65番 貫録のベテラン歌人相模 恨みわび

ゴールデンウイーク、いかがお過ごしだったでしょうか。1回お休みしました。さて、和泉式部と並ぶ女流歌人とされ、長く宮廷女房として歌合にも参じた相模です。今まであまり馴染がありませんでした。どんな人なのでしょう。

65.恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ

訳詩:    世間はどうしてこんなにも口さがないのか
       さもなくてさえ情ない人は恨めしく
       わたしは侘しく 袖の乾くひまさえないのに
       世間はどうして噂ばかり・・・・この浮名ゆえ
       涙に浸って朽ちはてるのか 哀れ わたしは

作者:相模 生没年不詳 大弐三位・小式部内侍らと同世代の歌人
出典:後拾遺集 恋四815
詞書:「永承六年(1051年)内裏歌合に

①生没年 wikiにならい998-1061以降と考えましょう。
 大弐三位・小式部内侍(999生まれ)と同世代です。
 →紫式部・和泉式部からすると子どもの世代になります。

・父源頼光(養父とも)=鎮守府将軍源満仲の子、大江山の鬼退治で武勇を馳せる。
 武家の祖とも目されるが道長の家司的存在で道長に莫大な進物を贈ったことで有名。
 歌人でもあり勅撰集に3首入撰している。
 母は慶滋保章(詩文の家)の娘。この人も歌人だった。
 →源頼光のイメージから武骨な家柄かと思ったがそうでもない。

・10代に橘則長(清少納言と橘則光の息子)と結婚、やがて離婚
 20才ちょっとで大江公資の妻に。任国の相模に4年間同道
  公資は現地で女を作り相模はそれを恨んで百首歌を箱根権現に奉納している。
  結局うまくいかず5年ほどで離婚
  →その頃から「恨みわび」の人生だったのだろうか。

 【相模国について】
  箱根を越えたすぐ。関八州の一つ、上国。国府は小田原とも平塚とも海老名とも。
  歴代の相模守には28源宗于、48源重之(権守)、34藤原興風(掾)

  →夫の任国ということで女房名は「相模」となった。ちょっと可哀そう。
   地名だけの女房名としては他に19伊勢、72紀伊

・相模から帰り64藤原定頼と恋仲に。
  公資に相具して侍りけるに、中納言定頼しのびておとづれけるを、ひまなきさまをや見けむ、絶え間がちにおとなひ侍りければよめる
   逢ふことのなきよりかねてつらければさてあらましに濡るる袖かな(後拾遺640)
   →もうこの頃から相模の袖は濡れていた。
   →定頼を通わせたって大弐三位や小式部内侍に並ぶ勲章みたいなものでしょうか。

・その後脩子内親王(一条帝・定子中宮の第一皇女)に出仕、さらに後朱雀帝(父一条帝・母彰子中宮)の皇女祐子内親王に仕えた。
 →このキャリアはすごい。清少納言・紫式部・和泉式部世代が去った後、宮廷で一人輝いていた女性歌人だったのだろうか。
 →祐子内親王に仕えた女房としては72紀伊がいる。相模と紀伊は同僚だった。
  (相模と紀伊の仕えた年代は重なってはいないようだが)

②歌人としての相模
・後拾遺集に40首、勅撰集計109首
 御朱雀・後冷泉朝で数々の歌合に出詠、若手の歌人たち(和歌六人党)に歌の指導もしている。

・56和泉式部、69能因法師、71源経信などと交流
 →歌人でもあった夫大江公資を通じての交流もあったようだ。
 →何十年に亘り宮廷歌壇に重きを占めていたのだから当然だろう。
 →紅白歌合戦に出続けていた島倉千代子みたいな存在だったのだろうか。

・千人万首から
 正子内親王の、絵合し侍りける、かねの草子に書き付け侍りける
  見わたせば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里
(後拾遺175)
  →絵合って紫式部の創作だと思っていたのですが。源氏物語に倣って行われるようになったのかも。

 男の「待て」と言ひおこせて侍りける返り事によみ侍りける
  頼むるを頼むべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせむ(後拾遺678)
  →「頼む」「頼む」って相手はやはり「定頼」なんでしょうか。

③65番歌 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
・「永承六年(1051年)内裏歌合に」
 →例の40番41番歌の天徳歌合に次ぐ華やかな歌合せと言われている。

