21番 延喜の遊徒、素性が待った有明の月

今年の夏は異常とも思えるほど暑苦しかったですね。いかがお過ごしでしたでしょうか。
長らくお休みをいただきました。談話室再開します。いきなり全開は無理かもしれません。徐々にペースを上げれればと思っています。平仄が合ってない所などご容赦ください。

【お盆が過ぎバーレーン一家は帰国しましたが帰るはずの新生児一家が母親が風邪をひいてしまいまだ残っています。育爺業もちょっと延長戦です。でもこれも二三日、余韻を楽しむ時間かもしれません】

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
21.今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:    近くまたと あんな文を下さったばかりに
       あわれこの秋の夜長を
       まんじりともせずあなたを待ちわび
       夜ふけて出る有明の月を
       ひとり待ち ひとり眺めたことでした

作者:素性法師(俗名 良岑玄利) 生没年未詳(844?-910?) 12番僧正遍昭の子
   三十六歌仙 能書家
出典:古今集 恋四691
詞書:「題しらず

①俗名 良岑玄利(はるとし)僧正遍昭(816-890)29才の時の子。遍昭は39才で出家している。この時玄利は7才。父は出家(家出みたいなものか)、母に育てられ成人し清和帝に仕える。ある日父に会いにいくと遍昭は玄利を出家させてしまう。

 「法師の子は法師たるぞよきとて法師になしてけり」
(大和物語第165段は遍昭の物語、その中に小野小町や素性のことが出てくる)
 →どうも強引な感じ。子には子の道があろうと思うのだが。
 →遍昭は法師としての居心地がよかったので子にもその方が得だと思ったのだろうか。
 →何となく俳優の子は俳優にという現代にも通じるような気がする。

②和歌も能くする前途有望な官吏(左近将監督)だった玄利、僧侶(素性法師)としては父の雲林院を継ぎここで歌会なども催している。その後大和石上の良因院で住職を勤める。住職業の傍ら父遍昭が光孝天皇の近くに仕えたと同様素性は宇多天皇に重用され菅原道真、大江千里、藤原敏行らと寛平歌壇の重鎮であった。
 
 →親子二代よく似た立場(宮廷に近い僧侶歌人)で活躍。DNAのなせるわざか。

宇多上皇が吉野の宮滝に行幸したとき素性も召されて同道、歌を詠んでいる。この行幸には道真も随行し途中で24番歌(このたびは)を詠んでいる。素性・道真は同僚、昵懇の間柄であった。

 →宇多帝寛平の治、聖代を生きた文化人であった。

③素性法師の女性関係について
 遍昭は妻帯後(妻は何人もいた)出家しているが、素性は独身で出家している(させられている)。これはひどいのではないか。妻を持ったことない男(恋に縁のない僧侶)に恋の歌など詠めるはずがないではないか、、、と思ったのですが。。。

 「心にもあらでなりたりければ、親に似ず、京にも通ひてなむし歩きける」(大和物語)

 →僧侶の身でありながら遊びまくり「延喜の遊徒」と呼ばれたとも(目崎徳衛)。
 →この辺も父の自由な生き方に似ているか。まあ洒脱な人柄だったのでしょう。

④さて21番歌
 素性が女性の身になって、行くと約束しながら来ない男を恨む歌を詠んだもの。
 「待つ」について「月来説」(定家)と「一夜説」(現在の通説)がある。
 
 →「今晩もそうだがずっと長い間待ってます」と両方にとったらいいのではないか。
 →僧侶が女性の身になって恋の歌を詠む、、、どうも好きになれません。
  (父も舞姫を詠んで「スケベ坊主」と言われていましたっけ)

 「今来むといひしばかりに」
 父遍昭の古今和歌集の歌、これが本歌だろうか。
  今こむといひて別れし朝より思ひくらしの音をのみぞなく

 →「今すぐ行くから、、、」男の言うことはあてにならない。
 →遊郭での遊女のかけ持ちもそんな調子だったらしい。そうなると「待つ男」、、、これも哀れですねぇ。

 「有明の月」16日以降明け方になっても空に残っている月
20日の月の出時刻は午後10時過ぎ、まだ宵の口である。これを待つというのは明け方の歌ではなさそう。
 →「一夜説」より「月来説」の方がいいのかもしれない。

 「有明の月」百人一首では他に3首あり。夜明けに残った月、、感慨深かったのであろう。
 30番歌 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
 31番歌 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪
 81番歌 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

 「有明の月」
  源氏物語 帚木15 源氏が中川紀伊守邸で空蝉と契った後朝のところ
   月は有明にて光をさまれるものから、かげさやかに見えて、なかなかをかしきあけぼのなり。
  これを芭蕉は奥の細道の旅立ちのところでそっくりいただいている。
  弥生も末の七日、明けぼのの空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。

