18番 住の江に夢路で通う 藤原敏行

ここから20番まで大阪の歌が続きます。百人一首では大阪は大都であります。

18.住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ

訳詩:    波は寄る 住の江の岸に
       私の思いも あなたの岸に
       ああ 夜の波を見つめつくして
       ひた嘆くわれとわが身の心弱り
       夢路にさえもおどおどと人目を避けて
       夜の波を見つめつくして

作者:藤原敏行朝臣 生年未詳-901 清和~宇多四代に仕える 能書家 三十六歌仙
出典:古今集 恋二559
詞書:「寛平御時后宮の歌合の歌

①清和~宇多四代に仕えるとあるが「百人一首一夕話」では27才没とある。若くしてなくなったのなら四代に仕えるのは無理だろうに。よく分かりません。

 父は有名でない藤原氏、母の方が重要。母方の紀氏について考えてみましょう。
 母の父=紀名虎 娘静子が文徳帝の第一皇子惟喬親王を生む 惟喬親王には皇位の目もあった。
 →一歩間違えば紀名虎は外戚として一大勢力を振るえたかも。
  そうはさせないのが藤原氏(良房)。結局紀氏は藤原の下位安全牌になっていく。

 敏行の妻は紀有常(名虎の息子)の娘 即ち従兄妹どうしである。
 17番在原業平の妻も紀有常の娘 即ち敏行の妻と業平の妻は姉妹
 →敏行は業平とも親交があった筈。色好み同士とのことだが、敏行の女性遍歴はあまり書かれていない。

 紀氏は紀貫之・紀友則と出て来るが結局政治の世界ではなすすべなく消えて行く。

②さて、藤原敏行 因幡守・右兵衛督を歴任、受領階級 中堅官僚
 能書家として名高い。小野道風は空海とともに敏行を能書家としてあげている。
 →能書家故の怖い逸話もあり。

 三十六歌仙 勅撰集に28首入撰
 →相当な歌人でしょう。

 何と言っても名高いのは古今集 秋の筆頭に載せられた歌
   
  秋立つ日よめる
  秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

  →これは分かりやすい。秋の気配を詠んで秀逸である。

③18番歌について

  うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ
                      (小野小町 古今集)
  →これが本歌という説もあるがどうだろう。夢は小町の得意技。

  18番歌は「寛平御時后宮の歌合の歌」として敏行の歌が二首ならんでいる内の一つ。(古今集558 & 559)

  558 恋ひわびてうち寝るなかに行き通ふ夢の直路はうつつならなむ
  559 住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ

  →「夢の直路」「夢の通ひ路」 夢の路が二つでてくる。

 人目よく(人目を避ける)の主語は歌を詠む本人か恋する相手か。
  →両説あるようだが定家に沿ってこの歌は敏行が女性になり代わって詠んだ。「人目よく」の主語は相手の男性。「ああ、、あの人は何で夢の中まで避けようとするのですか、、」との女性の恨み節と解釈しておきましょうか。

④住の江について
 ・大阪、淀川の南 住吉大社の所(海岸に接していた) 白砂青松の地

 ・住吉大社は源氏物語で大きな役割を果たす。
  明石の入道が住吉大社に願かけして娘(明石の君)の栄達(高貴な人の妻になり高貴な人を生む)を願う。これが成就していくのが「明石物語」

   住吉大社が出てくるのは二場面
   1.「澪標」京に戻った源氏がお礼参りに住吉大社を訪れ明石の君とすれ違う
     あらかりし波のまよひに住吉の神をばかけてわすれやはする(源氏)

   2.「若菜下」明石の姫君の皇子が東宮に。大願成就、源氏・明石一族揃ってお礼参りに。
     昔こそまづ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても(明石の尼君)
     →ああ、この場に明石の入道おらましかば、、、と思いました。

 ・住吉大社、大阪出張時に阪堺電車で訪れました。源氏物語のことはあまり出てきませんでした。 

【今日明日と「なごみ会」(那須で75才までゴルフと味覚をなごやかに楽しむ会)に行ってきます(源智平さん・枇杷の実さん参加)。コメント返信遅れます。ご容赦ください】 

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17番 プレーボーイの神さま 業平 - ちはやふる

さて、源融に続く第二のプレーボーイの登場です。

17.ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは

訳詩:    ちはやぶる神の御代にも
       これほどの景観は未聞のさま
       川水をからくれないにしぼり染めして
       目もくらむ真紅の帯の
       龍田川の秋

作者:在原業平朝臣 (825-880) 56才 16番行平の異母弟 即ち平城帝の孫 六歌仙
出典:古今集 秋下294
詞書:「二条后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形をかけりけるを題にてよめる

