31番 征夷大将軍の末裔是則 吉野の雪を詠む

古今集編纂者近辺の歌人が続きます。坂上是則、あまり有名じゃないですね。祖先坂上田村麻呂と歌に詠まれた吉野を中心に考えてみたいと思います。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
31.朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:    京をはるか離れてきて  
       吉野の里に旅寝する明けがた
       あたり一面白みわたる気配
       有明月が光を落しているのだろうか
       窓をあければ ああ うっすらと一面に雪

作者:坂上是則 生没年未詳(~930没?)坂上田村麻呂の子孫 五位
出典:古今集 冬332
詞書:「大和国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる」

①坂上是則 田村麻呂の子孫だが是則自身は文官で御書所といった文書畑の官人であったようだ。寛平后宮歌合・宇多院大堰川御幸など有名イベントに登場。

 古今集7首 勅撰集39首入集 三十六歌仙 古今集撰者に次ぐ位置づけの歌人。
 定方・兼輔・貫之らとも個人的な交遊はあまりないにせよ歌合などではなじみだった。

②祖先坂上田村麻呂755-811 54才
 蝦夷(えみし)=大和朝廷以降の中央政権の勢力が及ばなかった地方に住む人々
  7世紀半ばでは新潟以北だったが大和朝廷が段々と北へ平定を進めて行った。
  →新潟の蝦夷が北へ逃げて行ったのではなく平定されて大和朝廷に属する地方になったということ。

  724 多賀城(仙台北)設置
     →東北平定の拠点 軍事的施設+都市であった。
    
     この間も各地で蝦夷の反乱が相次ぐ

  797 坂上田村麻呂征夷大将軍に任命さる
   ~802 蝦夷平定(アテルイ降伏)
  802 胆沢上(平泉北)設置
     →これで岩手~青森まで概ね治まったということか。

  ・征夷大将軍は蝦夷征討のトップで天皇が任命、8世紀半ばから制度化され田村麻呂の平定で有名になった。鎌倉幕府(源頼朝)以降武家の頭領が征夷大将軍を名乗る。
   →朝廷の意を踏まえ朝敵を討つ軍事組織のトップの意味合いか。

  ・芭蕉は奥の細道で多賀城壺の碑(田村麻呂が蝦夷を征伐した時弓を掛けたところ)を訪問している(1689.6.24)。

    、、、、むかしよりよみ置ける歌枕おほく語傳ふといへども。山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋れて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑ひなき千載の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。
  
   →千年も前から先人が苦労して築き上げてきた拠点を前に芭蕉の感慨がほとばしる一章である。

  京の皇族貴族から見て蝦夷地は如何に遠かったことだろう。田村麻呂ら武人のお蔭で王朝は版図を広げ政権を維持していけたのである。東北地方はこの後出羽国の蝦夷の反乱(878)などはあったが概ね平穏で11世紀後半の前九年の役・後三年の役を経て12世紀に平泉で藤原三代の華が咲くことになる。

③次に吉野について
 ・百人一首では31番歌と94番歌の2首
  31番歌 冬 雪 吉野の里=離宮のあった宮滝付近であろうか。
  94番歌 秋 風 吉野の山=山深く入った隠れ里のイメージ

 ・吉野は天武帝が壬申の乱に向け挙兵したところ。持統帝はその昔を懐かしみ33回も吉野に行幸している。

   よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よく見つ(天武帝)

 ・天武帝が天女の舞(12番歌)を見たというのが中千本にある勝手神社。ここで静御前が捕えられて舞を演じたとの伝あり。

 ・他に吉野ゆかりの人としては義経・西行・後醍醐天皇・秀吉

 →大和~奈良朝の人たちにとっては吉野は身近な山里だったろうが平安京からは遠い。平安人には想像と憧れの歌枕だったのだろうか。

④31番歌について
 ・「大和国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる」
  是則は大和国勤務を経験している。赴任地を詠んだ歌である。

  是則の吉野の山の歌 古今集 冬
  み吉野の山の白雪つもるらしふるさとさむくなりまさるなり
  →94番歌の本歌。定家は余程是則の吉野の歌がお気に入りだったのだろう。

 ・「あさぼらけ」=朝がほんのりと明けてくる頃
  64番歌も「あさぼらけ」から始まる。所謂大山札(山を張って取れ)である。
  古今集で「あさぼらけ」から始まる歌はこれだけ。序でに言うと古今集冬の歌は23首だが月が出てくるのはこの1首のみ。

 ・春の淡雪か冬の深雪か。
  →冬の歌だが春の桜をもイメージした淡雪でいいのではないでしょうか。

  深雪を詠んだ歌
  み吉野の山の白雪ふみ分けて入りにし人のおとづれもせぬ 壬生忠岑 古今集冬

⑤源氏物語との関連
 源氏物語の舞台としては大和は初瀬・長谷寺は重要地でしばしば出て来るが吉野は登場しない。紫式部や光源氏にとっては吉野は歌枕ではあるもののあまり具体的なイメージはなかったのかもしれない。

 ・吉野山の雪が引用されているのは薄雲5.大堰の子別れの場面
  冬、雪の朝源氏は明石の姫君を引き取り二条院に連れ帰る。姫君と引き離される明石の君の切なさ。ここでの寂しげなる冬の情景描写は源氏物語中でも象徴的表現の代表とされる。
  →この冬の象徴的場面から明石の君は「冬の方」と呼ばれる。

  雪ふかみみ山の道は晴れずともなほふみかよへあと絶えずして 明石の君
  雪間なき吉野の山をたづねても心のかよふあと絶えめやは 乳母=宣旨の娘
  →吉野の山は雪の象徴であった。

 ・吉野の桜(山桜)は引用されてないようだ。

脱線ばかりになりました。東北地方の蝦夷に想いを馳せた一段とご理解ください。

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30番 暁の別れはつらし、壬生の忠岑

次は古今集撰者二番手の壬生忠岑です。

30.有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし

訳詩:    あの夜明け 空にはすげない有明の月が
       心乱れて帰る私の上にかかっていました
       あの朝から 逢う瀬もなくて日は過ぎゆき
       暁ごとに私は心をかきむしられます
       あなたと別れたあの朝のことが思い出されて

作者:壬生忠岑 生没年未詳(860-920説あり 61才) 41番忠見の父 古今集撰者
出典:古今集 恋三625
詞書:「題しらず

①壬生氏は大化前代の親衛軍を構成していた氏族でその証拠に宮城十二門の一つに壬生門の名が付けられていた(目崎)
 →壬生門(後の美福門)を造進したのが壬生氏
 →「壬生」「壬生寺」と聞くと新選組、何となく血なまぐさい感じがする。

 平安初期には没落豪族で忠岑は衛門府関係の低級官職についているのみ。
 歌人としては高評価を受ける。三十六歌仙 古今集に35首 勅撰集に82首
 寛平御時后宮歌合にも登場。

