36番 清原曽祖父 「夏は夜、月の頃はさらなり」

さて紫式部の二人の曽祖父(25藤原定方、27藤原兼輔)に対抗し清少納言の曽祖父清原深養父の登場です。枕草子にも敬意を払って色々考えてみたいです。

36.夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづくに月宿るらむ

訳詩:    夏の短夜に興じて 私は月を眺めていた
       まだ宵のくちと思っていたのに
       なんとはや白々と明けてしまった
       この速さでは 月は沈む間もなかったろう
       いったいどこの雲の中に宿っているのかしら

作者:清原深養父 生没年未詳(889?-931?) 五位 清少納言の曽祖父
出典:古今集 夏166
詞書:「月のおもしろかりける夜、あかつきがたによめる

①清原氏は天武帝の皇子舎人親王(日本書紀編纂者)を始祖とする一族。舎人親王の時代から200年も経っており中堅貴族(受領階級)に落ちぶれている。パッとした人は出ていない。
 →「百人一首の作者たち」(目崎)にも筆をおかれてしまっている。

・清原深養父 五位 内蔵大允 (地方勤務はなかったのだろうか)
 孫が42清原元輔、曾孫が62清少納言
 →何と言ってもこれが大きい。紫式部派(であろう)定家もよく清原家の3人を入れたもの。エライ!

・深養父の寓居は大原の小野の里にあり、晩年は洛北岩倉に補陀落寺を建立、隠棲した。平家物語後白河法皇の「大原御幸」の段に記載あり。
  
  鞍馬どほりの御幸なれば、彼清原の深養父が補陀落寺、、、、を叡覧あって、それより御輿に召されけり
  →深養父のことも補陀落寺のことも有名だったのだろう。

②歌人 清原深養父
・宇多朝・醍醐朝で歌人として活躍 歌合には列席しているが屏風歌は詠んでいない。
 古今集に17首、勅撰集に41首 公任は三十六歌仙に入れておらず清輔、俊成、定家らに再発見されている。

・27兼輔、35貫之、29躬恒らと親交あり。おだやかな人柄だったらしい。
 深養父は和歌とともに琴の名手でもあり、宴会での花形であった。
 
  或る夏の夜、兼輔邸に貫之や深養父らが集まり楽宴が開かれた。この時深養父の琴を聞いて兼輔、貫之が唱和した歌が後撰集に載っている。
   
   夏の夜深養父が琴をひくをきゝて
   みじか夜の更けゆくまゝに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く(兼輔)

   同じこゝろを
   足曳の山下みづはゆきかよひ琴の音にさへなかるべらなり(貫之)

   →酒を飲み楽を奏で歌を詠み月を愛でる。これぞ風流の極み、最高じゃないですか(加えて是則が蹴鞠の妙技でも披露すればねぇ)。
   →兼輔・深養父・貫之が同席。歴史的な一幕ですね。
   →曾お爺ちゃん同士の親交、紫式部も清少納言も後撰集を読んで先刻ご存知だったことでしょう。

・36番歌の他に古今集に採られた深養父の歌を3首
 花ちれる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり(春)
 神なびの山をすぎゆく秋なれば龍田川にぞ幣は手向くる(秋)
 冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(冬)
 →何れも36番歌同様機智に富んだ理知的な歌と言えようか。

③さて36番歌  夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづくに月宿るらむ
月のおもしろかりける夜、あかつきがたによめる
 →月は照っていたがあかつき(夜が明けようとする時)になってどこかへ隠れてしまったということか。

 月を耽美し愛惜する心を詠んだ歌(有吉)
 →でも月は見えていない。誇張と機智の歌ということか。

「まだ宵ながら明けぬるを」
 →これは名文句である。矛盾した言い方という向きもあるがそこがいい!

・それこそ後撰集の兼輔邸で月を愛で琴を弾いて明かした夜のことと思えばいいのではないか。
 →それとも恋人との短すぎる夏の夜を恨んで詠んだものか(源氏物語藤壷との密通の項参照)

・「短夜」夏の代表的季語である。
 夏の夜の短さを詠んだ歌
 夏の夜の臥すかとすれば郭公鳴く一こゑにあくるしののめ(貫之 古今集)
 暮るるかとみればあけぬる夏の夜をあかずとやなく山郭公(忠岑 古今集)
 →ほととぎすが付き物である。