⑤素性法師の他の有名歌
 素性は古今集に36首採られている。第4位、古今集撰者以外ではナンバーワン。

 一番有名なのは、
     花ざかりに京を見やりてよめる
  見わたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける

  →但し定家は八代抄にこの歌を採っていない。「今来むと」を代表歌と見ていたらしい。

  あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯のこゑ(拾遺集)
  これを引いて源氏物語初音の帖は始まる。

  年たちかへる朝の空のけしき、なごりなく曇らぬうららけさには、、、、

 他にも春の山辺に桜を愛で興ずる歌が多い。法師という衣をまとった自由奔放な俗人(悪い意味ではなく)だったと言えようか。

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8月17日から再開します。

8月に入りました。暑いですね。お元気でしょうか。

6月から始まった育爺業、7月は連日大盛況で大事なブログもほったらかしにしてしまいました。少しは関連エピソードなど書き込もうかと思ってたのですが、やはり継続してないと頭が切替わらず結局何もできませんでした。

さてその育爺業も後2週間ほどになりました。ここ4日ほどバーレーン組が姫路に里帰りしており新生児一家も一旦帰ったので束の間の夏休みです。朝散歩に行ってテニス・ゴルフの練習やって鈍ってた身体も少しはシャキッとした気がします。

長らくお休みいただいていた談話室、17日から再開します。少しは書き溜めましたしお客が帰ってしまえばこっちのもの、大丈夫だと思います。
 →再開宣言して気合いを入れないとダラダラしてしまうというのもありまして。。。

21番、素性法師から。宇多帝(寛平の治)~醍醐帝(延喜の治)、平安王朝が蕾から花開いていく頃でしょうか。面白くなっていくと思います。
 →降雨で1時間ほど中断した野球を再開するような感じでしょうか。ブルペンで肩ならし、バッターボックスでストレッチ、素振りを十分やってから試合に臨みたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

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何でも書き込み帖 (4) 体験入学

7月に入りました。関東は連日鬱陶しい天気が続いています。また百人一首とは関係ない身辺雑記ですみません。

6月末にバーレーンから夏休みで一時帰国した孫たち3人(小6・4・1)が近くの小学校に受け入れてもらい通っています。「体験入学」という制度のようです。3人とも現地ではイギリス系の学校に行っているので日本の勉強は覚束なく(殆どできてないのが実情)恐らく受け入れる学校・先生は大変だろうと思うのですが親身になってお世話いただいているようでありがたく思っています。教科書も一時貸出し用のもの使わせてもらってます。

6月最終週の週末に帰国、日曜日に1年生のランドセルを買いに行き3人の体操着やら上履きやら給食セットやら一式を揃え月曜日から登校。バタバタでした。1年生は初めての学校、上の子たちも1年半ぶり、恐らく不安7分期待3分といった感じだったのじゃないでしょうか。でも何とか頑張って通っています(先週金曜日一週間が終わって帰って来たときの3人は本当に嬉しそうでした)。6年生は部活(バスケ)にも入れてもらい朝練・午後練に参加しています。帰ってくると宿題があるし明日の準備も色々とある、、けっこう大変だなあと思います。

この「体験入学」制度、色々なケースがあるようですが駐在員の夏休み一時帰国が一番多いのでしょうか。受け入れる方も大変でしょうがお互いの国際感覚の向上という点では利点もあると思います。

 →一般的に海外の現地校では日本の給食・朝礼・掃除など団体行動的なことは学べない。大体においてゴミは散らかし放題。掃除は掃除のオバサンがやるもの、、、と先生も生徒も考えている。これではいけませんよね。

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源智平朝臣よりの投稿 「里中満智子氏との懇談会」

【コメント欄に書き込んでいただきましたが、見落とす方がおられては勿体ないので本欄に転載します。ありがとうございました。みなさんよりもコメントをお願いします】

【源智平朝臣】
○里中満智子氏との懇談会の模様

7月1日(水)午後6時半から漫画家の里中満智子氏を迎えて東京倶楽部で開催された「著者との懇談会」(著作:「天上の虹」-持統天皇物語-)に長女同伴で参加してきましたので、その模様を報告します。長い報告となりますので、関心の無い方はお読み頂く必要はありません。なお、「著者との懇談会」は今年度から始まった新企画ですが、小生の感想では、「初回に里中さんを招いたのは面白いアイディアであるものの(注)、会合の案内や進め方等に改善を要する点が多い」という気がしました。
(注)里中さんを招く案を出したのは何と外国人である図書委員長のWilliam P.J. Hall氏との由。彼は日本在住の豪州人医師で、夫人は日本人である。