 逸話(大和物語第125段)
 忠岑が泉大将藤原定国の随身(SPみたいなものか)の時、定国が酔っ払って帰途夜中にもう一杯やろうと左大臣時平の所へ押しかけた。時平は迷惑顔に「どこに寄って来た帰りでしょう」と問うたのに対し随身忠岑少しも騒がす当意即妙に歌を詠んだ。

  かささぎのわたせる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ
  →誰もが知っている6番歌からのパクリである。

 藤原定国は定方の兄貴、即ち醍醐帝の叔父にあたる。定国はこのこともあって忠岑を歌人として目をかけ時平→醍醐帝に古今集撰者として推薦した。

 →よくできた話ではあるが忠岑の歌の才はただものではなかったのであろう。
 →古今撰者4人の中では友則に次ぐ年長、躬恒とはほぼ同年齢か。年下の貫之を立てて補助したらしい。まじめな正直な男である。

 壬生忠岑の秀歌
 風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か(古今・恋)田辺聖子絶賛

 春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みてけさは見ゆらむ(拾遺・巻頭歌)

②30番歌
 後鳥羽院が定家と家隆に「古今集」の最優秀歌を問われた時二人ともこの30番歌をあげた。定家はまたこの歌を「これ程の歌一つ謡出でたらむ、この世の思ひ出に侍るべし」と絶賛している。
 →すごい誉め言葉。歌人・俳人は皆そう言われたい思いで励んでいるのではなかろうか。

 ・「有明の月」については21番歌の項参照。

 ・「あかつき」=夜を三つに分けた第3番目 夜が明けようとする時
  「しののめ」=東の空がわずかに明るくなる頃
  「あけぼの」=夜明けの空が明るんできた時
  「あさぼらけ」=朝がほんのりと明けてくる頃
  以上広辞苑より。あかつき→しののめ→あけぼの→あさぼらけの順で明けていく。
  即ち「あかつき」はまだ暗い、夜の終わりである。

 ・「実事後の後朝の別れ」か「実事に至らなかった無念の朝の別れ」か。二説に分れる。
  
  1.古今集の部立てからすれば「逢わずして帰る恋」
  (古今集で30番歌の前にあるのは28源宗于の、
   あはずしてこよひあけなば春の日の長くや人をつらしと思はん

   即ち女性につれなくされ無念にもすごすご帰る時有明の月が出ていた、、ということ。

  2.定家&現代の解説本は圧倒的に後朝の別れ説
   即ちつれなく見えたのは有明の月で、愛する女性との逢瀬も朝が来たら帰らなければならない。その切なさを詠んだとする。
   →素直に読んで後朝の別れ説でいいでしょう。
   →和歌も俳句も詠者の手から離れれば解釈は読者に委ねられる。定家は確信に基き敢えて古今集から離れて解釈したのであろう。

   (それにしても通い婚の習慣、当時の男性は大変だった。やっと訪ねて情熱的な夜を過した後も明るくなるまでに帰らなければならない。風俗店へ行ったでもあるまいにちょっとやるせない習慣ではないか。愛する女性に寄り添って安らぎの眠りにおちる。この方が男女とも気持ちいいでしょうに)

  現代の「別れの朝」
  ♪別れの朝 ふたりは さめた紅茶 のみほし
   さようならの くちづけ わらいながら 交わした

   言わないで なぐさめは 涙をさそうから
   触れないで この指に 心が乱れるから~~

④源氏物語から「逢わずして帰る恋」と「逢っての後朝の別れ」をピックアップすると、
 ・「逢わずして帰る恋」
   1.つれなかった落葉の君
    山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心地して(夕霧@夕霧)
   2.かたくなだった大君
    山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな(薫@総角)
   →いやあ、夕霧&薫のご両人には疲れました。

 ・「逢っての後朝の別れ」
   1.あやにくの源氏、方違えの夜空蝉と契る
    つれなきを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ(源氏@帚木)

   2.源氏、六条御息所との最後の逢瀬 野宮の別れ
    あかつきの別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな(源氏@賢木)

   →名場面が蘇ります。 

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29番 古今集編纂者トップを切って躬恒、、心あてに 

寛平歌壇から醍醐朝延喜歌壇に移り古今集編纂の栄誉に輝く歌人たちの登場です。先ず読みにくいけど覚えやすい凡河内躬恒(おうしこうしのみつね)から。

その前に【古今集の位置づけ】をざっと復習しておきましょう。
・醍醐天皇の勅命で編纂された最初の勅撰集
(勅命が下ったのは905年、完成は917年くらいか。十数年かかっている)
 →905年が勅命が下っただけか既に撰を終えていたのか説が分かれる。古今集序もちょっとあいまい。

・編纂を命じられたのは33紀友則・35紀貫之・29凡河内躬恒・30壬生忠岑
 何れも醍醐朝で登場した身分低き新進歌人、専門歌人 
 4人で始めたが友則が死亡(905年)その後貫之がリーダー、残り2人が補助

 【若干の考察】
  何故4人の撰者は藤原氏(兼輔・定方)でなく何れも没落氏族である紀・凡河内・壬生だったのだろう。
  →当時はまだ和歌の位置づけが定まっていなかった。漢文・漢詩が上位で和歌は新興分野。いくら勅撰集と言えど専門職としての身分低き専門歌人に任せる方が無難であったということか。
  →それにしては古今序の貫之の六歌仙評は辛辣である。特に時代はちょっと前、身分はずっと上の僧正遍昭への評はよくそんなこと言えたものだと感心するのみである。
   僧正遍昭は歌のさまは得たれども、まこと少し。
  たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

・全20巻 1111首 入選ベストテンは、
  貫之102、躬恒60、友則46、忠岑36、素性36
  業平30、伊勢22、遍昭18、小町・興風・深養父17

・和歌の分類 春・夏・秋・冬・賀・離別・羈旅・恋・哀傷歌・雑歌・雑体
 →分類、詞書、作者の書き方など貫之が考えた。以後勅撰集はこの方式を踏襲する。

・仮名序、真名序がつけられている。歌論としても重要。大和歌とは何たるかから始まり歌の様式、歌聖(人麿、赤人)・六歌仙についての論評、古今集編纂の経緯に及ぶ。
 →仮名序は貫之が書いた。貫之の高揚した文章が印象的。

・詠み振りは万葉集の「ますらをぶり」に対し古今集は「たをやめぶり」と言われる。
  
・古今集を暗誦することが貴族の教養であった。
 →村上帝の芳子女御は全20巻全て暗誦していた(枕草子21段)

・明治に入り正岡子規が古今集・古今調を徹底排撃。
 子規曰く:万葉集は男性的で、率直な力強い調べである
       古今集は技巧に走り、弱々しく女性的である。
【参照】「子規の『古今集』批判をめぐって ─日本文学にみる美的理念」寺澤行忠
    (これを打ち込んで検索してください。偏りのない納得できる論文と思います)