・36番歌への定家の派生歌
 夏の月はまだ宵のまとながめつつ寝るやかはべのしののめの空
 宵ながら雲のいづことをしまれし月をながしと恋つつぞぬる

④先ずは曾孫清少納言の枕草子関連から、
 枕草子初段  「、、、、夏は夜。月の頃はさらなり
 枕草子34段 「七月ばかりいみじう暑ければ、よろづの所あけながら夜もあかすに、月の頃は寝おどろきて見出すに、いとをかし
 →清少納言は曾お爺ちゃんの「夏の月」を意識しながら書いたのであろうか。

・源氏物語で「短夜」と言えば物語中最大の官能場面、藤壷との密通場面が思いおこされる。

 何ごとをかは聞こえつくしたまはむ、くらぶの山に、宿りもとらまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり。
  源氏「見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな」
と、むせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、
  藤壷「世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を醒めぬ夢になしても」
 思し乱れたるさまも、いとことわりにかたじけなし。命婦の君ぞ、御直衣などはかき集めもて来たる。
(若紫13)

 →この短夜の陶酔の一夜で藤壷は源氏の子を宿したのであります。

カテゴリー: 31~40 パーマリンク

12 Responses to 36番 清原曽祖父 「夏は夜、月の頃はさらなり」

  1. 小町姐 のコメント:

    深く養う父と書いて「ふかやぶ」これも珍しい名前です。
    聞けば清少納言の曾お爺様とか。
    それにしても清原家直系三人が百人一首に名を連ねているとはすごいですね。
    ここまでにも親子、兄弟 従兄弟と何らか血縁のある歌人が多く登場しています。
    と言うことはある程度文学的才能は遺伝子の成せる技としか思うしかありません。
    ところがその父や曾祖父の名を清少納言は重荷に感じていたらしいのです。
    中宮定子から「元輔の後といはるる君」なのにと歌を詠むように促されても言葉巧みに逃げていた。「枕草子」は同時代の女房の手になる散文作品と比べ驚くほど歌が少ない。
    (以上、小林一彦氏による)続きは又詳しく62番 清少納言の場面で引用したい。

    36.夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづくに月宿るらむ
    歌の調べと言い歌意と言いストレートで素人にもよく伝わります。
    「雲のいずくに月やどるらむ」ウイットに富んだ面白い表現ですね。

    暁とか有明の月とか余りにも月の例えが多くてちょっとこんがらがってきました。
    以前にあかつき→しののめ→あけぼの→あさぼらけの順に夜が明けていくと百々爺さんから教わりました。
    白州正子氏は日本語は夕方から朝への言葉が圧倒的に多くここでも夜と宵と明けの三つが使われており他にも夕べ、たそがれ、暁、有明、曙、朝(あした)など微妙に時間の変化が見られると言っています。
    「まだ宵ながら明けぬるを」の解釈にも微妙な矛盾があるとか・・・
    こうなると私にはもう何が何やら訳が分からなくなってきます。
    そこまで詳しく詮索?する必要があるのでしょうか。
    何事にも大雑把、粗忽者の小町姐にはそんな野暮なことにこだわるなんてどうでもいいような気がするのです。
    月を耽美し愛惜する心を詠んだ歌(有吉)
    それとも恋人との短すぎる夏の夜を恨んで詠んだものか
    男女の逢瀬が絡んでいるとすればやはり深読みできないこともなく一概にどうでもよいなんて一笑にふすことこそ野暮と言われそうですが・・・
    百々爺さんおっしゃるように兼輔邸で月を愛で琴を弾いて明かした夜のことで
    単純にこの歌はついつい夜明ししてしまったが月は雲のどのあたりに宿っているのかしら?ぐらいでいいように思えます。
    深養父曾お爺さま、いかがなものでしょうね。

    先月末の仲秋の名月そしてスーパームーンは素晴らしかったですね。
    雲の切れ目に悠々満々とたゆたうお月さまに酔いしれました。
    歌の一首もそして一句も読めなかったのが残念です。

    平家物語「大原御幸」 源氏物語「若紫13」読みなおしてみます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・紫式部と清少納言、王朝文学部門で最高峰を占める二人の直系血族が多数百人一首に名を連ねているのはやはり圧巻であります。

       25藤原定方、27藤原兼輔、57紫式部、58大弐三位
       対
       36清原深養父、42清原元輔、62清少納言

       実に百人中七人ですから。

       親の七光りを是とするか(利用するか)、親と比較されるのはかなわないと敬遠するか。それぞれの性格によりますかね。清少納言は強烈な自負心の持ち主ですから複雑な思いだったのだと思います。まあ枕草子に書いているのですから歌は苦手だとある程度は認めていたのでしょうが。。
       →また62番歌のところで議論しましょう。

