81番 源平争乱の世を生きた徳大寺実定 ほととぎす

81番に入りました。後、五分の一、20首です。
後徳大寺実定、時代はぐっと下って平家台頭の時代に生きた藤原貴族です。順番的には80番台後半が定位置だと思うのですが何故か早めに登場してます。平氏の台頭~源平の争乱をバックに実定について考えていきましょう。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
81.ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:   待ち明かしたほととぎす
      一声鳴いて あとはほのか
      空をさぐれば
      あの声の あれは残夢か
      ただひとつ 有明の月ほのか

作者:後徳大寺左大臣(藤原実定)1139-1191 53才 俊成の甥 定家の従兄弟
出典:千載集 夏161
詞書:「暁に郭公を聞くといへる心をよみ侍りける」

①藤原実定 1139-1191 53才
 25藤原定方、51藤原実方、そして81藤原実定。。。ヤヤコシイ。
・後徳大寺の左大臣(従二位)と呼ばれる。
 閑院流。始祖は兼家の弟公季。右大臣として甥道長を支える。
 時代が下って閑院流は天皇の外戚を占める主要な家流となっていく。
  白河帝生母茂子は3代公成の娘
  鳥羽帝生母苡子は4代実季の娘
  崇徳帝・後白河帝生母璋子は5代公実の娘

・実定の祖父徳大寺実能は璋子の兄(璋子は実定の大叔母)
 実定の父は公能(二位右大臣、多芸多才、勅撰歌人(32首)、西行らとも交遊)
 実定の母は藤原俊忠の娘(俊成の妹)、従って実定と定家とは従兄弟(定家が23才年下)
 →徳大寺家(実能が始祖)は当時歌人の有力パトロンであった。

 さらに、
 実定の同母姉忻子は後白河帝の中宮に。
 同母妹多子は近衛&二条両帝の皇后となり二代の后と呼ばれる。
 →平家なんぞが出て来なければ徳大寺家、実定は政権の中枢に行けてたのではないか。

・実定の一生を辿るには平氏の台頭~源平の争乱の年表が必要
 1118 平清盛・西行誕生 
 1139 後徳大寺実定誕生
 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1160 清盛 参議三位
 1167 清盛 従一位太政大臣(平氏政権成立)
    (実定は二位まで上がったが1165-1177失職 作歌で身を慰める)
    (1177実定、復職、大納言左近衛大将に)
    (その後実定は源平の間を泳ぐように右大臣左大臣などを歴任)
 1178 清盛娘徳子(高倉帝中宮)安徳帝を生む。
    →平家絶頂へ。清盛が「この世をばわが世とぞ」思った時代。
 1180 福原遷都 源頼政、以仁王を擁し挙兵、源頼朝挙兵
    →のろしが上がり始める。
 1181 清盛熱病で死去
 1183 木曾義仲、京制圧
 1184 源義経、京制圧 
 1185 義経、壇の浦で平氏を滅亡させる
 1190 義経追討、頼朝上洛 1191実定死去@53才
 1192 後白河院崩御、頼朝鎌倉幕府を開く

 →保元の乱以降武士の世になっていったことが如実に分かる。
 →平氏の台頭に誇り高い藤原公家はどう身を処したのか。
 →あっちへ行ったりこっちに戻ったり。バランス感覚が必要。でも官位役職は離さない。

②歌人としての後徳大寺実定
・詩歌・管弦に秀ず。教養深き文化人。蔵書家としても名高い。
 千載集以下勅撰集に78首。私家集「林下集」多くの歌合、歌会に参加
 →作歌活動は専ら1167-1177の浪人時代だった。その後は力が入っていない。

・平家物語に何度も登場する。
 1 巻二 徳大寺の沙汰 けっこう長い。
   実定は平宗盛に右大将の官職を越えられて籠居、平氏に抵抗するのが能でないと悟った実定は平氏(清盛)に迎合すべく厳島神社に参詣。それを知った清盛により左大将に任じられる。
   →虚構かもしれないがまあ、長いものには巻かれろと考えたのだろう。

 2 巻五 月見
   福原に都が移った中秋、実定は京に残った妹多子(二代の后)を慰める。
   実定が訪ねた時大宮(多子)は月を愛で琵琶を弾いている。
   宇治十帖(橋姫)が引用されている。

    源氏の宇治の巻には、うばそくの宮の御娘、秋のなごりを惜しみ、琵琶そしらべて夜もすがら、心をすまし給ひしに、在明の月いでけるを、猶たへずやおぼしけん、撥にてまねき給ひけんも、いまこそ思ひ知られけれ。

 3 灌頂の巻 大原御幸~六道之沙汰~女院死去
   後白河院が大原に建礼門院徳子(清盛の娘、高倉帝中宮、安徳帝生母)を訪ねる。
   これに徳大寺実定も随行。白河院と建礼門院との昔話は涙を誘う。
   最後に実定と徳子は歌を交し合う。

   実定 いにしへは月にたとへし君なれどそのひかりなき深山辺の里
   徳子 いざさらばなみだくらべん時鳥われもうき世にねをのみぞ鳴く
      →何と「ほととぎす」である。

・実定の歌
  晩霞といふことをよめる
   なごの海の霞の間よりながむれば入日をあらふ沖つ白波(新古今集)
   →視覚的映像性の富んだ感覚的・印象的な叙景歌にすぐれていた(有吉)
   →実定さん、「ながむれば」がお好きだったようである。

③81番歌 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
・歌意は平明。ありきたり、陳腐にも思えるが結構評価は高い。上は聴覚、下は視覚。
 ホトトギスを詠んだ歌の中で最高(宗祇)

・ホトトギス、鳥の中で一番。万葉集に156回。
  春を告げる鳥=ウグイス(ウグイスの初音)
  夏を告げる鳥=ホトトギス(ホトトギスの初音)
  秋を告げる鳥、、、モズだと思うのだがどうだろう。

・初夏、ほととぎすの初鳴きを夜を徹して聞く。これがもてはやされた。
 枕草子第39段 鳥は(講談社文庫版)
  郭公は、なほさらに言ふべきかたなし。いつしかしたり顔にも聞こえたるに、卯の花・花橘などに宿りをしてはたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり。五月雨の短き夜に寝覚めをして、いかで人よりさきに聞かんと待たれて、夜深くうち出でたる声の、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。
 
 →何とも風流と言おうかマニアックと言おうか。
 →ただ一声、一瞬の勝負、うたた寝もダメ、酔払っててもダメ、いちゃついててもダメ。
 →レコーダーもないしもめることもあったのかも。
  「おっ、鳴いた、聞いたろう?」「いや聞いてない」「えっ、ウソだろう!」

・派生歌 類想歌 
  郭公なくひと声のしののめに月のゆくへもあかぬ空かな(定家)  
  有明の月だにあれやほととぎすただひと声に明くるしののめ(藤原頼通
後拾遺集)

・「涙を抱いた渡り鳥」水前寺清子 作詞 星野哲郎
  ひと声鳴いては 旅から旅へ くろうみやまの ほととぎす
  今日は淡路か 明日は佐渡か 遠い都の 恋しさに 
  濡らすたもとの はずかしさ いいさ 涙を抱いた渡り鳥

④源氏物語との関連
・ホトトギスと花橘は必ずペアーで登場する初夏の風物詩
 花橘の香りは昔の人を思い出させる。ホトトギスは冥土と現世を往来する

・幻10 五月雨の頃、夕霧と最愛の故人紫の上を偲ぶ
 源氏 なき人をしのぶる宵のむら雨に濡れてや来つる山ほととぎす
 夕霧 ほととぎす君につてなんふるさとの花橘は今ぞさかりと
 
・花散里3 須磨に行く前に花散里(源氏が夕霧や玉鬘の母と恃んだ家庭的な女君)を訪ねる
 源氏 橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
 →花散里、六条院夏の町に迎えられ共寝はしないが癒し系の女君として源氏が頼りにした女君でした。 

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80番 崇徳院の母待賢門院に仕えた堀河 黒髪の乱れて今朝は

待賢門院堀河。璋子その人ではないものの待賢門院と来るとやはり崇徳院の生母璋子を思い浮かべます。崇徳院の激しい恋の歌(77番歌 瀬を早み)に呼応した何とも官能的な恋歌ではないでしょうか。こんな歌を詠んだ堀河。その人模様ともども「みだれ髪」の世界を訪ねてみましょう。