 永承六年(1051)5月5日京極院内裏で行われた菖蒲の根合に併せ歌合も行われた。主催は後冷泉帝、判者は藤原頼宗。中宮章子、皇后寛子も臨席

 華やかな催しの様子を栄花物語(36根合)より
 内には根合せさせ給ふ。左頭資綱の頭中将、右頭四条中納言の子の経家の弁、若く華やかに覚えある人々なり。左右廿人づつわきて、えもいはぬ州浜の垣根を尋ねつつ、まだ知らぬこひ地におりつつ、ひきいでたる、一丈三尺の根などもありけり。又だい、打敷、花足などの有様いふべきにもあらず、中宮・皇后宮などのぼらせ給へり。中宮の女房の装束は、ただいとうるはしく、殊更に菖蒲の衣を皆うちて、撫子の織物の上衣、萌葱の唐衣、楝の裳なり。皇后宮のは、菖蒲、楝、瞿麥、かきつばたなど、かねして花鳥をつくり、くちおき、いみじき事どもを盡させ給へり。折々につけてをかしき事のみ多かり。 

 永承六年五月五日殿上歌合
 五番 左勝 恋 相模
   恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
  
   右 右近少将源経俊朝臣  
   下燃ゆる歎きをだにも知らせばやたく火の神のしるしばかりに

 →華やかな根合・歌合の記述は源氏物語絵合の様子にそっくりである。
 →女性は相模ただ一人。この時54才。堂々たる貫録の勝利だったのだろう。

 (一丈三尺=約4メーターの根ってあるんですかねぇ~)

・「袖は朽ちずあるを」説と「袖だに朽ちてあるを」説
 →難しく考えず「涙で袖の乾く間もない」ということでいいのでは。

・「恨みわび」=相手の不実を恨む、詰る。
 「名こそ惜しかれ」=自分の名を惜しむ。
 →これだけ考えると自分本位のイヤな女に聞こえるのだが。

・定家は八代抄の中で65番歌を高く評価している。
 65番歌の前後に和泉式部の「濡るる袖」「朽ちる袖」が並ぶ 
  さまざまに思ふ心はあるものをおしひたすらに濡るる袖かな 和泉式部 後拾遺集
  ねを泣けば袖は朽ちても失せぬめり猶憂きことぞつきせざりける 和泉式部 千載集

・「袖濡れる」 さめざめと泣くことの常套句 百人一首でも5首
 42「契きな」65「恨みわび」72「音に聞く」90「見せばやな」92「わが袖は」

65番歌、やはり歌合の題詠であり恋の臨場感がない。「紅白歌合戦」というより「思い出のメロデー」の方にぴったりだと思うのですがいかがでしょう。

④源氏物語との関連
・栄花物語根合のくだり(この部分は赤染衛門筆ではなかろう)は源氏物語絵合の叙述を参考にしたのだろうか。5月5日の菖蒲の根合、騎射も源氏物語の中で語られている。

・「名こそ惜しけれ」
 王朝貴族・貴夫人は人から笑われること世間体の悪いことを極度に嫌った。
 源氏物語の中でも特に光源氏の第一の人、紫の上はことあるごとに人目を気にしていた。もっとふてぶてしく振る舞えばいいのに。この辺が紫の上の好ましいところであり弱いところでありましたねぇ。

・相模は大弐三位と同年代なので当然源氏物語は読んでいたでしょう。
 父頼光が道長の家司的存在であることから彰子の後宮に勤めるのが自然かと思うのだが何故か定子中宮の忘れ形見脩子内親王に出仕している。
 →まあそんなこともあるでしょう。窮屈に考えない方がいいのかも。

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15 Responses to 65番 貫録のベテラン歌人相模 恨みわび

  1. 小町姐 のコメント:

    ゴールデンウイークの遊びもほどほどに百人一首が懐かしい。

    二人の男性を挟んで再び女性歌人の登場、その一人、相模。
    父、源頼光は子どものころ観た映画を思い出します。鬼の片腕を携えた恐ろしい形相・・・
    相模は王朝末期の歌人で夫は相模守大江公資。
    この夫が妻の才能に嫉妬し全ての創作を焼いたとの事、何と器の小さい男であろうか。
    才能ある大人の貫録を持った女性を想像させる痛快な歌人である
    先の64番の貴公子、中納言定頼とも親しく夫は定頼から引き離そうと相模を任国相模に伴ったらしい。
    定頼が都から慰めの百首を届けたとの説もある。
    任国での夫の浮気、華やかな都への懐かしさから彼女の創作意欲はいや増す。
    本格的な歌壇活動は恋愛遍歴の後40歳を過ぎ70歳前後で没するまでの後半生を歌人として全うした。
    経験豊かな熟女が本気になったらその力は何倍にもまして発揮されるのであろう。
    関白頼通が歌合を催した時、相模の歌が披講されるや「殿中鼓動して郭外に及ぶ」
    御殿が感動の声で震えたという逸話が残っている。(小林一彦氏)
    永承六年の内裏歌合の場面、華やかな宮中の様子は源氏物語を想像させますね。
    栄華物語の表現、見事ですね。根合せの様子が衣装の華やかさと共にありありと浮かびます。いつか暇ができたら読んでみたいです。
    菖蒲の根の長短にかけて勝負する、昔の人は雅な催しを考えたものですね。

    いつだったかNHK番組、司馬遼太郎没後20年の記念番組でのこと。
    思索紀行 日本人とは何かで強調された言葉に「名こそ惜しけれ」があった。
    どこかで聞いたことがあるなと・・・
    そうです百人一首の65番(相模)と67番(周防内侍)です。
    「名こそ惜しけれ」武士をイメージさせる男の象徴として使われることが多いので調べてみると二首とも女性ではありませんか。
    現在ならいざ知らず、びっくりぽんです。(ちょっと古い?)
    この時代、女性が「名こそ惜しけれ」と高らかに詠った、何と見事な矜持でしょう。
    素晴らしい!!女にだって誇りも名誉もあるのです。
    歌人としてその豊かな才能を後半生さらに発揮し王朝最後の華やかな時代に活躍した。
    その女性の「名こそ惜しけれ」いや~、あっ晴れです。
    お聖さんじゃないけど我が名を惜しむのは男だけではない、女だって名を惜しむのです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・相模の父(とされる)源頼光、大江山の鬼退治(酒呑童子)なんですね。
       大江山は小式部内侍が定頼に絡まれて軽くいなすのに使った山(60番歌)。酒呑童子退治に出かけた頼光四天王の一人が坂田金時(幼名足柄山の「金太郎」)。酒呑童子退治で頼光に同道したのが後に和泉式部の夫となる藤原保昌。
       →色々とつながっており面白いですね。

      ・色んな解説読んでも大江公資の評判が悪いですね。「気に染まない結婚だった」「相模国に無理やり連れていかれた」「現地妻を作られ顧みられなかった」等々。別に公資の肩を持つわけでもないですが、ちょっと相模サイドに立った一方的な見方ではないでしょうか。色々あっても愛を育んでいくのが夫婦ですから。
       →「この人が私の夫であること自体が受け入れられないの」という「夫拒否症」みたいだったのかも。でも後々まで「相模」と呼ばれ公資にはつきまとわれてた感じですけどね。

      ・「名こそ惜しけれ」司馬遼太郎の番組に出てきましたね。男の場合は武士道での主家・自分の家を汚してはならないという意味合いでしょうが女性の場合はおっしゃる通り自らの矜持なんでしょう。
       →六条御息所や朝顔の姫君、宇治十帖の大君、プライドに生きた女性たちでした。  

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    永承六年(1051)5月5日京極院内裏で行われた菖蒲の根合に併せ行われた歌合の場面、”栄花物語”からの引用ありがとうございます。

    歌合わせのため宮廷に集まった華やかな皇族・貴公子たちの姿や新緑に包まれた景色が浮かび上がり、また”源氏物語”をも思い起こさせる描写の記述もあり、王朝文化末期の華やぎが感じられます。ここの所近所を歩いていると菖蒲?も多く見かけ、歌が詠まれたのは、旧暦・新暦の差で一ヶ月ほどあとなのでしょうが、丁度今の季節に詠まれた歌のように感じました。

    ところで、あやめ・菖蒲・杜若の違いがわかりますか。小生には解りませんし、あまり解ろうという気が湧きません。従い、散歩途中で見たのは、菖蒲?か解りません。
    この歌の菖蒲は、花菖蒲でしょうか。
    WEBで違いを説明したサイトがありますので、興味ある方は、以下をご覧ください。

    http://www.rcc.ricoh-japan.co.jp/rcc/breaktime/untiku/100511.html

    恋の歌が多い王朝女性歌人ですが、四季の和歌で、技巧にも走りすぎず、なんとはなしにほのぼのとした匂いがするよい歌が、千人万首に載っていましたので、引きます。

    春歌とて

    花ならぬなぐさめもなき山里に桜はしばし散らずもあらなむ(玉葉229)

