紫式部の曽祖父として名高い堤中納言藤原兼輔の登場です。紀貫之・凡河内躬恒らのパトロン、即ち古今集プロデューサーの一人でもあったと言えるでしょう。
27.みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ
訳詩: 瓶原 そこを分けて流れている
泉川よ 湧き出る泉よ
いつあの人と逢ったというので
こんなにも恋しいのだろう
まだあの人とは逢ったこともないというのに
作者:中納言兼輔=藤原兼輔 (877-933)57才 紫式部の曽祖父 歌壇の重鎮
出典:新古今集 恋一996
詞書:「題しらず」
①父は藤原利基、25番藤原定方とは従兄弟(兼輔が三つ年下)
母は伴氏→大伴旅人・家持に繫がるのだろうか。
定方との結びつきは誠に密接(25番参照)
定方の娘を妻(の一人)にしているし、息子雅正は定方の娘を正室にしている。
(兼輔にとって定方は舅であり息子の嫁の父)
娘(桑子)が醍醐帝の更衣に入り親王を生んでいる。
→醍醐帝の外戚の一人 このこともあって三位中納言まで出世している。
桑子が醍醐帝の寵愛を受けているだろうか、、、と案じて詠んだのが:
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集)
→源氏物語でこの歌は26回も引用されている(吉海直人)
醍醐帝には心底尽していたのであろう。醍醐帝が亡くなった時の追悼の歌が哀しい。
桜散る春の末にもなりにけりあやめも知らぬながめせし間に
②堤中納言、加茂川近くに邸宅があった。現在の廬山寺の所。
兼輔は自身も三十六歌仙の一人で勅撰集にも56首入集している歌人であったが、同時に紀貫之・凡河内躬恒ら下級歌人のパトロンで邸宅は歌人たちの集まるサロンの場であった。
→飲食を振舞い金品を渡し醍醐帝へのとりなしを行うなど歌人たちを応援し続けたのではなかろうか。面倒見のいい親分肌の男だったのだろう。
→古今集編纂についてあれこれ論議されたこともあったのかもしれない。
紫式部もこの邸宅で生まれ育ち源氏物語を書いた(宮中に出仕した紫式部が里帰りしたのはこの実家であった)。
→源氏物語にはこの辺りが頻繁に登場する。馴染み深かったのであろう。
・空蝉と一夜の契りを持った紀伊守中川家
・花散里を訪ねた麗景殿女御中川邸
・深窓の美女に想いを募らせた末摘花邸
→そして式部が出仕した道長邸(土御門殿)にも隣接している。
③さて肝心の27番歌
・みかの原=奈良朝聖武帝が一時平城京から遷都した恭仁京(740-744)が置かれたところ。
・いづみ川=木津川(源泉は三重県)
→水が豊富な場所のイメージ
・「逢って逢わざる恋」(一度契ったがそれっきりで逢えない恋)
「未だ逢わざる恋」(想ってはいるがいまだに逢えない恋)
→両説あるようだが「まだ見ぬ恋」でいいのではないでしょうか。
「まだ見ぬ君に恋うる歌」(舟木一夫 S39)作詞:丘灯至夫
♪夕陽の空に 希望をかけて 心ひそかに 夢を見る
逢いたくて 逢いたくて
この世にひとり いる筈の まだ見ぬ君を 恋うるかな
→舟木一夫で私が一番好きな歌です。二番目は「哀愁の夜」
・みかの原わきて流るるいづみ川 上三句は単なる序
いつ見きとてか恋しかるらむ 下二句が歌意
口遊むとリズミカルで心地いい。「み」の音と「き」の音が効いている。
湧きあがる恋情を巧みに詠んだ歌である。
歌の構造や恋が募っていく歌意が13番歌とそっくりだと思うのだがどうだろう。
筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる
・27番歌は古今六帖(平安時代の私撰和歌集)に「読み人しらず」として出ている歌で兼輔集にもない。新古今に定家が兼輔として入れたが実は兼輔の歌ではない、、、というのが昨今の通説。
→古今六帖には紀貫之も関わっていたであろうし、この歌を兼輔の歌とする何らかの理由が定家にはあったのではなかろうか。「読み人しらず」であって他人作ではないのだから。
④源氏物語との関連について