80.長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

訳詩:    いつまでもあなたを繋ぎとめておけるでしょう
       思うまいとしても思いはそこへ行ってしまう
       別してこんなに黒髪も乱れたままに
       いとしがり愛しあった夜の明けは
       黒髪の乱れごころは千々に乱れる

作者:待賢門院堀河 生没年未詳 神祇伯源顕仲の娘 伯女・伯卿女とも呼ばれる
出典:千載集 恋三802
詞書:「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる」

①待賢門院堀河
・父は三位神祇伯源顕仲 1058-1138 81才
 村上源氏、勅撰歌人、笙の名手でもあった。
 →時代的に74俊頼、75基俊と同世代、鳥羽歌壇に登場している。

・妹も上西門院兵衛と呼ばれる女房歌人(勅撰歌人)
 待賢門院璋子に仕えた後、賀茂斎院を退いた上西門院統子内親王(鳥羽帝と璋子の皇女、崇徳帝の妹)に仕えた。才色兼備の人気女房だったようだ。
 
 →統子内親王(並ぶものない美貌の女性=そりゃあ璋子の娘ですもの)の御所は華やかな文藝サロンとなっており若き貴公子・武者たちで賑わってた。西行も出入りしていた。

・上西門院兵衛の他にも歌人として名のある姉妹(顕仲卿女・大夫典侍)がいる。
 →父顕仲の影響で一家挙って歌詠みに励んでいたのであろう。

・さて肝心の堀河 詳しい話はないが、。
 最初白河院皇女で賀茂斎院を退いた二条大宮令子内親王に出仕六条と呼ばれた。
 →令子内親王が1078-1144 多分堀河もこれくらいの年代であろうか。

 後、待賢門院璋子に仕え、堀河と呼ばれる。
 →この「堀河」って何でだろう。まさか堀河天皇には関係ないだろうに。

・結婚歴はあるようだが不詳。夫は死亡、子を父源顕仲に預ける。
 残された子を詠んだ歌。あわれさを催す。 
  言ふかたもなくこそ物は悲しけれこは何事を語るなるらむ(堀河集)

・美貌で和歌も上手かった女房にしては恋愛沙汰のエピソードがない。どうしてだろう。
 
 →19伊勢を筆頭に38右近、56和泉式部、58大弐三位、60小式部内侍と天皇や親王の子を生んだり貴公子たちをラブホッピングしたりと奔放な女性たちでいっぱいだったが、、、。
 →女性が大人しくなったのか男たちに元気がなくなったのか、、、。

②待賢門院堀河の歌
・金葉集以下勅撰集に66首 久安百首の詠者 待賢門院堀河集
 →待賢門院サロンを代表して数々の歌合などに出ていたのだろうか。

・妹上西門院兵衛の上に堀河が下を付ける。
  油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ
   ともし火はたき物にこそ似たりけれ(上西門院兵衛)
    丁子かしらの香や匂ふらん(待賢門院堀河)
    →こんなのも連歌というのだろうか。

・崇徳院の法金剛院行幸を愛でて
  雲のうへの星かとみゆる菊なれは 空にそちよの秋はしらるゝ

・西行との交流が各所にみられる。
 西行出家時の歌の贈答
  堀河 この世にて語らひ置かむほととぎす死出の山路のしるべともなれ
  西行 ほととぎすなくなくこそは語らはめ死出の山路に君しかからば
  
  →西行出家の原因は西行の待賢門院璋子への恋ではないかとも言われている。璋子(中宮)その人への恋慕もさることながら堀河を始めとする女房たちとの交流は華やかだったはずで堀河とも随分と親しく歌を詠み交している。

 待賢門院璋子崩御の後服喪中の堀河との贈答
  尋ぬとも風のつてにもきかじかし花と散りにし君が行方を(西行)
  吹く風の行方しらするものならば花とちるにもおくれざらまし(堀河)

・待賢門院死去を悼んでの歌はさすがに名歌である。
  夕さればわきてながめん方もなし煙とだにもならぬ別れは
  限りなく今日の暮るるぞ惜しまるる別れし秋の名残と思へば
  →題を与えられての作り歌でなく心の底から哀悼の意が滲み出ている。

③80番歌 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
・久安百首の題詠とは言えぞくっとするようなエロチックな歌である。
 哀艶で官能的な恋歌、「百人一首恋の歌の中でも印象の強いもの」(大岡信)
 →長い黒髪は平安王朝女性の命。その端正な黒髪が一夜にして「みだれ髪」になる。

・「夕べのあなたは信じられるものだったが朝あなたが帰ってこの黒髪の乱れを見ると不安がよぎる。。。もうあなたは来ない。いや来る、いや来ない、いや来る、、、」
 →これぞ究極の後朝の歌と言っていいのではないか。

 百人一首中の後朝の歌を復習しておきましょう。
 30 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
 43 逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
 50 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
 52 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

・みだれ髪の先行歌
  朝な朝なけづればつもる落ち髪のみだれて物を思ふころかな(紀貫之 拾遺集)
  朝寝髪我はけづらじ美しき人の手枕ふれてしものを(柿本人麻呂 拾遺集)
  黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(和泉式部 後拾遺集)

・「僕の愛しいあの娘の髪はもう伸びたんだろうか」
 伊勢物語第23段 筒井筒の恋
 男 筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
 女 くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき
 →「あなた、早くこの髪をかきあげてください」、、、、いいなあ。

・そして与謝野晶子「みだれ髪」から
  髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
  その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

・オマケに島崎藤村の「初恋」
  まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

日本女性の黒髪、モンローの金髪、、、まさにセックスシンボルであります。

④源氏物語との関連

・平安王朝女性のシンボル黒髪、源氏物語でも頻繁に小道具として登場します。
 髪を洗う=「すます」「ゆする(泔)」
 米のとぎ汁を使う。陰陽道で洗髪をしてもいい日は限られていた。

  匂宮が中の君を訪ねて来たがあいにく洗髪中で相手ができない。その隙に匂宮は屋敷に見なれない女性を見つけ、あろうことか抑え込みに入る。。。。。。これが浮舟であります(東屋)

・源氏物語中有数の官能場面
 桐壷帝が亡くなり源氏の藤壷への想いは自制がきかないまでに達している。藤壷寝所に押しかけ関係を迫る源氏、逃れようとする藤壷。源氏の手が藤壷の黒髪にかかる、、藤壷危うし、、、。

 「見だに向きたまへかし」と心やましうつらうて、ひき寄せたまへるに、御衣をすべしおきてゐざり退きたまふに、心にもあらず、御髪の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世のほど思し知られていみじと思したり。(賢木16)

  →こんなことが続くと源氏も藤壷も東宮(冷泉帝)も身の破滅を迎える。藤壷はやむを得ず出家を決意するのでありました。

・物語中一二を争う醜い女性として描かれている末摘花。
 
 あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり、、、、、、頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。(末摘花13)
  
 →これだけこき下ろしても髪の毛だけは見事なものであった。
 「それでも、紫式部は、この古風で、人を疑うことを知らぬ素直で誠実な姫君に、豊かで丈よりも長い見事な黒髪を与えることを忘れなかった」(瀬戸内寂聴)

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79番 六条藤家の祖 顕輔 もれ出づる月の影のさやけさ

月を詠んだ歌の代表作の登場です。分かりやすいし覚えやすい。折しも晩秋、ぴったりです。藤原顕輔は俊成-定家の御子左家と相並ぶ六条藤家を確立した大歌人。どんな歌か、どんな人物か見ていきましょう。

79.秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ

訳詩:    澄んだ秋風は夜空を渡る
       たなびく雲の輪郭は浮き立つようだ
       その切れ目から
       ひと筋洩れて輝き出る
       月の光のさやけさ

作者:左京大夫顕輔(藤原顕輔)1090-1155 66才 六条藤家の始祖顕季の子 正三位
出典:新古今集 秋上413
詞書:「崇徳院に百首の歌たてまつりけるに」

①藤原顕輔 76忠通(1097-1164)とほぼ同年代 六条藤家の二代目
・先ず父の顕季から見てみましょう。大歌人です。
 父藤原顕季1055-1123 正三位修理大夫
 出自は中流貴族であったが母(藤原親国の娘)のお陰で大出世する。
 顕季の母 従二位親子(ちかこ)(女性の二位はすごい!)白河院の乳母だったから。
 即ち顕季と白河院は乳兄弟(白河院が2才上)、幼馴染。
 →白河院の覚えめでたく顕季は大国の国主を歴任、しこたま財をなし六条烏丸に豪邸を構え六条家と称される。
 →当然白河院にも貢ぎまくったのであろう。

