90番 殷富門院(式子内親王の姉)に仕えた大輔 見せばやな 

忍恋に命を細らせた式子内親王に続くのは、式子内親王の姉殷富門院(亮子内親王)に仕えた大輔。「くれないの涙」、これも強烈な恋の歌です。

90.見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず

訳詩:     見せてあげたいこの袖を あの方に
        雄島の磯で濡れそぼっている漁夫の袖さえ
        どれほど濡れても色まで変りはしないのに
        わたしの袖は濡れに濡れて
        紅に変ってしまった 血の涙いろに

作者:殷富門院大輔 生没年未詳 父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成
出典:千載集 恋四886
詞書:「歌合し侍りける時、恋の歌とてよめる」 

①殷富門院大輔 生没年 wikiに1130-1200 こうしておきましょう。70才
・父藤原信成 勧修寺流 即ち25藤原定方の末裔
 母菅原在良の娘 即ち菅原道真の末裔
 →まあここまで下るとあまり関係ないでしょうが。

・結婚歴はない。若くから末年までずっと亮子内親王に仕える。
 →一生を亮子内親王家に捧げた人生と言えようか。

 *女房勤めとは何たるかと考えてしまう。自身のためかお家のためか。
  勤めた先が不婚を原則とする内親王家では結婚はためらわれたのであろう。
  →女房と一口に言っても身分出自も色々、能力性格もあろうし一概には言えないであろうが。

・その亮子内親王1147-1216 後白河院の第一皇女 89式子内親王の同母姉
 安徳帝、後鳥羽帝の准母 院号殷富門院(いんぷもんいん)

・百人一首の並びとしては、
  88番 皇嘉門院(崇徳院中宮)の女房別当
  89番 式子内親王(後白河院第三皇女)
  90番 殷富門院(後白河院第一皇女)の女房大輔
 女性が3人続く。それも強烈な恋の歌。
  →一つ飛ばして92番二条院讃岐も女性の恋歌。定家の意図が窺われる。

②歌人としての殷富門院大輔
・亮子内親王家を代表し数々の宮廷・貴族の歌合に出詠

・千載集を始め勅撰集に63首(定家撰の新勅撰集には15首入集)
 →定家が高く買っていたことが分かる。

・家集に「殷富門院大輔集」
 多作家として名高くついたあだ名が「千首大輔」
 →頭もきれ積極的で物怖じしない活発勝気な女性だったのだろうか。

・85俊恵法師主宰の歌林苑の常連メンバー
 歌林苑に集まった歌人
 82道因法師、84清輔、源頼政、90殷富門院大輔、92二条院讃岐、87寂蓮、鴨長明
 →一流勤め先(亮子内親王家)ということで仲間も一目おいてたのだろう。

 また86西行、97定家と交際交流している。
 →定家は大輔よりも30才も年下。多作の先輩歌人に何かと教わったのだろう。

・鴨長明は無明抄で殷富門院大輔を小侍従と並ぶ女流歌人の双璧と賞賛している。
  近く歌よみの上手にては、大輔、小侍従とてとりどりにいはれ侍りき

  *****
  小侍従1121-1201=二代の后(藤原多子)に仕えた女房歌人 勅撰集55首
  母の父は菅原在良、従って殷富門院大輔の従姉にあたる。
  平家物語巻五月見で81実定が同母姉の多子を訪れる段に登場、「待宵の小侍従」と呼ばれた。
   待つ宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは(新古今集)
  →以上、長い余談、すみません。
  *****

・「この人は恋の歌を作らせると、時として激越で感覚がするどい。人しれぬ悲恋を経験した女性だったのかもしれぬ」(田辺聖子)
 なにかとふよも長からじさのみやは憂きにたへたる命なるべき(新古今集)
  〈あなた、どうしてそう、あたしを嫌うの? あたし、とても長くは生きていないでしょうよ、だっていつまでもこんな辛さに堪えていられないんだもの〉(田辺聖子訳)
   →確かにこんな官能的な歌、普通未婚者には詠めないでしょうにねぇ。

