長らくお休みをいただいており申し訳ありません。
今朝手違いで(投稿予約日の誤設定)73番歌が公開され小町姐さんにはコメントも頂戴しましたが、ちょっと引っ込めさせていただきました。ごめんなさい。
その後、婆は退院し自宅でリハビリ中ですが看護の手が離れるにはしばらく日にちがかかりそうです。談話室の再開は9月半ばごろかなと考えています。どうぞご容赦ください。
・・・・それにしても猛暑ですね。ブラジルの冬も暑そうですが日本の夏はアッチッチ・・・
みなさまくれぐれも御身大切に。
長らくお休みをいただいており申し訳ありません。
今朝手違いで(投稿予約日の誤設定)73番歌が公開され小町姐さんにはコメントも頂戴しましたが、ちょっと引っ込めさせていただきました。ごめんなさい。
その後、婆は退院し自宅でリハビリ中ですが看護の手が離れるにはしばらく日にちがかかりそうです。談話室の再開は9月半ばごろかなと考えています。どうぞご容赦ください。
・・・・それにしても猛暑ですね。ブラジルの冬も暑そうですが日本の夏はアッチッチ・・・
みなさまくれぐれも御身大切に。
暑くなりました。お元気でお過ごしでしょうか。
さて、誠に申し訳ないのですがしばらく(多分1ヶ月ほど)お休みとさせていただきます。
爺は元気にしてるのですが、先日来、婆が病気で治療を受けており順調に回復してきたのですが思わぬ事態が発生し入院が長引くことになりました。少し腰を据えてリハビリアシスタントに専念することにします。
思えば昨年も夏場1ヶ月半ほどお休みしました。どうも夏に弱いんですかね。
フォローアーの皆さまにはご心配、ご迷惑をおかけし申し訳ありません。どうぞご容赦ください。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。早いものでもう7月。本年も後半に入りました。昨日今日と関東は真夏日、梅雨明けも近いかと思われます。
すみませんが、来週(7月4日)はまた一回お休みをいただきます。この週三重(鳥羽)で古稀を祝う高校の同窓会がありまして水曜日から留守をするものですから。
(百々爺・百合局・源智平朝臣・文屋多寡秀・枇杷の実・在六少将。参加、よろしくね)
73番歌、予習をされてる方もおられると思います。どうぞご容赦ください。
70番台に入って馴染の薄い人たちの登場で筆の進みが思うにまかせません。道長までは政治の世界も分かりやすかったのですがちょっと戸惑っています(というより勉強不足であります)。もう少し周辺の本も読み込んで自分の考えをまとめてから歌に入れればいいのですが。
→一回休み、同窓会で元気をもらってきます。
じゃあ、7月11日に73番歌で(この分は予約投稿すみです)
久しぶりに女流歌人の登場です。時代的には67周防内侍と同世代、後朱雀帝の皇女祐子内親王家に長く仕えた紀伊。堀川院主催の艶書合(懸想文合)については67番歌のコメント欄に書きましたがもう一度詳しく見てみましょう。
72.音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
訳詩: 噂に高い高師の浜のあだ波などに
袖を濡らしてなるものでしょうか
あなたの心はあだ波の 高く寄せても
たちまち退る(すさる)あだなさけ
女は袖を濡らして泣き明かすのがおちですもの
作者:祐子内親王家紀伊 生没年未詳 平安後期の女流歌人
出典:金葉集 恋下469
詞書:「堀河院御時艶書合によめる」歌への「返し」
①生没年未詳だが例によって推定しておきましょう。
・堀河院艶書歌合時(1102)に70才くらいとあるから生年は1032
1113歌合出詠が最後の記録だからこれを没年と考えると、
生没年は1032-1113 82才 周防内侍(1037-1109)と同世代になります。
・父兄については諸説あるようだが以下で考えましょう。
「この紀伊といふ人は散位平経方の女にして、紀伊守重経の妹なり。兄の受領によりて紀伊を呼び名とせしなり」(百人一首一夕話)
→兄が紀伊守だった。
→紀伊守というとどうしても空蝉の夫伊予介の子、紀伊守邸での方違えの夜が思い出される。
【余談 713年元明帝の勅で諸国の名前は漢字二字で表すことが決められた】
「津(つ)」は「摂津」と書かれ「紀(き)」は「紀伊」と書かれることになった。
「上毛野」は「上野(こうずけ)」に「下毛野」は「下野(しもつけ)」になった。
・母も祐子内親王家に仕えた小弁(歌人)
→周防内侍の母も後冷泉朝で小馬内侍と呼ばれた宮廷歌人だった。似ている。
→和泉式部・小式部内侍、紫式部・大弐三位も。母娘重代の宮仕えも多かったのだろう。
・祐子内親王(1038-1105) 後朱雀帝の皇女 数々の歌合を主催 サロンを形成
65相模(998-1061)も菅原孝標娘(1008-1059)も仕えたことがある。
→祐子内親王サロンの華々しさが分かる。
→紀伊は相模や孝標娘とはダブっていないだろうが母小弁から二人のことも聞いていたであろう。
(出自、エピソードはあまり見当たりませんでした。ここはネット検索名人朝臣に期待しましょう)
②歌人としての紀伊
・後拾遺集を初め勅撰集に31首、私家集「一宮紀伊集」、「堀河院百首」の詠者の一人
・数々の歌合に出詠
→祐子内親王サロンの女王的存在でサロンを代表し歌合に引っ張りだこだったのか。
・歌合の題詠以外で恋歌と思われるのが千人万首にあったので引いておきます。
思ふ事ありてよみ侍りける
恋しさにたへて命のあらばこそあはれをかけむ折も待ちみめ(玉葉集1815)
→王朝時代も和泉式部時代を過ぎ65相模、67周防内侍、72紀伊と来ると題詠やら訳ありやらせ気味の歌やら真実味の薄い歌が多くなってくる。技巧・人工的・虚飾・類型化、、。その分、心を打つものが少なくなっているように思われるがどうでしょう。
③72番歌 音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
・堀河院御時艶書合せ(1102)
堀河院は上品、優雅、誠実で学問・和歌・管弦を愛する風流人で、艶書合せを主催し当代著名歌人14人に「堀河百首」を詠ませている。
艶書合せ。参加者は男10人女11人。先ず男から女へ恋歌、次に女から男へ返歌。日を替えて今度は女から男へ恋歌、そして男から女への返歌。40首くらい。メンバーは男女とも熟年歌人が多かったようだが一人若手の気鋭が中納言俊忠29才。女流としては紀伊70才、周防内侍65才、筑前なる女流は90才くらいだった。
・その艶書合せで中納言俊忠が紀伊に詠みかけたのが、
人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそ言はまほしけれ
これに対する紀伊の返歌が72番歌
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
・ありそ(荒磯)は北陸地方の歌枕
→「ひばりの佐渡情話」~佐渡の荒磯の岩かげに 咲くは鹿の子の百合の花~
→「奥の細道 北陸路」 わせの香や分入る右は有磯海
・これに対して紀伊は和泉の歌枕「高師の浜」で応酬した。
「高師の浜」 堺市浜寺~高石の海岸 白砂青松で有名だった。
→浜寺八麻呂さんゆかりの土地です。解説よろしくお願いします。
・高師の浜の万葉歌を「万葉の旅」から
大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ(置始東人)
→この辺りは当時大伴氏の所領であった。
先行歌
沖つ浪たかしの浜の浜松の名にこそ君を待ちわたりつれ(紀貫之 古今集)
派生歌
あだ波の高師の浜のそなれ松なれずはかけてわれ恋ひめやも(藤原定家)
・男が言い寄ったのを「そうはいかないわよ」と切り返した類型歌
歌枕の応酬といい掛詞、縁語を駆使して技巧をひけらかす。これぞ王朝の恋愛文芸ゲームというものだろう。
・紀伊に詠みかけた中納言俊忠29才は67番歌で周防内侍に手枕を差し出した大納言忠家の息子。即ち俊忠は俊成の父、定家の祖父である!
