71番 白河歌壇の重鎮 源経信 夕されば

さて71番も秋の歌。69番(能因)70番(良暹)と僧門歌人が続きましたが71番は宇多源氏、権門の歌人源経信です。余り有名でないこの人、長生きし長く歌壇の重鎮だったようです。どんな秋を詠んでくれたのでしょう。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
71.夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:    夕ぐれがやってくる
       門前の田で
       稲穂が黄金色にそよぐ
       秋風が渡ってきて
       いま芦ぶきの小屋のあたりを通っている

作者:大納言経信(源経信)1016-1097 82才 父母とも源氏 正二位大納言 
出典:金葉集 秋173
詞書:「師賢の朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風といへることをよめる」

①源経信 宇多源氏の末裔
・宇多帝-敦実親王-源重信-源道方-源経信 
 帝から数えて五代目。こうなると皇孫といっても「アッ、そう」てなもんだろう。

・父道方は中納言どまりだが経信は正二位大納言にまでなる。
 キャリアとしては武官畑、文官畑、地方受領(遥任が多かったろうが)と幅広くこなし大納言に。最晩年80才で大宰権帥として大宰府に赴任82才で亡くなっている。
 →42清原元輔が79才で肥後守として赴任し当地で没しているがそれと同じ。生涯現役(リタイア生活なし)。ご苦労さまである。

・宮廷キャリアは白河朝・堀河朝。頼通の摂関時代、重きをなしたようだが白河朝では政治的に恵まれなかった(そこまでの権門にはなれなかった)感じ。

・武人の面もあったのであろう。光琳かるたでは軽く刀を差している。
 →弓矢をしょってはいない。面白い絵。

・三男が金葉集を撰じた74源俊頼、その息子が85俊恵法師
 →三代続けて百人一首入撰はこの例だけ。経信も鼻が高いことだろう。

②歌人としての経信 人物模様 エピソード
・後拾遺集に6首 勅撰集に87首 私家集として経信集
 
・当代一の歌人とされた。なのに白河帝勅による後拾遺集の撰者には選ばれず、後拾遺集は年少歌人藤原通俊が撰ぶところとなった。勿論経信は後拾遺集に反目し「難後拾遺」なる歌論書を出し後拾遺和歌集から84首を抜き出し批判を加えた。勅撰和歌集に対する最初の論難書とされる。
 →白河帝と喧嘩でもしたのでしょうか。後述の遅刻を咎められたのかも。
 (後拾遺集の成立は1087年 この時白河帝35才、源経信72才、藤原通俊41才 
  後輩に譲ってもいいと思うのだが経信のプライドが許さなかったのか)

・堀河朝では数々の歌合の判者となり重きをなした。歌壇の指導的存在であった。

・経信は和歌のみならず漢詩・管弦(特に琵琶)・有職故実・学問・法令それに蹴鞠まで全てに万能であった。
 →すごい! 蹴鞠まで得意とは光源氏さまも顔負けですな。
 →容姿については出て来ない。それと女性関係も書かれていない。どうしてだろう。

・そんな諸事万能の経信の「三舟の才」のエピソード
 白河帝の大堰川行幸の際、和歌・漢詩・管弦の三舟を仕立て芸を競わせる催しがあった(55公任の所で出てきた)。万事に長ける経信は遅れてきて「いづれの船なりとも寄せ給へ」と言って管弦の舟に乗り、見事なパフォーマンスを見せやんやの喝采を受けた。

 →「わざと遅れて来た」などと揶揄されている。まあどうなんでしょう。「私はどれでもかまいませんよ。残ったところでいいですよ。お先にどうぞ」とでも言ったのでしょうかね。
 →それもまた嫌味ですけどね。  

・歌人たちとの交流としては73大江匡房、55相模、67周防内侍、61伊勢大輔と幅広い。
 →長く歌壇の重鎮であった。当然多くの歌人たちと歌合などで競いあったことだろう。