    夏 題しらず

    下もみぢ一葉づつ散る木このしたに秋とおぼゆる蝉の声かな(詞花80)

    秋 題しらず

    手もたゆくならす扇のおきどころ忘るばかりに秋風ぞ吹く(新古309)

    永承四年内裏歌合に、初雪をよみ侍りける

    都にも初雪ふれば小野山のまきの炭竈たきまさるらむ(後拾遺401)

    小生には、素人ながら、俳句にも詠まれそうな歌に聞こえます。

    話は変わりますが、連休中、小町姐も見られた、ちはやふる 下の句 と 中国映画 山河ノスタルジアを見ました(映画)。
    山河ノスタルジアは面白かったです。ちはやふるは、広瀬すずが可愛いです。

    • 浜寺八麻呂 のコメント:

      違いを説明したWEBをもう一度見ると

      万葉の頃はかきつばたが読まれ、菖蒲というと葉菖蒲のこと。花菖蒲が文献に出てくるのは江戸時代から。

      との事ゆえ、花菖蒲ではなく、葉菖蒲のようです。であれば一丈三尺もあり? 

    • 百々爺 のコメント:

      ・「あやめ」と「かきつばた」どう違うの?よく聞かれたものですが「まあよう似たものさ、、」ってごまかして来ました。ネットの紹介ありがとうございます。大体分かりました。(葉)菖蒲のみがサトイモ科であと「あやめ」(畑)、「かきつばた」(水辺)、「花菖蒲」(畑&水辺)と覚えておきます。

       源氏物語の「あやめ」は(葉)菖蒲のこと。花の「あやめ」は出てきません。また「花菖蒲」はそもそもなかったようだし。「かきつばた」も花としては出てきません(本文で引用した栄花物語の根合の叙述で着物の襲の色として出ている)。

       五月の節句、騎射の催しの後夏の町を訪れた源氏に花散里が歌を詠みかける。(蛍8)
       その駒もすさめぬ草と名にたてる汀のあやめ今日やひきつる(花散里)
       にほどりに影をならぶる若駒はいつかあやめにひきわかるべき(源氏)

      ・相模の四季の歌もいいですね。桜、蝉、秋風、初雪。
       おっしゃる通り主観を殺した淡々とした詠み振りで俳句に繫がる感じがします。俳句、やってみませんか。

  3. 百合局 のコメント:

    昨日、粥仁田峠から大霧山(767m)そして定峰峠と急なアップダウンを歩き続け、へろへろになって帰宅、お風呂に入っただけですぐ就寝。8時間眠ってもまだぼんやりしています。日頃鍛えてないのと歳のせいで今日は筋肉痛。

    というわけで、「恨みわび~ 」の歌の中になかなか入っていけませんので、「根合」について考えました。「根合」は平安時代から始まった遊戯ですが、今も上賀茂神社で続いているのが素晴らしい。

    菖蒲を取る風景が「枕草子」110段「四月のつごもりがたに ~」かかれています。「~初瀬に詣でて、淀の渡りというものをせしかば、舟に車をかき据ゑて行くに、菖蒲、菰などの末短く見えしを取らせたれば、いと長かりけり。 ~ 三日帰りしに、雨のすこし降りしほど、菖蒲刈るとて、笠のいと小さきを着つつ、脛いと高き男の童などのあるも、屏風の絵に似て、いとをかし。」

    平安時代には邪気を払うものとして、菖蒲を恋人にも女性同士にも贈ったようです。五月五日、和泉式部が清少納言に菖蒲の根を贈った時の贈答歌など面白いです。

    相模の本音や優しい内面がにじんでいるように感じられる歌を三首あげてみます。

     来じとだにいはで絶えなばうかりける人のまことをいかでしらまし  (定頼に)

     住吉の細江にさせるみをつくし深きにまけぬ人はあらじな     (資通のこと

     われも思ひ君もしのぶる秋の夜はかたみに風の音ぞ身にしむ    (対象不明)

    • 百々爺 のコメント:

      ・粥仁田峠、大霧山。全く馴染のない地名で地図で調べました。えらい山奥じゃないですか。新緑がさぞかしきれいだったことでしょう。これだけ歩けるなんて、普段優雅にお過ごしのか弱きお局さまにしては「あっぱれ!」でしょう。疲れを癒してください。