      ・「夏は夜、月の頃はさらなり」とはいうものの夏は雲りや雨が多く月があかあかと照らすような夜は少なかったと思います。それだけに「今晩は月が見えるぞ!」ってことになると急遽友だちに召集をかけて楽宴を開く。そんな風に兼輔邸での楽宴は開かれたのではないでしょうか。呼ばれた深養父も貫之も月がこうこうと照っているだけで感激し口々に月を愛であう。そしてすぐに飲めや歌えやの大宴会。夏の夜は短い、あっと言う間に夜が明けかかる、、、。さて月はどこに、、、、うん、さっきまであったのにどこへ行ったんだろう、、、。
       →36番歌は大分お酒が入ってる歌だと思うのですがいかがでしょう。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    なかなかコメントを書き込むことが難しそうに思えた36番歌、そんな中、

    *後白河法皇の大原御幸で ”平家物語”
    *深養父の琴と兼輔・貫之の歌の唱和で ”後撰集”
    *夏の月で ”枕草子”
    *夏の短夜の逢瀬で ”源氏物語”
    *夏の短夜の貫之・忠岑の歌で、”古今和歌集”
    *派生歌で ”定家”

    と古典文学オンパレードで引用し、教養の幅と深さを遺憾なく発揮した 爺 凄いよ、感心しました。

    月といえば、今年は月の美しい年、小生が書かせてもらった”ブルームーン”、小町姐さんが上で書いておられる”仲秋の名月”と”スーパームーン”、みんなすばらしかったです。皆さんの歌・句を確かにお聞きしたかったですね。
    そして、 86番歌、”月やはものをわする”を思いだしますね。でも、これはそのときに。

    あと、NETを見ていたら、

    新古今 1450 題知らず

    昔見し春は昔の春ながら 我が身ひとつのあらずもあるかな  深養父

    とその類似歌として、かの有名な

    古今 747

    月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして   業平

    が出ていました。

    春が変わるのか、我が身が変わるのか、いや面白いですね、深養父が、業平の本歌採りをしていると思うのですが、果たして正しいでしょうか。

     

    • 百々爺 のコメント:

      お褒めにあずかり恐縮です。この辺が限界です。でも色々調べていると少しづつですが古典の世界が拡がっているようで自分でも嬉しくなります。

      ・ブルームーン、中秋の名月、スーパームーン本当に今年は月の当たり年でしたね。何れも天候に恵まれくっきりでしたもんね。

       改めて考えるに「夜は暗いものであった」平安時代と「夜は暗いものではなくなった」現代では月に対する想いは全く違うのでしょう。月は百人一首に12首も出てくる。それだけ生活に密着していた。翻って現代人は月など生活に関係ないし、夜空を見上げる必要もない。月に愛着が湧かないのも無理はないかもしれません。
       →古典に親しんでいるお蔭で月のことを色々考えられる。よかったと思います。

      ・深養父の「昔見し」は業平の「月やあらぬ」を本歌としたものでしょう(ネットでもそう言ってますね)。季節はめぐり春はやって来るけど自分にはもう春はやって来ない、、、という感じで老いを嘆いた歌とも読めますかね。

  3. 枇杷の実 のコメント:

     夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ(深養父)
     夏の夜の臥すかとすれば郭公鳴く一こゑにあくるしののめ(貫之)
    古今集で「夏の夜」ではじまる歌はこの二つで、夏の短夜を表現した良い歌ですね。雲の中に月隠れる、東の空がしらじら明くる、でいずれも東雲の頃に読んだものと思が、では東雲とは何ときか。百々爺、小町姐さんの記述を参考に時系列に並べると、
    夕べ(黄昏)→宵→よなか(夜)→夜ふけ→暁(夜明け前、未明)→東雲(夜明け)→曙(暁のおわり)→朝ぼらけ→あした(朝)となるんでしょうか。
    平安文学でよく描かれるのは「ゆふべ」に始まり「あした」に終わる「よる」の生活だ。男はまだ夜の明けきらぬ「あかつき」のうちに女の家を出る。夜がほのぼのと明ける「あけぼの」になると人目につくからである。後になって、わかれのときの
    「あけぼの」をさらに細かく表現するようになり、「あかつき」に近い所を「しののめ」、「あした」に近い所を「あさぼらけ」といったとか。女の館に忍び込むのは宵の口か、あるいは夜中になってから?

