背番号24番は鉄腕稲尾和久、百人一首でも大物の登場、菅家菅原道真です。百人中総合点からすると知名度ナンバーワンかもしれません。23番大江家、24番菅原家、学者家系の双璧を並べたのも意図的なものでしょうか。
24.このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
訳詩: 手向山に鎮まります神 私が捧げる幣として
このえもいわれぬ紅葉の錦を
みこころのままにお受けください
このたびの旅はにわかの出立
捧げまつる幣の用意もございませぬゆえ
作者:管家=菅原道真 845-903 59才 文章博士(漢文の権威) 政治上重要人物
出典:古今集 羈旅420
詞書:「朱雀院の奈良におはしましける時に手向山にてよめる」
①父は菅原是善、学者として著名。菅原家は元は土師氏で代々の学者家系。
母は伴氏の娘。大伴旅人・家持に繫がる。和歌も能くする家系と言えようか。
菅原道真、幼少より大秀才、漢詩・漢学に通じる。17才で貴人の前で漢詩を即読。
文章生@18・文章博士@33 学者官吏として家格(中級貴族)に応じ順調に出世する。
その間国史(類聚国史)の編纂、菅家御集(漢詩集)、和歌も勅撰集に35首
祖父伝来の家塾・菅家廊下を主宰、多数の人材を育成
→卓越した学者で能吏。それが何故政治の表舞台に押し出されたのか。
→当時は学問は専門職のするもの。学問するのは二流、しなくていいのが一流であった。
②一介の学者官吏が宇多帝に重用され遂には右大臣にまで昇るが政治のプロ藤原家には勝てず大宰府に左遷され配所で不遇の死を遂げる。。。。年表で見てみましょう。
887 宇多帝即位 基経が関白に任じられるがこの時阿衡の紛議が起る。
→基経を牽制したい宇多帝、そうはさせじと悶着を起しついに権力を認めさせた基経
→この時道真43才(讃岐守赴任中)讃岐から道真が紛議解決に尽力する。
891 基経死去 息子時平は21才直ぐには関白を継げず宇多帝の親政が始まる(寛平の治)
道真蔵人頭に 以後中央官僚として昇進を重ねる(宇多帝の思い入れ)
894 遣唐大使に任ぜられるも停止を提訴し以後遣唐使は廃止となる。
897 宇多帝、醍醐帝(13才)に譲位
醍醐帝は宇多帝の意を受けて道真・時平を両輪として親政を推し進める。
898 宇多院吉野宮滝に行幸、この時詠まれたのが24番歌
899 時平29才左大臣に、道真55才右大臣に並び立つ。
→この頃が道真得意の絶頂であった。上皇の信任を得、天皇からも一目おかれている。
→そうはさせないのが政治のプロ藤原家
901 時平、道真を讒訴、道真大宰府に左遷される。
→道真自身も昇り過ぎを自覚してるし、同僚・友人も自戒を促している。
→流れは本人も止められないそして行きついたのは転落への道。
903 道真大宰府にて死去 59才
③24番歌について 「朱雀院の奈良におはしましける時に手向山にてよめる」
898年 譲位の翌年宇多院は気も軽く100人余のお供を連れて大和~吉野宮滝~竜田川~住吉への大旅行。21番歌の素性法師が召されて同道、道真と和歌・漢詩を詠み合っている。
・手向山 峠の意味で京から大和に入る平城山あたりとのこと
手向山八幡宮が東大寺内にあり24番歌の歌碑もある。
・幣も取りあへず 現代では取りあえずはビールのことである。
・紅葉の錦神のまにまに
→御幸は10月、さぞきれいだったことだろう。
・道真は宇多帝の命により新撰万葉集253首を編んでいる。万葉以降の私撰和歌集で万葉仮名に漢詩の翻訳がついているとのこと。
→23番歌大江千里の句題和歌(漢詩→和歌)の反対。宇多帝が漢学者千里・道真を重用したことが分かる。
・道真は古今集に2首、勅撰集に35首 和歌も上手であった。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな 拾遺集
→大宰府に左遷され京を離れるにあたって。道真の詠んだ最も有名な歌であろう。
源順 梅は飛び桜は枯れぬすがはらや深くぞ頼む神の誓ひを
④源氏物語須磨~明石は道真の大宰府左遷を念頭において書かれている。
道真は大宰府で46編からなる菅家後集(漢詩)を作っているがこれが須磨~明石で7か所も引用されている。
・「恩賜の御衣は今此に在り」と誦じつつ入りたまひぬ。御衣はまことに身はなたず、かたはらに置きたまへり(須磨15)