・経信の歌から二三
 .延久五年三月に住吉にまゐりて、帰さによめる
   沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝をあらふ白波(
後拾遺集1063)
   →経信の自讃歌 これも何となく71番歌と発想が似ているように感じる。

  因みに俊成の自讃歌は、
   夕されば野辺の秋風身にしみて鶉なくなり深草の

  →『定家は「近代秀歌」に経信・俊頼・顕輔・清輔・俊成・基俊の六人をあげて「此の輩、末の世の賤しき姿をはなれて常に古き歌をこひねがへり」とし、近き代の先達としている』(島津忠夫)

 .大井川いは波たかし筏士よ岸の紅葉にあからめなせそ(金葉集245)
  →何が気に入らなかったのか後拾遺集の時入れてくれるなと頼んだ歌、後息子の俊頼によって金葉集に入れられた。

 .承暦二年(1078)内裏歌合によみ侍りける
   君が代はつきじとぞ思ふ神風や御裳濯川のすまむかぎりは
(後拾遺集450)
   →白河帝の歌合 長寿を寿ぐ お蔭で白河帝は77才まで生きた。

③71番歌 夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く
・桂の近く梅津の師賢の屋敷で「田家秋風」を詠み合った。
・「夕されば」→「夕さり」「夜さり」 夕ぐれになると、、。

・門前の稲の葉がそよぎその風が門から屋敷に入ってくる。
 題詠であるが目のあたりにしての実写。
 風景を客観的に描写している。清新な叙景歌、、、、などとされる。
 →有名な歌でもないので今まで深く読んで来なかったが言われてみるとなかなかいい歌に思えてくる。

 「秋来ぬと」に並ぶ秋の歌の双璧
 →と言われると「そうかなあ~」と思わないでもないが。

・田畑、稲作は日本古来から生業の第一。
 門田・稲葉・蘆のまろや、、何れも万葉歌語である。
 百人一首の初め天智帝の歌が思い浮かぶ。
  1秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ

④源氏物語との関連 ちょっと無理やりですが。
・源氏物語 手習11 小野の山里での門田の稲刈りの様子
  秋になりゆけば、空のけしきもあはれなるを、門田の稲刈るとて、所につけたるものまねびしつつ、若き女どもは歌うたひ興じあへり。引板ひき鳴らす音もをかし。
  →記憶の蘇った浮舟が不幸な半生を回想する場面。

・経信は洛西の桂(桂離宮近辺)に別荘を有し「桂大納言」と呼ばれた。
 →光源氏の別荘があり、源氏は嵯峨御堂~桂別荘に行くと称して大堰の明石の君を訪れていた。

 松風11
  今日は、なほ桂殿にとて、そなたざまにおはしましぬ。にはかなる御饗応し騒ぎて、鵜飼とも召したるに、海人のさへづり思し出でらる。、、、
  月のすむ川のをちなる里なれば桂のかげはのどけかるらむ(
冷泉帝→源氏)

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14 Responses to 71番 白河歌壇の重鎮 源経信 夕されば

  1. 小町姐 のコメント:

    経信、全く聞いたことのない名前ですが子孫の俊頼、俊恵は結構有名ですね。
    三代が百人一首入撰とはすごいですね。
    久しぶりに光琳かるたを見ました。たまにはかるた絵を眺めるのも良いですね。
    長命だっただけに経験も多くいろんな分野に秀でていたのでしょう。
    長生きしても名を腐たす人も多い中やはり才能に溢れていたのでしょうね。

    「夕されば」の言葉に以前は夕方が去ると解釈していたことがある。
    古典を学ぶようになって夕方が来ると言う意味で全く逆の意味であった。
    そういえば子どものころお爺さんが「夜さり」と言う言葉を使っていた。
    これも夜が来ると言うことらしい。「源氏物語」にも出てきました。
    この71番歌
       夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く
    貴族が詠んだ歌とは思えない素朴さがあり、まるで農民が詠んだような生活臭のする歌にも思える。
    私も1番の天智天皇の歌が真っ先に浮かびました。
       秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ
    蘆のまろや、とまのまろや、懐かしい響きです。