①出自 行平とは母が異なる。業平の母は桓武天皇の皇女伊登内親王。
即ち父の父は平城天皇、母の父は桓武天皇
→これって凄い血筋、血統的には超一流ではないか。

生まれは父阿保親王が大宰府から戻った直後か。2歳にして臣籍降下。
兄が真面目に出世街道を目指すが弟は奔放に裏街道(放縦人生)を歩む。

②日本史上ナンバーワンの色男(プレーボーイ)にして歌も名人
逸話はいっぱい。伊勢物語は色男業平の逸話集ということだろう。

重要なところをおさえておきましょう。
・藤原高子(後の清和天皇妃=二条の妃)との恋 高子は842生まれ、業平より17才下。入内は25才の時。入内前に業平が恋をしかける。高子は基経の妹(藤原家の切り札)、当然藤原家は困惑、高子を隔離してしまう。
→伊勢物語3段~6段(伊勢物語の第一エピソードが高子との恋)これで東下りとなる。
→入内が決まっている娘を襲う。源氏と朧月夜(花宴)を思い出す。

高子は入内してまもなく陽成帝を生む。
→「陽成帝は業平の子である」(目加田さくを=国文学者)との説もある由、まさかね。

・恬子(やすこ)内親王=文徳天皇皇女 清和帝即位で伊勢の斎宮に
伊勢物語69段に「かの伊勢の斎宮なりける人」として登場
→神に仕える斎宮・斎院への恋、これは禁忌である。
→源氏物語、斎院(朝顔)・斎宮(秋好中宮) 源氏も手出しできなかった。

臣籍降下した色男が奔放に女性に恋をしかける。コンセプトとしては光源氏のモデルの第一は業平ということだろう。
→源融には女性との奔放なエピソードはない。あるのは左大臣としての政治性+莫大な財産。
→光源氏は業平+源融ということだろう。

③業平は歌人としても一流 六歌仙 三十六歌仙 勅撰集に計87首
古今集序 業平評
在原業平は、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし
→貫之の評は例によって厳しい。業平は漢学ができなかった。まあ今の世の中で英語ができないから一段低く見られるのと同じか(偏見であろう)。

業平の秀歌(17番「ちはやふる」はボロクソだが)
月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして(俊成激賞)
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(公任激賞)
→「月やあらぬ」は伊勢物語4段、高子との恋の件。二首ともいいですねぇ。

④さて17番歌
古今集の詞書 「二条后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形をかけりけるを題にてよめる

伊勢物語106段 「昔、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、竜田川のほとりにて、」

ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは

→屏風を見ての題詠というより伊勢物語の方がずっといい。
それにしても昔噂のあった男を呼んで題詠させるとは二条の后も大したもの。

「からくれないに水くくる」の解釈は「水を潜る」説と「水をくくり染めにする」説とがある。
→私は定家の「水を潜る」説でいいと思うのですが。

⑤竜田川&三室山、古来よりの紅葉の名所 69番歌はそのもの。
→在六少将さんのお住まいの近く。ここは少将どのに解説いただきましょう。

⑥「千早ふる」 落語あり。
→お相撲さんの話。先日百合局さんから紹介あった落語「陽成院」も相撲取りの話ですね。

「ちはやふる」 アニメ。これで百人一首は子どもたちにも大普及した。
→小町姐さん、読んでおられますか?

松風有情さんより17番「ちはやふる」の絵いただきました。ご覧ください。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/05/KIMG0159.jpg

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16番 中納言行平 いざ因幡国へ

16番・17番、在原行平・業平兄弟が並びます。この二人に12番遍昭・14番源融・15番光孝天皇を加えた5人は全く同世代(820-890くらい)を生きた人々です。もう一つ加えると藤原基経(836-891)も同世代です。

16.立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞けば今帰り来む

訳詩:    名残りは尽きない でもお別れです
       都をあとに私が行くのは因幡の国
       松で知られる稲羽山のあるところ
       でも あの峰の松ではないが
       あなたがたが待つとのみ言ってくれるなら
       そうです すぐにでも私は帰ってきます

作者:中納言行平(在原行平)(818-893) 76才 平城天皇の孫 在原業平の異母兄
出典:古今集 離別365
詞書:「題しらず」

①出自 父は平城天皇の第一皇子阿保親王 母は未詳(業平の母より劣る) 三男
 即ち天皇の孫です。それがなんで中納言どまりなのか。父阿保親王を考えねばなりませんん。

 阿保親王(792-842) 
 平城天皇の第一皇子だが皇位継承は弟の嵯峨天皇に決まっており天皇の目はなかった。
 810 薬子の乱(平城上皇と嵯峨天皇の争い、嵯峨の勝ち)に連座 太宰権師に左遷
 818 大宰府にて行平誕生 824 許されて京にもどる
    →父の左遷中に生まれ7才まで大宰府で育っている。
 826 行平・業平に在原姓を与えて臣下に落とす。行平9才 業平2才
    →光源氏が臣籍降下したのは7才だった。似ている。
 842 承和の変(伴・橘氏の反乱)巻き込まれなかったが消耗した形で死去
 →行平・業平兄弟にはこの父の生き様が深く影響していよう。
  行平の剛直と政治性・業平の放縦と非政治性(この辺「百人一首の作者たち」参照)