会合は夕食を食べながらのテーブル毎の懇談から始まりました。そこで分かったことは、①会合の参加者数は60名強で定員の96名を大幅に下回った、②私のテーブルに座ったメンバーの内、私と私の長女以外の4人は「天上の虹」を全く読んでいない、ということでした。②のため、テーブルでの懇談は、私が少しばかり「天上の虹」の概要や魅力を紹介したほかは、雑談に終始しました。

夕食後、7時20分頃から里中さんの講話が始まりました。講話の内容は彼女の漫画家人生(16歳から漫画を描き始め、高校時代にプロの漫画家になった由)や漫画界の実情・内輪話が大半で、「天上の虹」については最後に少し触れただけでした。そこでは、(明治大学での講演会でも話されていたように)「日本では、①可弱くて可愛い女性、②貧しい中に生まれ頑張って偉くなった人、③志半ばで倒れた人、といった人物に人気があり、漫画の主人公もそういう人物が多い。自分は女性は強いと思っているので、皇女に生まれ、権力者として業績を挙げ、長生きもした持統天皇を取り上げたが、出版社は当初乗り気でなかった。連載が進むにつれて評判が良くなり、遂には『あなたが好きな歴史上の人物』というランキングにかつては全く縁の無かった持統天皇がベスト20に入るようになり、とても嬉しかったし、出版社にも顔向けできた」と話されました。

里中さんは話し出すと止まらない方らしく、講話が終わったのは会合予定終了時刻の8時を過ぎた8時12、3分。これで散会だと期待外れになると思っていたら、司会役のHall氏から「閉会予定時刻は過ぎていますが、懇談会でもあり、質問があれば少しだけお受けします」と述べたので、私は直ちに手を挙げ、一気に次を言いました。

「里中先生、楽しいお話をありがとうございました。私には古典や歴史が好きな仲間(皆さんのこと)がいますが、最近彼らと共に百人一首とその作者の勉強を始めたことがきっかけで、仲間の幹事役(百々爺のこと)に勧められ、仲間で『天上の虹』全巻と『長屋王残照』を回し読みしました。皆あまりの面白さに夢中で読み耽り、漫画力の凄さに感激・感動しました。質問の前に、仲間を代表して、こんなにも面白い歴史漫画を世に出して頂いたことに対して、心から御礼申し上げたいと存じます(会場から、万雷の拍手)。

仲間から頼まれた質問もあり(勝手に皆さんを利用してスミマセン)、お伺いしたいことが沢山あるのですが、時間が限られているので、3つに絞って簡潔に質問させて頂きます(会場から、『図に乗って3つもか』という感じの微苦笑が漏れる)。

最初は、『天上の虹』の話の内、歴史的な史料に裏付けられた事実ではなく、先生の推理や想像でお描きになったものが、大雑把に言って、どの程度あるのか。個別の話では、①天武天皇が大津皇子に皇位を譲ると言った、②高市皇子は但馬皇女が藤原史からもらった毒薬を飲んで急死した、というのは裏付ける史料があるのか、をお伺いしたいと存じます。先生は23巻の『あとがき』で参考文献は1500冊以上と書いておられる一方で、自分の推理・想像力も駆使して、『天上の虹』を描いたと述べられているので、失礼を顧みずにお伺いする次第です。

第2は、私は『天上の虹』のように日本の国造りの原点を学べて、しかも面白い話は是非ともNHKの大河ドラマに取り上げてほしいと思いますが、その可能性はあるのでしょうか。現在放映中の「花も燃ゆ」が低視聴率のため悪戦苦闘している状況を見ると何とか実現してもらいたいのですが、皇族同士が争う壬申の乱があるので、皇室や宮内庁から無言の圧力がかかって実現困難なのでしょうか(会場から、大きな拍手。『会員には皇室・NHK関係者の両方がいるよ』とのも声あり)。

最後に、先生が藤原氏の役割をどう評価されているかをお伺いしたいと存じます。天智・天武・持統天皇の頃は天皇親政といった形で名実ともに天皇が権力を握って日本を統治していたと思いますが、聖武の頃から段々と藤原氏の影響力が強くなり、平安時代になると外祖父が摂関政治という形で政治の実権を握り、天皇はお飾り・象徴になっていきます。こうした藤原氏の台頭やその完成形としての摂関政治は、日本の発展とか万世一系を保ってきた日本の皇統の継続に、どの程度影響があったとお考えでしょうか。」

里中さんは私の御礼や質問に対して、次のように答えられました。
「『天上の虹』と『長屋王残照』をお読み頂き、ありがとうございます。最後の質問にも関係しますので、『女帝の手記(孝謙・称徳天皇物語)』も是非お読み頂ければと思います。

