛人)状態が続いていた、、、ということかもしれませんね。

      ・枕草子で実方をそっけなく扱っている理由はおっしゃる通りだと思います。そもそも枕草子はあるじたる定子中宮及び自分自身について不都合なことは書かないということで徹底されているようですから。

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