      ・根合、今でも上賀茂神社でやってるのですか。すごい。でもどうやってやるんでしょうかね。左右、3本づつ持ち寄って3番勝負とかですかね。出す順番で勝負が分かれそうですね。左が8尺、1丈1尺、1丈3尺。右が7尺、1丈、1丈2尺の3本を持ってきたとして、この順番通りに出せば左の3勝ですが右が1丈、1丈2尺、7尺の順番に出せば右の3勝になりますからねぇ。。ヤヤコシヤヤコシ。
       →一番毎だけでなくロンゲスト賞もあったのでしょうね。

      ・枕草子「四月のつごもりがたに~」の引用ありがとうございます。「淀の渡り」(宇治川と木津川の合流地点)、この辺に根の長い菖蒲がとれたんでしょうね。特別な秘密のポイントがあったりして。。

      ・相模は公資と別れてからは再婚してないようですね。でも若いときから色んな恋の経験はあった。それら実体験に基づき書き溜めた歌を後年咀嚼推敲し歌合の題詠などで披露した。65番歌もそうした歌なのでしょう。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    相模は有名な武将で大富豪でもあった父の源頼光の下で、何不自由ないお嬢様として育ちましたが、どうも男運に恵まれなかったように見受けられます。即ち、17-8歳で橘則長と結婚したものの離別しました。次に20歳ちょっとで大江公資と結婚します。相模は公資との結婚の前から藤原定頼とは交流があり、好意を抱いていましたが、公資に強引に妻にされ、不本意ながら彼の任国相模に随行させられました(注)。公資は小町姐さんのコメントにあるように器の小さい男で、相模を定頼から引き離したかったのでしょう。公資との結婚生活は彼が4年の任期を終えて都に帰ってから間もなく破綻し離別に至ります。その頃に定頼との恋愛関係が表面化しますが、定頼の家柄は相模が正式な結婚を望むには高過ぎて、結ばれるには至らなかったということかと思います。
    (注)下記の「走湯百首」の序に「つねよりも思事あるおり 心にもあらであづまぢへ下りしに」と記している。

    Wikiにも出ていますが、公資は相模で現地の女性と懇ろになり、相模は思わぬ悩みを抱えました。その悩みを百首の歌に詠んで伊豆走湯権現の社頭に埋めました(A)。すると、権現からの返歌だと称する百首の歌が社僧から彼女のもとにもたらされました(B)。彼女はこれに対して更に百首の返歌を詠みました(C)。これら3種の百首歌は「走湯百首」と呼ばれて、流布本相模集に収められています。A, B, Cの各百首は一首毎に順次、AとB、BとCと正確に対応しており、詳細に検討すると面白いようですが、以下では現地の愛人問題を直接扱った歌のみを掲げます。

    A) 相模から公資が愛人を作ったことを訴える歌
    若草をこめしてしめたる春の野に 吾よりほかのスミレ摘ますな
    B) 権現(公資本人とも言われているが不明)が宥めるつもりで詠んだ返歌
    なにか思なにをか嘆く春の野に 君よりほかにスミレ摘ませじ
    C) 相模がごまかしても無駄だと火に油を注いだように怒る歌
    燃え盛る焼け野の野辺の坪スミレ 摘む人絶えずありとこそ聞け
    →「焼け野の野辺の坪スミレ」という表現に、浮気相手の田舎女に対する敵意と蔑視が表れている

    上記のように若い時は頭に来て怒りの感情をストレートに歌った相模も、数々の恋愛遍歴や宮仕えの経験を重ねて、技巧を凝らして65番歌のような妖艶凄愴な歌を作り、歌合に楽々勝利を収める貫禄のベテラン歌人に成長&変身したのでしょうね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・橘則長とは何故離婚したのでしょうね。則長の方が16才ほど年上、お義母さんの清少納言は30才ほど年上になりましょうか。きっと清少納言とも私的な交流はあったのでしょうね。息子との結婚離婚の経緯が枕草子にでも出てくれば面白いんですけど。それにしても相模をとりまく人たちは歌人揃いですね。父の源頼光も最初の夫橘則長も次の夫大江公資もみな勅撰歌人ですから。相模の和歌の才能はそんな環境の中で自ずと磨かれていったのでしょう。