 この顕季、歌人としても活躍
 →受領で貯めこんだ財を惜しげもなくつぎ込み風流に打ち込んだのであろう。 
 
 勅撰集に48首 宮中他での歌合 自邸でも歌合開催 
 74源俊頼、75藤原基俊と同世代で白河・堀河歌壇で名をなし、六条藤家の始祖となった。
 柿本人麻呂の画像を奉じ「人麻呂影供(えいぐ)」として崇め奉る。
 →白河院の権威も借りて。これで和歌の家元(六条藤家)の地位を築き上げる。
 →百人一首に撰ばれててもいいような歌人であった。

 *人麻呂影供【ひとまろえいぐ】(wikiより)
  1118年,藤原顕季によって創始された,歌聖柿本人麻呂を祭る儀式。歌人たちは人麻呂を神格化し,肖像を掲げ和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。

・この顕季の子が顕輔。父のコネで11才で白河院の近臣に。
 その後昇進していくがある時、白河院の勘気を被り(讒言の由)挫折
 白河院の死後復帰、崇徳院の中宮聖子(忠通の娘)に仕える(中宮亮)。
 →崇徳院、藤原忠通とも親しくなり父の威光もあって歌壇に君臨していく。

・崇徳院の命で詞花和歌集(415首)を撰進(1151)
 *詞花和歌集
  曽禰好忠17首、和泉式部16首 平安中期の歌人を重視 百人一首には5首
  →勅撰集の撰者になる。この上ない栄誉である。

 父の影響もあろうが一世代年上の74俊頼、75基俊とも親しく交流。歌壇の権威になっていく。

・顕輔の子が84藤原清輔 他にも重家、季経。 何れも有名勅撰歌人である。
 六条藤家は栄えて行くが、一方の雄俊成-定家の御子左家が冷泉家となり現代まで和歌の家元を任じているのに対し、六条藤家は南北朝期に途絶えてしまう。
 →どうしたのだろう。和歌道を伝承していくのも並大抵ではないのだろう。
 →顕輔-清輔の親子関係は冷たかった由。これは84番歌でやりましょう。

②歌人藤原顕輔
・金葉集(14首)以下の勅撰和歌集に84首、私家集に「左京大夫顕輔卿集」

・79番歌とともに顕輔の代表歌とされている二首 
  葛城や高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てや過ぎなむ(千載集)
  高砂の尾上の松に吹く風のおとにのみやは聞きわたるべき(千載集)
  →73番歌 高砂の尾上の桜を思い出す。

・白河院から不興をかっていた時の歌、判者基俊は誉めた
  難波江のあし間に宿る月見れば我が身一つも沈まざりけり
  →挫折の時、月を見て明日の復活を思う。基俊に誉められて嬉しかったことだろう。

・種々解説書を読んだ限りでは顕輔の女性関係やらエピソードやらは出て来なかった。
 →何か面白い話あれば聞かせてください。

③79番歌 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
・崇徳院の久安百首に詠まれた歌。顕輔61才、最晩年期の歌。

・平明で技巧がない。
 →覚えやすい好きな歌である。

・月の影のさやけさ
 晴天の明々とした月ではない。雲間から漏れてくる光。
 →チラリズム。ちょっとだけがいい。

 「月光というのは人の心をときめかせる」(田辺聖子)
 「漢詩の風韻に通う趣」(島津忠夫)

・百人一首に月は12首(7.21.23.30.31.36.57.59.68.79.81.86)
 79番歌は月を詠んだ歌の代表作であろう。

 79番以外に「月影」はないが紫式部の57番歌は紫式部集では「月影」となっている。
  めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月影 
 
・顕輔の月を詠んだ一首
 秋の田に庵さすしづの苫をあらみ月と共にやもり明かすらむ(新古今集)
 →天智天皇の1番歌が思い出される。

④源氏物語との関連
 月は平安王朝にあって夜の主役、至る所に登場するが79番歌に照応する場面は宇治十帖の冒頭巻「橋姫」で晩秋に宇治の八の宮山荘を訪れた薫が月の光に照らし出された大君・中の君姉妹をかいま見るシーンであろうか。ここから薫・匂宮と宇治の姫君たちとの物語が始まる重要場面でした。

 源氏物語 橋姫10「薫、月下に姫君たちの姿をかいま見る」

、、、月をかしきほどに霧りわたれるをながめて、簾を短く捲き上げて人々ゐたり。、、内なる人、一人は柱にすこし隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月のにはかにいと明くさし出でたれば、(中の君)「扇ならで、これしても月はまねきつべかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげににほひやかなるべし。、、、

 →月しか明かりがない。月が雲に隠れてしまうと真っ暗、何も見えない。それだけに雲間から月が出て来て姫たちの姿が浮かび上がったとき薫は息をのんだことだろう。薫の姫たちへの想いが動かぬものとなった瞬間であろう。 

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78番 源兼昌、源氏物語須磨の巻を詠む 淡路島~ 

前回(77番歌)崇徳院が讃岐の松山で浜千鳥を詠んだ後を受けてお隣の淡路島~須磨へと千鳥でつなげる。定家も考えたものです。そこは「もののまぎれ」のほとぼりを冷ますべく光源氏が身を潜めた場所。源氏物語「須磨」の巻が鮮やかに蘇ります。

78.淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守

訳詩:     彼方に浮ぶ淡路島から 千鳥が通ってくる
        私一人を友と思ってくれるかのように・・・・・
        千鳥はしば鳴き ひとしお孤愁は深まる
        幾夜こうして孤りの眼をみひらいたまま
        朝を迎えることだろう 須磨の関守 私は

作者:源兼昌 生没年未詳 俊輔の息子 従五位下皇后宮少進 後出家
出典:金葉集 冬270
詞書:「関路千鳥といへることをよめる」

①源兼昌 生没年未詳、宇多源氏。藤原俊輔の息子と言うだけでさっぱり分からない。
 さすがの百人一首一夕話も「その行状詳らかならず」とお手上げである。

・忠通家の歌合に度々出詠、1128年の住吉社歌合に出詠の記録あり。
 74源俊頼、75藤原基俊と歌合で顔を合わせている。
 →源俊頼(1055-1129)と同世代とみてよかろう。
 →年代的な並べ順からするともう少し前、本来なら76番の位置か。

・堀河歌壇、忠通家歌壇の身分下位歌詠みグループの一員(群小歌人)

・金葉集、詞花集以下勅撰集に7首 多くない。
 千人万首に載せられている勅撰集入選の歌
  夕づく日いるさの山の高嶺よりはるかにめぐる初時雨かな(新勅撰集)

・そういう源兼昌の78番歌が何故百人一首に入っているのか。
 →源氏物語との関連をおいて他になさそうであります。

②78番歌 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守
・「関路千鳥」=須磨~淡路島を行き来する千鳥
 「千鳥」=海鳥 小さい 群れをなす 冬の鳥 浜辺をチョコチョコ歩く(速い)
  →千鳥模様 千鳥足

・千鳥って夜(夜中)に鳴くのだろうか? ちょっと疑問
 youtubeの鳴き声はチィ~ ヒィ~ と確かにもの悲しい

  【浜千鳥】 作詞 弘田龍太郎(津高校の大先輩)
   青い月夜の浜辺には 親を探して鳴く鳥が
   波の国から生まれ出る 濡れた翼の銀の色

・須磨の関 古来あったが789(奈良時代末)に廃止
 摂津(畿内)と播磨(畿外)の境目 重要な関所であったのだろう。

 関守 都から派遣されていた官人、通常は単身赴任か
 思うのは都のこと、都に残した家族・恋人
  →海外駐在員には身につまされる歌である。

・夜の寝覚め=眠りが浅く眼が覚めてぼお~っとしていること
 昼のながめ=昼間なのに放心状態、ぼお~っとしていること
  →両方とも恋人を想い目が宙をさまよう放心状態を表す表現であろう。

・28番歌 山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば
       →山の冬
 78番歌 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守
       →海の冬

・淡路島と千鳥が対になって詠まれだしたのは78番歌から
 千鳥が詠まれた歌といえば、
  淡海の海夕波千鳥汝なが鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
       (柿本人麻呂 万葉集) 淡海は琵琶湖