    「夕されば」で始まる歌です。
    夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも(舒明天皇 万葉集巻8-511)
    夕されば野にも山にも立つけぶりなげきよりこそ燃えまさりけれ(菅原道真)
    夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり(能因法師)
    夕されば野辺の秋風見にしみて鶉亡くなり深草の里(藤原俊成)

    • 百々爺 のコメント:

      ・源経信、何事にも通じるオールラウンドプレイヤーだったようですね。もっと色んな逸話が残っててもよさそうなんですが「三舟の才」の話くらい。まあオーソドックスでまともな人だったのでしょう。でもプライドは高かったのだと思います。

      ・「夕さり」「夜さり」の解説、ありがとうございます。お祖父ちゃんお祖母ちゃん世代は使ってましたね。

       「夜さり」が使われてる源氏物語の場面見てみました。

       葵28「源氏、三日夜の餅を紫の上に供する」
        その夜さり、亥の子餅参らせたり。
        →紫の上と契った三日目。まだすねている紫の上。いい場面でした。

      ・「夕されば」で始まる歌、何れも印象的ですね。先日の能因法師の「野田の玉川」も「夕されば」でしたね。忘れてました。
       →源氏795首に「夕されば」で始まる歌はないようです。  

  2. 百合局 のコメント:

    なぜ白河天皇は、当代一の歌人経信でなく藤原通俊を「後拾遺和歌集」の撰者に決めたのか、考えてみましょう。 以下「日本文学の歴史4」のポイントのみ。

    通俊は実頼の子孫(小野宮流)
    通俊の父は太宰大弐を勤めた経平で3人の娘あり。
    一人は実季に嫁し公実や国母と仰がれた苡子の母である。
    一人は顕季の室となり、顕輔らを生む。
    一人は白河天皇に典侍として仕え、覚行法親王を生む。

    父の隠然たる実力と姉妹を通じての閨閥とが相乗関係に働いて、通俊を押し出した。
    通俊は代表作品をもたない歌人だが、ひととおりは詠歌のたしなみも見識もある「名臣」であった。 白河天皇が晩年、鳥羽院に語ったことばに「通俊・匡房らは近古の名臣である」とあります。

    力量、声望からすれば、経信がはるかに勝っているのですが、「後拾遺和歌集」の撰者に選ばれたのは通俊でした。ここに、この時代の和歌の在り方を考える鍵がひそんでいるようです。(いつの時代も、そうかもしれませんがね・・)

    作者経信の時代、貴族たちは洛外の自然を求め、いわゆる田園趣味が流行したようですが、この歌は風景を視覚、聴覚、皮膚感覚からとらえていて、いかにも気持ちの良い秋風が吹き渡っている感じがします。
    定家がこの歌について「末の世のいやしき姿をはなれて常に古き歌をこひねがへり」といったことは、充分理解できます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・白河帝が後拾遺集の撰者を藤原通俊とした理由、ありがとうございます。説得力ありますね。白河帝とのコネですね。取分け妹が典侍となって皇子を生んでたんですか。それは強い。白河帝は通俊を身内(兄)のように思い頼りにしていたのでしょうね。
       →典侍の経子が閨で「ねぇ、後拾遺集は通俊よ」ってささやいたのかも。

      ・白河帝は法皇となって「金葉集」の勅を出しこれは経信の息子74源俊頼を撰者としている。
       →親(経信)を敬遠した分、息子(俊頼)に報いたということでしょうか。

      ・定家のコメント納得ですね。やはりこういう生活実感が背景にある歌に気持ちよさを感じます。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    先週より、武蔵野大学で、川村裕子教授の”蜻蛉日記”の講義を、月・木週二回朝受け始めたので、百人一首への投稿が午後になりました。8月初めまでの15回講座ですので、かなりの抜粋で読むことになりそうです。