「未だ逢はざる恋」 草深い深窓にうら若き女性が身を潜めて住んでいる。微かに聞こえる妙なる琴の調べ、、、これは絶世の美女に相違ない、、、男の想像は膨らみに膨らむ。
・「末摘花」はこのテーマの最たるもの。そして理想と現実のギャップ。
なつかしき色ともなしに何にこのすゑつむ花を袖にふれけむ(源氏@末摘花)
→でもこれに懲りないところが源氏のエライ所。
・宇治十帖で薫・匂宮が宇治の姫たちに想いを寄せるのも「未だ逢はざる恋」であろう。
一方「逢って逢はざる恋」は一度契った後ついに二度めは叶わなかった空蝉、そして朝顔への想いもこれであろうか。
兼輔と言えば真っ先に思い浮かぶのは紫式部の曽祖父様。
そして、人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな
最もよく知られ源氏物語に頻繁に登場したことが記憶に残る。
やはり兼輔自身にも我が娘を案じての親心を感じて微笑ましいです。
いつの世も子を思う親心は変わらないですね、
娘は醍醐帝との間に親王を生んでいて中納言まで出世を果たしている。
この歌からは「子の闇」に惑わされない事が教訓として残ります。
そうですか源氏物語には26回も出てきたとはおどろきですね。
昨年末の京都旅行を思い起こします。御所の次に訪れたのが廬山寺でした。
御所を見た後だったので意外とこじんまりした邸宅に感じました。
兼輔平安サロンの元で紀貫之・凡河内躬恒、彼らは風流を好み政治の世界とは一線を画していたのでしょうか?
唐の長安流の風流人士の集いを想像させます。
みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ
わきて流るるいづみ川
言葉通り湧き出るいづみ川の清らかさと歌の調べがマッチしており美しさを感じます。
その後が又良い。
いつみきとてか恋しかるらむ
見たこともない相手に感情移入して恋を訴える。
プラトニックラブが初々しくゆかしい!!
本当の所はわからないけど言葉通り素直に解釈した方がとても気持ち良い。
「未だ逢はざる恋」何てロマンチックなんでしょう。
現代社会でのIT機器を利用した逢ったこともない人物やfacebook等のやりとりや架空恋愛とは通じるものがあるのでしょうか?
ロマンチック、ゆかしさとは程遠い世界に思えますが・・・
我々の世代ではたまに文通から恋に発展すると言うことはありましたよね。
古代から現代の恋愛遍歴を考えてみるのも面白いですね。
舟木一夫「まだ見ぬ君に恋うる歌」「哀愁の夜」知りませんでした。
youtubeで聴いてみましょう。
1.兼輔と言うと「人の親の」歌から親子のことひいては紫式部との家族関係が思い浮かんでしまうので兼輔自身の女性との恋はあまりピンときません。27番歌も「未だ逢わざる恋」なので具体的な女性の影が見えない。やはり子ども・孫想いの謹厳実直な男のイメージですね。
源氏物語で26回も引用されてるとのことですが具体的にどこどこなのか詳しいデータは持っていません。とにかくやたら多かった記憶があるのみです。
源氏物語で親が子を想う場面と言えば、
・桐壷帝-源氏
・左大臣&大宮-頭中、葵の上
・源氏―夕霧、冷泉帝
・藤壷―冷泉帝
・頭中-柏木、弘徽殿女御、雲居雁
・明石の君-明石の姫君
(紫の上―明石の姫君 子を持てなかった紫の上が実子のように可愛がる)
・六条御息所―秋好中宮
・朱雀帝-女三の宮
・一条御息所―落葉の君
・八の宮―大君、中の君
・中将の君-浮舟
いっぱいありますね。源氏物語が男女の物語であるとともに親子の物語でもある所以です。この内入内した女御が天皇に寵愛をうけているかを心配する「人の親の」歌と同じケースは頭中が先に入内した弘徽殿女御が冷泉帝の寵愛をうけるよう必死に思いやる絵合の場面でしょうか。
2.古代から現代の恋愛遍歴、面白いですね。
現代の若者は恋人は(面倒くさいから)要らない、友だちでいいということで女友だちを泊めたり女友だちの家に泊っても横で寝るだけなんてのも多いとのこと。おかしなものですねぇ。私は若い人と話す機会がある度に「恋をしなさい」「恋ほどすばらしいものはないよ」と言い続けているのですが。。。