最後の質問からお答えすれば、日本には昔から『権威と権力を分けてバランスを取る』という考え方が強くあります。既に古事記にもそうした例が見られます。例えば、一番偉い神様で皇室の祖神である天照大御神は自分からこうしろ、ああしろといった命令はしないで、他の神様にどうすれば良いと思うかと尋ねて、良い策を考えさせて実行させるのです。こうする方が権威を保てるからなのでしょう。他方、権力を握る方、例えば藤原氏等は天皇の権威を尊重し利用しながら、実質的に日本を統治するという分担になっているのです。このように『権威と権力を分けてバランスを取るやり方』の方が権威も権力も天皇に集中させるより、日本国民の考え方に合っているので、天皇親政は長続きせず、天皇の権威を尊重しつつ、実際の政治は摂関政治・武家政治・今の民主政治によって行われてきたのではないでしょうか。

第1の質問に対しては、『ほとんどが作り話です』というのがお答えです(会場から、大爆笑)。例えば、高市皇子については日本書紀には急死したという記録しかありません。万葉集やその他の文献を読んで、何故急死したのか考え、高市皇子は但馬皇女が知らずに勧めた毒薬入りのお酒を飲んだという『自分としてはこれしかない』というストーリーを作ったのです。学者の方々からは自由でいいなと皮肉られますが、これこそ、『創作の喜び』だと思います。別の例として、持統上皇の最後の行幸があります。公式記録によれば、この時の三河到着は10月10日で、その後約1カ月あまりの動向は記録がなく、次の行幸地である尾張には11月13日に着いたと記されています。このブランクに1ヵ月間に何があったのか。必死に推理して、壬申の乱に伴う怨みや持統・文武政権に対する不満のために、持統上皇は三河で襲われて怪我を負い、暫く遠江に滞在して怪我の回復を待ったに違いないと結論付けました(注)。
(注)残念ながら、天武天皇が大津皇子に皇位を譲ると言った話については説明がありませんでした。ちなみに、男女間の恋愛話もほとんどは万葉集の歌などから推測した自分の創作である旨、『天上の虹』のあとがきに記されています。

第2の質問であるNHKの大河ドラマ化については、壬申の乱を理由に宮内庁や皇室がドラマ化を嫌がっているという話は一切聞いたことがありません。壬申の乱は歴史的事実として淡々と受け止められているようです。現に、ここだけの話、ある宮様からは『天上の虹』の次の巻はいつ出るのかという問合せがあったくらいです。他方で、NHKは飛鳥・近江・藤原時代の出来事は時代考証が難しい上、戦国時代と異なって、必要な衣装の在庫がないので製作費が多額に上る等から、残念ながら今のところは大河ドラマ化に消極的であると聞いています(会場から、出席されていた高島東京倶楽部理事長〈元NHK解説局長&外務省報道官〉に対して、『大河ドラマ化が実現するように頑張ってほしい』との声がかかる)。」

里中さんが回答し終わった時は既に8時半を過ぎていたこともあり、懇談会はこれで散会となりました。散会後、Hall氏が私の席に来て、里中さんにご挨拶されてはどうですかと勧めるので、里中さんの席に伺って回答にお礼申し上げたところ、持統天皇の似顔絵が入った里中さんの名刺を頂戴しました。さらに、長女が里中さんと私のツーショットを撮ったので、ご興味あれば、次回の六十五句会の際にでもお見せします。最後に事務局の担当者から「宮村さんの質問のお陰で座が盛り上がって、懇談会らしくなって良かったです」とお礼を言われ、質問を準備してきた甲斐があったと思いました。(了)

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何でも書き込み帖 (3) チンパンジーの教え

どっぷり育爺業に浸かっています。なかなか面白いものです。きりがありません。その分百人一首から遠ざかっています。せめてもと過去20回分も読み返し21番から少しづつメモ取り作業をしていますがまとまった時間が持てないので投稿原稿にまではまとめきれません。まあ仕方ないですね。
 →週1~2回のテニスはやってますがゴルフはお預け、朝の散歩もままならない。家族が変わると生活リズムも変るものです。

折しもNHK文化講演会で霊長類学者松沢哲郎教授(アイ・プロジェクトで有名)の話を聞きました。子育てから見る人間とチンパンジーの違い、なかなか興味深かったです。備忘録としてメモリましたので一つの話題としてご紹介します。

「想像するちから:チンパンジーが教えてくれた人間の心」
・サルは北米・ヨーロッパには住んでいない。元来熱帯地方のものでニホンザルは特殊。
・霊長類とはサル類のことでヒトもその内の一つ。

・「ヒト科は四属」オランウータン・ゴリラ・チンパンジー・ヒト。
 →ヒト科とは「尻尾がない大型のサル」のことである。
・ヒト科四属は1200万年前まで共通の祖先、そこから分れていった。
 →ゴリラとチンパンジーよりチンパンジーとヒトの方が近い。