    もう一つ、NHK放送大学で”世界文学への招待”をやっています。これまで聴講したことがないので、中身は不明ですが、
    7月4日 11:15-12:00 第13回 ”源氏物語”
    7月11日 11:15-12:00 第14回”村上春樹”
    を放映します。ご興味ある方に参考まで。

    さて、源経信さん、小生の好きな藤原敏行の秋歌とこの秋歌は双璧といわれても(田辺聖子さん)、小生もピンときませんが、それ以外皆さんが書かれた以上に書くべき情報も見つけられず、千人万首から更に一首引用して終わりにします。

    70番あたり以降しばらくはコメントするのが難しくなりそうと勝手に予想していた通りになり、どこまでこういう状況が続くのか不勉強で不明ですが、頑張ってついていきたいと思います。

    家にて、月照水といへる心を、人々よみ侍りけるに

    すむ人もあるかなきかの宿ならし蘆間の月のもるにまかせて(新古今)

    • 浜寺八麻呂 のコメント:

      今期、成蹊大学の吉田幹生教授の”古代日本文学史 A(韻文)”も受講しており、今夕の講義が、”後撰和歌集””拾遺和歌集””後拾遺和歌集”でした。
      71番歌について余り書くことがないといいましたが、関係する箇所がありましたので、”後拾遺和歌集”の基本事項として、講義された内容の概要を下記します。

            記

      20巻。1200首強。白川天皇。 1075年に藤原通俊に撰集の勅命があり、1086年に奏覧、その後改定を加えて翌年に再奏、目録と序を奏献。源経信や大江まさ房を差し置いて通俊が選者に選ばれたことについては、古来不審とされている(彼が選ばれた理由は、実力でなく、全くのコネと)。これまでの秀歌は、”古今和歌集””後撰和歌集””拾遺和歌集”で撰びきった感があり、”拾遺集”以降の歌人から選ぶことを原則としている。
      女性の歌が多いのが特徴。和泉式部68首 相模39首 赤染衛門32首 能因31首 伊勢大輔27首。

      以上です。

      • 百々爺 のコメント:

        聞きたてほやほやのホッとなお話ありがとうございます。正にグッドタイミングでしたね。

        ・通俊が撰者として選ばれたのはコネ。百合局さんのコメント通りですよね。でもコネは大事。権力者の好き嫌いで世の中が回ることこそ自然であります。
         →ともするとセンセーショナルになり勝ちな「民意」によって世の中がコロコロ回ることこそオカシイのであります。

        ・和泉式部、相模、赤染衛門、伊勢大輔の女流4人で166首、全体の14%ですか。
         
         →「三代集(古今・後撰・拾遺)に続く勅撰集は是非我が手によって」、、、白河天皇の和歌に対する熱意がほとばしってるように思います。

    • 百々爺 のコメント:

      ・積極的に大学の古典講座を受ける。素晴らしいですねぇ。武蔵野大学やら成蹊大学やらそれに放送大学もですか(昨年は東京女子大学なんてのも行ってましたね)。「大学荒らし古典愛好老人」とでも呼びましょうかね。バックパックを背に「今日は蜻蛉日記、明日は後拾遺集」、お見事であります。

      ・70番以降、馴染みのない人が多いのでちゃんと書けるか、私も不安でいっぱいです。でもそこは談話室、何でも話題にしてしまいましょう。
       
       →「蜻蛉日記」講座の感想など是非聞かせてください。文学史的には極めて評価の高い「蜻蛉日記」。これまで見て来た百人一首の歌(歌人)との関連においても面白い発見があるのじゃないでしょうか。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    百々爺は源経信について、①残っている逸話は「三舟の才」の話くらい、②女性関係も(何も)書かれていない、と解説していますが、どうしてどうして、ネットで調べてみると色々な話が残っていますので、そのいくつかを紹介します。

