藤原定方、藤原ながら摂関家の主流でもなく大した男ではなかろうと思ってたのですが、調べてみるとなかなかのもの。姉が妻となった男が天皇(宇多帝)になり次の天皇(醍醐帝)を生む。右大臣にとりたてられたのも当然でしょう。一方で古今集作成をバックアップした重要人物でもありました。
25.名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな
訳詩: 逢坂山のさねかずらよ そなたの名は
恋人に逢って寝るというこころだときく
その名の通りであるならば
私はそなたの力が欲しい 人に知られず
そなたをたぐり寄せるように
こっそりと恋する人に逢いたいものを
作者:三条右大臣=藤原定方 873-932 60才 内大臣高藤の子 44番朝忠の父
出典:後撰集 恋三700
詞書:「女のもとにつかはしける」
①出自が実に面白い。
父 内大臣藤原高藤 高藤の父は良門(良房の異母弟)、祖父は冬嗣
母 身分の低い山科の豪族の娘
父母の結婚話が因縁めいている(脚色の入った説話であろうが)
高藤が鷹狩で山科に出かけ一夜の宿で豪族の娘と契り女子が生まれた。その後二人は結婚し定方が生まれた。
→ロマンチックと言おうかワイルドと言おうか。
→娘は美人だったのだろうが高藤も生真面目な男だったようだ。
この高藤の女子(藤原胤子=いんし)が源定省と結婚し、定省は皇族復帰して宇多帝になる。そして宇多帝は胤子との子(天皇即位前に生まれていた)を皇太子にたてやがて醍醐帝になる。
年表で整理しましょう。
873 藤原定方誕生
884 姉胤子、源定省と結婚(定省が天皇になるなんて知る由もない)
887 源定省、宇多帝として即位(義理の兄が天皇になった!)
892 @20定方任官
897 醍醐帝即位(甥っ子が天皇になった!)
905 古今集成る
924 @52定方右大臣まで上がる(左大臣はずっと摂関家筆頭の忠平=26番歌)
930 醍醐帝没
931 宇多院没
932 @60定方没
→お義兄さんが天皇で次に甥っ子が天皇ならそりゃあ強いでしょう。
②天皇との血縁で政治的にも右大臣に昇った定方だがトップの左大臣はずっと藤原忠平。定方は政治家と言うより和歌・管弦を能くした教養人であり、寛平の治・延喜の治の文化面を支えた人だったのではなかろうか。
父高藤の異母兄弟が藤原利基でその息子が27番歌藤原兼輔
即ち定方と兼輔は従兄弟、この二人は風流の友であり紀貫之ら古今集作成グループらと歌会・宴会を開きサポーターとしてバックアップした。
→醍醐帝と古今集作成グループの仲立ちとなり古今集をプロデュースしたのが藤原定方ではなかろうか。
兼輔の息子(雅正)は定方の娘を正妻としそこで生まれたのが藤原為時でその娘が紫式部!
→即ち兼輔と定方は共に紫式部の父方の曽祖父。
紫式部には兼輔・定方の血が八分の一づつ入っていることになる。
→紫式部は二人を強烈に意識して源氏物語を書いたのではなかろうか。
③25番歌
「女のもとにつかはしける」
・女は不明。何れにせよ題詠ではない。定方の女性関係も華やかだったのであろう。
・さねかづら 蔦がからまる濃厚な愛の姿態をイメージさせる。
→「さね」にはもっと際どい意味もあろうがそれは関係なさそう。
→百人一首に恋の描写はあっても性愛の描写はない。
・くるよしもがな 諸説あるようだがこれは自分が「行く」の意味でしょう。
・名にし負はば 当時の流行の上五だったらしい
勿論一番有名なのは伊勢物語の東下り(第九段)
名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
→「業平橋駅」も今や「とうきょうスカイツリー駅」名にし負はばも空しく響く
・下の句「ひとに知られで」
「ひと」で始まる下の句の歌は九首もある。私にはごちゃごちゃになって訳の分からない札の一つであります。
④源氏物語との関連
・逢坂山のことは蝉丸の10番歌「これやこの」参照 源氏と空蝉の関屋での邂逅
・上記定方と紫式部との関係
→兼輔が式部の曽祖父(父の父の父)であることは知ってましたが定方も同じく父方の曽祖父(父の母の父)であることは知りませんでした。俄かに定方に親しみを感じました。
・「さねかづら」 つたのからまるイメージ
源氏が探し究めた夕顔の遺児が玉鬘。夕顔・玉鬘ともつる性の植物。
恋ひわたる身はそれなれど玉かづらいかなるすぢを尋ね来つらむ(源氏@玉鬘)
・源氏物語で右大臣といえばあのおっちょこちょいの早口男。この右大臣邸は二条にあった。そこへ源氏が忍んで行き朧月夜と濃密な夜を過し右大臣に見つかる(賢木)。そして源氏は須磨へと自ら落ちて行くのでありました。
本日のタイトル「定方は紫式部の曾爺さんであった」に目が覚めました。
驚きました!!!えっ、なんで、なんで?