→定家は67番歌で曽祖父忠家の名を、72番歌で祖父俊忠の名を百人一首の中に埋め込んだのであろうか。
→それにしてもゲームはいいけど組合せは誰がどう決めたのだろう。組合せ発表を見て「オレ、彼女はちょっとゴメン」とか「ワタシ、あの人絶対イヤ」とかはなかったのだろうか
→29才対70才 まあ年令は関係なかったのだろう。
源氏物語 紅葉賀 源氏19才対源典侍57才もあながち誇張でもないのかも。
④源氏物語との関連
北村季吟は72番歌は源氏物語の次の歌を本歌としているとの説。
若菜上19
朧月夜 身をなげむふちもまことのふちならでかけじやさらにこりずまの波
→心ならずも幼妻女三の宮を迎えることになり紫の上との心の亀裂は大きくなっていく。そんな無聊の慰めを求めて源氏は昔から好きでたまらなかった朧月夜を訪れ強引に縒りを戻す。源氏物語中屈指の官能場面でありました。
コトを終えて源氏が朧月夜に詠みかけた歌
源氏 沈みしも忘れぬものをこりずまに身もなげつべき宿のふぢ波
(あなたゆえに不幸な身の上に沈んだことを忘れはしないのに、また性懲りもなくこの身を投げてしまいそうなこの家の淵です-あなたのためには命を投げうってしまいそうになります)
これに対する返歌が上記
朧月夜 身をなげむふちもまことのふちならでかけじやさらにこりずまの波
(あなたが身を投げようとおっしゃる淵は本当の淵ではありますまい。そんな偽りの淵にいまさら性懲りもなくあらたに袖を濡らすようなことはいたしますまい)
松風有情さんの72番絵です。ありがとうございました。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/06/KIMG0278-1.jpg
さて71番も秋の歌。69番(能因)70番(良暹)と僧門歌人が続きましたが71番は宇多源氏、権門の歌人源経信です。余り有名でないこの人、長生きし長く歌壇の重鎮だったようです。どんな秋を詠んでくれたのでしょう。
【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
71.夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く
【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩: 夕ぐれがやってくる
門前の田で
稲穂が黄金色にそよぐ
秋風が渡ってきて
いま芦ぶきの小屋のあたりを通っている
作者:大納言経信(源経信)1016-1097 82才 父母とも源氏 正二位大納言
出典:金葉集 秋173
詞書:「師賢の朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風といへることをよめる」
①源経信 宇多源氏の末裔
・宇多帝-敦実親王-源重信-源道方-源経信
帝から数えて五代目。こうなると皇孫といっても「アッ、そう」てなもんだろう。
・父道方は中納言どまりだが経信は正二位大納言にまでなる。
キャリアとしては武官畑、文官畑、地方受領(遥任が多かったろうが)と幅広くこなし大納言に。最晩年80才で大宰権帥として大宰府に赴任82才で亡くなっている。
→42清原元輔が79才で肥後守として赴任し当地で没しているがそれと同じ。生涯現役(リタイア生活なし)。ご苦労さまである。
・宮廷キャリアは白河朝・堀河朝。頼通の摂関時代、重きをなしたようだが白河朝では政治的に恵まれなかった(そこまでの権門にはなれなかった)感じ。
・武人の面もあったのであろう。光琳かるたでは軽く刀を差している。
→弓矢をしょってはいない。面白い絵。
・三男が金葉集を撰じた74源俊頼、その息子が85俊恵法師
→三代続けて百人一首入撰はこの例だけ。経信も鼻が高いことだろう。
②歌人としての経信 人物模様 エピソード
・後拾遺集に6首 勅撰集に87首 私家集として経信集
・当代一の歌人とされた。なのに白河帝勅による後拾遺集の撰者には選ばれず、後拾遺集は年少歌人藤原通俊が撰ぶところとなった。勿論経信は後拾遺集に反目し「難後拾遺」なる歌論書を出し後拾遺和歌集から84首を抜き出し批判を加えた。勅撰和歌集に対する最初の論難書とされる。
→白河帝と喧嘩でもしたのでしょうか。後述の遅刻を咎められたのかも。
(後拾遺集の成立は1087年 この時白河帝35才、源経信72才、藤原通俊41才
後輩に譲ってもいいと思うのだが経信のプライドが許さなかったのか)
・堀河朝では数々の歌合の判者となり重きをなした。歌壇の指導的存在であった。
・経信は和歌のみならず漢詩・管弦(特に琵琶)・有職故実・学問・法令それに蹴鞠まで全てに万能であった。
→すごい! 蹴鞠まで得意とは光源氏さまも顔負けですな。
→容姿については出て来ない。それと女性関係も書かれていない。どうしてだろう。
・そんな諸事万能の経信の「三舟の才」のエピソード
白河帝の大堰川行幸の際、和歌・漢詩・管弦の三舟を仕立て芸を競わせる催しがあった(55公任の所で出てきた)。万事に長ける経信は遅れてきて「いづれの船なりとも寄せ給へ」と言って管弦の舟に乗り、見事なパフォーマンスを見せやんやの喝采を受けた。
→「わざと遅れて来た」などと揶揄されている。まあどうなんでしょう。「私はどれでもかまいませんよ。残ったところでいいですよ。お先にどうぞ」とでも言ったのでしょうかね。
→それもまた嫌味ですけどね。
・歌人たちとの交流としては73大江匡房、55相模、67周防内侍、61伊勢大輔と幅広い。
→長く歌壇の重鎮であった。当然多くの歌人たちと歌合などで競いあったことだろう。
・経信の歌から二三
.延久五年三月に住吉にまゐりて、帰さによめる
沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝をあらふ白波(後拾遺集1063)
→経信の自讃歌 これも何となく71番歌と発想が似ているように感じる。
因みに俊成の自讃歌は、
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉なくなり深草の里
→『定家は「近代秀歌」に経信・俊頼・顕輔・清輔・俊成・基俊の六人をあげて「此の輩、末の世の賤しき姿をはなれて常に古き歌をこひねがへり」とし、近き代の先達としている』(島津忠夫)
.大井川いは波たかし筏士よ岸の紅葉にあからめなせそ(金葉集245)
→何が気に入らなかったのか後拾遺集の時入れてくれるなと頼んだ歌、後息子の俊頼によって金葉集に入れられた。
.承暦二年(1078)内裏歌合によみ侍りける
君が代はつきじとぞ思ふ神風や御裳濯川のすまむかぎりは(後拾遺集450)
→白河帝の歌合 長寿を寿ぐ お蔭で白河帝は77才まで生きた。
③71番歌 夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く
・桂の近く梅津の師賢の屋敷で「田家秋風」を詠み合った。
・「夕されば」→「夕さり」「夜さり」 夕ぐれになると、、。
・門前の稲の葉がそよぎその風が門から屋敷に入ってくる。
題詠であるが目のあたりにしての実写。
風景を客観的に描写している。清新な叙景歌、、、、などとされる。
→有名な歌でもないので今まで深く読んで来なかったが言われてみるとなかなかいい歌に思えてくる。
「秋来ぬと」に並ぶ秋の歌の双璧
→と言われると「そうかなあ~」と思わないでもないが。
・田畑、稲作は日本古来から生業の第一。
門田・稲葉・蘆のまろや、、何れも万葉歌語である。
百人一首の初め天智帝の歌が思い浮かぶ。
1秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ
④源氏物語との関連 ちょっと無理やりですが。
・源氏物語 手習11 小野の山里での門田の稲刈りの様子
秋になりゆけば、空のけしきもあはれなるを、門田の稲刈るとて、所につけたるものまねびしつつ、若き女どもは歌うたひ興じあへり。引板ひき鳴らす音もをかし。
→記憶の蘇った浮舟が不幸な半生を回想する場面。
・経信は洛西の桂(桂離宮近辺)に別荘を有し「桂大納言」と呼ばれた。
→光源氏の別荘があり、源氏は嵯峨御堂~桂別荘に行くと称して大堰の明石の君を訪れていた。
松風11
今日は、なほ桂殿にとて、そなたざまにおはしましぬ。にはかなる御饗応し騒ぎて、鵜飼とも召したるに、海人のさへづり思し出でらる。、、、
月のすむ川のをちなる里なれば桂のかげはのどけかるらむ(冷泉帝→源氏)
さて70番台に入りました。69能因法師に続いての遁世者。「秋の夕暮」と言えば新古今集三夕の歌。「新古今集の幽寂の境地を先取りした歌人」と称される良暹法師。どんな人物だったのでしょう。
70.さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮
訳詩: 夕暮
家にいても身にしみるさびしさ
おもてに出て見渡せば
どちらにも同じ
秋の色
作者:良暹法師 生没年・伝未詳 御朱雀、後冷泉朝期の歌僧
出典:後拾遺集 秋上333
詞書:「題しらず」
①良暹法師 猿丸や蝉丸じゃあるまいしこの時代で生没年・伝未詳じゃ困りますねぇ。
・参加した歌合の年代などから推定されている1000-1065としておきましょう。
→伊勢大輔・大弐三位の世代。能因法師より10年程年少。
・父不詳 これは困りますねぇ。エラかったのかエラくなかったのか。
母 「歌枕見てまいれ」の51実方の家の「白菊」という女童だったという伝承
→実方は998陸奥で没している。まさか実方のご落胤だったということはないでしょうね。
→でも何となく身分の高い貴族が召使クラスの女性に生ませた子をお寺に預けたケースという気がする(単に想像です)
・比叡山の僧(荒くれ僧のイメージ)であった。
祇園の別当(現八坂神社の管理者)だった。
→神仏習合の先取りみたいなものか。
・大原に隠棲し晩年は雲林院に住んだ。
大原 正に寂しい山里、良暹法師の歌の背景は大原の寂寥によるものだろうか。
【雲林院】
12僧正遍昭が興し子の21素性法師が継いだ天台宗の寺。
源氏も藤壷に出家され寂しさを癒すべく母桐壷更衣の兄が律師を務めていた雲林院を訪れている。
②歌人としての良暹法師 エピソード
・後拾遺集以下勅撰集に31首 私家集もあったらしいが残存していない。
→出自不明なれど大歌人。宮中の歌合にも出詠している。
「歌人として尊崇されていた」(田辺聖子)
・良暹は身分が低く歌も独学、我流だったようで古歌を知らなかったり勘違いしたりして嘲笑を買っている。
古今集にある「時鳥汝が鳴く」を「時鳥長鳴く」と勘違いして詠んだ歌
宿近くしばしながなけ時鳥今日のあやめの根にもくらべん(良暹)
古今集本歌 読む人しらず
時鳥ながなく里のあまたあればなほ疎まれぬ思ふものから
→そんな咎めるほどじゃないでしょう。洒落てて面白いでしょうに。
→でもホトトギスの長鳴きはさすがに常識はずれでしょうかね。
・良暹の歌から
.初めたる恋のこころをよめる
かすめては思ふ心を知るやとて春の空にもまかせつるかな(金葉集)
→恋をしたこともあったということでしょうか。
.雲林院のさくら見にまかりけるに、みなちりはてて、わづかに片枝にのこりて侍りければ
たづねつる花もわが身もおとろへて後の春ともえこそ契ちぎらね(新古今集)
→雲林院、晩年若かりしときを振り返って。仏道修行に励んでいたのでしょう。
ここから隠遁地大原での歌
