撰者、藤原定家について

百人一首の産みの親、藤原定家について考えてみました。

藤原定家 1162-1241 藤原俊成の子 最終官位:権中納言(左程ではない)
祖先は道長の六男長家で御子左家という。政治権力的にはマイナーな一族

定家が生きた80年は平家全盛~源平の乱~鎌倉幕府の成立~承久の変~北条執権政治まで実に波乱に富んだ時代。後白河院・後鳥羽院が必死に守ろうとした平安王朝(その象徴が和歌)が崩れ武家政権に変っていく節目の時代であった。その中で定家は父俊成の跡を継ぎ歌道に勤しみその後御子左家は公家文化継承の主流となっていく。

定家関係年表
(定家と主だった関係者の生没年)
  平清盛1118-1181 西行1118-1190 崇徳院1119-1164 後白河院1127-1192
  式子内親王1149-1201 藤原定家1162-1241 後鳥羽院1180-1239

  →清盛・西行は同年生まれ(崇徳院は1年下)
  →式子内親王は定家の13才上、後鳥羽院は定家の18才下)

 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1162 @1 定家誕生 (@は定家の数え年令)
 1167 @6 平清盛太政大臣に(平氏政権成立)
 1180 @19 以仁王挙兵→敗死 後鳥羽院誕生
       定家明月記を書き始める この頃から作歌活動本格化
 1185 @24 平氏滅亡(壇の浦)
 1186 @25 定家九条家に出仕
 1188 @27 千載和歌集(俊成撰)
 1192 @31 頼朝征夷大将軍(鎌倉幕府成立)
 1200 @39 この頃から後鳥羽院和歌に傾注、定家後鳥羽院に認められる
 1205 @44 新古今和歌集(定家・家隆・有家・雅経)
 1220 @59 定家、後鳥羽院と対立 勅勘を受く
 1221 @60 承久の変 後鳥羽院、隠岐に配流
 1233 @72 定家出家(法名:明静)晩年は源氏物語など古典に傾注
 1235 @74 百人一首(小倉山荘 障子絵+色紙形)
 1239 @78 後鳥羽院崩御
 1241 @80 定家死す
 
百々爺の感想  
 ①定家の明月記1180年の記として「紅旗征戎は吾が事にあらず」(私は世の中の騒乱には関与しない)が有名。年表を見ると定家の真意はともかくとして定家が如何に激しい世の中に生きたのかがよく分かる。

 ②後鳥羽院(定家の18才年下)の和歌への注力はすごい。最初は蜜月状態であったがその後対立、勅勘を受け仲違いしてしまう。そして承久の変。その後百人一首を編んだ定家が後鳥羽院(&順徳院)の処遇に困ったのも当然である。

 ③式子内親王と定家との男女関係が取りざたされるがどんなものでしょう。
  →式子内親王の歌の所で議論しましょう。

 ④父俊成は90才まで生きたし定家は80才、えらく長生き。でも定家の年譜を見ると幼少時赤斑瘡やら疱瘡やらで重病に陥っているし、同僚と殿上で諍いを起し位階を除籍されたりと波乱万丈の人生であった。後鳥羽院との確執も歌に対する頑固さのせいであったのだろう。
  →「闘う歌人」として平安王朝の心髄である和歌のために闘い、王朝文化(和歌&源氏物語など古典)を後世に伝え残したアッパレな男と言えるのではないでしょうか。

カテゴリー: ウオームアップ パーマリンク

6 Responses to 撰者、藤原定家について

  1. 小町姐 のコメント:

    こうやって定家の年表を見ているといろんなことが見えてきます。
    紅旗征戎は吾が事にあらず
    百々爺さんがおっしゃる通り、定家の思いとは裏腹に激動の乱世を生きてきたのだな~と。

    そして思いは数年前の大河ドラマ「平清盛」始め幾多のドラマや俳優たちの顔が走馬灯のように浮かんでは消え、消えては浮かんできます。

    俊成、定家親子ともども長命で歴史の現実を目の当たりに見、そして生きたことになりますね。
    この家系が今の冷泉家に繋がっているのでしょうか。

    思えば今までに歴史や古典をかじりながらもその断片が独り歩きをしていました。
    今回、曲がりなりにも「百人一首」を通じて600年の歴史の一端に触れ人物との相関関係が少しでも繋がり整理できればいいな~と思います。
    もし定家がいなければと考えた時その功績の偉大さにはやはり「アッパレ」と言わざるを得ないでしょうね。

    今学んでいる「建礼門院右京大夫」の生きた時代とも重なる部分があり興味や関心は増すばかりです。

    • 百々爺 のコメント:

      やはり大河ドラマの影響力は強いですね。1年も見続けるんで否応なくその時代に巻き込まれてしまう。清盛、もう三年前になりますね。映像が汚らしいって批判されてましたっけ。「遊びをせんとや生まれけむ」後白河院の松田翔太が強烈でした。定家はこの時代に青年期を過ごしているんですね。

      歌道、華道、香道、書道などなど公家文化を伝える家元の源流は俊成‐定家の御子左家に始まると言えるのでしょう。定家の孫(息子為家の子ども)の時代に二条・京極・冷泉に分れ後世に繋がる。即ちみんな定家の子孫たちと言うことでしょう。エライものです。
       →茶道だけは利休が元祖なんですね。

      建礼門院右京大夫は1157年生まれとありますからそっくり定家の時代ですね。宇治十帖の続編「山路の露」の作者とも言われているそうですよ。教室のお話しで何か面白いものありましたら教えてください。

  2. 九代目仁王 のコメント:

    紅旗征戎は吾が事にあらず」そうだねぇ、落ちぶれたりといえども藤原一族、それも和歌の家の当主としては「あんたら、勝手に戦争でも勢力争いでもやってておくんなされ、わしはゆっくり和歌でも詠んでます」だよねぇ。後鳥羽院との蜜月時代から勅勘に至ったのは、新古今集の選歌についての諍いがあって、その結果、新古今の撰者から下された……というのを何かで読んだような。かつては歌の道での愛弟子だった男と対立する、しかも相手が天皇(もう上皇か)だけに正面きっては反対できない……辛かったのでしょうね。そして承久の変で、後鳥羽院が隠岐へ流される。万感胸に迫るという所でしょうか。そのあたりを考えれば、僕は百人一首の後鳥羽院の歌には「我こそは新島守りよ……」をとって欲しかったと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      朝廷、公卿をないがしろにして平家がそして源氏が世の中を牛耳っていく。「こんな時に歌なんぞ詠んでいていいのか」定家は自問したのでしょう。でも歌や古典に没頭するしか手がなかった。

      後鳥羽院は何で何の勝算があって承久の変を起したのでしょう。読み違いか自殺行為か。この辺興味あるところです。政治の舞台は京から鎌倉に移っているのにそれに目を向けようとしない。93番実朝の百人一首での肩書は「鎌倉右大臣」ですからね。右大臣なんてひな飾りの4段目ですよ。まあ時代錯誤もいいところですね。400年の太平の眠りから醒めるには時間がかかった(醒めたくないとの妄想)ということでしょうか。

      後鳥羽院
       我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け

      そうですね。この歌の方が強烈でしょうね。でも残念ながら勅撰集に入っていない。選択肢にならなかったということです。
       →人もをし、、、もいいじゃないですか。

  3. 源智平朝臣 のコメント:

    ウィキ等で知りましたが、藤原定家は生前も死後も毀誉褒貶の激しい人だったようですね。死後について言えば、中世には神の如く崇められ、近世でも大歌人と評価されていたものの、明治に入ると古典文学の偶像の代表で技巧過剰の歌人として破壊的な排撃に見舞われてしまう。しかし、大正の中頃から昭和にかけて、定家を見直す動きが起こり、美の使徒・美の鬼・歌聖など呼ばれ、唯美主義の代表的な新古典調の歌人としての評価が高まってきた。
    ところで、この大正・昭和の定家に対する評価はもはや定着し、今後も変わらないと考えてよいでしょうか? 百々爺の見解をお伺いできれば、幸いです。

    • 百々爺 のコメント:

      藤原定家、相当気性の激しい人だったようですね。宮中で争いをし官職を解かれたり後鳥羽院に楯突いて出入り禁止になったり。

      定家の歌の評価は爺には元よりできません。
        春の夜の夢の浮橋とだえして峯に別るる横雲の空
        見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

        →歌における定家の有心体の理念などと謂われてもよく分かりません。

      まあ歌も俳句も(絵も書も音楽も)凡そ文科系のものに絶対はありませんからね。1+1=2の理科系の世界とは違う。これはいいと言う人がいれば必ず反対を唱える者が出てくる。出てる杭は高いほど打たれやすいということでしょう。

       4番山辺赤人(新古今集)
        田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

        万葉集では
        田子の浦ゆうち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

      万葉集信奉者の子規が新古今集(ひいては定家を)ぼろくそに攻撃してそれに追随する者が現れて、でもまた評価し直す人が現れてということでしょうか。

      私は定家を歌人としてより「源氏物語」「百人一首」のプロデューサー(百人一首の産みの親、源氏物語の育ての親)として崇拝しています。定家なかりせば百人一首はこの世になかったし源氏物語も今の姿では伝わってなかったでしょう。この点の評価については今後とも変わらないのではないでしょうか。 

源智平朝臣 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です