 →子規の糾弾の矛先は個別の歌或いは歌の詠み振りと言うより公家の家元が作り上げてきたがんじがらめの歌の世界・歌道そのものではなかろうか。

長くなりました。ここから29番歌です。
29.心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

訳詩:    朝まだき 庭の一面に ああ今年の初霜
       白菊を折ろうと下り立ち 私はとまどう
       霜の白菊が菊の白とまざり合って ―
       折るならば 当て推量に手をのばそうか
       霜にまじって所在不明の白菊の花

 
作者:凡河内躬恒 生没年未詳(859-925説あり67才) 古今集撰者 三十六歌仙
出典:古今集 秋下277
詞書:「白菊の花をよめる

①凡河内氏は摂津・河内・和泉地方の古代豪族
 →躬恒以外は著名な人物は出ていない。没落豪族だったのだろう。
 
 地方官(国司ではない)を歴任、六位とまり。
 身分は低かったが歌は抜群に上手かったのだろう。貫之とともに兼輔邸に出入りし歌人として頭角を現す。宇多帝、醍醐帝の行幸に供奉し歌を奉っている。専門学者と同じように「和歌の専門職」(お抱え歌人)だったのだろう。

 醍醐帝の一大国家事業古今集の編纂(撰者の一人)に抜擢される。  
 三十六歌仙 古今集入選は貫之に次いで2番目に多い60首 勅撰集196首
 「躬恒の歌は軽快さと機智を特徴とする」(田辺聖子)
 お抱え歌人だけあって当意即妙、これを詠めと言われればすぐ対応している。 
 →正に延喜歌壇&古今集を代表する歌人と言えよう。

(追記)
 大和物語第132段 同じ帝=醍醐帝

  同じ帝の御時、躬恒を召して、月のいとおもしろき夜、御遊びなどありて、「月を弓張といふは何の心ぞ。そのよし仕うまつれ」と仰せ給うければ、御階のもとにさぶらひて、仕うまつりける、
   照る月を弓張としもいふことは山べを指していればなりけり

 禄に大袿かづきて、又、
   白雲のこのかたにしもおりゐるは天つ風こそ吹きて来つらし

  →帝に召されて即座に歌を詠んで奉る。帝も喜んだことであろう。
 
②29番歌
 ・正岡子規の酷評については前述。
  →子規が本当に言いたかったのは「和歌という業界」批判であり、その一例として挙げられたのが29番歌、23番歌などであった。それだけ著名・有名だったということだろう。

 ・「心あてに」 当て推量に、、実感を直叙しないところが古今調 
  (源氏物語関連については次項参照)

 ・白菊と初霜 白の競演 
  菊は奈良~平安初期に中国から入ってきたものだがまだ万葉集には出て来ない。当初は白か黄色の小菊。菊が普及し皇室の御紋になるのは菊を愛した後鳥羽天皇の時から。
  →源氏物語では頻出。六条院冬の町(明石の君の町)に植えられている。
   冬のはじめの朝霜むすぶべき菊の籬、我は顔なる柞原、をさをさ名も知らぬ深山木どもの木深きなどを移し植ゑたり。

 私はこの歌は良くも悪くも古今集を代表している歌だと思います。庭の白菊をさして何か詠めと命令されて即座に詠んだようであまり実感が感じられません。当意即妙に詠むということは恐らく何百何千もの用例を頭に入れていたのでしょう。そこから引き出して来て組み合わせて作る。専門職たる所以でしょうか。

 もう一つ古今集から躬恒の秀歌をあげておきます。
  春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる
  →29番歌(秋の朝の白い菊)と春の夜の赤い梅で見事に対になっている。 

③源氏物語へのこじつけ
 ・「心あてに」
   心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花 夕顔@夕顔
   →源氏に所望された夕顔を扇に載せて差し出す。その扇に書かれていた歌。
   →「夕顔」の巻の冒頭シーン、この辺から源氏物語が止められなくなるのです。

 ・「折らばや折らむ」 花を折るは女性を手に入れることの比喩
   つてに見し宿の桜をこの春はかすみへだてず折りてかざさむ 匂宮@椎本
   →匂宮が「今年こそは貴女をいただきますよ」と中の君に贈った歌。露骨である。
   →それを実行し愛を尽すところが匂宮のエライとこ。

 ・「おきまどわせる、、、」
   冬の寒々しい霜にまどわせられた、、、ということから源氏が仲人口(大輔命婦)に乗せられて末摘花と契った場面が思い浮かぶ(上坂信男)
   →そうでしたね。でも末摘花って棘のある紅花ですからね。ちょっと白菊からは遠い感じがするのですが。。。

【本日から那須へ一泊ゴルフに行ってきます。返信、水曜日になります。ご容赦ください】

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28番 源宗于 冬の山里を詠む 

血統的には宇多帝の甥であり醍醐帝の従兄弟にあたる源宗于、官位には恵まれず冬の寂しい歌を詠んでいます。華やかな寛平・延喜の世をいささか恨めし気に生きた人かもしれません。

28.山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば

訳詩:    山里の冬の
       さびしさはまた格別
       おとなう人の往き来は間遠に
       草も枯れてしまったと思うにつけて

作者:源宗于(むねゆき)朝臣 生年未詳~939 光孝天皇の皇子の息子 賜姓源氏 歌人
出典:古今集 冬315
詞書:「冬の歌とてよめる

①父は15番歌光孝帝の皇子是忠親王。即ち源宗于は光孝帝の孫。光孝帝は皇子を全員臣籍降下させ源氏とした。是忠親王も源氏となった。宇多帝も光孝帝の皇子で一旦臣籍降下したが皇族復帰し皇位についたこと15番歌の所でみたとおり。
 
 →即ち源宗于は宇多帝の甥にあたる。
 父は源氏のままであったが叔父(宇多帝)は皇族復帰し天皇になった。
 →父も宗于も思うところあったであろう。

 【余談】
  百人一首に天皇は8人(1,2,13,15,68,77,99,100)
  天皇の子(皇子・皇女)は3人(14融,20元良,89式子内親王)
  天皇の孫は4人(12遍昭,16行平,17業平,そして28源宗于)

 年令的・世代的には藤原定方・忠平・兼輔と同じくらい。宇多・醍醐・朱雀朝の時代である。

 官位は正四位下・右京大夫とまり(公卿になれず)。受領階級として地方官を歴任。
 そこで官位昇進を宇多院に訴えた逸話が大和物語に出ている。

 源宗于 沖つ風ふけゐの浦に立つ浪のなごりにさへやわれはしづまむ
 宇多院はこれを見て「何のことやら、、、」ととぼけたらしい。
 →甥といっても特別の関係でもなし、まあ仕方のない所か。
 →官位をおねだりした卑しい男との評もあるがそれは当たらないだろう。色んなチャンスに手を変え品を変え訴えるのは当然である。

②官人としては四位どまりだが歌人としては三十六歌仙であり古今集に6首、勅撰集に計15首入集。宗于集(私家集)あり。
 寛平歌壇の中堅であった。伊勢・紀貫之らとも交流あり。特に貫之とは昵懇。