・派生歌
  旅寝する夢路は絶えぬ須磨の関かよふ千鳥の暁の声(藤原定家)
  淡路島千鳥とわたる声ごとに言ふかひもなく物ぞかなしき(藤原定家)
  淡路島ふきかふすまの浦風にいくよの千鳥声かよふらん(後鳥羽院)
  さ夜千鳥ゆくへをとへば須磨のうら関守さます暁のこゑ(後鳥羽院)
  →全て78番歌の言い換えバージョンである。

③源氏物語との関連
・源氏物語 第十二巻が「須磨」の巻
 源氏物語の中でも有名 色々あって光源氏は京を離れ須磨に赴く、、、、
 →源氏に詳しくない人でもその辺までは大体知っている。
 →「須磨」に着いたからこの辺でいいや、、ってやめる人、これを「須磨返り」という。

・源氏が自ら須磨に下った理由。
 入内前の朧月夜との密通がばれたのが表向きだが、一番恐れたのは「もののまぎれ」(帝妃藤壷との密通、皇子の誕生)が露見すること。これがばれれば世の中ひっくり返るし、物語そのものも成り立たなくなる。
 →何といっても日本は万世一系の皇国なのであります。

・何故須磨か。
 16在原行平が籠居したところとして有名だった。
  わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ(行平・古今集)
  旅人はたもと涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風(行平・続古今集)

 それと当時では長徳の変で藤原伊周(儀同三伺=54高階貴子の子、63藤原道雅の父)が流された場所として読者の記憶に新しかった。

・須磨、都から遠い貧弱な漁村、ここを舞台に秋~冬~春が語られる。
 須磨の秋(高校教科書の定番、古来名文とされる部分)
  須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。
   恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらん
(光源氏)

 須磨の冬 冬に千鳥が登場する
  例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。
   友千鳥もろ声に鳴くあかつきはひとり寝ざめの床もたのもし
(光源氏)

 須磨の春 頭の中将が訪ねて来て歌を唱和
  雲ちかく飛びかふ鶴もそらに見よわれは春日のくもりなき身ぞ(光源氏)
  たづがなき雲居にひとりねをぞ泣くつばさ並べし友を恋ひつつ(頭中将)

 そして春の嵐に明石の入道の迎えが来て光源氏は明石に移る。
 →源氏物語はここから一気に明るくなる。明石の君と出会い、娘が生まれ、その娘が中宮→国母となっていく。

・俊成の派生歌
  須磨の関有明の空に泣く千鳥かたぶく月はなれも悲しや(新古今集)

④オマケ
 3年前の春、須磨・明石を訪れた時の一口メモ(須磨の部分)(「源氏物語道しるべ」より再録)
 *************
 須磨 駅を出るとすぐ浜辺、このあたりで主従が歌を唱和したのかと感じ入った。
  ・現光寺(光源氏住居跡)駅のすぐ北、浜辺もごく近い。きれいにされていた。芭蕉他文人達の碑も多く源氏物語が古来愛されてきたことを思い知る。

  ・須磨関所跡(関守稲荷神社) 現光寺の西、小高くなっている。ここが関所だったとなると海からすぐ山になっていたことがよく分る。淡路島も近くに見えNo78源兼昌の歌を思い出した。

  ・須磨寺 10分程登ったところ、立派な佇まいです。
   平安初期開基ということだけど源氏物語には出てこない。紫式部が知らなかったのか無視したのか、、、。須磨の巻の描写に須磨寺からの鐘の音やら、須磨寺の阿闍梨の話やらあったら面白かったろうに。
   寺は専ら平家物語。敦盛の青葉の笛、弁慶の鐘、、直実と敦盛の場面
    
   源氏物語と平家物語が併存する須磨、いいところでした
 ***********

以上、百人一首の解読というより源氏物語須磨の巻の再読みたいになってしまいました。
まあ、78番歌の存在意義はその辺にあるんでしょう。ご勘弁ください。

松風有情さんからの絵です。新スマホを駆使して送付いただきました。
78番 挿絵 by 松風有情さん

最後にお断り。
月火と一泊で四日市にゴルフにでかけます。7月に行けなかったのがやっと実現します。
コメント返信は水曜日以降になります。ごめんなさい。

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77番 道真と並ぶ怨霊伝説 崇徳院 瀬を早み

背番号77と言えばV9巨人の川上哲治、そしてその川上を敬慕した星野仙一(中日・阪神・楽天で通算17年監督、全て背番号77)。そのダブルセブンを背負って登場が崇徳院。色んなお話がいっぱいで談話室は盛り上がることでしょう。

77.瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

訳詩:     滝川の瀬は急流だから
        岩にあたって激しく割れる 二筋に
        けれどふたたび流れは出会う 抱き合う
        ああ 何としてでも 私はあなたと抱き合う
        川瀬のように 今は二つに裂かれていても

作者:崇徳院 1119-1164 46才 第75代天皇 父鳥羽天皇 母待賢門院璋子
出典:詞花集 恋上229
詞書:「題しらず

①崇徳天皇 何と言っても保元の乱を起した人、400年続いた平安王朝が崩れ武士の世となっていく契機となった事件の当事者。こういう人が歌人として百人一首に名を連ねているところが何とも面白い。

・崇徳帝の一生 年表で整理してみましょう。
 1086 白河院院政開始(堀河帝8才で即位)
      この間白河院政
 1107 堀河帝崩御(29才)鳥羽帝即位(5才)
 1117 藤原璋子(18才) 鳥羽帝に入内
 1119 崇徳帝誕生 
 1123 鳥羽帝譲位(22才)崇徳帝即位(5才)
      ずっと白河院政が続く
 1129 白河院崩御(77才) ここから鳥羽院が院政を敷く
 1141 崇徳帝譲位(23才)近衛帝(鳥羽帝の子)即位(3才)
      鳥羽院(本院)の院政が続く 崇徳院(新院)は名前だけ
 1145 待賢門院璋子死去(46才)
 1155 近衛帝崩御(17才)後白河帝(鳥羽帝の子)即位(29才)
 1156 鳥羽院崩御(53才)
    崇徳院蜂起 保元の乱 敗れて讃岐(白峰・坂出市)に配流
 1159 崇徳院五部大乗経を写経、都へ贈るも後白河帝(信西)は受取拒否
 1164 崇徳院崩御(46才)
 1184 厄災続き崇徳院の怨霊鎮魂が図られる(讃岐院→崇徳院、霊廟設置)
 1868 崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建

・崇徳院の出生の秘密 
 これぞ紫式部・光源氏も真っ青、「もののまぎれ」そのものである。
 白河院は藤原公実の娘璋子を自分の寵姫祇園女御の養女とし、璋子が女性年令になると手をつけてしまう。
  →光源氏は10才の紫の上を拉致してきて14才になると手をつけてしまう。
  →でも源氏は紫の上を終生第一の女性として愛し続けた。

 璋子が18才になると孫の鳥羽帝(息子堀河帝の息子)に入内させる。
 白河院は璋子を入内させた後も璋子の元へ通っていた。
  →孫ほど年の離れた少女を愛人とし、孫に嫁がせた後も関係を続ける
 そして生まれたのが崇徳帝。系図上は鳥羽帝の子だが白河院の御胤であることは公然の秘密。
  →異常過ぎてコメント不可。父の妃(藤壷)と密通し子ども(冷泉帝)ができた光源氏の方がまだまともな感じがする。

・白河院の院政開始以降、政治の実権は院(白河院&鳥羽院)にあり次の天皇は院の意向で決められていた。何れも幼少での即位、実際の権限は院にあった。

  即位年令: 堀河帝8才 鳥羽帝5才 崇徳帝5才 近衛帝3才

・それにしても白河院と鳥羽院の関係は正に異常。崇徳帝は白河お祖父さんに恨みをいだく鳥羽帝に意趣返しとして疎まれたという図式だろうか。陰湿な世界である。

・そして保元の乱。ざっと経緯をみただけだが崇徳院に勝算があったとは思えない。頼長に唆されたのであろうが甘いと言わざるをえない。
 →上皇が遠流されるようなことはあるまいと楽観してたのかもしれない。

・讃岐での蟄居 3年かけて大乗経を写経、謹慎の証として都に贈るが拒否される。
 崇徳院は激怒、「願はくは大魔王となって、天下を悩乱せん」と怒り狂いさながら悶死。
 →さまざまな怨霊伝説を生む。
 →崇徳の怨霊が皇朝(平安王朝)を滅ぼし武士の世を招いたともされる。