→これは菅家後集七言絶句「九月十日」から一節がそのまま惹かれている。
・駅の長にくしとらする人もありけるを、、(須磨16)
→駅長驚くことなけれ時の変改まることを 一栄一落是れ春秋(大鏡から引用)
→道真が大宰府への途中明石の駅で駅の長に詩を賜った。
・いよいよ鳴りとどろきて、おはしますに続きたる廊に落ちかかりぬ。炎燃えあがりて廊は焼けぬ(明石2)
→死後雷となって紫宸殿を焼いたという道真の故事が読者の頭をよぎる。
菅原道真、万事に有能な秀才であったのだろうが学者の家系、藤原氏の上にたって政治を行うには荷が重すぎたということか。宇多帝が31才にして醍醐帝に譲位し風流の道に入ってしまったがもうすこし皇位に執着する人であったら道真の一生も変っていたのかも。まあ藤原の上には行けなかったのだろうが。。
新婚のうら若き頃ご近所に不幸がありました。
一家を構えまだ間もなく知りあいも少ない中、何でも相談できるお姉さんのような人がいてお悔やみの挨拶の仕方を聞きに行ったことがある。(うぶでした)
その時の話に出てきたのがこの24番歌である。
このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
「このたびはご愁傷さまでした」の気持ちをこの歌の長さぐらいでとるものも取りあえず駆けつけましたという心持でと教えてくれました。
今にして思えば何だかおかしい感じがしますがそれ以来私は不幸があるとこの歌が浮かんできて仕方がありません。
なんだかトラウマのようになってしまいました。笑い話のような昔話です。
もちろん当時、かの有名な学問の神様のお歌だとは全く知りませんでした。
と言うのも菅家と菅原道真が同人物だと言うことも知らずにいたからです。
さてこの歌、上の句はともかく下の句が素晴らしいと思います。
神々しいまでの紅葉を捧げる、詞書の意味が心憎いほど伝わります。
でも道真公と言えばやはり断突に
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
これはもう幼いころから耳にたこができるほど聞かされてきました。
それにしても「学問するのは二流、しなくていいのが一流であった」とは驚きですね。
学問一筋であれば又運命も変わっていたやも知れません。
大宰府にて不遇の最期は何とも痛ましい。何が幸せか不幸かは誰にもわかりません。
運命の分かれ道は何処にあったのでしょう。
「大宰府左遷」と言えばやはり思い出すのは源氏物語、須磨 明石ですね。
いよいよ鳴りとどろきて、おはしますに続きたる廊に落ちかかりぬ。炎燃えあがりて廊は焼けぬ
これがあったればこそ明石君そして明石一族に繋がっていく・・・
このうえなく運命の不可思議さよ。
1.「このたびは、、、、ご愁傷さまでした、、、」ですか。なるほど。
「このたびは、、、、」色んな場面で口ごもりながら言い訳するのに使えそうですね。こんな言い方を歌に使っているのがユニーク、他に例はあるのでしょうかね。理知に富んだ学者である道真、万事に用意周到だった筈で大事な御幸にあたり抜かりがある訳がないですもんね。
→試験の回答のマクラとして「このたびは準備もできませんでしたので取りあえずこの辺で、、、」とやったら天神さまに免じて合格させてもらえるかもしれませんね。
2.「学問するのは二流、しなくていいのが一流であった」
源氏物語(少女の巻・夕霧が心ならず大学に入れられるところ)でつくづく思い知らされましたね。血筋・身分が万事の世界。学者は専門バカ的な滑稽人物として描かれていました。
→和歌についてもある程度そういう考え(上手い歌は身分の低い専門歌人に任せておけばいい)があったのでしょうね。でも次第に和歌も学問も貴族の教養として必要なものになっていく。源氏物語の時代はその過渡期だったと言えるでしょうか。
3.紫式部は道真に深く共鳴して源氏物語に引用しています。紫式部と道真の年代差は百数十年ほど。式部はれっきとした「藤原氏」ですがもう何のわだかまりもなかったのでしょうね。
→道真は死後二十年で復位し、一条帝の時神さま(北野天満宮天神)になっています。源氏物語が書かれたのはまさにその頃であります。
いやよくまとめてくださった、爺のコメントを読めば、菅原道真のこと、この歌のこと、源氏物語のことなど全てわかったことになりますね。