②行平は仁明・文徳・清和朝にて順調に出世する。
 →最終官位が三位中納言、まあ藤原全盛だから仕方ないところか。
 
 855 38才の時因幡守になり赴任の時詠んだのが16番歌。
 その後も受領として地方を歴任し中央でも民部卿まで勤めている。
 →剛直な良吏型官人であった。地方での善政の話が残されている。
 
 行平の文政
 ・学問所として奨学院を設立(藤原氏の勧学院と並ぶ学問所)
 ・在民部卿(行平)家歌合を主催
  →記録に残っている最古の歌合。これは偉い! 源融もやっていない。

③さて、16番歌
 ・因幡へ赴任の時か帰任の時か。
  →両説あるようですが多数説の赴任時でいいと思います。白洲正子は帰任説。
   赴任の歓送会、妻とか家族とかいうより同僚・部下との歓送会ではなかろうか。
   宴が盛上がり「へぇ~い、ユキちゃん、一首どうぞ!」と囃されて立ち上がった。
   (「立ち」は強意の接頭語の由だが「立ち上った」も掛けているのでは)

   掛詞を巧みに使った軽妙な一首で悲しい響きはしない。
   「元気に行って来ま~す。でもすぐに帰って来まっせ!」という感じか。

④「いなばの山」
 諸説あるようだが通説の因幡国(鳥取県)国府町の稲葉山(249M)でいいでしょう。
 →国府町だから行平は因幡守としてこの町へ行ったのでしょうから。
  (地図で見ると因幡国庁跡の近くに稲葉山249Mがあります)

⑤さて、ここから源氏物語関連
  
 古今集 巻十八 雑歌下 962
 「田村の御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人につかはしける    在原行平朝臣」
  
  わくらばに問ふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶとこたへよ

 続古今集 羈旅
 「津の国の須磨といふ所に侍りける時よみ侍りける 中納言行平}

  旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風

 →行平は因幡守の後に播磨守(859-860)になっている。田村朝(文徳天皇)は850-858だから播磨守として明石に行く前に何かあって須磨に居たことになる。
 →須磨から明石へ、、、。正しく源氏物語ではないか。

 源氏物語で行平を引用したところをあげておきましょう。
 須磨の秋、源氏物語中でも屈指の名文と言われるところです。

 須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。。。。。

  恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらん(源氏@須磨15)

 →「源氏物語道しるべ」で式部さん(百合局さん)の朗読を是非お聞きください。
  「源氏物語道しるべ」-朗読源氏物語(by式部)-須磨―須磨15 です。

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15番 延喜聖代の祖 光孝天皇 若菜つむ

55才にして皇位が舞い込んで来た光孝天皇。もしこの即位がなければ平安の歴史は大きく変わっていたかも。ターニングポイントに位置する天皇であります。

15.君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

訳詩:    あなたにさしあげようと
       早春の野に立ちいでて
       若菜をつむとき
       私の着物の袖に
       雪は散り 雪は散ります

作者:光孝天皇 (830-887)58才 第58代天皇 即位 884-887 3年間
出典:古今集 春上21
詞書:「仁和帝、親王におはしましける時に、人に若菜たまひける御歌」

①父は仁明天皇 親王時代の名は時康親王。父に似て温和、秀麗、学問・和歌・音曲にも通ずる。ただ皇位は仁明→文徳→清和→陽成と文徳系で占められ時康親王の目など全くなかった。

 そこへ降ってわいたのが13番歌でみた陽成院の廃位。基経は考えた挙句55才の時康親王を抜擢(時康とは従兄弟どうし=母が姉妹)。

 即位した光孝天皇は基経に敬意を表し一代限りの証しに多数いた皇子を全て賜姓源氏にしてしまう。政務も全て基経を介して行う(関白の始まり)。

 やがて退位するにあたり光孝天皇は一大決心、一度臣籍降下させ源定省と名乗っていた皇子を皇籍に戻し宇多天皇として即位させた(基経も同意させられた)

 →温和な光孝天皇、一世一代の大博打だったのかも。

 これが宇多系の始まり。即ち光孝→宇多(寛平の治)→醍醐(延喜の治)→朱雀→村上(天暦の治)と聖代が続いて行く。

 →もし光孝天皇の即位なくば醍醐天皇もない、古今集も編まれてなかったかもしれない。
  光孝天皇は平安和歌隆盛の大恩人である(吉海直人)

②親王時代が長かった時康親王。聡明・秀麗・温和なことから光源氏のモデルだとも言われる。
 親王時代に謁見した渤海国の使者は時康親王を見て、
  「この皇子至って貴き相おはしませば天位に上ぼり給はん事疑ふべからず
 と言ったとの記録がある。

  →桐壷の巻で高麗人の観相が7才の光源氏を見て言った言葉に通じる。
  
  「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷のかためとなりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし

  →源氏物語はこの高麗人の見立てに従って展開していくのです。

 もう一つ、徒然草第176段は光孝天皇が天皇になっても昔のことを忘れず煤けた黒戸をそのままにしていたという逸話を語っている。

  黒戸は小松御門(光孝天皇)位につかせ給ひて、昔ただ人におはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営なませ給いひける間なり。御薪にすすけたれば、黒戸といふとぞ

③歴史・人物が長くなり過ぎました。すみません。肝腎の歌です。
 若菜 春の食用草、邪気を払うとして正月の宮中行事になっていった。

 この歌は春の明るさを優しく詠んだ歌であろうか。親王自身が若菜を摘んだ訳ではなかろうが雪に袖を濡らして苦労して摘んだのですよ、私の心を分かってくださいね、、という優しい感じがする。

 ・「若菜」と言えば源氏物語。当然定家はそれを意識して撰に入れたのであろう。
   源氏四十の賀を玉鬘が六条院で行う。
    小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき(光源氏)
     →この翌月女三の宮が六条院に降嫁してくるのであります。

 ・1番歌が天智系の祖 天智天皇 「、、、、、わがころもでは露にぬれつゝ」
  15番歌が宇多系の祖 光孝天皇 「、、、、、、わが衣手に雪は降りつつ」 
 
     →これも意識した対比でしょうか。かるた取りには厄介ですねぇ。

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番外 奈良へ行ってきました - その3

続きです。

6日目 晴れ 真夏日
・室生寺 朝9時着 拝観受付の人もいない(掃除していた)
 石楠花は咲き残りの一二輪のみ。紅葉の新緑がすごい。紅葉時はさぞかしでしょう。
 女人高野と呼ばれるだけあって相当山深い所にある。

 金堂 御本尊釈迦如来 右に薬師如来・地蔵菩薩 左に文殊菩薩・十一面観音菩薩
    前に運慶作十二神将像 これだけで17体 他にもおられたようで超過密
 →寺の人が詳しく説明してくれた。穏やかな十一面観音、小ぶりながらユーモラスな十二神将
(室生寺に通った土門拳は全てニックネームをつけていた由)

 五重塔 高さ16.1M 国内で最小 法隆寺の塔に次いで古い。1998年台風で杉が倒れ大被害
 →倒れた杉、根本が残っていた。腐ってボロボロだった由。写真見たが無惨だった。

・長谷寺 昨年末雨の中在六少将さんの案内で小町姐さんと訪れた。今回2回目。
 牡丹は終わり芍薬が少し咲いていた。花の寺の端境期である。
 昨年案内してもらったと同じコースで周遊。

 二本の杉 ふたもとの杉のたちどを尋ねずはふるかわのべに君を見ましや(右近)
 貫之の梅 35番 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
 本堂 御本尊十一面観音菩薩特別公開 おみ足に触ってきました。
    舞台から見る万緑は見応えがあった。正に薫風(俳句はできませんが)

 下って本坊から見上げた本堂も迫力ありました。2回目なので余裕を持って同行者を案内することができました。「ほら、ここで振り返るんだよ」なんて言いながら。

・大神神社 駐車場所を間違えて随分と歩かされた。失敗。
 三輪山がご神体。三輪山伝説、山の辺の道
 →ちょっと疲れててなおざりにしか見れなかった。

・橿原考古学博物館 どこを掘っても何か出てくる藤原京跡
 →ガイドの人が詳しく説明してくれた。考古学、全く門外漢ですが少しは分かったような気がします。

・橿原神宮 神武天皇陵の傍 神武天皇が祭神 
 →明治神宮みたいな感じでした。

7日目 雨模様
・石上神宮 帰途天理IC近くで立ち寄り
 神武天皇を救った神剣を祀る。尾長鳥が多数いて大声で鳴いていた。
 小野小町が12番歌僧正遍昭を訪ね歌を応酬した石上寺もこの付近か。

天理IC - 名阪国道 - 伊勢自動車道 - 新東名 で帰りました。土曜日でしたが空いていてラッキーでした。

6泊7日、よく頑張りました。あまり予習もせずぶっつけ本番的でしたが行く先々で人の話を聞きガイドブックを読んで大分色んなことが分かりました。古代史(平城京以前)がより身近なものになりました。奈良にゆっくり行ってみたいというカミさんの念願も叶えられてよかったです。

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番外 奈良へ行ってきました - その2

続きです。

4日目 台風一過で快晴 在六少将さんの案内でレンタサイクルでの飛鳥巡りです。
 →飛鳥、けっこう起伏もあり電動サイクルでよかった。レンタルショップのおじさんによると「電動は限られていて予約も受け付けてない、ラッキーでしたね」とのこと。