 「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)p88以下に崇徳院の悲劇の詳細記述あり。

②歌人としての崇徳院 
・幼少から和歌を好み上皇になってからは和歌に没頭、歌合を開催。
 藤原顕輔に詞花集(1151年415首)を撰進させる。
 詞花集以下勅撰集に78首(すごい!) 久安百首(14人x100首)を詠ませる。

・自らも百首を作った久安百首より
  恋ひ死なば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ(久安百首)
  →長恨歌 連理の枝
  →崇徳帝には76忠通の娘聖子(皇嘉門院)が入内したが子どもができなかった。聖子腹の皇子が生まれていたらその皇子への皇統の可能性はあり、忠通も外祖父になろうと必死に画策したのではなかろうか。 

・花鳥風月を詠んだ穏やかな歌が多いように思うがどうだろう。
  月の歌とて
  見る人に物のあはれをしらすれば月やこの世の鏡なるらむ
   →「心にもあらで憂き世にながらへば」の三条院の月よりはいい感じ。

・やはり配所讃岐での歌は心打たれるものが多い。
  思ひやれ都はるかにおきつ波立ちへだてたるこころぼそさを
  憂きことのまどろむほどは忘られて覚むれば夢の心地こそすれ
  浜千鳥あとは都へかよへども身は松山に音をのみぞ鳴く

・西行は生前崇徳院と交流あり(待賢門院がらみの話は86番西行の歌のところでやりましょうか)、崇徳院の没後、讃岐を二度訪問、崇徳院を追悼し多数歌を詠んでいる。

  松山の波に流れて来し舟のやがて空しくなりにける哉
  松山の波の景色は変わらじを形無く君はなりましにけり
  よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何かはせん

③77番歌 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
・「題しらず」 題詠ではないのだろう。誰との恋を詠ったのかは分からないものの激しい恋情をぶつけた秀歌であろう。恋とはこんな感じでするもの、、、という気持ちを詠んだものか。
 →何らかの事情で仲を裂かれる。でも障害があるほど燃え上がるのも恋なのであろう。

・恋歌ではあるが恋にかこつけて自分の逆境を詠った崇徳院の怨念を詠った歌とも言われている(23才で鳥羽院の圧力で3才の近衛帝に譲位させられる。いつかは劣り腹ながら皇子の重仁親王を皇位につけて院政をしたい、、、という気持ちを詠った歌)
 →まあそれもあろうが素直に「いつか絶対添い遂げてみせる」という一途な気持ちを詠った恋歌とする方がよろしかろう。

・13陽成院の「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」と並ぶ天皇の激しい恋歌。陽成院も17才で皇位をおわれている。 

・「瀬を早み」 「1苫をあらみ」 「48風をいたみ」
 落語「崇徳院」も有名。ほのぼのしたいい話、片想いでないところがいい。
 「むすめふさほせ」 一字決まりで誰もが取りたい人気札であろう。

④源氏物語との関連 
・崇徳院の出生の秘密の項で書いたが「もののまぎれ」に尽きるでしょう。
  鳥羽帝(白河院) X 待賢門院璋子 = 崇徳帝
  桐壷帝(光源氏) X 藤壷     = 冷泉帝
  光源氏(柏木)  X 女三の宮   = 薫 
  →まさに事実は小説より奇なりであります。

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
  →いつかは添い遂げたい、、、この想いは源氏への畏怖を持ちながら一児(薫)を成した女三の宮への柏木の想いに通じるかもしれない。

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76番 保元の乱へ 摂関家長者藤原忠通 わたの原

いよいよ保元の乱に入ります。76番歌は75藤原基俊から恨みの歌を贈られた藤原忠通。藤原摂関家の頭領であり保元の乱の当事者であります。時代は風雲急を告げ、おっとりしてた平安王朝から騒乱の時代へと入ります。摂関政治の末路を眺めてみましょう。

76.わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波

訳詩:    海原に舟を漕ぎ出す
       陸地はや平らに沈み
       見はるかす沖合は
       白波ばかり・・・・・
       ひさかたの雲かとばかり

作者:法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)1097-1164 68才 藤原摂関家の頭領
出典:詞花集 雑下382
詞書:「新院位におはしましし時、海上遠望ということをよませ給ひけるによめる」 

①藤原忠通 従一位摂政関白太政大臣 藤原北家の嫡流である。
・冬嗣-基経-忠平-師輔-兼家-道長-頼通-師実-師通-忠実-忠通
 →藤原摂関政治を月の満ち欠けで表すと基経が新月、段々と満ちていき道長で満月、以後は欠けていき忠通のところで消えて見えなくなった、、、ということだろうか。

・忠通の六男が後を継ぎ摂政関白太政大臣となった九条兼実。その次男が91藤原良経。
 95慈円も忠通の息子(兼実の同母弟)
 →76番藤原忠通、95番慈円、91番藤原良経と三代が百人一首に入っている。

・「忠通」の名付け親は73大江匡房
 忠通18才の時、白河院から養女(寵姫)として可愛がっていた藤原璋子(例の待賢門院です)との縁談を進められるが父忠実が璋子の素行を問題視し断ってしまう。
 →この辺ゴチャゴチャどろどろしてて面白そう。当時璋子は14才。
 →断らずにありがたく押し頂いておく所じゃなかろうか。院と忠実が険悪になるのは当然でしょう。

・白河院の勅勘を受けた父忠実に代わり藤原氏長者になり鳥羽・崇徳・近衛・後白河と4代に亘り摂政関白を務める。摂関歴37年(最長は頼通の50年)
 摂政関白ではあるが白河院・鳥羽院が院政をしいており政治権力は限定的であった。摂関政治の形骸化とも言えようか。

 →その原因は一に摂関家に然るべき娘が生まれず天皇に嫁がせて孫を天皇にするという図式がとれなかったことにつきよう。
 →白河院の母(後三条帝の妃)は藤原茂子だが摂関家直流ではない。
  (堀河帝・鳥羽帝の母も同様)
 →忠通は娘聖子(皇嘉門院)を崇徳帝に入れ中宮となったが子ができなかった。

・そして鳥羽院が崩御した直後、天皇家・摂関家・武家が敵味方に分かれ保元の乱が起る。
  天皇家: 後白河帝 vs 崇徳院(後白河帝の同母兄)(讃岐に配流)
  摂関家: 藤原忠通 vs 忠実・頼長(忠通の父と弟)(頼長は戦死、忠実は幽閉)
  平家:  平清盛  vs 平忠正(清盛の叔父)→死刑(清盛が斬る)     
  源氏:  源義朝  vs 源為義(義朝の父)→死刑(義朝が斬る)

  王朝時代政変は何度もあったが軍勢を擁して都が戦乱の巷と化すような事件は初めて。
  →薬子の変(810)以来350年も途絶えていた死刑が復活。武力が国を治める最大の力となっていく。

  保元の乱の歴史的位置づけを一言で表した名文が忠通の末子95慈円の愚管抄
   保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ

・忠通は保元の乱では勝者側だったがその後、後白河帝・平家の世となっていくに従い1162出家、1164亡くなっている。

②歌人としての藤原忠通
・金葉集以下勅撰集に58首 私家集に田多民治(ただみち)集
 幼少より和歌を好み74俊頼、75基俊らに師事。自邸で歌合を頻繁(12回も)に催す。

・書道を能くし法性寺流の祖とされる。
 *法性寺 26藤原忠平の創建とされる古刹 忠通はこの近くに住んだ。
      東福寺の近くに今も小寺としてあるが一般公開はされていない。
  →忠通の百人一首での名前は「法性寺入道前関白太政大臣」やたら長い。
   「吾輩は猫である」
    苦沙弥先生「御前世界で一番長い字を知ってるか」
    細君「ええ、前の関白太政大臣でしょう」

・漢詩集「法性寺関白集」
 六男に九条家の祖で40年間の日記「玉葉」を著した九条兼実、末子が歴史書「愚管抄」を著した天台宗大僧正慈円。
 →「藤原忠通は日本の文化史上忘れることのできない人物である」(白洲正子)
  「我朝文道の中興」(中右記)

・千人万首より
 恋の歌
 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける
 →摂政関白として位人臣を極めることよりもこの恋の方が尊い、、、なかなかですね。
 
 春の歌
 吉野山みねの桜や咲きぬらむ麓の里ににほふ春風(金葉集) 
 