・チンパンジーは石器(道具)を使う。固い実を割って取り出して食べる。
 子は親を見てまねるがなかなかできない。4~5才でやっと割れるようになる。
 親は教えない、正しく割って見せるだけ。

 チンパンジーの教えない教育:
  ①手本を示すだけ ②子どもはまねる ③親は寛容(怒らないイライラしない)
  →子どもは自力で何とかしようとする。親と同じことができる。これが喜びになる。

・人間にとっての教育とは(チンパンジーにできない人間固有の教育)
  手を添える、ほめる、うなづく、微笑む、認める、見守る

・人間の赤ちゃんの特徴は出生直後から母親と離れて仰向けに寝ること。
 仰向けに寝てるから手は自由に動かせる。手の器用さは人間の特長。

 チンパンジーは生後3カ月四六時中母親にしがみついている。
 →母親とコミュニケーション取る必要がない。くっついてるから飲乳も自由。

 人間の赤ちゃんは母親に意思を訴えねばならない。
 →新生児微笑で人の注目を引き、夜泣きして母親を呼ぶ。
 →声を出しての訴えが言葉につながっていく。

・チンパンジーも仲間社会(父系社会)だが子育ては母親だけのもの。子が育つまで5~6年かかるのでそれまで次の子を産めない。
 →チンパンジー(寿命約50年)は40才まで子を産むが間隔を空けねばならない。  

 人間の子育ては母親だけでなく父親もお祖母さんもそしてちょっとお祖父さんもやる。
 →取分け祖母の子育て参与が大きい。人間の発明である。
 だからこそ人間は上の子がまだ母親の手を離れないのに次の子(年子でも)を産むことができる。  

・チンパンジーは今そこにあるものの認識はできるがそこにないものを想像することはできない。 赤い色を見て「赤」「RED」のカードを指すことはできるが「赤」「RED」のカードを見て赤色を指すことはできない。
   
 チンパンジーには想像する力がない。あるのは今だけ。従って明日のことでクヨクヨしたりしない。絶望しない。人間は想像するので簡単に絶望してしまう。でも逆に希望を持つこともできる。

新生児・2才児を観察するヒントになると思った次第です。

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何でも書き込み帖 (2) 生まれました。

全くプライベートな書き込みですみません。

昨日無事生まれました。予定日より約2週間早くでも3000g超で元気に出てきました。やっと名前も決めたとかで前日前祝いの祝杯をあげたら翌朝催し昼過ぎに生まれました。あわただしくてびっくりしましたが無事に済んでホッとし昨夜はまた祝杯をあげました。いよいよ育爺稼業も第二ステージに入ります。新生児の湯浴みも爺のジョブになっています。

これで7人になりましたが全て無痛分娩(麻酔をかけての分娩)です。最初の4人は長男・長女ともアメリカ駐在の時だったので自然と(ごく普通に)無痛分娩になったのですがやはり自然分娩と比べ圧倒的に楽なようです。5人目以降は日本での出産でしたが無痛分娩にしました。何せ痛みがないので出産時産婦の消耗度が格段に違うようです。アメリカでは午前出産なら当日、午後出産なら翌日退院も可とのことです。日本ではさすがに3~4泊のようですが翌日以降は子育てに入る前のしばしのリフレッシュ休暇的感覚で過しているようです。必死に体力回復に努めねばならない自然分娩とは違うように感じます。

日本では自然分娩が普通で無痛分娩の産院は少ない、需要と供給の関係なのでしょう。日本人の意識として分娩は自然でやるべき、麻酔は怖い、分娩の痛みに耐えてこそ一人前の母親になれる、、、というのがあるのでしょう。爺としては分娩への恐怖の軽減、出産時の体力消耗を考えると絶対に無痛分娩がお勧めです。だって帝王切開は勿論、歯を抜く時だって麻酔なしではやらないじゃないですか。無痛分娩には麻酔医の常駐など問題点もあるのでしょうが是非考えて欲しいと思います。少子化対策、子育て支援の一つとして無痛分娩の勧めを書かせていただきました。

 →百人一首とは全く関係ない話で、ごめんなさい。
 →子を詠んだ歌としては小町姐さんから先日紹介いただいた藤原兼輔の
   
   人の親の心は闇にあらねども子を思う道に惑いぬるかな

  が有名ですが、王朝和歌で孫を詠んだ歌は思いつきません(調べてもいませんが)。孫との交流などあまりなかったのかもしれません。

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何でも書き込み帖 (1) 「定家八代抄」について

育爺休暇中、コメント欄に何でも書き込んでいただくべく「何でも書き込み帖」を随時設けます。百人一首、日本古典に限らずみなさまの身辺雑記でも旅行見聞記でも時事問題解説でも何でも自由に書き込んでください。女子W杯もあるし、交流戦もたけなわだし、ウインブルドンもあるし、、、(スポーツの話題ばかりですみません)、俳句・川柳・映画・古典芸能、、、色々お願いします。