と言いながら、道真と藤原摂関家の政治的せめぎ合い、時代の転換期を作った道真の政治的役割について、三田誠広先生の講義から、歌の世界から少し離れて、3点要約して補足させてください。
1)700年初頭に導入された口分田制により、全国の土地は皇室がすべて所有し、これを子供が生まれるたび人民に与え、そこから税金を徴収するシステムが出来上がったが、次第に土地が足りなくなり、開墾が認められ、荘園へと発展していく。
空海が中国から土木工事の技術を持ち帰り、開墾し用水を引き、田んぼがどんどんできていくが大きな人件費がかかる。そこで開墾した土地は無税にし、開発を促進した、これが荘園である。ただ荘園をもてるのは、藤原北家らの有力貴族と東大寺・伊勢神宮などの大社寺に限られた。そこで、実際に開墾した地方の地侍はこれを藤原摂関家など有力者に寄進し、無税の特権を得る一方、名義料を有力者に支払った。名義料が税金より安い場合、口分田を放棄し荘園を耕す事態も発生した。
この結果、皇室の財源である口分田からの税が減り、荘園を集めた藤原摂関家が財政的に潤うことになった。
このからくりに気づいたのが道真。讃岐の守として讃岐滞在中に、荘園はインチキで、所有者が開墾したのではなく、名義貸しのみで無税はおかしい。従い名目上の荘園は、税金をとると言い出した。
そして道真が取った手段は、菅原家の私塾やほかの塾などにも自分の息のかかった先生を派遣し、”義”を教え、地方の長官になる人たちに儒教を教え、彼らの力を得て、インチキ荘園を摘発し、税を取り立てるようにした。
結果、徐々に皇室にお金が入り、今までのようには摂関家にお金が入らなくなっていった。
2)道真50歳のときに、皇室に経済的余裕もできたので、遣唐使を派遣しようと言うことになり、関白基経が図り、道真を政治的に外そうと遣唐使の長官に任命した。
天才道真は、もはや唐から学ぶことなどない、お金の無駄だと論文を書き、周りの賛同を得て、遣唐使を廃止した。
この結果、道真は政治中枢に残ったが、国風文化というものができ、和歌が発達し漢文が衰退するという、漢詩・漢学の菅原家には皮肉なことにもなった。
3)宇多天皇が醍醐天皇に譲位したとき、醍醐天皇のお母さんの養父が藤原基経でこのままだと政治実権がおじいさんの基経に移ると考えた道真は、上皇が政治を執り行うという、後に白川上皇がやった院政政治をこの時歴史上初めて、すでに取り入れ、藤原摂関家を牽制した。
4)以上が3点の要約ですが、ついでに、三田先生は、この24番歌は、つまらない、何のことか解らんと厳しい評価でした。
小生は、小町姐さんの言うように、上の句はさておき、下の句は悪くないと思うのですが、歌そのものより、上皇に捧げるけなげな気持ちを定家が買ったのかもとも思える歌です。
三田先生の講義からの要約ありがとうございます。面白そうな講義ですね。
1.公地公民、口分田制から荘園へ。天皇財源から藤原摂関家財源へのことよく分かりました。この辺が親政vs摂関制のしのぎ合いなんでしょうね。摂関家としても余りに一方的だと反発をくらう。このせめぎ合いの一幕に道真が登場したと言うことですかね。
2.私の知識では基経の死は遣唐使廃止(894)前の891でちょっと辻褄が合わない気がするのですがいかがでしょう。また宇多帝の醍醐帝への譲位は897年でここでも基経はいないんですけどね。醍醐帝のお母さん(藤原胤子)は25番歌の藤原定方のお姉さんで次回にその辺解説しているので参照してください。
3.24番歌、確かに歌としては今イチだと思いますが定家は道真の政治性からこの歌を選んだのでしょうか。
「このたびは、、」道真が絶頂の時
「東風ふかば、、、」道真が失脚した時
→やはり輝いていた時の歌(蜜月だった宇多上皇に捧げた歌)を入れてあげたかったのでしょう。
基経の生きていた時代を見直しました。
三田先生がおっしゃったことは講義録で残っており、読み直しましたが、小生要約には間違いはなかったようです。しかし、爺が言うとおり、遣唐使派遣も宇多天皇の譲位も基経が死んだ後の出来事ですね。時代としてはすでに時平です。
三田先生は歴史家ではなく文学者で、原稿もなしで一気にしゃべられていたので、講演は面白かったのですが、一部脱線もあったようです。