 源宗于・藤原興風(34番)・清原深養父(36番)は寛平歌壇(宇多帝)で活躍したが時代は宇多帝から醍醐帝に移り(宇多帝は風流三昧から仏道三昧に生活を転じた)古今集編纂は醍醐歌壇の新進歌人たちに委ねられてしまった(目崎)
 →これも人生の綾か。運・不運は常につきまとう。それにしても宇多さんって皇位が転がり込んできたのに早々と引退し上皇として30数年も好きに暮らす、、、結構なお人であったようです。

③さて、28番歌
 ・古今集冬の歌
  百人一首に冬の歌は6首
  (4田子の浦に・6かささぎの・28山里は・31朝ぼらけあ・64朝ぼらけう・78淡路島)

 ・「山里」=山中で人の住んでいる所、平地(村)の里に対する言葉
   →通常の暮しをしていると言うより隠遁生活の場と考えたほうがいいのだろうか。
   
 ・「冬ぞ寂しさまさりける
  春は桜、秋は紅葉で賑わうが冬は人足も途絶え寂しくなってしまう。
  →その通りだが通常寂しさと言えば秋であり、冬は寂しさを通り越した感情だと思うのだがどうだろうか。

   百人一首で「寂しさ」は2首 いずれも秋の歌である。
   47 八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶法師)
   70 さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮(良ゼン法師)

 ・「かれぬ」=草木が枯れ、人足が離れる(掛詞)
   「かれる」(草木が枯れる・声が嗄れる・水が涸れる・若さ、潤いがなくなる)
    →いずれも頂点から落ち目に入るイメージの言葉である。

   離る・夜離れ(よがれ)、、、男の足が遠のく、通い婚の当時女性にとっては死活問題である。
    
 →結局宗于は冬の山里を何もないけどそれはそれでいいと賛美しているのか、何もないのはかなわないと訴えてるのか。宗于が自分の不遇を冬の山里に例えた歌と考えるのは考え過ぎか。

  因みに冬の山里を詠んだ歌として白洲正子は西行のこちらの歌を絶賛している。
  さびしさにたへたる人のまたもあれないほり並べむ冬の山里 

 ・28番歌を本歌として定家が詠んだ歌
  夢路まで人めはかれぬ草の原おきあかす霜に結ぼほれつつ
  →定家は山里・山家に憧れていたのであろうか。正に「紅旗征戎は吾が事にあらず」は定家の正直なる願望だったのかもしれない。
  
  28番歌の派生歌 
  秋くれば虫とともにぞなかれぬる人も草葉もかれぬと思へば 藤原興風
  →でもこれは秋の歌である。

④さて源氏物語で山里と言えば、
 1.上京を促された明石の君が京中までは行き得ず一旦寓居した大堰の山里(嵯峨野)
  松風~薄雲 ここで幼い明石の女御との子別れがある。
  身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く(明石の尼君@松風)

 2.夕霧が柏木未亡人女二の宮(落葉の君)を訪ねた小野の山里
  山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心地して(夕霧@夕霧)

 3.薫・匂宮と宇治の姫君の恋の舞台、宇治の山里
  山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたるあさぼらけかな(薫@総角)
  最後に浮舟が匿われたのも小野の山里である。
  →宇治十帖には「山里」が詠みこまれた歌が11首も出てくる。
   宇治十帖は山里の物語と言えるだろう。

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27番 堤中納言兼輔 未だ逢はざる恋

紫式部の曽祖父として名高い堤中納言藤原兼輔の登場です。紀貫之・凡河内躬恒らのパトロン、即ち古今集プロデューサーの一人でもあったと言えるでしょう。

27.みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ

訳詩:    瓶原 そこを分けて流れている
       泉川よ 湧き出る泉よ
       いつあの人と逢ったというので
       こんなにも恋しいのだろう
       まだあの人とは逢ったこともないというのに
    

作者:中納言兼輔=藤原兼輔 (877-933)57才 紫式部の曽祖父 歌壇の重鎮
出典:新古今集 恋一996
詞書:「題しらず

①父は藤原利基、25番藤原定方とは従兄弟(兼輔が三つ年下)
 母は伴氏→大伴旅人・家持に繫がるのだろうか。

 定方との結びつきは誠に密接(25番参照)
 定方の娘を妻(の一人)にしているし、息子雅正は定方の娘を正室にしている。
 (兼輔にとって定方は舅であり息子の嫁の父)

 娘(桑子)が醍醐帝の更衣に入り親王を生んでいる。
 →醍醐帝の外戚の一人 このこともあって三位中納言まで出世している。
 
 桑子が醍醐帝の寵愛を受けているだろうか、、、と案じて詠んだのが:
  人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集)
  →源氏物語でこの歌は26回も引用されている(吉海直人)

 醍醐帝には心底尽していたのであろう。醍醐帝が亡くなった時の追悼の歌が哀しい。
  桜散る春の末にもなりにけりあやめも知らぬながめせし間に

②堤中納言、加茂川近くに邸宅があった。現在の廬山寺の所。
 兼輔は自身も三十六歌仙の一人で勅撰集にも56首入集している歌人であったが、同時に紀貫之・凡河内躬恒ら下級歌人のパトロンで邸宅は歌人たちの集まるサロンの場であった。
 →飲食を振舞い金品を渡し醍醐帝へのとりなしを行うなど歌人たちを応援し続けたのではなかろうか。面倒見のいい親分肌の男だったのだろう。
 →古今集編纂についてあれこれ論議されたこともあったのかもしれない。

 紫式部もこの邸宅で生まれ育ち源氏物語を書いた(宮中に出仕した紫式部が里帰りしたのはこの実家であった)。
 →源氏物語にはこの辺りが頻繁に登場する。馴染み深かったのであろう。
 ・空蝉と一夜の契りを持った紀伊守中川家
 ・花散里を訪ねた麗景殿女御中川邸
 ・深窓の美女に想いを募らせた末摘花邸
 →そして式部が出仕した道長邸(土御門殿)にも隣接している。

③さて肝心の27番歌
 ・みかの原=奈良朝聖武帝が一時平城京から遷都した恭仁京(740-744)が置かれたところ。
 ・いづみ川=木津川(源泉は三重県)
  →水が豊富な場所のイメージ

 ・「逢って逢わざる恋」(一度契ったがそれっきりで逢えない恋)
  「未だ逢わざる恋」(想ってはいるがいまだに逢えない恋)
  →両説あるようだが「まだ見ぬ恋」でいいのではないでしょうか。

  「まだ見ぬ君に恋うる歌」(舟木一夫 S39)作詞:丘灯至夫
   ♪夕陽の空に 希望をかけて 心ひそかに 夢を見る
   逢いたくて 逢いたくて
   この世にひとり いる筈の まだ見ぬ君を 恋うるかな
   →舟木一夫で私が一番好きな歌です。二番目は「哀愁の夜」