    百人一首の中で、「らむ」で結ぶ歌が5首があり、この深養父が最後。
    中古文の助動詞 「む」(推量)の用法で、「らむ」は現在推量の助動詞。(過去推量は「けむ」)
    見えていない事柄については(a)〈イマゴロ・・・テイルダロウ〉、見えている事がらについては(b)〈ナゼ・・・イルノダロウ〉と解釈するのだとか。(小西甚一)
    これに習って5首をみてみると、#18「住之江の・・・人目よくらむ」と#22「ふくからに・・・嵐というらむ」は(b)で訳し、#27「みかの原・・・恋しかるらむ」、#36「なつの夜は・・・月宿るらむ」は(a)で訳すのかと思うが、ちょっと苦しい。ところが、#33「久方の・・・花の散るらむ」は、イマゴロ散ってイルノダロウ、ナゼ散って散ってイルノダロウの(a)、(b)いずれもありで、どちらに解するかは場面によるとかで、文法だけでは決められないとは小西先生。

    余談になるが、深養父が建立し、隠棲した補陀落寺(小町寺)に関連するが、
    当時の仏教には、西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも極楽浄土があるとされ、補陀落とされた。その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といい、身を挺した信仰(行)だった。Wikiによると記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、その半数は那智にある補陀洛山寺から出発したとか。
    18世紀の初め頃までこうした渡海が続き、特に補陀洛山寺の住職は61歳になると渡海を行うことが、何時の頃からか習慣化していたとか。
    5月に熊野を旅行した際に、補陀落山寺に立ち寄りましたが、そこには渡海船(復元)が陳列されており、縁起を読んで、「げに信仰心とは・・」と驚きました。

    • 百々爺 のコメント:

      毎度色々研究したことをコメントいただきありがたいです。

      ・百人一首を「らむ」で結ぶ歌は5首ですか。なるほど。(a)(b)の用法その通りなんでしょうが日ごろ使ってない現代人からするとニュアンスは難しいですね。いずれにせよ、「・・・だろう」ということなのでその辺あいまいにつぶやいて分かったような気になっているのが爺の鑑賞法です。
       →いい加減なものです。

       「らむ」で終わる歌が18、22、27、33、36の5首で37以降はないというのも面白いですね。37以降は「・・・だろう」というあいまいな言い方でなく断定的な歌が多いんでしょうか(ざっと見渡してもそんな感じ)。詠まれた時代のせいかもしれませんね。

      ・補陀落寺(ふだらく)、南方浄土、補陀落渡海
       ご紹介ありがとうございます。初めて知りました。wiki読みましたがすごいですね。まさに海洋国家日本を象徴するような信仰ですね。決死の信仰、ちょっと恐ろしくもあります。熊野古道の山岳信仰あり、補陀落山寺あり。熊野はすごいところです。行ってみたくなりました。
       →「ふだらく」が古代サンスクリット語の「ポータラカ」から来ているというのも面白いですねぇ。

  4. 百合局 のコメント:

    百々爺やみなさんがあますところなく書かれているので、私は古今集にある清原深養父の恋歌でもあげてみましょう。

    581番「虫のごとこゑにたててはなかねども涙のみこそ下にながるれ」
    585番「人を思ふこころはかりにあらねどもくもゐにのみもなきわたるかな」
    613番「今ははや恋ひ死なましをあひ見むとたのめしことぞ命なりける」

    なんだか内気で純情そうな感じがしますね。
    曾孫の清少納言は、表面的には気強そうにみえますが、内面は深養父の遺伝子を引き継いで内気で純情なところがあったのでしょうね。

    謡曲『熊野(湯谷)』にある「名も清き水のまにまに尋ね来れば」は古今、春下129、深養父の「花散れる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり」からとっています。

    謡曲『桜川』にある「花散れる水のまにまに尋め来れば山にも春はなくなりにけり」は上記と同じ129番歌を一部かえて使っています。

    九月に観た藤田美術館展の中にあった伝藤原行成筆「升色紙」に清原深養父の一首があったと記憶しています。ごく小さな色紙に、ごく細字で書かれていたのが印象的でした。

    • 百々爺 のコメント:

      そうですね、私は深養父の恋の歌には触れずじまいでした。それはフェアーじゃないですね。613番は結構激しいですが581番585番は何となく理屈っぽい感じでしょうか。
       
       →清少納言に対し持っている印象(理知的冷静で万事に気がつく秀才タイプ、恋におぼれるタイプではない)が先入観となって曽祖父の深養父のことを考えてしまい、恋など関係ないように思ってしまいました。

       →36番歌も宴会で酔っ払った歌などではなく恋人とのアッチッチの短夜を詠んだ歌かもしれませんね。
       

  5. 源智平朝臣 のコメント:

    清原深養父は中古三十六歌仙に選ばれたほどの有力な歌人で琴の名手だったにも拘わらず、屏風歌がなかったり、時の権力者におもねた形跡がないところをみると、穏やかで淡々とした人物だったようですね。官吏としても不遇で一生うだつがあがらなかったものの、その境遇に逆らわず、風流に生きる人生を送ったと言えるでしょう。

    彼が身の不遇を詠んだ歌である「光なき谷にも春はよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし」(歌の意味:日の当らぬ場所には春は関係ないから、咲いたかと思えばすぐに散ってしまうことを心配する気苦労もない)を見ると、彼の恨みや怒りが感じられず、淡々としてあきらめきった心境にあったのであろうと想像できます。

    田辺聖子等が指摘しているように、この歌にも36番歌にも、乾いたウィット(機智)や軽いユーモア(諧謔)があり、小生はそれが深養父の歌の魅力の一つになっていると思います。もう一つ例である「冬ながら空より花の散り来るは雲のあなたは春にやあるらむ」(歌の意味:〔雪を花に見立てて〕冬だけれども、空から花が散ってくるのは、きっと雲の向こうは春なのだな)などはとてもおしゃれな歌であると感じますが、如何でしょうか。思うにこうした深養父のウィットやユーモアのセンスはDNAとして清少納言に受継がれ、枕草子のような素敵なエッセイが生まれたのではないでしょうか。

    最後に、百々爺を初めとするお酒好きな皆さま向けに、36番歌の狂歌で小生のコメントを締めましょう。
    夏の夜はまだ酔ひながら明けぬるを腹のいづこに酒やどるらん」(白洲&狂歌百人一首)

    • 百々爺 のコメント:

      ・深養父の人となりに対する総括、ありがとうございます。納得です。そう言う人だったのだと思います。「藤原に非ずんば人にあらず」の時代にあって清原氏はそれで甘んじるより仕方がなかったのでしょう。貫之のように突っ張ってフラストを抱くより賢明だと思います。

      ・ひ孫の清少納言へと受け継がれる清原氏のDNA、42番歌元輔、62番歌清少納言のところでも考えたいです。

      ・狂歌百人一首いいですね、もっと宴会が続けばいいと思ってたのでしょうか。

       では更にこれをもじって

       夏の夜はまだ(恋に)酔ひながら明けぬるを部屋のいづこに御衣(おんぞ)やどるらん

        源氏と藤壷の密通場面、脱ぎ捨てた御直衣を王命婦があわててかき集めるところです(若紫13)。

  6. 小町姐 のコメント:

    余談14
    今日から「方丈記 発心集」の講義が始まりました。
    方丈記 徒然草 土佐日記 全てさわりを知っているだけで本格的な勉強は初めてなのでとても新鮮です。
    古今和歌集、伊勢物語だってこの談話室があったればこそ本を入手した次第で誠に感謝にたえません。

    先ず鴨長明の人物、年譜からゆかりの人物をざっと学びました。
    しょっぱなから驚いたことには百人一首85番 俊恵法師「夜もすがら・・・」
    俊恵は和歌の師であった。
    そして94番 藤原雅経(飛鳥井雅経)の「みよしのの・・・」等と深いつながりがあったということです。
    後鳥羽院からは高い評価を受け認められていたにも関わらずその力添えを蹴って後に出家大原に隠遁した。
    かなり頑な性格で少し変人だったような気もします。
    千載和歌集に平忠度(詠み人知らず)と共に一首入手している。
    新古今和歌集の院宣が下った時には和歌所寄人にも選ばれている。
    又、定家からはやっかみ(院の厚遇)もあったらしく「明月記」には亭主取歌合一巻披置、次第読之・・・鴨長明雖五位其身凡卑とこきおろされています。
    ちょっと面白いと思いません?
    まだ始まったばかりで右も左もわかりませんが今後の授業が楽しみです。

    • 百々爺 のコメント:

      レポートありがとうございます。百人一首後半~終盤の読み解きにすごく役立ちそう。誠に時宜を得た講義が始まったものです。是非都度色々と教えてください。

      方丈記だけ読むと鴨長明は人の世の無常を説いた隠遁者みたいに感じますが実のところは相当ドロドロしたものがあったようですね。百人一首とのつながりから是非その辺も考えていきたいと思います。
       →定家とのからみに興味津津です。

      (方丈記は短いし文章も平易なので読み易いと思います)

小町姐 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です