読み進めていくうちに納得、そうだったのか、なるほど、さもありなん。
紫式部のルーツ、遺伝子がぷんぷんと匂ってきます。
詳しい年表ありがとうございます。よくわかりました。
氏素性が複雑に絡み合った狭い貴族社会の出来事ですから当然あり得ることですが今回の定方はその典型のようにも思われてきました。
田辺聖子「歌がるた小倉百人一首」の今昔物語の説話を引いた解説が興味を引きました。
両親の結婚にまつわるロマンス、素敵だなと思いました。
姉胤子と定省(宇多天皇)の結婚がなければ定方のこれほどまでの出世はなかったものと思われますが定方にも類い稀な能力があり文化人だったのでしょう。
ここでも運命のいたずらを感じずにはいられません。
山科の村娘がついに帝のおばあさまになったとさ。
そして三条右大臣(定方)は帝の伯父様と言うわけです。
その後が又素敵、醍醐天皇は私の陵は山科(お婆様のふるさと)にと遺言されたそうです。
遡ればもしも陽成院の廃位がなければ定方の出世はなくこの歌も生まれなかったということでしょうか?
さて歌の方ですがあまりにも懲りすぎていて解説を読まないと私には意味がよくわかりません。
掛け言葉、縁語のオンパレードです。
蔓草を辿るように人に知られずこっそり貴女に逢いに行きたいものですと素直に詠めばいいものを何でこんなに気取った歌ができるのでしょう?
まるで言葉をころがしてを楽しんいるような印象を受けます。
名にし負わば?ん、どこかで聞いたような?そうでした業平でしたね。
「逢坂山」に空蝉をそして「さねかずら」に玉蔓を思い出しました
ここで22番歌のなぞなぞ
「嵐は山を去って軒のヘンにあり」
答えは「風車」でした。
追記
この25番歌、百々爺さんはじめみなさんのコメントが興味深く更にググってみたら
「紫式部の夫、藤原宣孝は定方の曾孫にあたるを」発見して又々驚きました。
定方の家系から「勧修寺流」または「高藤流」と呼ばれることになる一流が後世に続き、その末裔として戦国武将の「上杉氏」などを輩出する、とありました。
悠久の歴史の流れを今更のように感じております
1.この定方の出自、祖先の人たちの絡み合いを見てつくづく平安貴族社会は狭いものだと思いました。
源氏物語で調べた時に書きましたが(ウオームアップ 貴族官位受領階級)
【解説書からの知識をまとめると、平安京の総人口は約10万人。官位一位~五位までが貴族で200人前後、家族を入れて約1000人、即ち全人口の1%。その内高級貴族である公卿(三位以上)は2~30人で国政は専ら彼らが大臣・納言などの職につき行っていたのです】
この少数のエリートたちが結婚しあい子孫をなしていくわけですから三世代前(曾祖父母)に遡ると重なりあうのは寧ろ当然でお互いそんなところまで詮索しなかったのかもしれません。
2.「紫式部の夫、藤原宣孝は定方の曾孫にあたる」
そうでしたか。私もびっくりしました。定方ひいお爺ちゃんはひ孫同士の結婚を喜んだのでしょうね。大弐三位はそのこと知ってたのでしょうかねぇ。勧修寺流が脈々と繋がっていく、、、これも興味ありますね。
高藤の子 定方と 利基の子 兼輔が、ともに百人一首に選ばれた、紫式部からみた父方の曹祖父とは知りませんでした。兼輔は曹祖父として有名ですが。
また、年表の整理ありがとうございます。
醍醐天皇が宇多上皇より一年早く身罷り、その翌年定方が亡くなっていることも解りました。
(爺の解説① 2行目 祖父は良房は、冬嗣かと思います、確認ください。)
→ご指摘ありがとうございます。その通りです。訂正しておきます(爺)
”百人一首の作者たち”(目崎徳衛)P174によれば、定方と兼輔は風流を好む仲間で
親交も深く、”権中納言兼輔卿集”には以下贈答があるとのこと。
三条の右大臣殿のまだ若くおわせし時、交野にかりし給いし時追ひてまうでて