 ・みかの原わきて流るるいづみ川 上三句は単なる序
  いつ見きとてか恋しかるらむ 下二句が歌意

  口遊むとリズミカルで心地いい。「み」の音と「き」の音が効いている。
  湧きあがる恋情を巧みに詠んだ歌である。

  歌の構造や恋が募っていく歌意が13番歌とそっくりだと思うのだがどうだろう。
   筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる

 ・27番歌は古今六帖(平安時代の私撰和歌集)に「読み人しらず」として出ている歌で兼輔集にもない。新古今に定家が兼輔として入れたが実は兼輔の歌ではない、、、というのが昨今の通説。
  →古今六帖には紀貫之も関わっていたであろうし、この歌を兼輔の歌とする何らかの理由が定家にはあったのではなかろうか。「読み人しらず」であって他人作ではないのだから。

④源氏物語との関連について
 「未だ逢はざる恋」 草深い深窓にうら若き女性が身を潜めて住んでいる。微かに聞こえる妙なる琴の調べ、、、これは絶世の美女に相違ない、、、男の想像は膨らみに膨らむ。
 ・「末摘花」はこのテーマの最たるもの。そして理想と現実のギャップ。
  なつかしき色ともなしに何にこのすゑつむ花を袖にふれけむ(源氏@末摘花)
  →でもこれに懲りないところが源氏のエライ所。

 ・宇治十帖で薫・匂宮が宇治の姫たちに想いを寄せるのも「未だ逢はざる恋」であろう。

 一方「逢って逢はざる恋」は一度契った後ついに二度めは叶わなかった空蝉、そして朝顔への想いもこれであろうか。

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26番 エース忠平 小倉山に供奉 紅葉を愛でる

藤原摂関家の頭領、忠平の登場です。頭の中将を思い出します。

26.小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ

訳詩:    小倉山を妙に彩るもみじ葉よ
       こころあらば色あせずあれ
       今日の日にさらにかさねて
       いまひとたび 帝の行幸のあろうものを
       その日まで もみじ葉よ 散らずにあれ

作者:貞信公=藤原忠平(880-949)70才 基経の四男 時平の後関白に 
出典:拾遺集 雑秋1128
詞書:「亭子院の大井川に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりと仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して

①藤原忠平=基経の四男 兄に時平・仲平 三兄弟を三平と呼ぶ
 基経の跡を時平が継いだが39才で早死に(天神さまの祟りか)その後忠平が藤原家筆頭として政務にあたる。 醍醐朝で右大臣・左大臣、その後朱雀朝・村上朝で摂政関白。
 70才で没するまで長らくトップに君臨。藤原氏中興の祖の一人とされる。

 藤原家トップ
  良房―基経―忠平―師輔―兼家―道長―頼通―師実―師通―忠実―忠通
  →百人一首に入っているのは26番忠平と76番忠通の二人
  →忠平から発する一族は定家も含め20人弱百人一首に入っている(今昔散歩)

 醍醐帝の親政(延喜の治)を推し進めた大立役者 延喜格式を完成させた
  →宇多朝では道真と時平が対立、醍醐朝になって時平が強引に道真を葬るが自分も若死にしてしまう。その跡を継ぎ藤原家を盤石なものとしたのが忠平。
  →聡明・温厚勤勉・豪胆な性格と誉め言葉が満載。いささか後付けのきらいあるがよくできた人物だったのだろう。やはり70才まで長生きしたのが大きい。
  →左遷後も道真と交誼があった。時平の強引さを良しとしない気持ちの表れであろう。

②26番歌の背景
 「亭子院の大井川に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりと仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して
 ・907年9月 宇多院が嵯峨野に紅葉狩りに
  (上皇・法皇のみゆきは「御幸」、天皇のみゆきは「行幸」)
  この時の供奉者がすごい。紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑・坂上是則ら。
  →宇多院は隠居してすでに10年、風流三昧、いい気なものである。

 ・行った場所は嵯峨野。当時紅葉の名所は奈良の龍田山であり、嵯峨野は新興地か。
  この歌を契機に醍醐帝も大井川に行幸、その後天皇の大井川行幸が恒例となる。
  →源融らの別荘地に過ぎなかった嵯峨野が注目されだしたのであろう。

 ・定家が山荘を構え百人一首を編んだのも小倉山の麓。そして忠平は定家のご先祖にあたる。
  →定家は初めから忠平のこの歌を百人一首の中核に据えようと考えていたのであろう。
  →小倉山で選んだ百人一首に小倉山の歌がないのではお話になりません!

 ・振り返れば道真の24番歌も宇多院の奈良御幸時の歌であった。
  →宇多・醍醐帝と道真・忠平との君臣一体の聖代模様を誇示しているのであろうか。

③26番歌について
 ・歌人としての忠平 後撰集以下勅撰集13首入集
  →歌人というより藤原総領としての入集であろう。

 ・歌意は分かりやすい。ストレートそのもの。政治家の歌はこれでいい。

 ・詞書 行幸もありぬべき所なりと仰せ給ふに
  →我が子にも見せたい。自分が感動したものは大事な人(妻や子)にも味わって欲しい。ごく自然な素直な感情である。

 ・今ひとたびのみゆき待たなむ  
  これに応えて醍醐帝も行幸している。
  翌日という説、翌月という説、翌年という説。
  →翌日説が有力のようだがいくらなんでも慌ただしいのではないか。
  →翌月になれば紅葉は散っているだろうし、、、。分かりません。

④源氏物語との関連
 ・大堰川、大堰山荘といえば明石の君が明石から出て来て居を構えたところ(松風)
  早速源氏が明石の君を訪れる。時は秋、ところが大堰での紅葉の描写はない。専ら松と風である。
  →どうしてだろう。その後源氏が隣接の桂の別荘に移ったところで少しだけ紅葉の様が書かれている。

 ・「行幸」と言えば冷泉帝の大原野行幸がある。巻名にもなっている。
  
  その十二月に、大原野の行幸とて、世に残る人なく見騒ぐを、六条院よりも御方々引き出でつつ見たまふ。卯の時に出でたまうて、朱雀より五条の大路を西ざまに折れたまふ。桂川のもとまで、物見車隙なし。行幸といへど、かならずかうしもあらぬを、今日は親王たち、上達部もみな心ことに、御馬、鞍をととのへ、随身、馬副の容貌、丈だち、装束を飾りたまうつつ、めづらかにをかし。。。

  →行幸、世をあげての大事である。大スターを一目見ようと沿道がごった返したのであろう。
  →この大原野行幸、928年の醍醐帝の大原野行幸を下敷きに書かれたとされている。

松風有情さんから26番歌の絵を投稿いただきました。
 http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/09/KIMG0210.jpg
 →有情さん、コメントもよろしくお願いします。
 →例のふすま絵はどうなりましたか?