      ・そうですか、相模は「心にもあらであづまぢへ下りし」だったのですか。どうせ行くなら喜んでついて行けばよかったのに。不満たらたらの妻を見てたら夫たるもの浮気の一つもしたくなるでしょうよ。そこに百の不満がぶつけられる、夫は何とか妻を宥めようと歌を返す、すると問答無用とばかりヒステリックな返事が返ってくる。相乗効果、これぞ負のスパイラルでしょう。
       →本当の所は分かりませんね。歌人夫婦のこと、案外夫婦して歌の贈答ゲームを楽しんでいたのかも。
       →「焼け野の野辺の坪スミレ」これぞ悪態の極まりといった迫力ある表現ですね。これも相模の歌才のなせるところでしょうか。

      ・若い時の苦労や悩み、それを詠んだ歌の数々。それらが肥やしとなって後年相模の歌が花開いたことは間違いないでしょう。

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    リタイア後のテーマは晴耕雨読。しかしこれがなかなかままならない。この連休はこのテーマに挑戦してみました。晴耕は畑仕事。夏野菜を植え付け、六月の玉ねぎ、じゃがいもの収穫後に移植する予定の里芋の種イモを定植。問題は雨読。余りに雨が降らない。がしかしここもと読んでる葉室燐の最新作「神剣」に挑戦。
    時は幕末、尊王攘夷派の志士として「人斬り」の名で恐れられた漢、「河上彦斎」の苛烈な人生と志を描き切った歴史長編。大河ドラマを三~四編纏めて観るくらいの面白さでありました。今も夢見心地の中に在ります今週の多寡秀であります。

    さて現実に戻って六五番歌。
    恋の悩みは二つに分類できるとの説があります。一つは恋情が受け入れてもらえないこと。もう一つは、ろくでもない噂を流されること。たとえ、その噂がおおむね事実であっても、あからさまにされては迷惑至極であります。中傷はつきものだし、まして事実無根の噂はもっとつらい。

    相模の歌
     恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ

    つれない人を恨んで悲しくなり、衣の袖は涙で濡れて干すこともできないほどなのよ。なのに、わるい噂を立てられ、名前まで貶められて朽ちてしまうなんて、くやしいーィ、といったところ。先ほど述べたように恋の悩みが二つあるとすれば、これはダブルショックという状況であります。

    歌合わせで詠んだものですから、具体的につらい恋のくさぐさがあってつくったものかどうかはわからない。何かしら過去にこんな心境に陥ることがあって、それをフィクションとして歌った、のかもしれません。

    夫が相模守であったから相模と呼ばれたが、宮仕えをして、この人も一流歌人として高い評価を受けました。父は源頼光。頼光といえば鬼退治、大江山の酒天童子をやっつけたご仁。坂田金時なんかを子分にして。

    今週の阿刀田さんはいとも軽く冗談半分に、六五番歌を「せつない恋の歌」に分類しておられます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・晴耕雨読、はっきりしたテーマでけっこうだと思います。それに週一回の談話室訪問、これで心身スッキリ、丈夫で長生きできること保証しますよ(補償はできませんが)。大河ドラマを3~4編まとめて観るくらいの面白さで夢見心地。うん、晴耕雨夢もいいじゃないですか。

      ・「恋に朽ちる名」。そうですね、あらぬ噂を立てられたりしたらイヤでしょうね。女性の場合尻軽女などと囃し立てられるのは堪らないでしょう。王朝の男性はそんなのにへっちゃらな感じがします。在原業平、元良親王、そして藤原定頼、彼らは好色と言われるのをむしろ勲章と思ってたのでしょう。極めつけは光源氏。但し源氏も藤壷との噂だけは敏感に警戒してましたけどね。

  6. 百々爺 のコメント:

    【伊豆走湯権現に行って来ました】

    昨日いつものカラオケ仲間4人(浜寺八麻呂・松風有情含む)で伊東に一泊旅行をし終電を気にすることなく思う存分歌いまくってきました。「湯の町エレジー」「熱海の夜」「踊り子」「おんなの宿」「天城越え」「雪の渡り鳥」「エリカの花散るとき」等伊豆の歌もいっぱい歌いました。

    そして今日帰路、熱海で途中下車して相模が公資への恨みつらみを詠った百首を奉ったという熱海の伊豆山神社(走湯権現)に立ち寄って来ました。資料館で案内してくれた係りの人に聞いてみましたが、「へぇ~そうなんですか」って感じでどうも正式には神社にそんな話は残っていないようでした(資料にも書かれていない)。