.あれたる宿に月のもりて侍りけるをよめる
板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり(詞花集)
.大原に住みはじめけるころ、俊綱の朝臣のもとはいひつかはしける
大原やまだすみがまも習はねばわが宿のみぞけぶりたえたる
【橘俊綱】
この人が面白い。頼通の子即ち道長の孫として生まれるが頼通の正妻の嫉妬で母は俊綱を宿したまま頼通と離縁し橘俊遠の妻となった。よって橘姓を名乗る。勅撰歌人で管弦、造園にも造詣深かった。
.大原の庵の障子に書きつけていた歌
山里のかひもあるかな時鳥ことしも待たで初音聞きつる
→いい歌である。山里に住んだ甲斐があったというもの。
.藤原国房に宛て詠んだ歌
思ひやる心さへこそ寂しけれ大原山の秋の夕暮(後拾遺集)
→「秋の夕暮」である。
身分が低いだけに気軽に飄々とした感じ。教養教義には欠けていたきらいはあるがマイウエイを行くユニークさもあったようだ。
③70番歌 さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮
・「題しらず」だがこれは隠遁地大原で詠んだ歌であろう。
秋は寂しくもの悲しい
幽玄の境地、墨絵のような心境の歌(白洲正子)
どこへ行ってもどんな人間環境にあっても秋はもの悲しいものである。
→百人一首には秋の歌が16首と圧倒的に多いが日本人の心に一番しっくりくる季節だからであろう。
・「秋の夕暮」は万葉集は勿論、三代集(古今・後撰・拾遺)にもない。
後拾遺集になって突然7首登場する。
良暹の70番歌こそ「秋の夕暮」の感覚を詠みこんだ草分けであろう。
「秋の夕暮」 やはり枕草子から流行になったのであろうか。
秋は夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三四、二三など、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。
→烏がねぐらへ急ぐ様子、秋のもの悲しさにマッチする。
【1929年秋の早慶戦 神宮球場 NHK松内アナ】
~~神宮球場どんよりした空 白雲垂れた空
塒へ帰る烏が一羽、二羽、三羽、四羽
戦雲いよいよ急を告げております~~
・「秋の夕暮」と来れば当然 新古今集 三夕の歌
寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮(寂蓮法師)
心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮(西行法師)
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮(定家)
→三人とも百人一首歌人だが百人一首には入っていない。定家は最初に「秋の夕暮」を詠んだ良暹の70番歌と寂蓮からは別の歌を百人一首に撰んでいる。
87村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(寂蓮法師)
・百人一首で「秋は寂し」と詠まれているのは他にもう一首
47八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶法師)
④源氏物語との関連
秋の物悲しさが語られている名場面を二つあげておきましょう。
・六条御息所との野宮の別れ(賢木2)
はるけき野辺を分け入りたまふよりいとものあはれなり。秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて。そここととも聞きわかれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。
・自ら謫居した須磨の秋(須磨15)
須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々はげに近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。
二人の法師が秋の風景を詠んだ歌ながら69番は錦絵の世界、70番は墨絵の世界。みなさんはどちらがお気に入りでしょう。
→69才の爺はまだ69番歌の方が好きかなと思います。70才になったら70番歌に変わるのかも。
「女房歌人の時代から遁世歌人時代へ」(目崎徳衛)と時代は移っていきます。旅に暮らし西行や芭蕉の先達となった能因法師。数々のエピソードの持ち主でもあります。それだけ面白い人生を生きた人だったのでしょう。
69.嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり
訳詩: 見上げれば三室の山の紅葉が散る
あらしにまかれ散りゆく先は
龍田川の秋の流れ
流れは織る 限りなく降る紅葉の糸で
名にし負う龍田川の秋の錦を
作者:能因法師 俗名橘永愷(ながやす)988-1051? 諸国行脚歌人
出典:後拾遺集 秋下366
詞書:「永承四年(1049年)内裏歌合にてよめる」
①能因法師 988年生まれ
誕生が一条朝、青春時代が三条朝、出家行脚が後一条朝、晩年が御朱雀・後冷泉朝
・橘氏 父は近江守橘忠望、受領階級の息子である。
橘氏 県犬養三千代、その子葛城王(橘諸兄)を始祖とする貴族(源平藤橘の一つ)
橘諸兄の子橘奈良麻呂は乱をおこすが藤原仲麻呂に敗れ橘氏は没落の途を辿る。
→県犬養三千代(橘三千代)は藤原不比等の夫人となり、その娘が藤原光明子(光明皇后)
→「天上の虹」の世界である。
・能因、俗名は橘永愷(ながやす)大学に学び文章生 肥後進士と号す。
→秀才。学問の道に行くべき男であった。
・1013 26才で出家! Why?