一つ百人一首関連で。。
先日神楽坂での会合の際、小町姐さんから「定家八代抄」(岩波文庫 上下)を譲り受けました。ありがとうございました。中味までは読めていませんが百人一首との関連で「定家八代抄」について報告しておきます。

「定家八代抄」は藤原定家が古今集~新古今集の八つの勅撰集からこれと思ったものをピックアップした私撰集即ち「定家お気に入り歌集」です。定家はこれを座右において愛翫し作歌の指導にも使用したとのこと。まあ定家のバイブルだったということでしょうか。

成立は1215年頃@54才(百人一首を選んだのはこれから20年後の1235年頃)。八代集合計9425首から1809首、約五分の一をピックアップしています。この内百人一首に選んだのは92首。55番藤原公任と82番道因法師の二人は定家八代抄に選んだのとは違う歌を百人一首に選んでいます。百人一首の残り6首は八大抄以外(即ち八代集以外)からのものです。以上をリストにすると、、

      合計    定家八代抄   百人一首 
古今集   1100     548      24
後撰集   1425     105       6
                      1 (55番藤原公任)
拾遺集   1351     213      11
後拾遺集  1218     124      14
金葉集   650      26       5
詞花集   415      20       5
千載集   1288     206      13
                      1 (82番道因法師)
新古今集  1978     567      14
 小計   9425     1809      94

新勅撰集  1374              4  (93,96,97,98番) 
続後撰集  1371              2  (99,100番)
 合計   12170     1809     100

以上まとめると、

①定家は百人一首成立の20年も前から八代集の中から自分で秀歌を選び出し座右において日々賞玩している。晩年百人一首を選べと言われていきなり撰歌にかかったわけでなくすでに使い古したたたき台(八代抄)がありここから大半をピックアップした。

②20年も経っていたので新しい歌も出て来ており新勅撰集・続後撰集から6首を選んだ。定家の97番(来ぬ人を)もその内の1首。

③55番公任(滝の音は)、82番道因法師(思ひわび)は八代抄には選んでなかったが20年経って今の自分としてはこちらの方が良いということで選び直した。

即ち、「百人一首は決して行き当たりで選ばれたのではなく定家が一生かけて選びに選んだエッセンスなのだ」ということでしょうか。

最後に定家八代抄(1809首)入選歌数ランキング ベスト10は、、、

 1.藤原俊成   87
 2.西行     85
 3.柿本人麿   80
 4.紀貫之    65
 5.和泉式部   59
 6.在原業平   58
 6.慈円     58
 8.藤原良経   50 
 9.式子内親王  46
10.藤原俊頼   44
次点 後鳥羽院   39

 →定家の好みが察せられるでしょうか。

21番以降、この八代抄も参照したいと思います。

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20番 好色無双 元良親王 わびぬれば

源融、在原業平と並ぶプレーボーイ御三家、元良親王の登場です。あの陽成帝の第一皇子です。プレーボーイぶりを拝見してみましょう。

(「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)はp70-82紙数を尽して元良親王論を展開している)

20.わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ

訳詩:    噂がたってからというもの
       お逢いできず こころは怏怏
       お逢いしてもしなくとも今となっては同じこと
       難波の海の澪標ではありませんが
       この身を尽し 捨てはてても
       お逢いしたい 逢ってください

作者:元良親王 (890-943) 54才 13番陽成帝の第一皇子 兵部卿宮 歌人
出典:後撰集 恋五960
詞書:「事いできて後に京極の御息所につかはしける

①父は13番歌陽成帝(在位876-884)、退位後に第一皇子として生まれる。
 →帝の第一皇子と言えば普通なら皇位継承の最有力候補だろうが、元良親王の場合、最初からその目はない。父の在位は父自身も幼かった時のことで、元良親王にしてみれば「父は昔、天皇だったことがあるみたい、、、」くらいの認識だったのではないか。

 妻室としては醍醐帝・宇多院の皇女らが多数いた。
 それに止まらず元良親王は「好色無双」として後世に名を轟かせる。

②歌人でもあり元良親王御集があり160余首が載せられている。
 編纂は別人であるようだがこの御集、内容がすごい。

 冒頭 陽成院の一宮元良のみこ、いみじき色好みにおはしましければ、世にある女のよしと聞こゆるには、逢ふにも逢はぬにも、文遣り歌詠みつつ遣りたまふ
    →お見事、「あっぱれドン・フアンの心意気」といったものが感じられる(大岡信)

 御集に登場する女性たちは御息所・姫君・女房・人妻・遊女、、、
 ついたニックネームが「一夜めぐりの君」
 「元良親王五十余年の人生は、女に明け、女に暮れたといってよい」(目崎徳衛)