3.「まだ見ぬ君に恋うる歌」「哀愁の夜」、是非聴いてください。三番目は藤村詩の「初恋」です。何れも哀調を帯びたメロデイに舟木の声が何とも言えずいいのです。
先週後半、十和田・奥入瀬・八甲田山に出かけ、名湯、酸ヶ湯温泉にも二度入り早々、初秋を感じてきました。
と言うわけで、26番歌のコメントを書けませんでしたが、爺はじめ皆さんの解説・コメントを拝見し、忠平が聡明・温厚勤勉・豪胆の藤原氏中興の祖の一人であり、また何故定家が26番歌を百人一首に選んだのか(定家のご先祖様で、小倉山を紅葉の名所に仕立てた人)よくわかりました。
さらに、25番定方、26番忠平、今回の27番兼輔が同時代を生きた仲間だと言うことも解り、三条右大臣、貞信公、中納言兼輔ではちんぷんかんぷんの3人が、曽祖父がともに藤原冬嗣であり、
冬嗣ー長良ー基経ー時平
-忠平
-良門ー高藤ー定方
利基ー兼輔
の家系であったこと、また
爺が解説してくれている、兼輔は”定方の娘を妻(の一人)にしているし、息子雅正は定方の娘を正室にしている”こと
も解り、
爺がテーマにしている、時代背景・人間関係からも百人一首を読み解くという醍醐味を味わっています。実に良い談話室に仕立てたものです。
今回この歌で、いずみ川が木津川と知りまた一つ発見です。
木津川は、WIKIによると、三重県伊賀市青山高原に源を発し、京都に流れ、木津川となり(全長89KM)、源氏物語完読旅行で訪れた岩清水八幡宮の下で、宇治川・桂川と合流し淀川となる、川です。いづみ川の呼び名のままでよかったように思いますが。
源氏物語に26回も引用されたという
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集)
は、流石に頭に残っていますし、言いえて妙ですが、子供が40歳を越えた今、八麻呂には、子というより、孫を思う道となってしまっています。いや、長寿世界ですね。
最後に、舟木一夫の歌、清則1000歌集を見ましたが、
まだ見ぬ君を恋うる歌は、757番歌
哀愁の夜は 766番歌
にあります。今日のカラオケで歌ってください。
季節の先取り、誠にけっこうですね。芭蕉も行けなかった陸奥の奥、土産話聞かせてもらいます。
1.藤原北家の系図ありがとうございます。先日も話題になりましたが傑物基経が高子ともども摂政良房の養子に入ったのが大きいですね。まだ今後の登場人物の人間模様を見なければいけませんがどうも百人一首は藤原北家(冬嗣からでいいでしょう)の人々による藤原摂関家謳歌集のような感じがしています。
2.源氏物語で宇治川を調べたときに気がついたのですが淀川ってのは面白い川ですね。長さは左程でないが流域面積は広い。福井・岐阜・滋賀・三重・京都から琵琶湖に流れ込む水はみな淀川に注ぐわけだし、木津川・桂川も合流して淀川になる。日本歴史重要地を流域に持つ川と言っていいと思います。
3.孫を思う道、これもいいですね。子を思う延長で孫を思うということでしょうね。家族を思う道が連綿と続いて行く、そうあって欲しいものです。
「まずはあの人を見てみたい」と詠むこの歌には、メリハリのある言葉づかいで調べも良いと思う。
王朝には「逢わざる恋」という恋愛テーマがある。むかしの恋は知り合って恋におちるのではなく、まだ見ぬ深窓の麗人にあこがれを捧げ、恋文や歌を贈って求愛する。現代人は不幸なことに、何でもまともにバッチリ眼の前にあるものだから、想像力は減退してしまっている。しかし王朝の男たちはたくましい想像力をもち、それが恋心を刺激する。(田辺聖子)
三重県生まれの国文学者、小西甚一によると「恋は苦し」で、古今集時代以降になると、この考え方は、徹底的で、「恋はたのし」などという歌はほとんどないとか。
実際の恋愛は、何もつらく、悲しいものばかりではなかったが、問題は恋愛に対する「考え方」「感じ方」で、「いちばん恋愛らしい恋愛」は苦しいものだという意味あい。だから、歌に詠む場合、どうしても「いちばん恋愛らしい恋愛」が題材になりやすい関係で、恋は苦しいものというテーマばかりが現れた。と書いている。