→恋する女性が亡くなって、、、とのことだがもう一つ不詳。
→「オレはどうせ不遇の橘氏、中央の出世より遠くへ行って歌でも詠んで過そう」と思ったのか。
・和歌の道へ
1「難波潟」の19伊勢に私淑して伊勢ゆかりの地摂津古曽部(高槻)に遁世する。
→亡くなった恋人から「逢はでこのよを過ぐしてよとや」と書かれた恋文でももらったのだろうか。
2藤原長能(949-1009 藤原北家歌人 勅撰集に52首 53藤原道綱母の弟)に師事
歌道で師弟関係の出来た最初と言われる。
→師弟関係ってどういうことだろう。能因の「能」は長能の「能」を頂いたのかも。
・諸国行脚、歌枕を尋ね歌を詠む。能因が行って詠んだ所も歌枕になる。
甲斐、熊野、遠江、美濃、信濃、美作、伊予、陸奥、出羽(西行・芭蕉より多い=目崎)
→正に「歌を枕に生きた人生」と言えようか。
→歌学書「能因歌枕」(歌枕集)を遺す。
・晩年は宮中歌合せにも数々出詠、半僧半俗の人であった。
→出家・遁世と言っても仏道修行ではない。和歌を詠み、文藝を極めるためであった。
→宮中歌合に参加し頼通ら権門とも交流する。21素性法師に通じる側面もある。
・後拾遺集に31首 勅撰集計67首 私家集に能因法師集
→大歌人である。
・大江公資(歌人、相模の夫)と親しかった。藤原公任とも交流。
→当然65相模とも交流はあったのであろう。
②数あるエピソードから、
・能因は牧場を経営し馬を育て交易するのに関わっていた。
→何故馬なんだろう。凡そ僧侶に似つかわしくないが。この話すごく興味あります。
→それで陸奥にも何度か赴いたなんてのも書かれていたがどうなんでしょう。
・超有名なエピソード
みちのくににまかり下りけるに、白川の関にてよみ侍りける。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(後拾遺518)
陸奥になど行ってないのに行ったふりをするため家で日焼けして黒くした。
やらせの元祖(田辺)とされる。
→書かれているのは古今著聞集。まあ作り話でしょうが面白い話であります。
→日に焼けるのも大変だけど春~秋まで京にありながら人目につかず過す方が大変ではないか。
・「スキタマヘ、スキヌレバ秀歌ハ詠ム」との言あり「数奇の人」と言われる。
「来たるべき中世的自由人・文化人のあり方を確立した人物である」(目崎徳衛)
→放浪徘徊歌人は能因法師に始まると言っていいのだろうか。
→時代が生んだ人物とも言えようか。
・19伊勢に私淑するあまり古今集に伊勢が詠んだ長柄の橋を作った際のかんな屑を錦の袋に入れて宝物として持ち歩いていた。
難波なる長柄の橋もつくるなり今は我が身を何にたとへむ(伊勢 古今集)
これを自慢すると同じく数奇者相手鹿矢の節信は懐から蛙の干物を持ち出した。
かはづなくゐでの山吹散りにけり花のさかりにあはましものを(読み人しらず 古今集)
→ご両人とももう少しましなものを持ち歩けなかったのか。小野小町が若かりし頃ながめた桜の花びらとか、、、。
・諸国で詠んだ歌から
伊予守になった藤原実綱に同道して伊予で干ばつを救った歌
天の川苗代水にせき下せ天降ります神ならば神
常陸にまかりてよみ侍りける
よそにのみ思ひおこせし筑波嶺のみねの白雲けふ見つるかな(新勅撰1303)
③69番歌 嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり
・嵐は山風(22番歌)
・三室山、龍田川。位置については諸説あるようだがそりゃあ在六少将邸の近くのものでしょう。
三室の山=神南備山、神のまします山 竜田公園内の小山82M)
龍田川=現在の大和川
→17業平が「ちはやふる」で詠み、69能因法師が詠んだ。これで紅葉の名所として確立されたのであろう。
・歌は三室山の紅葉が龍田川に流れ錦を織りなしている、、、単純で見栄えがしない。などとして近代の評価は極めて低い。紅葉が好きな定家が小倉山荘の障子に貼り付けるに適した歌として選んだのであろうとの見解もあった。
→たしかに「やらせの元祖」「かんな屑の能因」にしては奇抜性がない。もっと「スキタマヘ、ノウイン」と言いたいところ。
・本歌、参考歌
龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ(読み人しらず 古今集)
龍田川もみち葉ながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし(読み人しらず 古今集)
・この歌は1049後冷泉帝主催の歌合での歌(題 紅葉)勝ちとなっている。
相手方は藤原祐家(負)
散りまがふ嵐の山のもみじ葉は麓の里の秋にざりける
→祐家は道長の孫、67で登場した忠家(定家の曽祖父)の弟
④能因法師は源氏物語でなく奥の細道でしょう。
芭蕉が奥の細道で能因法師を引用している所をピックアップしました。
1.白河の関
中にも此の関は三関の一にして風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。
→都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因法師 後拾遺集)
2.武隈の松
武隈の松にこそめ覚むる心地はすれ。根は土際より二木わかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先づ能因法師思ひ出づ。往昔むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事あればにや、「松は此のたび跡もなし」とは詠みたり。
→武隈の松はこのたび跡もなし千年をへてや我はきつ覧(能因法師 後拾遺集)
3.野田の玉川(塩釜付近 92沖の石、42末の松山といっしょに出てくる)
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末松山といふ。
→夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり(能因法師 新古今集)
4.象潟
蜑の苫屋に膝をいれて雨の晴るるを待つ。其の朝、天能く晴れて朝日花やかにさし出づる程に、象潟に舟をうかぶ。先づ能因嶋に舟をよせて、三年幽居の後をとぶらひ、、
→世の中はかくても経けり象潟の蜑の苫屋をわが宿にして(能因法師 後拾遺集)
奥の細道の諸場面が蘇ります。芭蕉の時代から遡ること700年! 旅は極めて不自由なものであったでしょう。「そんなの簡単、ツアーで2泊3日で回って来たよ」と聞けば能因さん卒倒してつぶやくでしょう。「えっ、それなら日焼けする必要もあるまいて、、」
松風有情さんから69番歌絵をいただきました。ありがとうございます。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/06/KIMG0277.jpg
(月、火と恒例の那須合宿ゴルフ ―源智平朝臣、枇杷の実さんともども― です。
返信は水曜日以降になります。ご容赦ください)
さて、時代は遡って66大僧正行尊の曽祖父、三条天皇。道長のあくどさを語るのもこれで終わりになるでしょうね。ちょっと寂しい気もします。
68.心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