・起点は亀石営業所 
・甘樫丘(標高約150M)飛鳥の里、藤原京を一望 大和三山&多武峰も
 →飛鳥京はすぐ山が迫りいかにも狭い。藤原京は広大(発掘調査途上だが)。
 →多武峰の威容がすごい。飛鳥人は多武峰を仰ぎ多武峰に護られてたのだろう。
・水落遺跡 天智が作った水時計(漏刻)跡。
・飛鳥寺 蘇我馬子建立 丈六の釈迦如来坐像 
  入鹿の首塚 & 中大兄と鎌足がであった蹴鞠の広場(槻の広場)
・板蓋宮跡 ここがクーデターの現場(乙巳の変) 
 →入鹿の首塚まで約500M 首塚まで首が飛んでも不思議ではない。
 →日本の歴史が動いた場所。今はのどかな田園、ヒバリにモズ、ギンヤンマもいた。

・万葉文化館 飛鳥京の工房跡。「天上の虹」作品展をやっていた。
・犬養万葉記念館 休日でパス 昔の民家風建物だった。
・酒船石遺跡
・岡寺 上りかけたが自転車をおいて徒歩で行かねばならず断念。
・石舞台 馬子の墓、一番有名なところ。中に入って写真を撮ってもらった。

・橘寺 聖徳太子の生誕地 二面石 芙蓉がいっぱい。柑橘の伝来地とも。
・亀石、マラ石 至るところに謂れある石がいっぱい。
・高松塚古墳 壁画館 壁画の模写迫力あり。こんなの出てきたら吃驚したでしょうね。
・天武・持統天皇陵 「サラさん、安らかに」と念じて通り過ぎました。

レンタサイクルを返し車で多武峰山麓の聖林寺へ
・聖林寺 鎌足の長男定恵建立 十一面観音(フェノロサ激賞、在六少将さん推奨)

いやあいっぱい回りました。大化の改新(乙巳の変)の舞台に立てて感慨深かったです。飛鳥の里がこんなに狭い所とは思いませんでした。甘樫丘から多武峰を眺める景色は最高でした。

5日目 晴れ(帰り談山神社へ行く所で雨になった)
吉野へ 橿原から1時間もかからず着いた。
・吉野神宮 後醍醐天皇を祀る神社、明治創建 そうだ、南朝があったんだ。
 →建武中興、南北朝、太平記のことは目下興味の外でありまして、、、。

シーズンオフ平日の朝10時誰もいない。どうしたものか迷っていると吉野山駐車場の土産物屋のおじさんが元ボランタリーガイド。車で奥千本まで行けるよって地図を書いて詳しく案内してくれた。おじさん、ありがとう!

・金峯山寺 蔵王堂 大仏殿に次ぐ日本第二の古建築 現在のは1592秀吉が造営。
 →檜皮葺の大建造物、すごい迫力。金剛蔵王権現は公開日が過ぎてて見れず。
・吉水神社 日本最古の書院建築、見たかったが修理中で入れず。
・勝手神社 大海人が舞姫を見たところ(五節の舞のゆかり)静御前も舞を舞った。
 →鳥居があるだけで通り過ぎた。
・吉野水分神社 上千本 秀吉が建立 狭いながらも風格があった。
・金峯神社 奥千本 ここまで来ると修行神社の趣 
 →ここから西行庵まで徒歩片道20分、眺めやるのみにとどめた。

下千本・中千本・上千本・奥千本とそれぞれの所での桜は見応えあるのでしょう。桜の花がなかったせいもあるが吉野山は杉だなとの印象でした。

下って(狭い生活道路、対向車がなくてよかった。勿論シーズン中は通行止め)
・宮滝(吉野宮跡) 吉野資料館で勉強 
 →この吉野宮に持統天皇は31回も行幸した。余程思い入れがあったのだろう。
 →壬申の乱の出立地でもある。
 柴橋から吉野川を眺める。巨石の渓谷が見事だった。

持統が通った道を通って多武峰山麓の談山神社へ、夕立来る。
・談山神社 中大兄と鎌足が入鹿を撃つべくクーデター計画を話し合ったとされる。
 →神社縁起に蹴鞠の場面から語らいの場面斬殺の場面まで詳しく書かれていた。
 →爺としても乙巳の変、現場を大体辿れて感慨深かった。

長くなりました。また続きにします。

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番外 奈良へ行ってきました - その1

5月10日~16日、6泊7日で奈良へ行ってきました。修学旅行やら家族旅行やら出張やらで単発的に有名な所を訪れたことはあるのですがこんなに長くゆっくり回れたのは初めてでした。往路伊賀上野の道の駅でカミさんが躓いて転倒、膝を打撲。初日2日目はおっかなびっくりでしたが幸い大事には至らず何とか回ることができました。桜・牡丹・石楠花みんな終わったオフシーズンでしたがそれだけに各地ともガラガラ、貸切り状態で国宝の仏さまに対面することもできました。

奈良在住の在六少将さん(万葉さん)には計画時からアドバイスをいただき4日目は丸一日飛鳥を案内してもらいました。お蔭さまで充実した古代史を訪ねる旅ができました。ありがとうございました。

以下例によって備忘録的一口メモです。どうぞ何なりつっこみを入れてください。

1日目 晴れ 爽やかな五月晴れ
・若草山山頂 342M 新若草山ドライブウェイで
 奈良盆地と山なみ(生駒山~信貴山~二上山~葛城山~金剛山)を一望
 →地形が概略つかめた。奈良盆地はけっこう広い。平城京跡がよく見える。
 →平城京跡が中心で東大寺は郊外、春日大社はどんづまりだった。