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25番 名にし負う 定方は紫式部の曾爺さんであった

藤原定方、藤原ながら摂関家の主流でもなく大した男ではなかろうと思ってたのですが、調べてみるとなかなかのもの。姉が妻となった男が天皇(宇多帝)になり次の天皇(醍醐帝)を生む。右大臣にとりたてられたのも当然でしょう。一方で古今集作成をバックアップした重要人物でもありました。

25.名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな

訳詩:    逢坂山のさねかずらよ そなたの名は
       恋人に逢って寝るというこころだときく
       その名の通りであるならば 
       私はそなたの力が欲しい 人に知られず
       そなたをたぐり寄せるように
       こっそりと恋する人に逢いたいものを

作者:三条右大臣=藤原定方 873-932 60才 内大臣高藤の子 44番朝忠の父
出典:後撰集 恋三700
詞書:「女のもとにつかはしける」 

①出自が実に面白い。 
 父 内大臣藤原高藤 高藤の父は良門(良房の異母弟)、祖父は冬嗣
 母 身分の低い山科の豪族の娘

 父母の結婚話が因縁めいている(脚色の入った説話であろうが)
  高藤が鷹狩で山科に出かけ一夜の宿で豪族の娘と契り女子が生まれた。その後二人は結婚し定方が生まれた。
  →ロマンチックと言おうかワイルドと言おうか。
  →娘は美人だったのだろうが高藤も生真面目な男だったようだ。

 この高藤の女子(藤原胤子=いんし)が源定省と結婚し、定省は皇族復帰して宇多帝になる。そして宇多帝は胤子との子(天皇即位前に生まれていた)を皇太子にたてやがて醍醐帝になる。

 年表で整理しましょう。
 873 藤原定方誕生
 884 姉胤子、源定省と結婚(定省が天皇になるなんて知る由もない)
 887 源定省、宇多帝として即位(義理の兄が天皇になった!)
 892 @20定方任官
 897 醍醐帝即位(甥っ子が天皇になった!)
 905 古今集成る
 924 @52定方右大臣まで上がる(左大臣はずっと摂関家筆頭の忠平=26番歌)
 930 醍醐帝没
 931 宇多院没
 932 @60定方没
 →お義兄さんが天皇で次に甥っ子が天皇ならそりゃあ強いでしょう。

②天皇との血縁で政治的にも右大臣に昇った定方だがトップの左大臣はずっと藤原忠平。定方は政治家と言うより和歌・管弦を能くした教養人であり、寛平の治・延喜の治の文化面を支えた人だったのではなかろうか。

 父高藤の異母兄弟が藤原利基でその息子が27番歌藤原兼輔
 即ち定方と兼輔は従兄弟、この二人は風流の友であり紀貫之ら古今集作成グループらと歌会・宴会を開きサポーターとしてバックアップした。
 →醍醐帝と古今集作成グループの仲立ちとなり古今集をプロデュースしたのが藤原定方ではなかろうか。

 兼輔の息子(雅正)は定方の娘を正妻としそこで生まれたのが藤原為時でその娘が紫式部!
 →即ち兼輔と定方は共に紫式部の父方の曽祖父。
  紫式部には兼輔・定方の血が八分の一づつ入っていることになる。
 →紫式部は二人を強烈に意識して源氏物語を書いたのではなかろうか。

③25番歌
 「女のもとにつかはしける」
 ・女は不明。何れにせよ題詠ではない。定方の女性関係も華やかだったのであろう。
 ・さねかづら 蔦がからまる濃厚な愛の姿態をイメージさせる。
  →「さね」にはもっと際どい意味もあろうがそれは関係なさそう。
  →百人一首に恋の描写はあっても性愛の描写はない。

 ・くるよしもがな 諸説あるようだがこれは自分が「行く」の意味でしょう。
 ・名にし負はば 当時の流行の上五だったらしい
  勿論一番有名なのは伊勢物語の東下り(第九段)
   名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
   →「業平橋駅」も今や「とうきょうスカイツリー駅」名にし負はばも空しく響く 

 ・下の句「ひとに知られで」
   「ひと」で始まる下の句の歌は九首もある。私にはごちゃごちゃになって訳の分からない札の一つであります。

④源氏物語との関連
 ・逢坂山のことは蝉丸の10番歌「これやこの」参照 源氏と空蝉の関屋での邂逅

 ・上記定方と紫式部との関係
  →兼輔が式部の曽祖父(父の父の父)であることは知ってましたが定方も同じく父方の曽祖父(父の母の父)であることは知りませんでした。俄かに定方に親しみを感じました。

 ・「さねかづら」 つたのからまるイメージ
  源氏が探し究めた夕顔の遺児が玉鬘。夕顔・玉鬘ともつる性の植物。
  恋ひわたる身はそれなれど玉かづらいかなるすぢを尋ね来つらむ(源氏@玉鬘)

 ・源氏物語で右大臣といえばあのおっちょこちょいの早口男。この右大臣邸は二条にあった。そこへ源氏が忍んで行き朧月夜と濃密な夜を過し右大臣に見つかる(賢木)。そして源氏は須磨へと自ら落ちて行くのでありました。

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24番 天神さま 取りあえずの紅葉

背番号24番は鉄腕稲尾和久、百人一首でも大物の登場、菅家菅原道真です。百人中総合点からすると知名度ナンバーワンかもしれません。23番大江家、24番菅原家、学者家系の双璧を並べたのも意図的なものでしょうか。

24.このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに

訳詩:    手向山に鎮まります神 私が捧げる幣として
       このえもいわれぬ紅葉の錦を
       みこころのままにお受けください
       このたびの旅はにわかの出立
       捧げまつる幣の用意もございませぬゆえ

作者:管家=菅原道真 845-903 59才 文章博士(漢文の権威) 政治上重要人物
出典:古今集 羈旅420
詞書:「朱雀院の奈良におはしましける時に手向山にてよめる

①父は菅原是善、学者として著名。菅原家は元は土師氏で代々の学者家系。
 母は伴氏の娘。大伴旅人・家持に繫がる。和歌も能くする家系と言えようか。

 菅原道真、幼少より大秀才、漢詩・漢学に通じる。17才で貴人の前で漢詩を即読。
 文章生@18・文章博士@33 学者官吏として家格(中級貴族)に応じ順調に出世する。
 その間国史(類聚国史)の編纂、菅家御集(漢詩集)、和歌も勅撰集に35首
 祖父伝来の家塾・菅家廊下を主宰、多数の人材を育成

 →卓越した学者で能吏。それが何故政治の表舞台に押し出されたのか。
 →当時は学問は専門職のするもの。学問するのは二流、しなくていいのが一流であった。

②一介の学者官吏が宇多帝に重用され遂には右大臣にまで昇るが政治のプロ藤原家には勝てず大宰府に左遷され配所で不遇の死を遂げる。。。。年表で見てみましょう。

 887 宇多帝即位 基経が関白に任じられるがこの時阿衡の紛議が起る。
    →基経を牽制したい宇多帝、そうはさせじと悶着を起しついに権力を認めさせた基経
    →この時道真43才(讃岐守赴任中)讃岐から道真が紛議解決に尽力する。