兼輔が住んだ堤邸は、現在の廬山寺のところにあって、紫式部のゆかりとか。
学生の頃、下宿が左京区にあり、徒歩で荒神橋から御苑東側の清和院御門をくぐって通学していたが、其処が直ぐ近くにあったとは。次の機会に訪れたいが、案外現場に着くとフラッシュバックするかも。
ところで、反対側の御苑西側にある蛤御門のあたりには枇杷第があり、三平の一人の藤原仲平、通称を枇杷左大臣の邸宅があった。ご存知、伊勢の初恋の男で、19番の当事者? 恋に悩む人生が長かったのか、弟の忠平に比べ20年も大臣昇進が遅れ、終生彼の後塵を拝したとか。
邸内には枇杷の木が多かったそうで、当然、上品で美味しいその実を食したと思う。
百々爺の愛唱歌は「まだ見ぬ君に恋うる歌」ですか。今夜のカラオケ、頑張ってください。次の同窓会での合唱は「高校三年生」からこれに切替えますか。
小生はフランク永井の「君恋し」でした。
宵闇せまれば 悩みは涯なし みだるる心に うつるは誰が影~
1.小西甚一、宇治山田高校なんですね。知りませんでした。王朝の恋愛論、ありがとうございます。「いちばん恋愛らしい恋愛は苦しいもの」ですか、なるほど。楽しくハッピーに終始する恋愛ではお話になりませんものね。
王朝の男の想像力の逞しさ、寂聴さんもこれこそ源氏物語を動かす原動力だと言ってます。紫式部の筆も読者の想像力を前提にしたものだし、何ごとも分かりやすい即物的な描写だけではつまらないということでしょう。
→男も女も人の噂や交した恋文(紙も書も歌も折り枝も全て含め)から相手のことを必死に想像する。。。現代人からするとまどろっこしいでしょうがねぇ。
2.ほお、徒歩でこの辺り通って通学してたのですか。寺町通り廬山寺など毎日通り過していたのじゃないですか。枇杷第は仲平邸ですか。枇杷の実さんゆかりの場所じゃないですか。伊勢御のこと思い出しました。伊勢御の里もきっと近辺にあって仲平が通っていたのでしょうね。
3.「君恋し」ですか、渋いですねぇ。
宵闇せまれば 悩みは涯なし みだるる心に うつるは誰が影~
→これは「逢って逢はざる恋」なんでしょうね。
27番歌は、清らかに澄んだ印象を受けます。
爺の言うように「まだ見ぬ恋」としたほうが似合っていますよね。
「大和物語」35話に「堤の中納言~」とあり「しらくもの九重にたつみねなれば大内山といふにぞありける」の歌で終わっている話があります。
謡曲『三井寺』に「子ゆゑに迷ふ親の身は恥も人目も思はれず」とあるのは後撰集、雑一、兼輔の「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」によっています。
謡曲『隅田川』に「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ふとは」とあるのは兼輔の歌「~~まどひぬるかな」を引いています。
謡曲『百萬』に「この闇をはれやらぬ」とあるのも同じ兼輔の歌によっています。
「三井寺」も「隅田川」も「百萬」も行方知れずになった我が子を母親が探し尋ねるところが似ているので、兼輔のこの歌が使われているようです。
27番歌、響きがいいですね。おっしゃるように澄んだ明るい感じがします。
大和物語35話、醍醐帝の使いとして宇多院に赴いた時の歌とのことですね。兼輔は醍醐帝の外戚でもあり宇多院とも寛平歌壇の重鎮として親しかったであろうから、二人の仲立ちを務める役には相応しかったのでしょう。
母親が我が子を探し求める話ですか。子どもが何らかの理由で(父親が連れ出したり、第三者にかどわかされたり)失跡することが間々あったのでしょうね。
「27番 みかの原」の歌はリズミカルでとても口調が良いので好きな歌の一つでした。でも、この歌が「未だ逢わざる恋」の歌とは全く知りませんでした。ネットで調べると、当時の歌題分類では、一度も逢ったことがない恋を「未逢恋」、いつ逢ったか分からないほど永く逢っていない恋を「逢未逢恋」と呼んだとありました。でも、一度も逢ったことがない恋なんて、プラトニック・ラブ以前の恋であり、何か変態のようで気持ちが悪いと感じます。そう感じるのは小生だけでしょうか。