・ならまち~元興寺へ行きたかったがカミさん負傷で大事をとった。

2日目 晴れ 夏日、暑かった(タクシー・バスで)
・春日大社 御蓋山がご神体 式年造替で御本殿特別公開中(普段も公開してもいいのに) 
 →ここで仲麻呂ら遣唐留学生は航路の無事と使命の成就を祈念した。

・東大寺 春日大社から下り道をゆっくりと
 手向山八幡宮 大寺には必ず神社がついている。24番歌道真の歌碑あり。
 法華堂(三月堂) 時間と拝観料節約で中には入らず
 二月堂 下からも上からも大迫力。お水取りの松明見たが70KG坊さんも体力勝負だ!
 正倉院 初めて行った。外観だけ。頑丈、いかにも宝物庫然としていた。
 戒壇堂 鑑真が戒を授けた所。万葉さん絶賛の四天王像→間近に見えて感動した。
 大仏殿 さすがに人多い。修学旅行・外国人。大仏さまはやはり偉大。
 
・興福寺 初めてだった。意外にこじんまり。中金堂修復中で砂埃が舞っていた。
 東金堂 薬師如来他居並ぶ古き仏さまたち。仏さまの並び方を勉強した。
 五重塔 高さ50.1M 奈良のシンボル、この塔が何百円かで売りに出されたとは!
 国宝館 国宝がありすぎて却って印象薄い。阿修羅像は思ったより小さかった。
 →維新の廃仏毀釈が何と愚かだったか。タリバンやイスラム国の愚挙を笑えない。

3日目 台風接近で曇り~雨
・法隆寺 9時前に着いた。ガラガラ。寺の人に解説してもらいじっくり見物できた。
 金堂 釈迦三尊像他。四天王像もいい。壁画(再現壁画)もじっくり見た。
 五重塔(四面の塑像群)・大講堂(薬師三尊像)
 大宝蔵院 百済観音像(十頭身かも)玉虫厨子(意外に大きい)夢違観音(小さい)
 夢殿 雨になった。八角円堂は印象に残る。
 →小6の修学旅行で法隆寺が一番よかったこと覚えている。この寺は偉大だ!

・中宮寺 初めて。如意輪観音「世界の三つの微笑像」アルカイックスマイル。
 →確かに微かに微笑んでいるように見える。飛鳥彫刻の最高傑作と言われるも納得。

・法輪寺・法起寺 万葉さん推奨の三重塔、立ち止まって外から見ただけ。

・薬師寺 東塔が修復中で昭和の伽藍だけ。薬師三尊像はよかった。
 →平山画伯の大壁画、300年後を見据えた企てだろうか。

・唐招提寺 正面の金堂が素晴らしい。廬舎那仏像など三尊も迫力あり。
 →何と言っても鑑真和上のお寺。「若葉して御目の雫ぬぐはばや」芭蕉
 →折しも雨、若葉が目にしみる候であり感慨深かった。

・平城京跡 だだっ広い。朱雀門に車を停め第一次大極殿を遠望した。
 →ここが平城京の中心部。春日大社まで道が一直線に伸びる。突き当りが御蓋山。
 →空にヒバリ、湿地にオオヨシキリ。今後どんな観光名所に仕立てていくのだろう。

ここまで法隆寺・中宮寺は奈良以前だが他は平城京時代のお寺。仏教の普及という点からすると大仏建立の聖武天皇、光明皇后の尽力が大きかったのだろう。

以下、その2に続きます。

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14番 源融 風流貴公子が詠む「しのぶの乱れ」

さあ、百人一首三大プレーボーイの先陣を切って智平朝臣どの推奨の源融の登場です。

14.陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに

訳詩:    陸奥の信夫のもじずり 
       黒髪おどろに乱したようなその乱れ模様
       それは今の私のこころだ
       あなたは私を疑っておいでなそうな
       なさけなや あなたよりほかの誰を思うて
       こんなにこころを乱すものか

作者:河原左大臣(源融)(822-895)74才 嵯峨天皇皇子 賜姓源氏 左大臣
出典:古今集 恋四724
詞書:「題しらず

①源融 嵯峨天皇の皇子、恐らく若くして賜姓源氏に。別に政治的敗者としてでなく大手を振って臣下になったのであろう。
 →光源氏のモデルと言われる所以。皇子などよりのびのびやりたいことができる。

 頭もよくやり手、左大臣にまで昇る。勿論権勢欲もあり62才の時陽成院廃位のことがあり誰を次期天皇にするかの場面で「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」(大鏡)と自分を売り込んだが基経から一蹴される。
 →いきなりでは無理でしょう。基経に巨額の賄賂でも積んだらよかったかも。。