    最初に女性関係ですが、出羽弁という一条天皇の中宮上東門院彰子・その妹で後一条天皇の中宮威子・その娘章子内親王に仕えた女流歌人は源経信の若い頃の恋人でした。
    金葉和歌集には次の歌のやり取りが収録されています。
    雪のあしたに、出羽弁がもとより帰り侍りけるに、贈りて侍る
    ・おくりては帰れと思ひし魂のゆきさすらひて今朝はなきかな
    (出羽弁)
    返し
    ・冬の夜の雪げの空に出でしかど影よりほかにおくりやはせし(源経信)
    経信の返しはクールですが、出羽弁の歌は「私の魂は、まだ雪の中をさ迷っていて戻りません。今朝の私は死んでしまったように過ごしています」と訴えており、極めて情熱的な告白の歌と言うことができるでしょう。

    次は経信らしいエピソードです。
    1)9月の月の明るい夜、経信が空を眺めて物思いに耽っていると、ほのかに砧の音が響いてきました。「これは風流な」と思った経信は次の歌を詠みました。
    唐衣打つ音聞けば月清みまだ寝ぬ人を空に知るかな
    すると前の植え込みの方から、次の漢詩を吟じる見事な声が響いてきました。
    北斗星前 旅雁 横たわり 南楼月下 寒衣を打つ
    経信が「うーん風流なことよ。いったい誰であろうか」と声のする方向を見たところ、何と身の丈一丈(3m)もあろうかという化け物が吟じていたのです。経信はびっくり仰天しましたが、化け物はそのうちかき消えました。これはおそらく風流を愛する朱雀門の鬼の仕業と言われています。
    このエピソードは歌川国芳やその弟子の月岡芳年が浮世絵にしており、源経信のWikiにはその絵が掲載されています。鬼が吟じた漢詩は劉元淑の詩の一節で、芭蕉はこれを下に「声澄みて北斗にひびく砧哉」という句を詠んでいます。

    2)ある時、白河院が経信を召して、琵琶の名器である玄象(げんじょう)と牧馬(ぼくば)を取り出して、まず経信に牧馬を弾かせた後、「この二つの琵琶、どちらが優れておろうか」とお尋ねになりました。経信は「昔、一条院が玄象と牧馬を兄と弟に弾かせたところ、弟の弾く牧馬の方がよく聴こえたので、琵琶を入れ替えて両人に弾かせま した。すると今度は玄象の方がよく聴こえたのです。即ち、器物の勝り劣りではなく、弾く人の巧拙によるのです」と答えました。成程と今度は経信に玄象を弾かせてみたところ、彼の言葉どおり、勝り劣りはなかったので、白河院は大いに感心されました。

    3)経信が晩年に大宰権師として赴任する途中で、筑前莚田の駅で一泊しました。折しも8月の十五夜でしたが、その旅館の庭に大きな槻の木(ケヤキ)があって月を隠していました。経信は「目障りだな」と言って従者に命じてその木を切り倒させ、一晩中、名月に向かい合って琵琶を弾き、歌を吟じました。

    長くなりましたので、この辺で止めます。最後に、智平も71番歌は爽やかな良い歌であり、「葦原の瑞穂の国」である日本に相応しい歌であると思います。

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。そりゃあ公任に次ぐ「三舟の才」と謳われ、宮仕えでは正二位大納言にまで昇り最後は赴任地大宰府で82才の生涯を閉じた宇多帝六代目の源経信。逸話がない筈がないですよね。読み込み不足でした。失礼しました。

      ・出羽弁(栄花物語後編の作者説もあるようですね)との恋歌のやり取り、経信の返しはすげないですね。10才ほど年上の出羽弁からの熱烈な後朝の歌。経信はちょっと引き気味だったのかもしれませんね。