訳詩: 私の心は暗くとざされ 目もまたかすかだ
生きながらえることはもう望まない私だが
本意でもなくこののちもなお生きるのなら
ああそのとき 思い出の中で 今宵の月は
どんなに心にしみて恋しいことだろう
作者:三条院 976-1017 42才 第67代天皇 花山→一条→三条→後一条
出典:後拾遺集 雑一860
詞書:「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるころ、月の明かりけるを御覧じて」
①冷泉帝の第二皇子(第一皇子は花山帝)母は兼家の長女超子
外祖父が誰かという観点から皇統を辿ると、
冷泉(藤原師輔)→円融(師輔)→花山(藤原伊尹)→一条(藤原兼家)→三条(兼家)
・兼家は早く外戚になりたいため花山帝を引っ張りおろし7才の皇太子であった懐仁親王を一条帝として即位させている。この時皇太子になったのが一条帝より4才年上の居貞親王、これが後の三条帝である。
→年若い一条帝の皇位は25年も続く。居貞親王にとっては長い長い皇太子時代である。
・母超子は居貞親王が7才の時早逝、父冷泉帝は精神病で隠居生活。
頼みの祖父兼家も居貞親王が東宮時代の14才の時に亡くなる。
→後ろ盾(後見)のいない東宮。これは哀れ、この時点で摂関政治の構図が壊れている。
・1011年一条帝崩御、36才にしてやっと念願の皇位につく。そして東宮には一条帝の第二皇子敦成親王(母彰子、後の後一条天皇)が立つ。
→第一皇子敦康親王(母定子)との東宮位争いについては何度も出て来ました。道長のごり押しでありました。
・当然道長は敦成親王が一刻も早く皇位につくことを望む。三条帝は親政をめざし人事面でも道長に抵抗するが、三条帝へのいやがらせ、サボタージュ、パワハラはいや増すばかり。
→三条帝にとっては四面楚歌、貴族連中も皆勝ち馬に乗ろうと道長の方を向く。
→かくて体調を崩し長寿薬(仙丹=水銀を含む)を服用する。そして眼病を患う。
・道長は、「眼が見えないようじゃ公務もできないでしょう」とて露骨に退位を迫る。
→臣下である藤原が主上に退位を迫る。世も末である。
・眼病に加え、内裏が二度に亘り焼失する。この不祥事も三条帝のせいだとされる。
1016年5月、ついに退位を決意、息子敦明親王(母藤原済時の娘娍子)を皇太子とすることを条件に譲位、敦成親王が後一条天皇として皇位につく。
→道長の念願がかなう。
(63荒三位道雅が三条院の前斎宮当子内親王に通い始め三条院が怒り狂ったのもちょうどこの頃1016年のこと。これもストレスになったのであろう)
・退位後消沈の時を過し出家、ほどなく崩御42才。
皇太子についていた敦明親王も道長のプレッシャーに耐えきれず(身の危険も感じたのかも)自ら皇太子を辞退する。
以上三条天皇の一生を振り返ると、誠にお気の毒な天皇である。
百人一首に登場する8人の天皇の内1天智、2持統、15光孝を除く5人は何れも「心にもあらで」この世を過さざるを得なかった悲劇の天皇であった。
13陽成院、68三条院、77崇徳院、99後鳥羽院、100順徳院
②歌人としての三条院
・家集はなく勅撰集入撰は8首 歌人としてはさしたる実績もない。
偏に「天皇としての歴史性を重視しての撰入」と考えるべき(吉海)
→歌だけではない、歴史をも包含しようという定家の意志の表れであろう。
・三条院の和歌
秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む(詞花集 秋)
あしびきの山のあなたに住む人はまたでや秋の月を見るらん(新古今集 秋上)
→三条院にとって月だけが心の友であったのだろうか。
・三条院の女性(妃)関係を見ておきましょう。
東宮時代先ず添臥として入ったのが兼家の娘(叔母にあたる)藤原綵子
(綵子は後、源頼定との密通事件を起こす)
次いで藤原娍子(せいし=藤原済時の娘)を女御とし、敦明親王(66大僧正行尊の祖父)や当子内親王(63道雅の密通の相手)が生まれる。娍子は美貌の女御であり三条院との仲は睦まじかった。
道隆の次女(定子の妹)藤原原子も女御として入ったが桐壷で突然の不審死をしている。
→三条院の東宮時代の後宮は何やら胡散臭い感じがする。
三条院即位後道長は次女妍子(けんし)を入内させ強引に中宮につける。三条院はこれに対抗し以前からの娍子を皇后として立后させる。一条帝の定子・彰子に次ぐ二后並立状態となった。
→道長の強引さ、まさに「この世をばわが世とぞ思う」振舞いである。
③68番歌 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
・後拾遺集の詞書に補足して栄花物語(玉の村菊)の該当部分を引用しておきましょう。
かかる程に、御心地例ならずのみおはします。内にも、物のさとしなどもうたてあるやうなれば、御物忌がちなり。御物怪もなべてならぬ渡りにしておはしませば、宮の御前(中宮妍子)も、物恐しうなど思されて、心よからぬ御有様にのみおはしませば、殿の御前も上も、是をつきせず歎かせ給ふ程に、年今いくばくにもあらねば、心あわただしきやうなるに、いと悩しうのみ思し召さるるにぞ、如何にせましと思しやすらはせ給ふ。十二月の十余日の月、いみじう明きに、上の御局にて、宮の御前に申させ給ふ。
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
中宮の御返し。(この返歌は伝わっていない)
・厳寒の師走の夜空、澄み渡る空に煌々と月が輝いている。
・「心にもあらでうき世にながらへば」=もう早く死んでしまいたい。
→何とも悲しい。生きていてこそ浮かぶ瀬もあろうものを。
→万民が見上げる偶像であるべき天皇がそんなこと言ってはならないのに。
・歌を詠みかけた相手は中宮妍子。「お前のお父さんは恨めしいがお前に罪はない」とて妍子のことも愛しく思ってたのだろう。
・この歌、三条院の悲劇を背景にして読むと実感がこもっている名歌だと思う。
どうにもならない憂き世、この時の三条院は既に俗世から達観し悟りの境地に入っていたのではないか。
・そして、68番から程なく(翌年か翌々年か)道長は娘三人を歴代天皇の中宮にしたとして喜びの歌を謳い上げる。
(一条帝中宮彰子・三条帝中宮妍子・後一条帝中宮威子)
この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
→三条院はこの歌知らずして亡くなっている。知ってたら化けて出たのかも。
④源氏物語との関連
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
この歌の心境に近い人物を考えると、
・八の宮 政治的に敗北した上、二人の姫を残して北の方に先立たれ邸を火事で失う。
大君 父が亡くなり宇治で途方にくれる。父の遺言に縛られ結婚もできない。
浮舟 薫と匂宮、二人の狭間に立ち生きていく方途を見失う。
→何れも宇治十帖、「憂じ」の物語であります。
最後に浮舟の絶唱を(浮舟33)
鐘の音の絶ゆるひびきに音をそへてわが世つきぬと君に伝へよ
さて大僧正に続くのは生涯キャリア女官として天皇四代に仕えた周防内侍。どんなお局さまだったのでしょう。しっかりした人? 賢い人? いやきっとそれだけではないでしょう。
67.春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