これもネットで調べた情報ですが、兼輔のもっと有名な歌で後撰集に載っている「人の親の心は闇にあらねども・・・」には長い詞書きがあるようです。それによると、この歌は藤原忠平が左大将だった時に、宮中の相撲の祝勝会を催し、それに招かれた兼輔が詠んだものです。詠んだ背景は、その宴会も終わって高貴な人物が数人残り、忠平も客人もすっかり酔いが回ったところで、話題は子供のことに移り、そこで酔った勢いで兼輔が「人の親の心は・・・」と詠んだとのことです。
酔いの勢いで詠んだ字余りの歌が後世にまで残り、曾孫が書いた日本最大の文化遺産との評価まである物語に26回も引用するなんて、兼輔も全く予想していなかったのではないでしょうか。
ポイントを突いたコメントありがとうございます。ちょっと反論のための反論のきらいはありますが議論を深めるため考えてみました。
1.確かに舟木の歌謡曲じゃあるまいし「恋に恋する」ようなのはうら若き女学生ならともかく変態っぽく感じますね。
「未だ逢わざる恋」
王朝時代にあって女性を「見る」「逢う」ことは大変なこと。「見る」「逢う」に至るには大変なプロセスが必要だった。これが転じて女性を「見た」女性と「逢った」ということは実事があったことを意味する(少なくとも暗示する)ということでした。
→源氏物語でよく出てきました。
即ち「未だ逢わざる恋」とは女性の存在を知って色んな手立てを講じてアタックをかけている。恋文を十通も送ったのに女性の方からは返事が来ない。偶に返事が来てもはぐらかされてばかり、、、。男の恋情はいやが上にも高まる。もう居てもたってもおられない、何とかしてくれっ!こういう言わば「片思いの極致」の状態が「未だ逢わざる恋」なのではないでしょうか。
→プラトニックラブなどとんでもない。色よい返事さえあれば今宵にもメイクラブに変る生々しい恋だと思うんですがねぇ。
→深窓の女性には近づき難かった平安王朝特有の恋の一形態、それが「未だ逢わざる恋」ではないでしょうか。
2.人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな
後撰集の詞書をネットからコピペさせてもらいました。
太政大臣の、左大将にて、相撲の還饗かへりあるじし侍りける日、中将にてまかりて、こと終はりて、これかれまかりあかれけるに、やむごとなき人二三人ばかりとどめて、客人まらうど、主、酒あまたたびの後、酔ゑひにのりて、子どもの上など申しけるついでに 兼輔朝臣
状況は智平朝臣どのコメントの通りです。
「酔っ払って詠んだ歌」これが重要じゃないでしょうか。爺の長年の経験からして酒に酔ったときにはウソなどつけません(そんな面倒くさいことできません)。ズバリ本音が出るものです。王朝の貴族、普段は取り澄ましていて子どものことを心配するなんて女々しいことは言えなかったことでしょう。酒に酔ったからこそ言えた子を思う本音、これが源氏物語に26回も引用される名歌となったという訳であります。
→字余りは確かにちょっと気になります。これも酔っ払ったせいで「歌の道」より「子を思う道」を大事にしたからじゃないですかね。
大和物語読んでいたら相撲後の宴会とは違った詞書があったので記録として載せておきます。
大和物語 第45段
堤の中納言の君、十三の皇子の母御息所を内裏に奉り給ひけるはじめに、「帝はいかがおぼしめすらむ」など、いとかしこく思ひ嘆き給ひけり。さて帝によみて奉り給ひける。
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまよひぬるかな
先帝いとあはれにおぼしめしたりけり。おほむ返事ありけれど、人え知らず。
浜寺八麻呂氏の陸奥の旅、十和田・奥入瀬・八甲田山に出かけ、名湯、酸ヶ湯温泉にも二度入り早々、初秋を感じてきました。とか、お聞きしますと芭蕉も行けなかった陸奥の奥に対するあこがれはいや増してまいりますな。古来芭蕉のみならず西行あたりも、やはり奥州を訪ねておりますね。「未逢恋」ならぬ「未逢旅」に芭蕉並みの旅ごころを燃やしております昨今の多寡秀でござりまする。