③76番歌 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波
・崇徳天皇時代内裏の歌合(1135)で「海上遠望」という題を詠ったもの。
 想像して詠む。漢詩の世界、忠通の脳裏には大海原に浮ぶ舟からの光景がはっきり見えていたのであろう。海の青さと波の白さ&大空の青さと雲の白さ。

・崇徳帝とはこの時蜜月、娘聖子も入内させている。崇徳帝の元服時の加冠の役も忠通。
 歌合の時、忠通39才 崇徳帝17才 聖子14才
 →それが晩年敵味方に分かれ保元の乱を戦う。勝利者となった忠通も素直に喜べなかったことだろう。

・巧妙な叙景歌として評価は頗る高い。
  わたの原の歌、「人丸が、島がくれゆく舟をしぞ思ふ、など詠めるにも恥ぢずやあらむ」とぞ人は申し侍りし」(今鏡)

  →瀬戸内海を詠んだ人麻呂の歌が思い出される。
   ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ(柿本人麻呂 @明石)
 
・「わたの原」は大海原のこと。11番歌と並ぶ大山札である。
 11番 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟(小野篁)

・74源俊頼に類想歌あり
  山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(源俊頼 金葉集)
→76番歌は俊頼のこの歌が意識されていたのか。(安東次男)

④源氏物語との関連
・ちょっと思いつきません。源氏物語で海(瀬戸内海)の場面が出てくるのは「須磨」「明石」源氏やお供の人たちも海を見るのは初めてだったのでしょう。秋、憂愁の日々を主従で嘆き合う歌を列記しておきます。

 (源氏)恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらん
 (源氏)初雁は恋しき人のつらなれやたびのそらとぶ声の悲しき
 (良清)かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はその世のともならねども
 (惟光)心から常世をすててなく雁を雲のよそにも思ひけるかな

 →源氏物語から150年経っており日宋貿易も始まってたであろうこの時代になると忠通たち都の貴族も瀬戸内海まで遠出して海を眺める機会はあったのでしょうね。さもないといくら題詠とは言え見て来たように詠えませんものね。

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75番 源俊頼のライバル藤原基俊 あはれ今年の秋もいぬめり 

74番源俊頼の宿命のライバル藤原基俊。道長の曾孫ながら出世に恵まれず、歌人としても評判は宜しくない。でも勅撰集に100首以上も入選してる大歌人ですぞ。本当に嫌味な嫌われ者だったのか予断を排し考えてみたいと思います。

75.契りおきしさせもが露の命にてあはれ今年の秋もいぬめり

訳詩:    ああ 今年の秋も去っていくようです
       しめじが原のさせも草を頼りに待てとの
       露のようにはかないあなたのお約束
       それを命に 今日まで望みをかけてきました
       今はもう はかない望みは露と散って・・・・

作者:藤原基俊 1060-1142 83才 父右大臣俊家 母高階順業女 従五位上左衛門佐
出典:千載集 雑上1026
詞書:「僧都光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たびたび漏れにければ、法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、又その年も漏れにければ遣はしける

①藤原基俊 藤原北家の傍流ではあるが文句のつけようのない家柄である。
・道長-頼宗(右大臣)―俊家(右大臣)―基俊(従五位上左衛門左)
 →父までは二位右大臣。やはりこれでは正直落ち込むでしょうね。

・「官位に恵まれず」とだけ書かれているが何故上がれなかったのか?
 →母が高階順業の娘。このせいだろうか。
 →世渡りが下手だったのか。人品骨柄のせいか。。。よく分かりません。

・藤原基俊、74俊頼と並び堀河歌壇の重鎮と謂われるがどんな時代だったのか。
 白河帝~崇徳帝までを整理しておきましょう。
 
 白河(1053-1129 @77) 在位(1072-1086) 院政(1086-1129)
 堀河(1079-1107 @29) 在位(1086-1107) 院政 なし
 鳥羽(1103-1156 @54) 在位(1107-1123) 院政(1129-1156)
 崇徳(1119-1164 @46) 在位(1123-1141) 院政 なし →保元の乱へ

 基俊の30~40代は白河院が上皇として院政を行っているがまだ藤原摂関家(師実・師通)が力を持っていた。文化人堀河帝も基俊を重用してたように思えるのだが、、。
 
②歌人としての藤原基俊 エピソード
・勅撰集に100余首 入選 私家集に基俊集
 堀河百首の作者の一人 数々の歌合で判者も務める
 →正に74俊頼と並ぶ活躍ぶりである。

・漢詩も能くし新撰朗詠集(漢詩540首 和歌203首)を編纂 書家としても有名
 →55公任の和漢朗詠集に倣ったものか。
 →漢詩人として73大江匡房とも交流あり。

・最晩年83藤原俊成を弟子に迎えている。
 →俊成―定家親子も基俊を疎かにはできない。同じ藤原北家であるし。
 
 俊成は基俊を師としたが俊成評は「かやうに師弟の契りをば申したりしかど、よみ口にいたりては、俊頼には及ぶべくもあらず。俊頼いとやんごとなき人なり」(矢崎藍)

・詠み振りは74俊頼の革新に対し保守的古風で古今集を尊重した。
 古今集を基俊から借りた際の俊成とのやりとり

 基俊に古今集を借りて侍りけるを、返しつかはすとて皇太后宮大夫俊成
  君なくはいかにしてかは晴るけまし古今(いにしへいま)のおぼつかなさを
 基俊返し
  かきたむる古今の言の葉をのこさず君につたへつるかな

  →なんぼなんでもこの時代で古今集は古すぎるのではないか。
   でも古きを温ねて新しきを知る、、、やはり保守派の存在も必要なんだろうか。

・誰とも仲が悪く嫌われ者だったようで基俊を悪者に仕立て上げたエピソードがいっぱい。正にいじめる人はいじめられるの構図だろうか。

 →基俊を弁護してあげたいのだけど材料が見当たらない。歌を褒めてあげるしかないのだろうかと思い、千人万首見てみたがどうも古色蒼然たる歌が多い。

  から衣たつ田の山のほととぎすうらめづらしき今朝の初声(続千載集)
  →懐かしのメロデイと言おうか思い出のメロデイと言おうか。お化けが出た感じ。  

・一つ源氏物語に関連する歌をみつけた。これをもって良しとしましょう。 

 玉柏しげりにけりな五月雨に葉守の神の標(しめ)はふるまで(藤原基俊 新古今集)
 (本歌)柏木に葉守の神のましけるを知らでぞ折りし祟りなさるな(藤原仲平 大和物語)
    ⇓
 柏の木に葉守の神が宿るとされてたのを踏まえ、亡き柏木の弔問に訪れた夕霧が柏木未亡人落葉の君と歌を贈答し合う(落葉の君への想いを訴える夕霧、やんわりいなす落葉の君)(源氏物語柏木12)
 (夕霧)  ことならじならしの枝にならさなむ葉守の神のゆるしありきと
 (落葉の君)柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か

③75番歌 契りおきしさせもが露の命にてあはれ今年の秋もいぬめり
・詞書が余りに露骨すぎる。
 息子を維摩会の講師にと権門76藤原忠通に頼み約束ももらったが裏切られたとて恨みをぶつけた歌。
 
 忠通が約束したことを表す歌(清水観音御歌「新古今集」釈教の部所載)
  なほ頼めしめぢが原のさせも草我が世の中にあらむかぎりは
   →標ヶ原 下野の歌枕 栃木市の北 伊吹山もその近く 51番歌参照

 基俊が頼んだ時忠通はバリバリの関白太政大臣だった。権門の人が約束を違えるのもいただけないが、こんな恨み歌を返されては忠通もいや~な気持ちになったことだろう。来年には講師にしてやろうと思ってたのかもしれないのに。。

・ということでこの歌すこぶる評判がよろしくない。
 「どことなく恨みっぽく、ひがみっぽく、評判のわるい歌」(田辺聖子)
 →確かに詞書通りの歌とすれば爺には嫌いな歌である。

・詞書を離れてみましょう。
 「なまじ面倒な詞書がなければ、失恋の歌として味わえたであろうに、惜しいことである」(白洲正子)
 →失恋の歌と考えると74番歌 うかりけると呼応するのではないか。
 →74番 初瀬長谷観音に祈り 75番 清水観音に祈った でも成就しない。
  (これも祈れども逢わざる恋ではないか)
 →なかなか詞書が頭から離れないのが難だが、すっかり忘れて味わうと秀歌ではなかろうか。