訳詩: いずれ春のみじか夜のみじかい夢
そんなはかない浮気ごころに気をゆるし
あなたの腕を手枕にしたりすれば
ありもしない浮気のうわさが立つでしょう
せっかくのお志はありがたくとも
作者:周防内侍 生没年未詳 平安後期女流歌人 後冷泉・白河・堀河朝女房
出典:千載集 雑上964
詞書:「二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして、物語などし侍りけるに、内侍周防よりふして、枕をがなとしのびやかに言ふを聞きて、大納言忠家、これを枕にとて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍りければ、詠み侍りける」
①周防内侍 wikiに倣い1037-1109 73才で考えましょう。72紀伊とほぼ同年齢
→66行尊と同様順番がオカシイ。72・73番あたりが定位置でしょうに。
・父 桓武平氏 周防守平棟仲 (父の受領地周防が女房名に)
→周防の国府は防府。42清原元輔が周防守だった。清少納言も周防で4年ほど過ごしている。
→周防内侍が周防に住んでいたのか読み取れませんでした。
母 加賀守源正軄の娘、後冷泉朝で小馬内侍と呼ばれた宮廷歌人だった。
→母も内侍。周防内侍の歌才は母譲りのものであろうか。
・初め後冷泉帝に出仕、次いで後三条→白河→堀河と四代天皇に約40年仕える。
内侍 内侍司(天皇に近侍、奏請と伝宣、宮中の礼式等に関与、天皇の秘書役)
長官 尚侍(ないしのかみ)(源氏物語では朧月夜、玉鬘)
次官 典侍(ないしのすけ)(源氏物語では源典侍=老女、藤典侍=惟光の娘)
三等官 内侍(ないしのじょう)
→お側近くに仕えて万事諸々に対処する。気配りに長け機智に富み事務処理能力抜群、そんな人でないと務まらない。逆に長年務めると生き字引みたいになって余人を以て替えがたしだったのだろう。
→天皇のお手がついたという話は見当たらないが。。。
・栄花物語の前篇は赤染衛門で後編は周防内侍作との説もある。
→経歴と能力から言って大いにありうる話であろう。少なくとも何らかの形で関わっていたのではないか。何せ生き字引なんですから。
・百人一首女流歌人で内侍を務めたのは54儀同三司母(高内侍)と60小式部内侍
→儀同三司母は優秀だったとあるが、小式部内侍の勤務ぶりはよく分からない。
②歌人としての周防内侍
・後拾遺集以下勅撰集に35首 私家集に周防内侍集
・晩年堀河朝で数々の歌合に登場。一昔前(後朱雀・後冷泉朝)の相模みたいな存在か。
1102 堀河院艶書歌合では72紀伊とも同席している。
人知れぬ袖ぞ露けきあふことのかれのみまさる山のした草
・歌人との交流も当然多い。
73大江匡房(1才下)とは歌合せで度々同席
79藤原顕輔(詞花集撰者)とも親しく交流
・恋愛沙汰もあったのであろうが結局結婚せず独身で通している。
→恋に積極的でなかったのか。仕事一途であったのか。よく分かりません。
・晩年住み馴れた家を手放すことになり引越しに当たり柱に書きつけた歌
家を人にはなちてたつとて 柱にかきつけ侍りける
住みなれて我さへ軒の忍ぶ草忍ぶかたがた多き宿かな(金葉集)
この旧家は後世の歌人たちに有名だったようで西行も訪れ歌を詠んでいる。
周防内侍 我さへ軒のと書きつけける古里にて人人思ひをのべける
いにしへはついゐし宿もあるものを何をか今日のしるしにはせん(山家集)
真木柱の姫君(髭黒の長女、髭黒が玉鬘と結婚し母北の方とともに実家に戻る)の話にそっくりである。真木柱12
常に寄りゐたまふ東面の柱を人に譲る心地したまふもあはれにて、姫君、檜皮色の紙を重ね、ただいささかに書きて、柱の乾割れたるはさまに、笄の先して押し入れたまふ。
今はとて宿離れぬとも馴れきつる真木の柱はわれを忘るな
→長年住んだ家を去るのはつらい。柱には愛着がある。まさに「マイはしら」であります。
・周防内侍の代表歌とも目される1093郁芳門院根合歌。
恋わびてながむる空の浮雲やわが下燃えの煙なるらん(金葉集)
→この代表歌をおいて定家が67番歌を選んだ理由は?
③67番歌 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
・詞書にあるように宮中でのエピソードに基く当意即妙の歌。
当意即妙、60番、61番、62番、64番と同趣向の歌である。
・春、夜、夢、枕。いかにも艶めかしい。情事・閨房を連想させる。
手枕→腕(かいな)→甲斐なし うまい掛詞である。
・名こそ惜しかれ
65番相模に続く「名こそ惜しかれ」
→相手は大納言、まあそう言わなくてもいいと思うのですがねぇ。
・さて、どんな状況だったのか。
二月ばかり
→寒いでしょうね。夜通し文藝談義なんでしょうか。ようやりますね。
内侍周防よりふして、枕をがなとしのびやかに言ふ
→誰かあてがあったから言ったのでしょう。
すると大納言忠家が「これを」と言って自分の腕を御簾の内に差し入れた。
→忠家どんな体勢で差し入れたのでしょう。寝そべってでしょうか。
う~ん、けっこう無理があるようですがこれぞ王朝の雅なゲームなんでしょう。
膝枕ならともかく手枕、他人の手枕なんてあまり聞きません。
・藤原忠家=道長の六男、御子左家の祖、俊成の祖父、定家の曽祖父
これで本歌の謎が解けたように思います。
俊成、定家父子は先祖の忠家を歴史に残すべく詞書とともに千載集に入れ(俊成)、定家がそれを百人一首に入れた。これで67番歌とともに忠家の名は後代に語り継がれることになった。
・67番歌に対する大納言忠家の返歌
契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき
→周防内侍の当意即妙に比べ劣るとの解説が多いが、とにかく忠家は歌を返した。「返せなかった64定頼よりは立派でしょう、、、」そう定家は言いたいのではないか。
この歌、詠まれた状況をあれこれ詮索しながら読むとなかなか面白い。
当意即妙の歌としては61番歌と並ぶ傑作だと思いますが如何でしょう。
④源氏物語との関連
・艶めかしい春の夜の情事というとやはり花宴での源氏・朧月夜の密通でしょうか。
深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ(源氏 花宴2)
・手枕で横に臥せるというと、源氏が玉鬘に恋情をいだき篝火を焚かせ琴を枕に添い臥す場面が思い浮かぶ。ここでも賢い玉鬘は絶妙に源氏のアタックをしりぞけている。(篝火2)
秋になりぬ。荻の音もやうやうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり。
篝火にたちそう恋の煙こそ世には絶えせぬほのほなりけれ(源氏)
行く方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば(玉鬘)
・二条院、67番歌では関白藤原教通(道長の五男)の邸とのことだが源氏物語で二条院と言えば六条院に次ぐ重要・有名邸。桐壷更衣の里邸、源氏はここで生まれ紫の上を連れて来ていっしょに住む。紫の上は最後六条院から二条院に移りそこで息を引き取る。
仏教界の大御所、大僧正どののご登場です。ちょっと順番がオカシイ。定家の勘違いか(それはあり得ないでしょう)何か意図があってのことか。見てまいりましょう。