さて27番歌。言わんとする意味は、下二句ですね。ならば上三句は「遊び」で「無用の用」なのでしょうか。この歌が多くの人に愛唱されるゆえんは、やはり「いづみ川」から「いつみき」につながる声調のなだらかさの故でしょう。しかも下二句の何としおらしいことか。逢ったこともないあなたがどうしてこんなに恋しいのでしょうかという、フリーセックスの平安時代の中にもかかわらす、プラトニックな恋情が表現されています。その初々しさが、「湧きて流るるいづみ川」の清純さによくマッチする。とは橋本武(解説百人一首)の弁。このころの歌が言葉の遊びであり頭脳的遊戯であるように、この歌も確かに初々しく表現されている。が、これも一つのジェスチャーであり、内実は相見る女性の元での睦言なのかもしれませんな(同じく橋本氏)。
源智平朝臣氏 御指摘の通り、兼輔のもっと有名な歌で後撰集に載っている「人の親の心は闇にあらねども・・・」には長い詞書きがあるとのこと。誠に「子を思ふ道にまど」う親心は、昔も今も変わらないことを思い知らされしんみりとさせられることではありまするな。
1.「未逢旅」、いいですねぇ。
そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、、、
→昨日八麻呂さんから様子を伺って爺も「みちのくふたり旅」是非やりたいなあと思っております。
2.27番歌、これはジェスチャーかもしれないという橋本説は示唆に富んでますねぇ。
男「いつみきとてか、、、なんてオレにもウブな時があったなあ」
女「あら、オレにもって、ワタシにもってことなの、、ウフフ」
24番の道真、25番の定方あたりからこの談話室、
俄然、面白くなってきました。
百々爺は、「どうも百人一首は藤原北家(冬嗣からでいいでしょう)の
人々による藤原摂関家謳歌集のような感じがしています」と
言われていますが、この談話室では、謳歌した人々は勿論、
謳歌の影に居た数多の人々の生き様も次々と紹介され、
大河ドラマを味わっているようです。
所で、 百合局がほぼ毎回、関連の謡曲を紹介されていますが、
一首の歌に関連する謡曲名と その歌詞をサラッと引用される
その博識に感嘆の一言です。 こうなると、全文が
どうなっているか知りたくなるのが人情ですが、
謡曲集のブログを見つけましたのでご参考まで。
↓ list.UTAHI.半魚文庫
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/cgi-bin/inputlog.pl
PS 舟木一夫ですか。
小生がこよなく愛するのは『仲間たち』『学園広場』。
思い出が、あふれるほど ギューギューの二曲です。
お久しぶりです。談話室、もう少し頻度をあげて週一回くらいは訪問してくださいよ。
1.選んだ人、選ばれた人、選ばれなかった人、それらを取り巻く家族・友人・敵・味方、、、人間模様が面白いですね。みなさんから紹介される数々のエピソードが相乗し呼応し合い一大歴史絵巻みたいなものに感じられればと思っています。そうです、主役は少しづつ変りますが600年の大河ドラマです。
2.謡曲集のブログ紹介ありがとうございます。こういうデータ集積方法もあるのですね。全304曲とか、凝り出したらきりがないのでしょうね。白洲正子の世界でしょうか。
3.舟木は学園もの(高校三年生・学園広場)~哀愁もの(哀愁の夜・高原のお嬢さん)~悲恋もの(絶唱・夕笛)と変遷してます。それぞれにいいと思います。思い出がギューギューあふれる曲、封じ込めておくのは勿体ない。是非カラオケで大声で歌ってください。スッキリしますよ。
昭和蝉丸さま! こんなブログもあるのですねえ。
見つけてくださって、何だか嬉しくなりました。
私は謡曲本を調べて書いています。(140~150曲ほど)
現在では上演されることのないような曲も多そうですね。
別の興味も湧いてきました。心うきうきしてきます。
感謝、感謝です。