小生も見落としており、失礼しました。
了解です。細かいところより大筋が大事なのでそれでかまわないと思います。基経の意を呈しての藤原摂関家(時平)との確執ということでいいと思います。
小生は8/16~23に「九寨溝・黄龍・峨眉山・楽山8日間」と題するツアーに参加して中国四川省の名所を見学していましたので、談話室再開後、初めてのコメント投稿になります。再開後のブログを拝見すると、百々爺の「簡にして要を得た名解説」の筆は益々冴え渡り、皆さまのコメントも更に多様になってレベルも上がっているようで、素晴らしいですね。小生からは、相変わらずですが、歌い手の人物論を中心に、気付いた事柄をコメントさせて頂きます。
菅原道真は「平安朝きっての大秀才」で卓越した学者であるのみならず、詩歌にも優れていたことは良く知られていますが、Wikiの逸話によれば、もっと多様な才能に恵まれ、女性関係にも積極的だったようですね。例えば、武芸(弓道)に優れ矢を射れば百発百中だったとか、人に害を及ぼす河童や大鯰を切って退治したとか、木造神像を作ったとかの話が残っています。女性関係については、妾も沢山いて、遊女遊びもしており、子の数は23人に上るようです。
さらに、道真には「学者&能吏に留まらず、自分自身や菅原一族がもっと政治の世界で力を持つ存在にしたい」という野心があったようです。これは、自分の娘のえん子を宇多天皇の女御に、その妹寧子を後宮に、さらにもう一人の娘も宇多の皇子斉世親王の室に入れ、藤原氏ばりの婚姻政策を実行していた(関幸彦)ことからも窺えます。
そして、一介の学者官吏が右大臣に取り立てられるという異例の出世を遂げました。この不相応な出世は宇多帝の寵愛のためでしょうが、あるいは道真も「してやったり」と得意になったかもしれません。百々爺も指摘しているとおり、これに対しては同僚の学者(三善清行)から「止足の分(止まるを知れば危からず)」たれといった自戒の忠告を受けています。道真はこの忠告を容れず、警戒心を抱いた藤原時平に讒訴されて大宰府に左遷され、2年後に配所で不遇の死を遂げました。誠に日本は惜しい人材を亡くした言えます。
百々爺は道真の死後については多くを語っていませんが、道真の死後、彼の怨霊は時平、時平の甥にあたる醍醐天皇皇太子の保明親王、保明の子でやはり時平の甥そして次の皇太子となった慶頼王など病死させ、時平の血を受継ぐ皇族を根絶やしにしたと言われています。そして、よく知られている清涼殿の落雷事件も道真の怨霊によるものとされ、醍醐帝を含めた当時の人々を大いなる恐怖に陥れました。このため、人々は道真を天神様として神格化し、崇めたり、守護神として祭ったりするようになりました。死しても怨霊がこれほど影響を及ぼす力があったというのは、道真の凄い力を示しているのでしょう。
小生はあたかも道真が自分自身と菅原一族のためだけに立身出世を目論んだ野心家であるように記述しましたが、本当のところ、彼は藤原氏による外戚政治を続けていては日本の未来は無いと考え、日本を真に学識と才能を持った自分のような人間がリードする国にする必要があるという前向きな情熱を持っていたのかもしれません。道真の悪口を書いて、彼の怨霊に祟られるのが恐ろしいこともあり、その可能性についても一言付言しておきます。
お忙しいところコメントありがとうございます。
1.中国の地方名所ツアー(漢詩ツアーの一面もありでしょうか)ですか。地味な所へ行ってきましたね。中国を卒業して3年になります。「中国は今!」教えてください。土産話楽しみにしています。
2.天神さまの女性関係大いに興味あるところですが逸話としては殆ど書かれてないようですね(「百人一首一夕話」は30頁余を尽して菅家の話を展開してますが菅家自身の女性の話は見当たりません)。何せ神さまですから面白おかしく説話集には載せられなかったのでしょうね。
→「大秀才・学者・ひいては神さま」とレッテルが貼られてしまうとなかなかイメージチェンジができない。「遊女遊びもした天神さま」も面白いと思うんですけどね。
3.上述の「百人一首一夕話」も道真の怨霊の話が大部を占めています。当時の人(日本社会全体)は諸々の凶事を道真の怨霊の所為と信じて疑わなかった。「占いは科学であった」当時からすると仕方がないのかもしれませんがこれって冷静に考えると全く根拠のないバカな話なんですけどね。