君が行く交野はるかに聞きしかど、慕えば来ぬるものにぞありける
急ぐことありて先立ちて帰るに、かの大殿の水無瀬殿の花おもしろければ、付けて送る
桜花匂ふをみつつ帰るには、しづ心なきものにぞありける
京に帰りたるに、かのおとどの御返事
立ちかえり花をぞわれは恨み来し ひとの心ののどけからねば
そして目崎氏は
最後の一首には、業平の
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
に触発された痕跡がみえるとあり、
更に、同氏によれば
延喜の太平の世、定方・兼輔に貫之が加わり、その周囲に坂上是則・敦慶親王など風流人が集い”古代風で浪漫的な色彩を帯びた一つの小世界”ができていた
と紹介しています。
この二十五番歌にも、なんとなく、優雅でのんびりとした平和な響きが感じられました。
1.兼輔も定方も紫式部の父方の曽祖父と言っても「父の父の父」と「父の母の父」では受けとめ方が違う、これはやはり出自においては父系社会であるからでしょう。母の父は重んじられるが母の母になるともうどうでもいいのかもしれません。ましてや母の母の母になったら皇族くらいしか分からないんじゃないでしょうか。
2.兼輔・定方の周りに貫之・躬恒・坂上是則らが集い風流歌壇をなした。まさに栄光の古今集に繫がる夜明け間近の時代の創出者であったのだと思います。
定方は徒弟堤中納言兼輔と共に醍醐天皇(延喜)歌壇の中心であったという点がポイントですよね。(25番歌、26番歌、27番歌の作者つながり)
この歌は「逢坂山のさねかずら」という表現が、いろいろ解釈できて面白いのでしょうか?
定方本人よりも父高藤の話がいいですねえ。
「今昔物語巻二十二、高藤内大臣語第七」にある話です。
高藤が鷹狩に行き道に迷い、山科で雨宿りさせてもらい、その邸の娘と一夜契り、
その時に女の子ができます。六年後そのふたりを見つけ出して高藤邸にひきとり弟の定国、定方が生まれます。一夜契で生まれた女の子は、光孝天皇の皇子で臣籍降下した源定省と結婚します。定省は皇族復帰、宇多天皇となります。その二人の間に生まれたのが醍醐天皇です。
何度読んでも、説話だと思っていても、いい話だなあと感じます。
雨宿りした邸の主である娘の父は宮道弥益といい郡の大領であったそうです。後、その家を寺にし、勧修寺となりました。ここに定方の墓があるそうです。その向かいの東山のほとりに、その妻が堂を建て大宅寺というそうです。醍醐天皇の陵はこのあたりだそうで、なんだかほのぼのとする話ですねえ。
父高藤の今昔物語の話、いいですねぇ。
鷹狩、雨宿り、一夜契り、懐妊、女子の誕生、、、、正に絵に画いたようなお話だと思います。田舎の豪族が泊りに来た高貴なお方に娘を差し出す。これは高貴な人へのおもてなし(夜伽)というより高貴な人の血をいただき一族の繁栄を目論む、、、そんな考えもあったのでしょうか。
→源智平どのも指摘してますが明石入道の思惑はまさしくそういうことでしょう。
藤原定方の経歴を調べてみると、正に「人生何が起こるか分からない」ということわざが実証されたように感じます。以下では、百々爺の解説との重複をできるだけ避けながら、小生が調べたり感じたりした事柄をいくつか記したいと存じます。
1.定方の人生を左右した最初の出来事は小町姐さんの指摘のとおり、陽成帝(13番歌)の廃位と光孝帝(15番歌)の即位でしょう。この時に皇統(天皇の血統)が【55】文徳→【56】清和→【57】陽成から、【58】光孝(文徳の弟)→【59】宇多→【60】醍醐に変わりました。この皇統の交代により、定方の人生が変わったのみならず、寛平&延喜・天暦の治が生まれるなど、いわば歴史が大きく変わることになった言えると思います。(注)【 】内は何代目の天皇かを示した数字です。