 891 基経死去 息子時平は21才直ぐには関白を継げず宇多帝の親政が始まる(寛平の治)
    道真蔵人頭に 以後中央官僚として昇進を重ねる(宇多帝の思い入れ)
 
 894 遣唐大使に任ぜられるも停止を提訴し以後遣唐使は廃止となる。
 897 宇多帝、醍醐帝(13才)に譲位
    醍醐帝は宇多帝の意を受けて道真・時平を両輪として親政を推し進める。
 898 宇多院吉野宮滝に行幸、この時詠まれたのが24番歌
 899 時平29才左大臣に、道真55才右大臣に並び立つ。
    →この頃が道真得意の絶頂であった。上皇の信任を得、天皇からも一目おかれている。
    →そうはさせないのが政治のプロ藤原家

 901 時平、道真を讒訴、道真大宰府に左遷される。
    →道真自身も昇り過ぎを自覚してるし、同僚・友人も自戒を促している。
    →流れは本人も止められないそして行きついたのは転落への道。

 903 道真大宰府にて死去 59才
    
③24番歌について 「朱雀院の奈良におはしましける時に手向山にてよめる
 898年 譲位の翌年宇多院は気も軽く100人余のお供を連れて大和~吉野宮滝~竜田川~住吉への大旅行。21番歌の素性法師が召されて同道、道真と和歌・漢詩を詠み合っている。

 ・手向山 峠の意味で京から大和に入る平城山あたりとのこと
      手向山八幡宮が東大寺内にあり24番歌の歌碑もある。

 ・幣も取りあへず 現代では取りあえずはビールのことである。

 ・紅葉の錦神のまにまに
  →御幸は10月、さぞきれいだったことだろう。

 ・道真は宇多帝の命により新撰万葉集253首を編んでいる。万葉以降の私撰和歌集で万葉仮名に漢詩の翻訳がついているとのこと。
  →23番歌大江千里の句題和歌(漢詩→和歌)の反対。宇多帝が漢学者千里・道真を重用したことが分かる。

 ・道真は古今集に2首、勅撰集に35首 和歌も上手であった。
  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな 拾遺集
  →大宰府に左遷され京を離れるにあたって。道真の詠んだ最も有名な歌であろう。

  源順 梅は飛び桜は枯れぬすがはらや深くぞ頼む神の誓ひを

④源氏物語須磨~明石は道真の大宰府左遷を念頭において書かれている。
 道真は大宰府で46編からなる菅家後集(漢詩)を作っているがこれが須磨~明石で7か所も引用されている。

 ・「恩賜の御衣は今此に在り」と誦じつつ入りたまひぬ。御衣はまことに身はなたず、かたはらに置きたまへり(須磨15)
  →これは菅家後集七言絶句「九月十日」から一節がそのまま惹かれている。

 ・駅の長にくしとらする人もありけるを、、(須磨16)
  →駅長驚くことなけれ時の変改まることを 一栄一落是れ春秋(大鏡から引用)
  →道真が大宰府への途中明石の駅で駅の長に詩を賜った。

 ・いよいよ鳴りとどろきて、おはしますに続きたる廊に落ちかかりぬ。炎燃えあがりて廊は焼けぬ(明石2)
  →死後雷となって紫宸殿を焼いたという道真の故事が読者の頭をよぎる。

菅原道真、万事に有能な秀才であったのだろうが学者の家系、藤原氏の上にたって政治を行うには荷が重すぎたということか。宇多帝が31才にして醍醐帝に譲位し風流の道に入ってしまったがもうすこし皇位に執着する人であったら道真の一生も変っていたのかも。まあ藤原の上には行けなかったのだろうが。。

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23番 漢学者千里、秋の月にやまとごごろを詠む

21番~24番と秋の歌が続きます。21番秋の月、22番秋の風、23番秋の月、24番秋の紅葉です。日本人には秋が心に沁みるのであります。

23.月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど

訳詩:    秋の月を見あげていると
       おもいは千々に乱れ もの悲しさに包まれる
       秋はこの世のすべての人にやってきていて
       私だけの秋というわけでもないのに
       なぜかひとり私だけが秋の中にいるようで

作者:大江千里 寛平~延喜(889-922)ころの人 漢学者・歌人 下級官吏
出典:古今集 秋上193
詞書:「是貞親王の家の歌合によめる

①出自としては色々書かれている。
 ・大江氏は菅原氏とともに元々は土師氏(奈良の古代豪族、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族)から出ている。
 ・千里の父大江音人は阿保親王が侍女に生ませた子であり行平・業平の異母兄にあたる。即ち大江千里にとって行平・業平は叔父にあたる。
 →上記の二つ、何となく辻褄合わないような気がするのだがどうだろうか。

 何れにせよ千里の父大江音人は優秀な学者であり参議にまで昇っている。音人こそ後に続く学者一族大江家の始祖と言えよう。

②千里はその音人の子、官位は正五位下・式部権大輔まで。父を継いで漢詩に長け和歌もよくした。

 後の大江家の人としては、
  大江匡衡(まさひら) 歌人 赤染衛門(59番)を妻とした
  大江雅致(まさむね) 越前守 和泉式部(56番)の父
  大江匡房(まさふさ) 73番歌
 →千里を入れて百人一首に4人も大江家の人が入っている。大したものである。

 漢学者大江千里が宇多帝の命を受け献上したのが「句題和歌」。漢詩の句を三十一文字に詠みこむというもの。120首に及ぶ。
 句題和歌序 、、古キ句ヲ捜シテ新歌ヲ構成セリ、、
 →同僚に菅原道真。漢詩から和歌への流れを作った歌人の一人。
 →正に換骨奪胎、外国の良き物を日本風に取り入れる。日本人の知恵である。

③さて23番歌 「是貞親王の家の歌合によめる
 →22番歌と同じ歌合での歌。偶然であろうか。

 ・これも句題和歌の一つである。
  燕子楼中霜月夜 秋来只為一人長 白氏文集
  えんしろうちゅうそうげつのよる あききたってただいちにんのためにながし

 ・物こそ悲しけれ=「秋はかなしいもの」
  →これぞ日本文化、日本人の心である。
  
  22番歌の所で載せた藤原季通(千載集)の歌を再掲しておきます。
   ことごとに悲しかりけりむべしこそ秋の心を愁といひけれ

  23番歌を本歌として定家が詠んだ歌
   いく秋を千々にくだけて過ぎぬらむ我身ひとつを月に憂へて
   →定家は23番歌を気に入っていたのでしょう。   

 ・この歌の心を源氏物語から探すと須磨の秋の源氏の心境であろうか。
   見るほどぞしばしなぐさむめぐりあはん月の都は遥かなれども(須磨15)
   →この場面良清、惟光らとの主従の唱和が切ない。それぞれに想いを込めて。