    ただこの伊豆山神社(走湯神社)が古代から由緒ある神社で特に頼朝の鎌倉時代以降は関八州鎮護の神社として重きをなしてきたことを知って、平安時代でも相模国の国守(相模守)にとって伊豆山神社は崇拝すべき特別な場所であり相模守公資も度々訪れていたであろうし、相模が百首歌を奉納したこともさもありなんと思った次第です。

     ・伊豆山神社の奥社に続く森は「子恋の杜」と呼ばれ枕草子にも「森は、大荒木の森、しのびの森、ここひの森、、、、」(能因本)として書かれている由(手元にある講談社学術文庫版には出て来ないが)。

     また古来ホトトギスが有名で
      ここにだにつれづれと鳴く時鳥まして子恋の森はいかにぞ(拾遺集)
     とも詠まれた場所であったという。

    ・今日は天気もよく、神社の丘からは伊豆の海、初島、大島まで遠望でき、実朝の歌もこのような光景を目にして詠まれたのだろうと感じました。

     箱根路を我が越えくれば 伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ(金槐和歌集)

  7. 浜寺八麻呂 のコメント:

    伊豆山は、海辺に走り湯があり、この湯を引いた温泉につかりに時々行きますが、伊豆山神社は久しぶりの2回目の参拝。
    海岸線からは八百段以上を登らねば成らず、前日の深夜に及ぶ深酒もあり、タクシーで訪問。
    天気は快晴、初島が美しく見え、実朝の歌の光景でありました。
    われわれは、前日100曲近く歌ったので、100首の和歌の奉納は見送り。

    小生が今読んでいる枕草子では、109段が”森”ですが、やはり「子恋の杜」は出てきません。色々本があって、面白いのでもありましょうが、解りにくいのも事実。

    いずれにせよ、空・海・森・神社が溶け合って心が休まりました。

  8. 小町姐 のコメント:

    気の置けない仲間とのカラオケ三昧、日ごろのストレス(無い?)も吹き飛びリフレッシュ。
    来週からの談話室も一層盛り上がることでしょう。

    伊豆は食と温泉ばかりに気が向き伊豆山神社は行ったことがありません。
    「子恋の杜」私が読んだ枕草子にもなかったような・・・
    今読んでいる「枕草子」の歴史学(五味文彦)には190段に島、浜、浦、森、寺、云々と類想章段が続く、とのみあり詳しくは書かれていません。

    昨日「鴨長明を読む」方丈記の講義が七カ月かけて終わりました。
    講師はあらゆる資料を駆使して懇切丁寧に講義してくれますが何しろ聞きての能力が及ばずわかったようなわからないようなおぼろげ状態です。
    方丈記は
    ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず
    で始まる20数ページの短編ではありながら奥が深く、ただの隠遁文学ではない。
    序文で人と栖に触れ、五大災厄、自身への新たな問題提起、住居史、方丈庵の生活。
    最後の自問自答をどう解釈するのか?
    只、かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。
    時に、建暦の二年、弥生のつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。

    跋文とも思える最後の文章をどのように捉えるか?
    引き続き発心集(説話集) 無名抄(歌論書)を学びます。
    少しでも鴨長明の真の人間像が見えてくれば良いのですがこれは私の理解の範ちゅう
    をこえたテーマかもしれません。
    でも講義は新たな発見も多くとても楽しく面白い。
    長明の人間関係、周辺人物も聞いたことのある名前が多く色々思い出したり調べたりするのも楽しい時間である。

    • 百々爺 のコメント:

      そうでした、方丈記やっておられましたね。終わりましたか。
      随分深い講義のようで色々得る所あったことと思います。鴨長明は俊成~定家の時代の人で歌人としても幅広く交流があったようですから、それこそ75番以降の百人一首解読には大いに力を発揮するのじゃないでしょうか。建礼門院右京大夫のこととともにコメントに役立ててください。よろしくお願いします。

       ・2011年12月源氏物語完読記念旅行で智平朝臣、百合局さんらと下鴨神社の方丈庵で長明を偲んだことを思い出しました。例によって九代目仁王が薀蓄をたれていたものです。

       ・方丈記の元暦の地震の叙述は迫力ありますね。初め読んだとき「大げさな」と思いましたが、東日本大震災を経験して再読したときはさすがよくできてると感心しました。今熊本地震を映像で見て正にそのように感じています。

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