・露 甘露でもあり儚い草露でもある。
  おくと見るほどぞはかなきともすれば風にみだるる萩のうは露 紫の上 辞世
  露とおち露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢 秀吉 辞世

④75番歌は平安王朝最後の歌
 73番が白河・堀河朝を支えた学識者大江匡房、74番75番が若き文化人堀河帝サロンを盛り上げた重鎮歌人源俊頼と藤原基俊。そして76番が基俊が恨み歌を贈った権門の人藤原忠通。保元の乱の一方の立役者。平安王朝の崩壊の始まりが保元の乱とすればまさに75番歌でもって平安王朝が終わったと言えるのかもしれない。

 藤原基俊が83才で没したのが1142 保元の乱が1156
 忠通が失脚したのは1158 没したのが1162 

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74番 堀河歌壇の重鎮 源俊頼 憂かりける

百人一首に三代続けて入選した71源経信-74源俊頼-85俊恵法師の二代目。父経信が白河歌壇の重鎮なら源俊頼は堀河歌壇の重鎮。平家台頭直前、王朝末期の歌人で革新的な歌を詠み俊成-定家に影響を与えた重要人物のようです。

74.憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを

訳詩:    私につらかった人を ああ初瀬の山おろしよ
       やさしく風になびくようになびかせてくれと
       あれほどここな御仏に祈りまつったのに!
       そうだ 山おろしよ おまえみたいに
       つらく当ることなど祈りはしなかったのに! 
 

作者:源俊頼朝臣 1055-1129 75才 71大納言経信の三男 従四位上木工頭
出典:千載集 恋二708
詞書:「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる

①源俊頼 宇多源氏の末裔 六代目 もう王家の意識はないであろう。
・宇多帝-敦実親王-源重信-源道方-71源経信―74源俊頼
・最高位が従四位上木工頭 父経信は正二位大納言 大分水を空けられた感じ。
・父は三舟の才と讃えられたが俊頼も篳篥を能くし最初は宮中楽団員だった。
 →篳篥なんて特殊才能に秀でた人(技能職)は一般の出世は難しいのかも。

・父経信は80才で太宰権帥として赴任、俊頼も同道(41才)
 まもなく父が亡くなりとし俊頼は京へ帰りこの頃から歌人として頭角を現す。
 →やはり親の七光りみたいな感じで取りたてられるケースもあったのだろう。

②歌人としても源俊頼
・勅撰集に201首(父経信は87首)金葉集(自身の撰)千載集(俊成撰)では最多
 →俊頼は俊成の父権中納言俊忠と懇意で歌合せなどで訪れており俊成も自ずと俊頼に私淑するようになった。
 →ただ俊成は直接の師としては俊頼のライバル75藤原基俊に師事している。

・白河院の勅を受け1126金葉集(650首)を選定
 →父経信は後拾遺集の撰者に選ばれず不満をぶちあげていたが俊頼は撰者になった。
 →ただ金葉集の評判は今イチだったみたい(でも勅撰集撰者として名は残った)。

・堀河歌壇の重鎮として堀河百首を企画・推進(プロデューサーか)
 →詠者を選んでお題を出して。編集・推敲なんかもしたのだろうか。
 歌合の判者を多く務める。
 →権門76藤原忠通サロンでも中心人物だった。人柄もよく人気者であったようだ。

 恋のお題も今までの類型に加えて多種多様な恋模様を歌題にして詠み遊んだ。
 「年経る恋」「月を隔つる恋」「旅の恋」「夜の恋」「雨中の恋」「ねざめの恋」・・・
 →さながら恋愛評論家である。俊頼自身の実際の恋模様はあまり書かれてないが。
  
・75藤原基俊(従五位上、俊頼より下位)とはライバル関係
 基俊が他人の歌を厳しく批評したのに対し俊頼は温厚誠実に接した。

・歌論書「俊頼髄脳」を著す。
 「歌はわが秋津州の国のたはぶれ遊び」
 「男にても女にても、貴きも卑しきも、好み習ふべけれども、情けある人はすすみ、情けなきものはすすまざることか

 →公的な和歌の役割を尊びつつ清新なモチーフと詞を追及した。
 
・俊頼の歌より(革新的な歌風で俊成(千載集)→定家(新古今集)へと繋がる)
 鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮(金葉集)
 →田辺聖子推奨

 山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(金葉集)
 →百人秀歌(小倉百人一首の原撰本)では74番歌でなくこの歌が入っていた。
 →清新な叙景歌であり74番の怨恋の歌とは大いに違う。定家の心境変化が取沙汰されている。

・エピソード
 或る歌合で名前を書かずに歌を提出、講師の催促にそのまま読めとて読ませた。
 卯の花の身の白髪とも見ゆるかな賤が垣根もとしよりにけり
 →嫌味っぽい。そもそも俊頼=年寄りでありあまりいい名前ではない。自虐の一面も。

 70番歌の所で小町姐さんよりご指摘いただいたエピソード
 後に歌壇の第一人者「金葉和歌集」を編んだ74源俊頼(憂かりける)が大原に出かけた。
 俊頼は良暹の旧房の前を通り過ぎる際、下馬の礼をとったという。
 →初めて「秋の夕暮」を詠み新古今への道筋を示した良暹に心寄せるところがあったのだろう。

③74番歌 憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
・「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時」
 また定家の祖父(俊成の父)俊忠が登場(72番歌紀伊の歌合の相手だった)

 恋の題は「祈れども逢はざる恋」
 →新しい題と言おうか。細かな状況設定と言おうか。でも詠むしかない。

憂かれける人=私につれなかった人 なびいてくれなかった人
 初瀬の長谷寺観音にやさしくしてくれとお祈りしたのに山おろしのように激しかった。
 →俊頼自身を詠んだものでなく女性になり代わって詠んだとするのが自然ではないか。

・定家は74番歌を激賞している。
 是は心ふかくことば心にまかせて、まねぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿なり

 後鳥羽院も誉めている。 
 俊頼堪能のものなり。もみもみと人はえよみおほせぬ様なる姿もあり。
 
・長谷寺の十一面観音は恋のご利益祈願として有名。王朝貴女たちもしばしば訪れている。
 .53道綱母は初瀬詣でに2回(蜻蛉日記)
  →74番歌は兼家のつれなさを詠んだ道綱母の気持ちかもしれない。

 .62清少納言 枕草子第12段(講談社学術文庫)
  市は、辰の市。里の市。海石榴市(つばいち)、大和にあまたある中に、長谷にまうづる人のかならずそこに泊まるは、観音の縁のあるにやと、心ことなり。

 .菅原孝標女 更級日記
二度も訪れている。宇治で源氏物語浮舟を偲び、道中怖い思いもしながら初瀬観音に詣でた感激が綴られている。

 .源氏物語
  玉鬘の初瀬詣でについては35番歌の項より引用します。   
  初瀬椿市は右近が玉鬘に巡り合うところ(玉鬘7.)
  →源氏物語屈指の名場面
  二人の歌の贈答、喜びがほとばしる。
  ふたもとの杉のたちどをたづねずはふる川のべに君をみましや(右近)
  初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへながれぬ(玉鬘)
   →長谷寺へ行かれたら「二本の杉」(登廊入口付近を右に)をお見逃しなく

 .うかれける人や初瀬の山桜(芭蕉)
→芭蕉初期の作。古典を踏まえて詠んでいた時期。74番歌に拠るもの。

 本歌の評価ですが、よく分かりません。46番歌「由良の門を」と同じく新鮮さは感じるのですが題に合わせて作り上げた歌という感じがぬぐえません。

④源氏物語との関連 他
 ・宇治十帖では長谷寺詣でが何度も登場する。
  浮舟は母と二人でまた単独で参詣。その浮舟を助けた妹尼も何度か長谷寺に詣でている。
  →宇治十帖の方が宗教に救いを求める度合いが強くなってるように感じる。

 ・六条御息所は「憂かりける人」(源氏)の心変わりを日々伊勢神宮で神に祈っていたのではなかろうか。これぞ「祈れども逢はざる恋」ではなかろうか。

 ・最後に初瀬と言えばは万葉集の巻頭を飾る雄略天皇の名問いの歌を挙げねばなりますまい。
   籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜採ます児
   家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は 押しなべて 我れこそ居れ
   しきなべて 我れこそいませ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