      ・エピソード1)は経信が漢詩に通じていたことを示す逸話。
       和歌&漢詩の両刀遣いは23大江千里、24菅原道真、55藤原公任、71源経信そして73大江匡房と続くのでしょうか。
       →芭蕉の句もいいですね。

      ・エピソード2)は経信が弦楽、取分け琵琶の名手だったことを示す逸話。名器が「馬」と「象」というのも面白い。
       →源氏物語で琵琶の名手は蛍兵部卿宮と明石の君(&明石の入道)
       →若菜下の女楽、琵琶の担当は明石の君でありました。

      ・エピソード3)は80才の時、もう来年の名月は見られないかもと焦ってたのかも知れませんね。

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    さすが源智平朝臣殿、朱雀門院の鬼伝説を見事取り上げられておりまする。実は昨夜この歌川国芳の絵に感動して如何にUPしたものかと思案の揚句、力尽き、バタンキュウ~、今朝を迎えました。

    農耕民族の朝は早い。しかしかなりの雨。朝どりの夏野菜を収穫すべく畑へ。ここもと雨で放置されたままの胡瓜、茄子がワンサカ。朝からご近所におすそ分け。この瞬間何とも言えない充足感が。この時期の多寡秀の日常であります。

    さて71番歌、大納言源経信の歌

     夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹

    経信は、宇多源氏に連なる人で、武人でありながら最後には正二位大納言で参議にまで名を連ね、82才まで生きた人です。経信は武芸に秀でているだけでなく、大変な学問のあった人。先ほどの朱雀門院の鬼伝説が象徴しているのは、経信が堂々たる武人であり教養人であるということだけでなく、実は支那で生まれた漢詩が鬼のもの、つまり鬼の歌であるということをも象徴しています。

    同時に、それだけでなく、この時代は江戸時代と同じく日本は事実上の鎖国をしていた時代にあたります。そして何より日本独自の文化を再構築していこうという時代でもあったのです。

    ヨーロッパのルネッサンス運動は14~16世紀におこった「古代ギリシャ、ローマ時代の文化を復興しようとする文化運動」ですが、これと全く同じ運動が、7~14世紀掛けての日本で、日本独自の古典的文化を取り戻そうという文化運動がおこり、それが百人一首に代表される和歌を基調とした国風文化だったわけです。
    つまり、奈良・平安朝の国風文化運動というには、実は西洋でいうルネッサンスと同じ復古運動であり、しかもそれが日本では西洋よりも700年も古くから始まり、500年も長く続いたということなのであります。(以上山羊さんの備忘録より)

    この歌には「金葉集」歌詞によると、師賢朝臣の山里の仮小屋に、みんなで集まって、そこで「田んぼ、仮小屋、秋風」のお題で歌を詠みあったときのもので、経信は、まさにそのお題を全部まとめて一首の歌にきれいに詠み込んだ叙景歌であるというわけです。

    そしてもう少し深読みすると、田んぼの稲葉を前にして、歌を詠み合っているのは勇敢な「武人」であり、その武人が護ろうとしているのは田畑であり、収穫であり農家の人たちなのです。ですからこの歌は、ただ「田んぼの秋風」を詠んでいるのではなくその真意は仮小屋に集まった男たちの「人々の生活を護るのは俺たちなんだ」という強い自覚と誇りにあるとのこと。だからこそ、この歌は「名歌」の仲間入りをしていると。そしてこの歌は君も臣も、民も、みんなが一緒になって、互いの役割をこなしながら、国を護り、稲を育て、みんなが生きてゆく。それが日本の国の形でありと見事に歌い上げている。と深読みする説もあるとか(同じく山羊さんの備忘録より)。ちょっと深読みしすぎじゃアない?いつかもこんな深読みを取り上げ百々爺に「それはないでしょう」と言われたようなことがあったような。

    • 百々爺 のコメント:

      ・おお、朝どり夏野菜の収穫の時ですね。そりゃあお忙しいでしょう。これまでの苦労が報いられる収穫。正に至福の時でしょうね。満喫してください。

      ・歌川国芳の「源経信と鬼」、迫力ありますね。「漢詩は鬼の歌」ですか。なるほど。国芳の江戸時代では漢詩漢文などチンプンカンプンで鬼畜の歌と思われたのでしょうかね。中国・朝鮮半島の文化を受け入れそれを日本流にアレンジして独自の日本文化を作り上げてきたのが日本の文化史でしょう。その意味ではルネッサンス精神は五百年というより明治維新後も今もずっと続いていると言えるのかもしれません。

      ・深読みもいいじゃないですか。日本の秋、黄金色になびく実りの田んぼ。君も臣も民も日本国の美しさに誇りを感じる。そうあって欲しいものだと思っています。
       →随所に目につく耕作放棄地を見るとがっかりしてしまいます。

       夕されば門田の稲葉おとろへて蘆の荒れ野に秋風ぞ吹く

      なんてやめて欲しいものです。 

  6. 昭和蝉丸 のコメント:

    詞書の 「師賢の朝臣の梅津の山里に人々まかりて、
              田家秋風といへることをよめる

    何と、梅津が!!

    生まれ(そして10代後半まで)育った京都四条大宮は、
    交差する市電/バス路線の他に、大阪までの地下鉄(阪急)、
    嵐山までの郊外電車、そして梅津までのトロリーバスの起点と
    交通の要所で、当時、「京都の新宿」と言われました。

    トロリーバスの終点・梅津で降り、表通りの工場の裏に抜けると田んぼで、
    その中にポツンとshabbyなアパート(文化住宅)が建っており、そこが
    姉の新婚当初の住いでした。
    そう、梅津と言うのは、京都下京の西の果て、桂川の東側にある低地帯で、
    しょっちゅう洪水で冠水し ジメジメした、言わば、これから這い上がる
    人々が住まう荒れ果てた土地だったのです。
      (もう少し西に行くと桂川で、そこを渡ると松尾(神社)。
       ここから桂川右岸の嵐山までは、別荘地域)

    トロリーバスが廃止された年に、南禅寺に転居。
    爾来、梅津と言う地名は記憶から消えました。
    それから50年!
    百人一首で、再び、梅津が現れるとは! 

    歌とは全然関係のない呟きで恐縮です。

    PS  源智平朝臣 ご紹介の経信のエピソード(漢詩 北斗星前~)、
       好いですねぇ。
       よく、こう言う事を見つけこられるな、と感心仕切りです。

    • 百々爺 のコメント:

      おっ、忘れかけたころに飛んで来てユニークな鳴き声を聞かせてくれる昭和の蝉。ありがたいことです。

      ・歌とは関係ない呟きどころか、歌の背景が誠によく分かる素晴らしいコメントですよ。蝉丸さんのコメントに沿って地図を見てみました。梅「津」と言うから何か水に関係したところかと思ったら正に湿地帯なんですね。桂川が湾曲(蛇行)してる。こりゃあ梅津の辺りは頻繁に桂川の氾濫で水浸しになってたことがよく分かります。
       →普段は京の雅なお屋敷に住んでる貴族たちがそういううらびれた所に集まって風狂を楽しむ。そこで詠まれたのが71番歌ということでしょう。

       →「梅津はこれから這い上がる人々が住まう荒れ果てた土地」でしたか。「宇治と言えば少年鑑別所」に次ぐ名言として記憶しておきます。

      ・梅津のちょっと南は西京極球場なんですね。阪急が準フランチャイズにしてましたね。懐かしい。こんな所にあったのかと思いました。

      ・「四条大宮は京都の新宿」ですか。なるほど、鉄道・バスが交錯していますね。私も50年前東京に出て来て新宿の要路ぶりにびっくりしました。「ともしび」と「カチューシャ」の新宿、もう最近はすっかり御無沙汰です。

      じゃあね、また飛んできてくださいね。。

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