→「国家レベル・国民レベルの思い込み」日本史はこれを繰り返してきました。よくよく注意しないといけませんね。
(天神さまのお怒りを恐れながら書いております)
付記:道真公が学問に対する前向きな情熱を持って日本をリードしようとした、、、私もそう思っております。ハイ。
1.地味な所ですか。確かに、万里の長城、故宮博物館、上海のバンドや豫園のといった有名な観光地に比べると地味かもしれませんね。でも、今回の主な目的地であった九寨溝と黄龍は共に世界遺産で、九寨溝には7月後半~8月前半の観光のピークには毎日4万人を超す観光客が訪れるとのことでした(ちなみに環境保護のため1日当たりの観光客は4.1万人と上限が設けられている。小生が行った8/18も3万数千人が訪れた由で入口はとても混んでいました)。この他、やはり世界遺産である楽山大仏、峨眉山、都江堰並びにパンダ繁殖研究基地、劉備・孔明の墓がある武候祠などを見学したり、川劇やチベット民族舞踊劇を観たりと、誠に盛り沢山のツアーでした。次回お会いする際に写真をお見せしましょう。
2.小生は八麻呂さんのコメントを見る前に、道真の怨霊を恐れつつ、勝手な推測で「道真は藤原氏による外戚政治の変革を目指して前向きな情熱もって日本をリードしょうとしたのかもしれない」と書いて投稿しました。その後、八麻呂から紹介があった三田先生の講義録を見て、「道真が実際にインチキ荘園を摘発したり、摂関政治牽制のために院政政治を取り入れるなど日本を改革しょうと努力していた」ことを知り、冗談半分で書いた小生の推測が当っていたと分かって大いに喜んでいます。
1.中国、ちょっとバブリーな様相を呈しているのでしょうね。株価のこと、天津ドンのこと、ボルトの世界陸上、中国からなかなか目を離せません。写真楽しみにしています。
2.税制、いつの時代も取ろうとする側と逃れようとする側、この凌ぎ合いが経済活動を活発化するのでしょうね。今度藤原摂関家vs菅原道真になり代わって議論してみましょうか。
百々爺の年譜から考えると、この24番歌が詠まれてからわずか三年後に道真の大宰府配流があるのですね。
後付解釈ですが、手向山の歌は人生の峠に立った道真の歌とも読めますね。
神様はその未来をご存じだったのでしょうか。
謡曲『龍田』に「殊更にこのたびは幣取りあへぬ折なるに心して吹け嵐、紅葉を幣の神慮」とあるのは、この24番歌からとられています。
歌舞伎『菅原伝授手習鑑』は上演されることの多い演目なので、皆様もご覧になったことと思います。芝居と天神さま詣でにより、道真は日本人によく知られる存在になったのでしょう。
1.24番歌は人生の峠に立った道真の歌ですか、なるほど。取りあえずの幣に手向け山の神さまはご立腹された。それで「紅葉の錦(道真の栄光)神のまにまに」と言われて厳しいお沙汰を下した。。。
→ちはやふる神さまはそんな大人気ないことしませんよねぇ、天神さま。
2.そうですね、歌舞伎フアンの百合局さんには道真と言えば「菅原伝授手習鑑」なんでしょうね。忠臣蔵の大石内蔵助、源平の義経と並ぶ三大スターと言うことになりますかね。
当談話室、役者も増えて千客万来の盛況ですね。夏のピークは過ぎたものの、甲子園の夏を思い出すような賑わいですね。一方中国大陸では世界陸上が連日繰り拡げられ、ガトリン、ボルトと称するあたかもエネルギー関連のような名前のアスリートが熱い戦いを演じております。いずれ後を追うように世界同時株安からの復活も真近いことでしょう。
さて24番歌、大御所・菅家の登場ですね。道真公は忠平の兄・藤原時平らの陰謀にかかって失脚、不遇の英傑でありましたが、弟の忠平とは仲が良く、都と大宰府との間で文通が続いていたようです(阿刀田高・恋する百人一首)。菅原道真は学問の神様とまで称された人、歌も巧みだった。だがこの歌はまあ、並みですね。とは前出の阿刀田評。神様に対して大変失礼な言ですよね。
それはさておき、「学問するのは二流、しなくていいのが一流」のフレーズ。インパクト有りますねえ。
我々凡人には理解のおよばぬ境地とはいえ、遡ること50年、我らが見目麗しき頃・高校時代の百々爺、源智平朝臣さんを彷彿とさせる一文ですね。勿論、一流のほうですよ。