2.光孝帝は即位と同時に全ての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない姿勢を示していたので、光孝帝の息子である源定省が宇多帝として皇位を継いだのも予定外だったと言えるでしょう。これは次の天皇候補を定めない内に光孝帝が病に陥ったため、急遽、源定省を親王に復して立太子させたからです。
3.定方の姉である胤子が源定省(宇多帝)の妻になったのは異例のことではなかったのでしょうが、百合局さんが記しているように、彼らの両親である藤原高藤と宮道列子の出会いと再会はロマンティックで、誠にほのぼのとした素敵な話ですね。今昔物語に描かれたこの話は源氏物語における光源氏と明石の君との出会いや二人の娘である明石の姫君の東宮妃としての入内といったストーリー作りのモデルになったという説もあるようです。
「人生何が起こるか分からない」に続く言葉は「だから、面白い」だそうですが、こうして右大臣にまで出世した藤原定方が権力争いに血道を上げることなく、藤原兼輔と共に紀貫之や凡河内躬恒を支援して、古今集の完成に寄与したというのも面白い話ではないでしょうか。古今集からは百人一首に最多の24首も採られることになったので、この談話室を楽しんでいる我々にとっては、面白いだけでなく、「だから、歓迎である」とも言えるのではないでしょうか。
いつもながら緻密な分析ありがとうございます。
1.「人生何が起こるか分からない」全くそうですね。
つくづく考えるに陽成帝は罪つくりでおわしましたねぇ。百人一首登場人物で考えると、明が光孝帝と藤原定方、暗が元良親王でしょうか。元良親王も定方・兼輔と同時代を生きています。定方のラッキー振りを見つつ元良親王はどんな気持ちで一夜めぐりを続けていたのでしょうか。
2.定方右大臣の生き方いいですよねぇ。醍醐帝との血のつながり度は時平より強かったわけで(何せ母の弟である)、娘も醍醐帝に嫁がせている。政治的野心を燃やし時平に対抗してもおかしくなかったのにそうはせず風流右大臣で全うした。正に「だから面白いし大歓迎でありました」。
→定方右大臣も神さまになればよかったのに。。。
定方が若い頃、逢坂山で木々にからむ蔓をみて発想し、さねかずらという草花を添えて贈ったそうで、まさに技巧が蔦のように絡まっている歌とか。
田辺聖子はこの歌を「どうちゅっことない・・つまならい歌」と書いている。
若い貴族男子にとっては、ここまでしないと才気の女性を射止められず、その後のプロポーズ(正当化された夜這い?)まで発展しないわけで、その心根は女性には分かりにくい。
この歌、発句を「名にし負う」にすれば、三十一文字にピッタリおさまってリズム感が出て覚えやすいと思うが、歌の意味合いが変わってしまうのでしょう。
「ひと」で始まる下句が九首もあるとか、となると百人一首も頭の中でコンガラカリマス。
藤原氏の相関図も混線しますが、一貫して和歌を庇護してきた藤原氏の日本文化史上、特に宇多、嵯峨朝における貢献は偉大です。
皇族に からんで色なす 藤の花
1.そうですか、定方さんさねかずらを「折り枝」にして歌を贈りましたか。ちょっとどぎつい感じですね。源氏物語の折り枝一覧を見て見るとさねかずらはありません。曽祖父の発想をいただいて藤壷への手紙にでも使わせていただけばよかったのに。。
名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな
源氏→藤壷、歌はそのまま使えると思います。
2.「ひと」で始まる下の9首あげておきます。ヤヤコシイこと限りありません。
11 ひとにはつげよ
25 ひとにしられで
28 ひとめもくさも
38 ひとのいのちの
41 ひとしれずこそ
44 ひとをもみをも