 遊楽を好み豪奢な生活をやりたい放題。
 河原院(源氏物語六条院のイメージモデル)は風流人のサロンであった。奥州塩釜の風景を模した庭園、池には難波から毎日二十石の海水を運ばせ海の魚介を飼育、塩焼きを行った。
 →毎日3.6トンの海水。凄いと言おうか馬鹿げたと言おうか。
 →伊勢物語第81段にそっくりこの話が載せられている。
 →死後100年経って荒廃した河原院を詠んだのが47番歌「八重葎」(恵慶法師)
 →源氏が夕顔を連れ込んだ「なにがしの院」はこの河原院がモデル

 宇治に山荘(後の平等院)、嵯峨に棲霞観(後に清凉寺)
 →こんな莫大な資金どこから出て来たのだろう。余程財テクに長けた大臣だったのか。

 面白いこと多く切りがないのでこの辺で人物像は終わりにします。

②歌の鑑賞
 「陸奥のしのぶもぢずり」「しのぶの乱れ」の歌語としての定着はこの歌から。
 女からの疑いを受けそれに応えて身の証しを詠んだ歌。

 やはり伊勢物語初段を引かない訳に行きません。

  昔、男初冠して、平城の京春日の里にしるよしして、狩にいにけり。その里にいとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。おもほえず古里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、忍摺りの狩衣をなむ着たりける。

 春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず
となむ、をひつぎていひやりける。ついで、おもしろきことともや思ひけむ。

 みちのくのしのぶもじずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人はかくいちはやきみやびをなむしける

 →これを下敷きにしたのが源氏物語若紫 源氏、紫の上を垣間見のシーン
  (源融・在原業平、二人の好色貴公子が光源氏に重なる仕組みである)

 源融、歌人としては勅撰集に4首(古今集・後撰集各2首)。まずまずの歌人か。
  古今集に入ったもう一首は
   ぬしやたれ問へどしら玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ(古今873)
   →五節の舞の翌朝かんざしの玉が落ちていたという歌。奇しくも12番歌「天つ風」の次に載せられている歌である。

③陸奥の信夫の里、福島市 信夫山(275M) 近くに文字摺石がある。
 源融、国司を勤めたことはあるようだが遥任であり陸奥など行ったことなかったであろう。

 さて、文字摺石と言えば奥の細道(信夫の里 新暦6月18日)

  あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥か山陰の小里に石なかば土に埋もれてあり。里の童べの来たりて教えける。「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草をあらして、この石を試みはべるをにくみて、この谷につき落とせば、石の面下ざまにふしたり」といふ。さもあるべきことにや。

   早苗とる手もとや昔しのぶ摺

  →芭蕉も伊勢物語、源氏物語、百人一首を想い感慨にふけったことであろう。

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13番 陽成院 筑波山に託した真摯な恋情

さて、面白いところに入ってきました。若くして(17才)帝位を追放された13番陽成院、次の天皇に自薦するも無視された14番源融、55才にして皇籍に復帰し帝位についた15番光孝天皇、もし廃位なかりせば天皇になっていたであろう20番元良親王(陽成の第一皇子)。この四人の織りなす人生模様、じっくり考えてみましょう。
 →「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)p60以下精読されたし。

13.筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる

訳詩:    思ってもみてください 東の国の筑波山の
       峰から細々おちてくるわずかな水も
       つもれば満ちて男女川ともなるというのに
       思ってもみてください 私の恋は
       つもりつもって 今ははや 深い淵

作者:陽成院 (868-949)82才 第57代天皇 父は清和天皇、母藤原高子(たかいこ)
   →母高子(二条の后)は業平と相思だったことで有名(また後程)
出典:後撰集 恋三776
詞書:「釣殿のみこに遣はしける」

①陽成院 9才で即位 母の兄藤原基経が摂政に
 15才で元服、脳の病気となり奇行・乱行(狂暴性あり)多く17才で退位させられる。
 →即位も退位も全て基経の手の内、藤原摂関政治確立へ向けての過程の一コマである。

 この奇行・乱行の様子が書かれているのは正史「三代実録」、その後「愚管抄」「神皇正統記」も厳しくフォローしている。近習を手打ちにしたり牛馬を虐待したり。
 →正史とは言うものの全て勝者の筆によるものでどこまでが真実か分からない。
 →確実なのは万事基経の権謀によるものだったということ。

 陽成天皇は退位後陽成院として82才まで生きた。
 →65年間にも及ぶ上皇暮らし、ストレスもたまったことだろう。
 →出家して仏の道に勤しむなんてことは考えなかったのだろうか。

②陽成院の歌で勅撰集に入っているのはこの13番歌一首
 →さしたる歌人ではなかった。定家の撰は人物撰である。

 13番歌、万葉集 東歌を本歌としていると言われている。
  筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにも絶ゆらに我が思はなくに
   →東歌らしく豪快でなかなか良い。

 詞書「釣殿のみこに遣はしける」
   相手は光孝天皇の娘綏子(すいし)内親王 後に陽成院妃になる。
   →ストレートな恋情を切々と訴えている。
    (どこかに「凄みのある殺し文句的表現」との評があった)