 ・「月」は百人一首に12首。22番歌の所で述べた「風」13首同様非常に多い。
   7.21.23.30.31.36.57.59.68.79.81.86

 ・千里は叔父業平の次の歌を参考にしたのではとの指摘もあった。
   月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして(伊勢物語4段)
   →「我が身ひとつ」の言い方は参考にしたんでしょうね。
   →高子に言い寄った叔父業平の行状は参考にしなかったのかも。

④大江千里というと「照りもせず」。源氏物語「花宴」が蘇ります。   
 不明不暗朧々月 (白氏文集) 
 暗カラズ明ルカラズ朧々タル月

 照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき(新古今集)

  いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、「朧月夜に似るものぞなき」とうち誦じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。
  →花宴2 源氏が終生好きだった朧月夜の鮮やかなる登場である。

  源氏 深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ

 紫式部は白氏文集に通暁していた。当然大江千里の句題和歌も熟読していたのでしょう。 紫式部も学者一家、大江家にも通じるものがあったと思います。

 学者(文章生)については源氏物語(特に夕霧の教育問題を扱った「少女」の巻)では世渡り下手なぶきっちょな人たちとして諧謔的に語られているのですが、これは「卑下も自慢の中」ということでしょうか。

話しが飛んですみません。。

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22番 山風に遊ぶ文屋康秀

さて22番目は山と渓をこよなく愛す我らが談話室仲間文屋多寡秀どののご先祖の登場です。どんな人物でどんな歌を詠まれたのでしょう。垣間見てみましょう。

22.吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ

訳詩:    それが吹けばたちまち
       秋の草木もしおれてしまう
       なるほどそれで  
       吹きおろす山からの風を
       嵐というのか

作者:文屋康秀 生没年未詳(?-885?) 六歌仙
出典:古今集 秋下249
詞書:「是貞親王の家の歌合の歌

①天武天皇の孫が臣籍降下して文室(ふんや)姓を名乗りその傍系が文屋となった。文屋康秀は下級官吏で最高官位は正六位上、縫殿助を勤めた。
 →天武帝から150年も経つと子孫は埋没してしまう。その没落氏族の一つ。
 (百人一首前半50首中、大和朝廷に仕えた有力な古代氏族だが平安期になると没落してしまった氏族に属するのが18人いる。後半では藤原氏全盛になり殆どいなくなってしまう=「百人一首の作者たち」より)
 →小野・文屋・大江・菅原・凡河内・壬生・坂上・春道・紀・清原・曽禰・大中臣の十三氏

 歌は巧みだったのだろう。古今集に5首、後撰集に1首だが六歌仙の一人で古今集序で論評されている。

  文屋康秀は、言葉はたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人のよき衣きたらんがごとし
  →商人がいい物着ては悪いんでしょうか。商人蔑視、まあ身分万能の平安時代、仕方ないですかな。

②康秀が生きた時代は小野小町・在原業平・僧正遍昭の頃(遍昭とは同年齢との説も)、順番が22番というのはちょっとおかしい。13番くらいが妥当だろうに。

 9番歌小野小町の所で触れたが康秀と小町は交遊関係にあった。
 (三河への赴任時いっしょに来ませんかと誘ったが小町はやんわり断った)

 22番歌の詞書「是貞親王の家の歌合の歌」=行平の在民部卿家歌合に次いで古い歌合
 是貞親王は光孝帝の第二皇子。「歌合」は893年頃とされる。康秀は885年没とされており辻褄が合わない。そこでこの歌は康秀のものでなく息子の朝康のものだという説も有力。
 →是貞親王の歌合には故人の歌も登場した、、ということでいいのではないか(片桐洋一説)

 古今集8番に二条后(高子)に召されて詠んだ歌が載せられている。
 →高子にも買われていた。歌人としては名を馳せてたのであろう。

  二条のきさきの東宮の御息所ときこえける時、正月三日のおまへにめして、仰せ言あるあひだに、日はてりながら雪の頭にふりかかりけるをよませ給ひける(長い詞書である)
   春の日の光にあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき

③さて、22番歌。漢詩に字訓詩・離合詩という形式があるがそのやまと歌バージョン。
 言葉遊びであり、つまらない、、、とする意見も多いようだ。
 →確かにちょっと待ってくれという感じだが気楽な息抜きということでいいのではなかろうか。
 →爺はこういう言葉遊び・洒落・ユーモアが大好きです。22番歌、「むすめふさほせ」だし好きな人も多いんでしょうね。

  同種の歌(言葉遊び的)として挙げられている歌を2首
  雪ふれば木毎に花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし 古今集 紀友則
  ことごとに悲しかりけりむべしこそ秋の心を愁といひけれ 千載集 藤原季通  
  
 「あらし」は「荒らし」で荒々しい風のこと。
 「颪」は国字だが「嵐」は中国からの漢字。意味は山を吹く風ということだったのか。それが転じて大和言葉として「荒らし=荒々しい風」を訓読みにしたのだろうか。

  「風」の歌は実に多い。百人一首に10首(12.22.32.37.48.58.71.79.94.98)
  「嵐」の歌は百人一首に3首(22.69.96)
  「颪」の歌は百人一首に1首(74)
   合計すると13首(22番がダブルので)が風関連の歌。
   →「雨」2首、「雪」4首、「霧」2首、「露」4首、「霜」3首、「霞」1首

④嵐もいいけど平安時代にあってはやはり「野分」という言葉の方がいいのでは。
 「野分」=野の草を分けて吹く暴風、台風
 野分は百人一首には出て来ない。なんででしょうねぇ。
 →「野分」は秋の季語だが「嵐」は季語ではない。これは重要ポイントかも。

 さて、「野分」と来ると源氏物語でしょう。

 ・桐壷8 野分の段、坪前栽の段とされてる所
  (桐壷更衣の死を桐壷帝が悼んでいるところ、宮城野は幼い光源氏)

  野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。

  宮城野の露吹きすさぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ 桐壷帝

 ・野分2 六条院に野分襲来、夕霧が憧れの義母紫の上を垣間見るシーン
  
  野分例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ。。。
見通しあらはなる廂の御座にゐたまへる人、ものに紛るべくもあらず、気高くきよらに、さとにほふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す

  →風の悪戯、、。見てはならないものを見てしまう。でも自制的な夕霧、この辺は夕霧ってまともな男じゃん、、、と思ったのものです。

 ・山に吹く荒々しい風、これはやはり宇治の山から吹き下ろす風のことであろう。
  晩秋、薫が宇治を訪れ姫たちを垣間見るシーン

   いと荒ましき風の競ひに、ほろほろと墜ち乱るる木の葉の露の散りかかるもいと冷やかに、ひとやりならずいたく濡れたまひぬ。

   山おろしにたへぬ木の葉の露よりもあやなくもろきわが涙かな 薫

 →「荒らし=荒々しい風」、これは慎ましく生きるか弱い人々にとってはとてつもないインパクトをもたらす「非日常」なんでしょう。

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