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73番 大江家の大学者 匡房 高砂の山桜

3カ月もお休みさせていただきました。気がつけばもう10月、秋もたけなわです。
徐々にペースを取り戻し、みなさまとの洒脱な会話を楽しんでいきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

大江と言えば学者家系。前半の23番が大江千里、そして後半の73番が大江匡房。周防内侍、紀伊らの10年ほど後の人です。平安の学識ランキングでは一に菅原道真、二に大江匡房と謂われる人物。どんな歌を詠んでくれたのでしょう。

73.高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ

訳詩:    春たけなわ はるかを望めば
       高い山の峰にまで桜が咲いて・・・・
       おお 手前の山の霞よ 立たずにいておくれ
       ようやく遅れて咲きはじめた
       あの山の桜がおまえにまぎれてしまう

作者:権中納言匡房(大江匡房)1041-1111 71才 大江氏 白河院の近臣
出典:後拾遺集 春上120
詞書:「内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山の桜を望むという心をよめる」

①大江匡房 1041-1111 71才
・父は大学頭・大江成衡 母は橘氏の娘

・大江家について(23番歌より重複引用)
 23大江千里の父大江音人は優秀な学者であり参議にまで昇る。この音人が後に続く学者一族大江家の始祖。

・百人一首に出てくる大江家の人々
 23大江千里 官位は正五位下・式部権大輔。漢詩&和歌。
  大江匡衡(まさひら) 歌人 59赤染衛門はその妻
  大江雅致(まさむね) 越前守 56和泉式部の父
 73大江匡房(まさふさ) 73番歌
 →千里を入れて百人一首に4人も大江家の人が入っている。

・大江匡衡&赤染衛門は匡房にとって曾祖父母
 曾孫73大江匡房の誕生を愛でて赤染衛門が詠んだ歌 

  匡房朝臣うまれて侍りけるに、産衣縫はせてつかはすとてよめる
   雲のうへにのぼらむまでも見てしがな鶴の毛ごろも年ふとならば
(後拾遺集)    

・大江匡房 当然ながら幼少より秀才 和歌・漢文に長け神童と謂われる。
 学問の道から官吏となり治部少丞→式部少丞
 27才にして東宮尊仁親王(後三条帝)の学士(家庭教師か)
 その後東宮貞仁親王(白河帝)、東宮善仁親王(堀河帝)の学士も勤める。
 同時に蔵人(近習)として天皇のブレーン役でもあった。
 (特に後三条帝の「延久の善政」を支えたとされる)
 
 →三代に亘り東宮の家庭教師。これはすごい。学識・人格ともに余人を以て替え難かったのであろう。
 →「三代の師」「近古の名臣」と呼ばれる所以である。

・晩年太宰権師として大宰府にも行っている。

・最終官位は正二位権中納言 
 大江家の過去の最高官位は大江維時(醍醐~村上朝)の従三位・中納言。匡房はこれを抜いた。
 
②歌人としての大江匡房 エピソード等
・後拾遺集以下勅撰集に114首 私家集として「江師集」
 →「江師」(ごうのそつ)は匡房の号

・和歌のみならず神道・儒教・仏教・道教、詩歌漢文、全てに通じる。
 著書に「狐媚記」「遊女記」「傀儡子記」「洛陽田楽記」「本朝神仙伝」等多数
 →説話集・風俗記の類か。

 「江談抄」は大江匡房の談話を藤原実兼に筆記させた説話(裏話)集
  →13陽成院が即位式の時女官に狼藉した話(13番歌コメント欄)とか。

・軍学(兵法)にも優れ前九年の役を終えた源義家(八幡太郎)が師と仰ぎ教えを請い後三年の役でその教えを活かし勝利した。 
 →これこそ文武両道。いや武の方は単なる余技の類でしょうね。

・宮中歌合出詠 自邸でも歌合実施 堀河百首の題を出題
 →「お題」を出すのも当然センスが必要。「匡房にまかせよう」ということだったのだろう。

・歌合などを通じ71源経信、67周防内侍、74源俊頼、75藤原基俊、76藤原忠通との交遊が伝えられている。
 →勿論72紀伊も知っていたであろう。

・女房たちが和琴を弾かそうとけしかけたに応じた歌。
  逢坂の関のこなたもまだ見ねばあづまのことも知られざりけり
  →吾妻琴=東のこと、ちょっとありきたり。もう一ひねり欲しい。

・匡房の代表歌とされる歌
 京極前太政大臣の家に歌合し侍りけるによめる
  白雲と見ゆるにしるしみよしのの吉野の山の花ざかりかも(
詞花集22)

・もう一つ千人万首より
 堀川院の御時、百首の歌奉りける時よめる
  高砂のをのへの鐘の音すなり暁かけて霜やおくらむ
(千載集398)
  →これは冬の歌。播磨国の高砂かと謂う。

③73番歌 高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ
・詞書より
 「おほいまうち君」=藤原師通 摂関家長者
 道長-頼通-師実-師通-忠実-76忠通
 →道長の時代から100年ほど経っている。

・「遥かに山の桜を望む」=「遥望山桜」
 →漢学者にピッタリの題ではないか。匡房が題を提示したのかも。

・高砂の屋上の桜
 歌枕としての播磨国高砂ではなく「山の峰の上部」という意味の普通名詞
 →確かに現高砂市の屋上神社あたりは白砂青松、津波の心配こそあれ山桜が咲く地帯ではないでしょう。

・桜、ここでは山桜
 春の桜は里→外山(里近くの山)→深山と咲いていく。
 秋の紅葉は深山→外山→深山と下りてくる。
 →この高低差と南北の差が日本列島に桜前線、紅葉前線を形作る。

・遠景(屋上の桜)と近景(外山の霞)が見事に詠われた「正風」品位格調のある歌である。
 →そう言われてもどうも今一つインパクトが感じられない。
 →秀才の無難な歌くらいに思うがどうだろう。「それがどうした」って感じ。

・遅咲きの山桜を詠んだ歌
 里はみな散り果てにしをあしひきの山の桜はまだ盛りなり(玉葉集 凡河内躬恒)
 山守はいはばいはなん高砂のをのへの桜折りてかざさむ(後撰集 素性法師)

④源氏物語との関連
・源氏が北山に登り遅咲きの山桜を見下ろす場面(若紫)については65番歌(もろともに)の項参照。

・(これも無理矢理ですが)催馬楽「高砂」が歌われる場面
 賢木32 六条御息所は伊勢に去り、藤壷が出家、時代は右大臣家の世となる。逆境の源氏は頭中らと文藝遊びに興じその宴で頭中の次男(弁少将)が「高砂」を歌う。

 (四の君腹の二郎)心ばへもかどかどしう容貌もをかしくて、御遊びのすこし乱れゆくほどに、高砂を出だしてうたふいとうつくし。

 【催馬楽 高砂】
  高砂の さいささごの 高砂の 屋上に立てる 白玉 玉椿 玉柳
  それもがと 汝もがと 練緒染緒の 御衣架にせむ 玉柳
  何しも 心もまたいけむ 百合花の さ 百合花の
  今朝咲いたる 初花に 逢はましものを さ 百合花の

  →結婚式で歌われる「謡曲高砂」は(高砂や この浦舟に 帆を上げて)夫婦の長寿を愛でるおめでたい歌だが「催馬楽高砂」は白玉椿→白玉柳→白百合と心変わりしていく男を詠んだ歌らしい。結婚式には御法度でしょうよ。

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談話室 10月3日よりリオープンします。

長らくのご無沙汰申し訳ありませんでした。
婆もようやく普通の生活に戻り、爺の手助けもほぼ必要でなくなりました。

談話室、10月3日より再開します。73番大江匡房「高砂の~」です。6月末から休みましたのでほぼ3カ月ぶりとなります。今再開準備中ですがやはりブランクは大きい。特に7月8月は頭の中からすっかり平安時代が消え去ってましたのでこれを取り戻すのに難儀しています。スポーツ選手がオフで鈍ってしまうとすぐに本調子に戻れないのと同じでしょうか。でも机に向かってやりだすと徐々に調子が戻って来るようです。

さて百人一首の第4クオーターは平安王朝も末期、白河天皇の院政を経て平家が台頭し、王朝が崩れていく。そんな過程を皆さまといっしょに読み解いていきたいと思います。

私の勝手でフォローアーの皆さまにはご迷惑をおかけしてますが、どうぞ引き続きよろしくお願いいたします。

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