   →院の鬱積した想い、77番崇徳院の「瀬をはやみ」にも通ずるか。

③筑波嶺、出ました! 筑波山です。男体(871M)女体(877M) やや女性上位
(低いながら百名山、山のない下総国(千葉北部)から見れば山の象徴なのです)
 
 筑波は東国の歌枕、特に年一回の自由結婚を認める歌垣の地として有名
 →有名であったが京の皇族・貴族はこんな辺境まで来たことなどなかったろう。

④筑波山のある常陸は大国、国府は石岡にあった。
 平安京から見れば一番遠い東国だったのではないか。源氏物語には常陸に赴いた常陸介が二人登場する。
  1. 空蝉の夫 空蝉も常陸に同道した。帰る途中で源氏と逢ったのが逢坂の関
  2. 浮舟の義理の父 浮舟も常陸で育った。
    →常陸帰りの浮舟が登場することから「東屋」の浮舟物語が始まる。
     
    東屋冒頭:筑波山を分け見まほしき御心はありながら、、、
    (薫が一度チラリと見た筑波山=浮舟をじっくり見たいと思っている、、、)

ゴチャゴチャ書きましてすみません。興味のあるところピックアップしていただけば結構です。
筑波山が出てくることもありますが爺はこの素直で率直な恋の歌、大好きです。

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12番 僧正がずっと見てたい五節の舞姫

百人一首で一首あげろと言われればこの歌をあげる人も多いのでは。有名な歌です。

12.天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ

訳詩:    空渡る風よ 厚い雲を吹き寄せてくれ
       天上へ帰ろうとするうるわしい天つ乙女の
       通路を吹き閉ざしてくれ
       乙女らはなおしばし
       地上にとどめおきたいものを

作者:僧正遍昭 (816-890)75才
出典:古今集 雑上872
詞書:「五節の舞姫を見てよめる」

①俗名 良岑宗貞 桓武天皇の皇孫にあたる。父の母が身分低く父が良岑姓を賜って臣籍降下。美男で仕事もでき仁明天皇に重用され順調に出世するが仁明天皇の崩御にあたり殉じて出家(@35才)。
 →賜姓源氏ならぬ賜姓良岑。美男・能吏、、、何となく光源氏を彷彿させる。

 出家後僧正にもなり仏教界の重鎮としてリーダーシップを発揮する。光孝天皇(15番)とは乳母兄弟(遍昭が12才上)で竹馬の友の間柄。宮中にも出入りし奔放にふるまった。
 →凡そ線香臭い僧侶ではない。バリバリの現役であった感じ。75才まで長生き。

 二人の息子も「法師の子は法師になるぞよき」ということで出家させる。その弟の方が21番素性法師。
 →ちょっと強引な感じ。

②歌人としても六歌仙、三十六歌仙に撰ばれている。
 古今集序の僧正遍昭評:
  僧正遍昭は歌のさまは得たれども、まこと少し。
  たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

  →ちょっと辛口のようだけど古今調として貫之も買っていたのであろう。

 僧正遍昭の他有名歌
  浅緑いとよりかけて白露を珠にもぬける春の柳か(古今集)
  わび人のわきてたちよる木のもとは頼むかげなく紅葉ちりけり(古今集)

 仁明朝で宮中に居た小野小町とは昵懇で(どこまで関係あったか不詳だが)歌の機智に富んだ歌の贈答などをしている。

  大和の石上寺で(京都の清水寺という説もあり)
   石の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に貸さなむ(小野小町)
   世にそむく苔の衣はただ一重貸さねば疎しいざ二人寝む(僧正編昭)
   →こんな歌交し合う仲、光源氏なら、、、、ねぇ。

③五節の舞 11月新嘗祭の後宮中で4日間豊明節会がありそこで未婚の貴族女性5人が舞を舞う。
 →五穀豊穣に感謝する重要な宮中儀式、さぞ華々しい衣裳・舞だったのだろう。

 源氏物語少女に五節の舞の場面が登場する。
  雲居雁との筒井筒の恋がうまくいかない夕霧に五節の舞姫として源氏の寵臣惟光の娘(藤典侍)が現れ恋が芽生えるというお話です。

  をとめごも神さびぬらし天つ袖ふるき世の友よはひ経ぬれば(源氏 @少女)
   →これとは別に源氏が昔関係のあった筑紫の五節を思い出して詠んだ歌。
   →この源氏の歌も12番歌を下敷きにしている。

④さて、歌の鑑賞ですが、とにかく分かりやすい歌です。きれいな舞姫をずっと見ていたい、、、。序詞も掛詞もひねりも何もない。単純明快、ストレートな実直な歌でいいと思うのですがいかがでしょう。

【10日から16日まで奈良・飛鳥に行ってきます。石上神社もできれば行きたいのですがどうなりますやら。返信遅れると思います。ご容赦ください。どうぞみなさんでドンドン談話を進めてください】

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