 →この好色ぶり何とコメントしましょうや。源氏物語が舞台となった時代は醍醐~村上朝くらいであろうから元良親王の五十余年ともダブっている。光源氏と元良親王の二人で「色好みとは何ぞや」なんてシンポジウムでも開いて欲しかったですねぇ。

 →匂宮の好色ぶりについて、「気に入った女房とあればどこまでも実家にまでもおしかけた」とあったのを思い出した。

 →数々の女性とのエピソードを読み感じるのは元良親王、実にマメだなってこと。「私が言い寄らないと世間は美人とは認めない。それでは不憫だから手紙くらいは出しておこう」的な義務感、プレッシャーがあったのかもしれない。

③肝心の20番歌 「事いできて後に京極の御息所につかはしける
 京極の御息所(藤原褒子)=宇多帝の女御 左大臣時平の娘・基経の孫
 宇多帝の女御になった経緯もすごい。息子醍醐帝に嫁ぐことになっていた褒子を父宇多院が横取りした。

 元良親王、宮中の御息所を襲ったのか、京極に里下がりしていたところにおしかけたのか。これが噂になってしまいその時詠んだのが20番歌。

 「わびぬれば」の解釈について
  通説  密通の噂が立ってしまったので、、、
  目崎説 「どうせ陽の当らぬ運命の私、今どうとがめられようと、同じこと」というふてぶてしい居直り
  →確かに元良親王の生き方には出生の蔭(若くして廃位となった父陽成帝のこと)がつきまとったことだろう。
  →同じ出生の蔭を背負った薫とは全く違った生き方だが。

 密通相手の京極御息所は父陽成帝を廃位させたにっくき基経の孫娘
 コキュの宇多帝は父陽成帝の後釜に納まった光孝帝の息子
  →たしかに因縁めいているがまあ大それた復讐劇と言うことではないのでは。
  →それより正に色好みの極致、源氏の藤壷・朧月夜との密通に通じるのであろう。

④「みをつくしても」 澪標=水脈をつ串 身を尽し→この身を犠牲にしても
 難波の澪標、源氏物語の巻名にもなっている。

 ・堀江のわたりを御覧じて、「今はた同じ難波なる」と、御心にもあらで、うち誦じたまへるを、、、
  みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな(源氏@澪標)
  明石から帰った源氏が住吉大社にお礼参り、そこに偶然明石から明石の君も参りに来て鉢合わせ。明石の君は遠慮して源氏に逢わないよう帰ってしまう。
  →20番歌がそのまま引用されている。ここは元良親王の恋歌というより「難波の澪標」から引いてきたのか。ただ元良親王の激しい恋情を想起させることは計算済みであろう。

。。。20番、五分の一終了です。百人一首中でも指折りの恋歌、区切りになるかと思います。しばらく休暇をいただきます。休暇中は「何でも書き込み帖」をご利用ください。

カテゴリー: 11~20番 | 13件のコメント

すみません、育爺休暇に入ります。

みなさまには「百人一首 談話室」をかくも盛り立てていただきありがとうございます。源氏の時より参加者も増え議論も百出、正に「話の花さく談話室」、私のイメージ通りのブログになっており嬉しい限りです。厚くお礼申し上げます。

さて誠に申し訳ないのですがしばらく休暇をいただくことにします。先週より娘が出産(予定日27日)のため里帰りしており、2才の女児の面倒をみる主担当に有無を言わさず爺が任命されてしまいました。それに時を同じくしてバーレーン駐在の娘一家が夏休みの一時帰国で6月末~8月半ばまでころがりこんできます。普段二人暮らしで優雅に王朝文学に遊んでいた爺も俄かに九人家族のあるじ兼育児・掃除係兼運転手を勤めるハメになるということです。考えるだけでウチの中しっちゃかめっちゃかでとても平安王朝に想いを馳せる時間はなさそうです。

「源氏物語 道しるべ」はテキストに沿ってきちんと(記憶力と整理力で)読んで行けば投稿も左程苦にならなかったのですが、「百人一首 談話室」は一首それぞれに背景がありポイント整理も難しく相当に時間がかかってしまいます。家族が増えることは分かってましたので先行して書き上げていこうと考えていたのですが中々進まない。ちょっと予想外でした。

明日の20番元良親王をアップして7月末乃至8月半ばまで育爺休暇をいただきます。その間労働の合間を縫って少しづつでも書き溜めをしようと思っています。

投稿はしばらくお休みですが「談話室」は開けておきます。「何でも書き込み帖」欄を作りますのでそこに何でも書き込んでいただけばと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