66.もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
訳詩: 深山にわけ入って見出でた山桜
春はすでに逝こうとするのに――――
花よ お前と私と二人きりのこの空のもと
ひっそり心を寄せ合っていよう
お前よりほか 私には心通わす人もないのだ
作者:大僧正行尊 1055-1135 81才 三条帝皇子小一条院敦明親王の孫 父は参議源基平
出典:金葉集 雑上521
詞書:「大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる」
①行尊 父は賜姓源氏の参議源基平(行尊10才の時病死 享年39才)
・父の父は小一条院敦明親王(後一条帝の皇太子になるが道長の圧力で自ら退位)
父の父の父は68三条院(道長との軋轢で「心にもあらで」退位した悲劇の帝)
→68番で考えたいが道長に屈せざるを得なかった家系と言えよう。
・行尊 1055生まれ 生まれ年からすれば背番号は75番前後の筈。
→曾お祖父さんの68三条院より前では行尊も居心地が悪いのではないか。
・父の死後12才で出家、園城寺へ入る。
*園城寺(三井寺@大津)大友皇子を弔うため創建 天台寺門宗の総本山
三井寺の謂れは天智・天武・持統の三帝が使った産湯が湧き出た所の意
延暦寺(天台宗総本山)と犬猿の仲、宗教対立
・15才ころから18年間大峰・葛城・熊野の霊山で荒行を積む
命がけの精進、西国巡礼の霊場も行尊によって形式が定まった。
山伏修験の行者と言えば役小角(7世紀 修験道の開祖 呪術者)
行尊は仏教家として修験道を極めた。
→15才から18年間 霊山で荒行。これは凄い!百人一首にこんな人いない。
業平やら元良親王やら都の貴公子たちが夜な夜な女性との恋にうつつを抜かしている年ごろ。う~ん、できることじゃないでしょうに。
・下山後園城寺に戻り仏教家として上り詰めていく。
権少僧都→権大僧都→権僧正→僧正→大僧正(これが出世コースである)
・歴代天皇の護寺僧を勤める。
白河院、待賢門院璋子、鳥羽帝、崇徳帝(70番台の時代)
(璋子が鳥羽帝に入内する時とりついた物の怪を調伏している(今鏡))
皇室と深く結びつき験力無双の高僧と言われた。
→荒行修行の実績がものを言ったのであろう。
→源氏物語でもお産の場面、病気、臨終の場面には必ず芥子護摩を焚く僧侶が現れていた。
・1123 69才で天台座主に(比叡山との対立で7日で退位)
その後も仏教家として全うし1135 81才で没
→勿論終生独身、エライ人であります。
②歌人としての行尊
・金葉集以下勅撰集に48首(名だたる歌人である)
*金葉集 1126年 白河院宣 源俊頼撰 百人一首に5首
(行尊は金葉集に10首入っている)
・1089太皇太后宮寛子(後冷泉帝后)扇歌合から始め晩年まで宮中・貴族邸での数々の歌合に出詠。歴代天皇の行幸、寺社参詣などに供奉。
→大宗教家、超能力保持者にして一流歌人。崇高そのものだったのでしょう。
・千人万首見てみたがさすがに色っぽい歌は全くなかった。2首ほど。
1 熊野へ参りて大峯へ入らむとて、年頃やしなひたてて侍りける乳母(めのと)の許に遣はしける
あはれとてはぐくみたてし古へは世をそむけとも思はざりけん(新古1813)
2 病おもくなり侍りにければ、三井寺にまかりて、京の房に植ゑおきて侍りける八重やへ紅梅こうばいを「いまは花咲きぬらん、見ばや」といひ侍りければ、折りにつかはして見せければよめる
この世には又もあふまじ梅の花ちりぢりならんことぞかなしき(詞花363)
その後ほどなくみまかりにけるとぞ
→さすが大聖人。歌に品格が備わっているように感じる。
③66番歌 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
・歌意は明解、紛れがない。これぞ遁世修行者の素直な歌ではなかろうか。
・詞書の「思ひもかけず」には色んな受けとめ方があるようだが、これも一心不乱に修行に励んでいた若き行尊がふと見上げると遅咲きの山桜が目に入ってハッとした、、、ということでいいでしょう。
・行尊大僧正集では一連の3首が載せられている。
思ひかけぬ山中にまだつぼみたるもまじりてさきて侍りしを、風に散りしかば、
山桜いつを盛りとなくしてもあらしに身をもまかせつるかな
風に吹き折れても、なほめでたく咲きて侍りしかば、
折りふせて後さへ匂ふ山桜あはれ知れらん人に見せばや
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
→この3首、いいですねぇ。自分を卑下もせず過大評価もせず、自然体で詠んでいる。吉野の山は濁世など紛れ込む余地もなかったのでしょう。
・芭蕉は奥の細道月山で66番歌を引用している。
六月八日、月山にのぼる。。。。。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積む雪の下に埋れて、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀れも爰に思ひ出でて、猶まさりて覚ゆ。
→新暦では7月24日、真夏である。にもかかわらず月山は雪が残り芭蕉は息たえ身こごえてやっと頂上に辿り着いている。出羽三山も修験道の山である。
・派生歌 藤原俊成 新古今集
いくとせの春に心をつくしきぬあはれと思へみよしのの花
・山桜を詠んだ有名歌
ささ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 平忠度
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 本居宣長
④源氏物語との関連 ちょっと無理やり気味ですが、、。
・京の都の桜は散っても北山の山桜は見ごろ、そんな頃源氏は北山に僧都を訪ね、生涯の伴侶となる若紫を見つける。超有名場面です。
やや深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花、盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、、、、寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深き岩の中にぞ、聖入りゐたりける。(若紫1)
→3月のつごもり=4月末 鞍馬山鞍馬寺も天狗の出る山岳信仰、修行の地であった。
・吉野金峰山への御岳精進 参籠前には何日も精進潔斎するのが決まりであった。
明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで。御岳精進にやあらん、ただ翁びたる声に額づくぞ聞こゆる。起居のけはひたへがたげに行ふ(夕顔10)
→下町五条の夕顔の宿で一夜を明かした源氏、早朝の庶民の町の様子が描かれてる貴重な場面。老人がひたすら潔斎のお経を唱えている。源氏は夕顔を抱いて近所の某の院へと誘う。(大聖人行尊についての締め括りにはちょっと似つかわしくない場面になりました。すみません、大僧正!)
松風有情さんの66番絵です。ありがとうございました。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/05/KIMG0270.jpg