1.ボルト、強かったですね。特に100M、この時ばかりはボルトも必死の形相でした。いつも「流しの運転手」みたいに楽に走るボルトが初めて真面目に最後まで走り切ったのを見ました。
2.道真vs忠平、そうでしたね、忠平はできた男ですね。26番歌のところ参照してください。でも道真も時平の陰謀にかかって失脚したとはいえどこかの国みたいに粛清されて直ぐこの世から消えてしまうなんてことではなかったわけですから。案外「しまった、しくじった。残念。こうなったら筑紫の歌枕でも見て来るか、、、」くらいには感じられなかったのでしょうか。
→そんなイージーな考えでは神さまにはなれなかったでしょうけど。
談話室に入ると、百々爺さんの名解説、そして皆さんの掘り下げたコメントは面白く、勉強になります。
この度は・・とご挨拶調で始まるこの歌は、取合えず・・だとかで何となくふざけた感じがしましたが、しきたりの御幣にこだわらず、紅葉に染まる峠の感動をそのまま神様に捧げるとは大胆です。
菅原道真は宇多天皇に重用されましたが、その宇多朝は歴史上、画期の朝廷として説明されている。(日本史 揺れ動く貴族社会)
藤原氏と外戚関係がなかった宇多は政治の実権を握る親政をめざした。その為に、近臣を公の舞台に登場させ、その中で、道真を抜擢し、道真はその後の異例の出世を遂げる。宇多の極端な道真びいきは他の公卿の不平を募らせ、道真は自身の脇の甘さもあって、讒言がもとで大宰府に左遷され中央政界から消える。
天皇親政をめざす宇多の構想は頓挫し、政権はふたたび藤原氏の専権政治となる。
この頃から、文壇は道真に代表される漢詩文時代から、醍醐天皇に引き立てられた紀貫之に代表される和歌和文、国風文化の隆盛へと時代は移る。
余談ですが、5月にドライブで西国札所を訪れた際に道明寺(河内、藤井寺市)を訪れました。歌舞伎の演目でもあり、道明寺粉が有名で立寄りましたが、この寺が菅原道真ゆかりの場所とは意識せず、御朱印だけ貰って早々に引き揚げました。
この近辺は道真の祖先、土師氏の根拠地で、道明寺はその氏寺として建立されたもの。隣接する天満宮の境内にあったものが明治の神仏分離令により現在地に移された。尼寺で、国宝・十一面観音は道真の自刻によるものらしい。
道真は幼少の頃、度々、ここに叔母の覚寿尼を訪れていて、大宰府に下るときに
鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな
を読んでいる。そういえば本堂の横に歌碑があったのを記憶しているが、今思うにこの和歌だったのでしょう。
歌舞伎『菅原伝授手習鑑』を観ておれば、あるいは24番歌を予習しておけば、もう少し気の入った参詣になっていたと悔やまれる。
ありがとうございます。よく勉強してますね。談話室訪問を生活パターンの一つにされているようで嬉しいです。
1.「画期としての宇多朝」(揺れ動く貴族社会)、読み返してみました。やはり陽成帝の廃位、光孝帝の皇位復活&即位がいかに大きかったか改めて感じいりました。ちょっと分からないのは宇多帝が天皇親政を目指したのなら何故在位わずか11年にして13才と年若い醍醐帝に譲位してしまったかということ。何と言っても天皇と上皇では権威・権力の程が違う。醍醐帝には時平の妹穏子が入りいつしか頼りとしていた道真も時平に陥れられて結局藤原摂関政治に戻ってしまった訳ですからねぇ。
→宇多は法皇となって仁和寺を創建、王権と仏教とが互いに支え合う体制を作ったとあるが、それよりももっと天皇位に留まり道真を擁して親政を続けるべきだったのではと思うのですが。。
2.道明寺は天満宮でもあったのですか。正に神仏一体ですね。土師氏ゆかりの土地、、なるほどね。西国札所巡礼やってると色々出てきますね。是非続けてください。
本日は新生児のお宮参りで亀戸天神社に行ってきました。天神さまと言ってもおよそご存知のない世代の人たちに控え目ながら一講釈してきました。天神さまって何でそんなに全国展開しているのって言われてちょっとたじろいだ爺でありました。
→天神さま、大分無礼なこと申し上げましたがどうぞ意のあるところをお汲みいただき新生児の行末、何卒よろしくお願いいたします。。。二礼二拍手一礼。。
お宮参りはご両親はもちろん爺婆の出番ですね。
一か月、100日と地域によって時期は色々あるようです。
いずれにしても健やかな成長をお祈りします。