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19番 情熱歌人伊勢が詠む難波潟

さて、女性歌手3番手、恋多き歌の達人伊勢の登場です。

19.難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこのよを過ぐしてよとや

訳詩:    難波潟に茂る蘆の
       節と節のあいだの短さ
       その短いふしのまほどの逢う瀬さえ
       わたくしにはお与えにならず
       空しくこの世を終えてしまえと仰言るのですか

作者:伊勢 生年没未詳(875-938の説も)伊勢守の娘 宇多帝に寵愛さる 三十六歌仙
出典:新古今集 恋一1049
詞書:「題しらず
   伊勢集の詞書は「秋のころうたての人の物言ひけるに
           (心変わりしたつれない愛人に対して)

①生没年875-938として考えて行きましょう。宇多・醍醐朝ということになります。
 父は伊勢守藤原継蔭、まあ普通の受領階級でしょう。伊勢守ってのがいいですねぇ。
 受領階級の娘で才気あるものは宮中に仕えて或いはトップ貴族の妻になり出世していく。
 →紫式部、和泉式部、高階貴子(儀同三司母)、そして明石の君!

 13才で出仕、宇多帝の中宮温子(よしこ)に仕える。温子は基経の娘。
 →華やかな宮中、若き公達たちが競って顔を見せる。
 →温子の兄藤原仲平に見初められ恋人同士になる。
  他にも仲平の兄時平、「平中」と呼ばれた風流貴人平貞文とも。

 やがて宇多帝のお手がつき皇子を生む(皇子は8才で早逝、宇多帝も出家)
 →伊勢御息所と呼ばれる。
 次いで宇多帝の皇子敦慶親王と結婚し歌人中務を生む
 →何と激しい情熱的生き方でしょう。和泉式部の男性遍歴を思わせる。
 →紫式部も伊勢の生き方には感銘を受けていたのではなかろうか。

 【余談 伊勢の生んだ中務について】
  中務 912-991 三十六歌仙 勅撰集に66首 親王・トップ貴族と恋を繰り広げる。
  →20番歌元良親王とも関係あり。百人一首に撰ばれてもよかったのに、、。

②19番歌 伊勢集の詞書「秋のころうたての人の物言ひけるに
 「愛するあなたなしでは生きてはいけない、毎晩来て欲しい」激しい歌である。
 →相手は仲平か宇多帝か。天皇の夜離れは仕方なかろう。やはり仲平とみるべきか。

 「逢ふ」「見る」は男女が契ること。
 「この世」「世の中」は男女の関係。

 「短き蘆のふしの間」 蘆のふしの間は短くないとの異論もあるようだ。
 →そんな無粋なこと言わなくても。単に短いの例えですから。

 この歌新古今集まで勅撰集に採られなかった。
 →定家の好みにあった歌なのであろう。

 下句「逢はでこのよを過ぐしてよとや
 →これは激しい。こう言われたら男性たるものどうしますかね。ちょっと引ける男もいるかも。(爺はこんな風に言われないよう気をつけてお付き合いしたいと思います)

③難波潟 難波には難波京があった。古来瀬戸内海への出入り口
 難波は百人一首に3首も詠まれている。
 19番「難波潟」、20番「わびぬれば」、88番「難波江の」
 それにかるた取りの序歌「難波津に」18番歌「住の江の」も近くですし。

④19番歌の他の伊勢の有名歌は、
  春霞たつを見すててゆくかりは花なき里に住みやならへる(古今集 春)
  散り散らず聞かまほしきをふるさとの花見て帰る人も逢はなむ(拾遺集)
  →今昔物語にこの歌が詠まれた経緯が語られている。18番歌藤原敏行の息子(伊衡)が登場する。
  →伊勢は宇多・醍醐朝の女流歌人ナンバーワンであった。  

④紫式部は伊勢に傾倒していたのではないか。生き方や歌(伊勢集)を研究し源氏物語に活かしたと思うのだがどうだろうか。

 ・源氏物語桐壷の冒頭は伊勢集の冒頭と酷似している。   
  桐壷「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり

  伊勢集冒頭「いづれの御時にかありけむ、大御息所ときこゆる御つぼねに、大和に親ある人さぶらひけり

 ・桐壷9に宮中で帝が女房達と読んでいる書物のことが書かれている。
  長恨歌と伊勢(伊勢集)と紀貫之(古今和歌集)これが3本柱であった。
   →伊勢と貫之が実名で登場する。

 ・空蝉の巻末で空蝉が詠んだ歌
   空蝉の羽におく露の木がくれてしのぶしのぶにぬるる袖かな
   これは伊勢集の歌とそっくり重複している。源氏物語の歌は全て紫式部が作った歌であるがこの歌だけ例外。紫式部が拝借してきたのか、伊勢集の増補の時に源氏物語から採られたのか両説あり。
   →誇り高い紫式部がいくら敬愛するとはいえ先輩歌人伊勢の歌をそのままパクるなんてありえない、、、、と爺は思っています。

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