47 ひとこそみえね
63 ひとづてならで
92 ひとこそしらね
3.末尾の川柳いいですね。藤原氏のお抱え川柳師みたい。
まあ要するに当時の貴族階級で流行りに流行ったラブレターですわな。今ではこの「ラブレター」でさえ死語になってしまいましたが、若かりし頃はその言葉を聞いただけで胸がときめいたものでした。
さて25番歌、凝りに凝った技巧を駆使して、生々しい愛の表現を越え、エロチックなまでに愛を伝えようとした努力が、ひしひしと伝わってきますな。
そりゃあ~、こんな濃厚な歌を送られれば、相手の女は何の抵抗もなく受け入れたでしょうし、これだけの工夫と努力に愛の深さを感じ、その愛を受け入れたことでしょう。なんせ、「逢ふ」・「寝」・「来る」と掛け詞を三つも駆使して技巧の限りを尽くしているのですからね。
なお、「来る」については百々爺のシンプルなコメントが光りますね。一言、現代語では「来る」の反対語である「行く」に該当するのであると。契沖のような大学者でさえ苦しい解釈をし、賀茂真淵をして迷路に迷わしめたところですよね。
歴史については諸兄の卓見に脱帽です。下手な小説も及ばない魅力と好奇心をさそられました。今回の定方右大臣、なかなかの傑物ですな。もっと評価されても良いと思います。
育爺に育菜に遊山にそして援甲にとお忙しい中、談話室ご訪問ありがとうございます。
1.藤原定方、おっしゃる通りもっと評価されても(有名になっても)いいですよね。折角百人一首に選ばれているのに呼び方が問題でしょう。「三条右大臣」、当時はそれで誰もが分かる有名人だったのでしょうが今ではさっぱり分かりません。右大臣って童謡に出てくる白酒飲んで顔の赤い人ぐらいにしか思い浮かびませんからねぇ。我らが談話室で少しでも有名になっていただければ幸いです。
2.ラブレターですか。ときめきの言葉ですね(爺は残念ながら書いたことももらったこともなかったですが)。時代時代で恋情の訴え方は異なるのでしょうね。今どきは絵文字入りのメールですかね、これもそれなりの作法はあるのでしょうが。
当時のラブレター、これは手の込んだ雅なものでありました。ドナルドキーン氏によると7つの要素が織り込まれます。
①紙:何色のどんな紙質の紙を使うのか
②墨:真っ黒、ちょい黒、薄黒
③書:どんな書体、文字の大きさ、配列、濃淡の付け方、ちらし書きとか
④歌:肝腎の歌の内容。あっさり行くか技巧をこらすか。
⑤折り方:文の折り方にも工夫があったらしい。
⑥折り枝:草・木・花に結びつける。
⑦届けさせる人:内容に相応しい人。可愛い女童とか。
これらが相俟って「王朝の恋文」になるのです。単に歌だけを(しかも活字で)読んで評価をするのは正しくないかもしれません。
→王朝の男性も女性も大変でしたねぇ。
25番歌の場合、折り枝が「さねかずら」ですから実と文を蔓で絡み合うようにどぎついイメージで出されたのかもしれませんね。そして届けさせたのは妖艶な年増女房で渡す際にウインクさせたりして。。。
→これは妄想が過ぎるようで、、、失礼しました。
ドナルドキーン氏による7つの要素、全くもってその通りだと思います。
日本人よりも大和心豊かなキーン氏、尊敬の念と共に見習いたいです。
今日のお稽古は(書道)朱筆がいっぱい。
書体、文字の大きさ、配列、濃淡の付け方、ちらし書きに苦労しております。
皆さんにお約束した和歌のかな書は未だに出来ておりません。
54帖とまでいかなくても皆さんが選んでくださった和歌と京都で詠んだ源氏の思い出の和歌だけでも仕上げたいと思っているのですがいつのことやら・・・
毎月の作品作りに追われて日が過ぎていきます。
思うに平安朝は誠に雅びな時代ですね。
この平成の世で百人の選ばれた歌人の歌や思いに触れる。
追体験とはいかずとも価値的な日々だと楽しんでおります。