忍恋に命を細らせた式子内親王に続くのは、式子内親王の姉殷富門院(亮子内親王)に仕えた大輔。「くれないの涙」、これも強烈な恋の歌です。
90.見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
訳詩: 見せてあげたいこの袖を あの方に
雄島の磯で濡れそぼっている漁夫の袖さえ
どれほど濡れても色まで変りはしないのに
わたしの袖は濡れに濡れて
紅に変ってしまった 血の涙いろに
作者:殷富門院大輔 生没年未詳 父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成
出典:千載集 恋四886
詞書:「歌合し侍りける時、恋の歌とてよめる」
①殷富門院大輔 生没年 wikiに1130-1200 こうしておきましょう。70才
・父藤原信成 勧修寺流 即ち25藤原定方の末裔
母菅原在良の娘 即ち菅原道真の末裔
→まあここまで下るとあまり関係ないでしょうが。
・結婚歴はない。若くから末年までずっと亮子内親王に仕える。
→一生を亮子内親王家に捧げた人生と言えようか。
*女房勤めとは何たるかと考えてしまう。自身のためかお家のためか。
勤めた先が不婚を原則とする内親王家では結婚はためらわれたのであろう。
→女房と一口に言っても身分出自も色々、能力性格もあろうし一概には言えないであろうが。
・その亮子内親王1147-1216 後白河院の第一皇女 89式子内親王の同母姉
安徳帝、後鳥羽帝の准母 院号殷富門院(いんぷもんいん)
・百人一首の並びとしては、
88番 皇嘉門院(崇徳院中宮)の女房別当
89番 式子内親王(後白河院第三皇女)
90番 殷富門院(後白河院第一皇女)の女房大輔
女性が3人続く。それも強烈な恋の歌。
→一つ飛ばして92番二条院讃岐も女性の恋歌。定家の意図が窺われる。
②歌人としての殷富門院大輔
・亮子内親王家を代表し数々の宮廷・貴族の歌合に出詠
・千載集を始め勅撰集に63首(定家撰の新勅撰集には15首入集)
→定家が高く買っていたことが分かる。
・家集に「殷富門院大輔集」
多作家として名高くついたあだ名が「千首大輔」
→頭もきれ積極的で物怖じしない活発勝気な女性だったのだろうか。
・85俊恵法師主宰の歌林苑の常連メンバー
歌林苑に集まった歌人
82道因法師、84清輔、源頼政、90殷富門院大輔、92二条院讃岐、87寂蓮、鴨長明
→一流勤め先(亮子内親王家)ということで仲間も一目おいてたのだろう。
また86西行、97定家と交際交流している。
→定家は大輔よりも30才も年下。多作の先輩歌人に何かと教わったのだろう。
・鴨長明は無明抄で殷富門院大輔を小侍従と並ぶ女流歌人の双璧と賞賛している。
近く歌よみの上手にては、大輔、小侍従とてとりどりにいはれ侍りき
*****
小侍従1121-1201=二代の后(藤原多子)に仕えた女房歌人 勅撰集55首
母の父は菅原在良、従って殷富門院大輔の従姉にあたる。
平家物語巻五月見で81実定が同母姉の多子を訪れる段に登場、「待宵の小侍従」と呼ばれた。
待つ宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは(新古今集)
→以上、長い余談、すみません。
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・「この人は恋の歌を作らせると、時として激越で感覚がするどい。人しれぬ悲恋を経験した女性だったのかもしれぬ」(田辺聖子)
なにかとふよも長からじさのみやは憂きにたへたる命なるべき(新古今集)
〈あなた、どうしてそう、あたしを嫌うの? あたし、とても長くは生きていないでしょうよ、だっていつまでもこんな辛さに堪えていられないんだもの〉(田辺聖子訳)
→確かにこんな官能的な歌、普通未婚者には詠めないでしょうにねぇ。
③90番歌 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
・「見せばやな~~」呼びかけの第一句。朗々と読みあげられると
→「えっ、何、何。何を見せたいの?」と引き込まれてしまう。
この「見せばやな」は「見せてさしあげたい」と言うより「ほら、よく見てよ!」という感じだろうか。
・本歌 48源重之
松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくはぬれしか(後拾遺集)
→48番で述べたが源重之は陸奥に縁が深かった。実際に雄島も訪れていたのだろう。
・「雄島の海人」はセット
海人の生活ぶり。毎日ずぶ濡れになって魚を獲り若布を刈り塩を焼く。都人から見るととんでもないタフな生活。
・「いつも濡れてる海人の袖の色は変わらないでしょうが、私の袖は血の涙で色も変わってるんですよ」
血の涙=漢籍からの引用 王朝では「恋の涙は血の涙」
→技巧を駆使して本歌を超える歌とされる。定家も気に入って百人一首の歌としたのであろう。
・派生歌
松島や雄島の海人も心あらば月に今宵袖ぬらすらん(二条院讃岐)
袖のいろは人のとふまでなりもせよ深き思を君にたのまば(式子内親王)
④源氏物語他との関連
・紅涙
くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりとや言ひしをるべき(夕霧@少女)
→これは恋の涙ではなく源氏のスパルタ方針で六位スタートとなった夕霧が流した悔し涙。
伊勢物語第六十九段(業平-伊勢斎宮の重要段)
その男(狩りの使い)が伊勢の斎宮を訪れ歌を交し合った翌日、今度こそは逢って思いを遂げたいと思ったが邪魔が入って逢えなかったというくだり。
狩りの使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。
・源重之の歌以来歌枕となった松島の雄島、勿論芭蕉も奥の細道で立ち寄っているが、雄島では特に和歌の引用もなく塩竈から舟で松島に渡ったとすっと述べている。
日既に午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其の間二里餘、雄嶋の磯につく。
→この後に松島の名文描写が続く。
最後に改めて89番式子内親王、90番殷富門院大輔と並べてみると結婚に縁のなかった二人の題詠とは言え恋の想いを相手に訴える強烈さにたじろぐ思いがする。
89玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
90見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
松風有情さんの90番絵です。ありがとうございました。
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