③90番歌 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
・「見せばやな~~」呼びかけの第一句。朗々と読みあげられると
 →「えっ、何、何。何を見せたいの?」と引き込まれてしまう。

 この「見せばやな」は「見せてさしあげたい」と言うより「ほら、よく見てよ!」という感じだろうか。

・本歌 48源重之
 松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくはぬれしか(後拾遺集)
 →48番で述べたが源重之は陸奥に縁が深かった。実際に雄島も訪れていたのだろう。

・「雄島の海人」はセット
 海人の生活ぶり。毎日ずぶ濡れになって魚を獲り若布を刈り塩を焼く。都人から見るととんでもないタフな生活。

・「いつも濡れてる海人の袖の色は変わらないでしょうが、私の袖は血の涙で色も変わってるんですよ」
 血の涙=漢籍からの引用 王朝では「恋の涙は血の涙」
 →技巧を駆使して本歌を超える歌とされる。定家も気に入って百人一首の歌としたのであろう。

・派生歌
  松島や雄島の海人も心あらば月に今宵袖ぬらすらん(二条院讃岐)
  袖のいろは人のとふまでなりもせよ深き思を君にたのまば(式子内親王)

④源氏物語他との関連
・紅涙
 くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりとや言ひしをるべき(夕霧@少女)
 →これは恋の涙ではなく源氏のスパルタ方針で六位スタートとなった夕霧が流した悔し涙。

 伊勢物語第六十九段(業平-伊勢斎宮の重要段) 
 その男(狩りの使い)が伊勢の斎宮を訪れ歌を交し合った翌日、今度こそは逢って思いを遂げたいと思ったが邪魔が入って逢えなかったというくだり。

  狩りの使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。

・源重之の歌以来歌枕となった松島の雄島、勿論芭蕉も奥の細道で立ち寄っているが、雄島では特に和歌の引用もなく塩竈から舟で松島に渡ったとすっと述べている。

日既に午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其の間二里餘、雄嶋の磯につく。
    →この後に松島の名文描写が続く。

最後に改めて89番式子内親王、90番殷富門院大輔と並べてみると結婚に縁のなかった二人の題詠とは言え恋の想いを相手に訴える強烈さにたじろぐ思いがする。

 89玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
 90見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず

松風有情さんの90番絵です。ありがとうございました。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/02/KIMG0107_20170203125059.jpg

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89番 唯一の内親王式子 もみもみと 玉の緒を

さて式子内親王、百人一首中に内親王はこの人だけ(女帝は2持統帝の一人)。平安→鎌倉の激動期に残した数々の恋の名歌。取分け89番歌は百人一首中一二を争う人気歌(田辺)とされる。定家が恋い慕ったとも取りざたされ謡曲など文藝作品で後世に名を残した皇女。どんな人、どんな人生だったのでしょう。

89.玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

訳詩:    わが命よ 玉の緒よ ふっつりと
       絶えるならば絶えておくれ
       このままこうして永らえていれば
       心に固く秘め隠しているこの恋の
       忍ぶ力が弱まって 思慮が外に溢れてしまう

作者:式子内親王 1149-1201 53才 後白河天皇第三皇女 賀茂斎院
出典:新古今集 恋一1034
詞書:「百首の歌の中に、忍恋を」

①式子 漢音で「しょくし」、呉音で「しきし」
 →どちらでもいいようだが業界では「しょくし」らしい。それでいきましょう。

・式子内親王 父は後白河天皇 母は藤原成子(閑院流季成の娘)
 →父の母(璋子)の父=公実 母の父(季成)の父=公実
 →閑院流の浸透ぶりがよく分かる。

【皇女と内親王】
 天皇の娘が皇女。その中で親王宣下を受けたのが内親王。皇女でも母の身分が低いとかの場合内親王にはなれない。

・同母姉に亮子内親王(殷富門院)、同母弟に以仁王、異母弟が高倉帝
 →何せ怪物・大天狗と畏怖された後白河院の子ども。それぞれに波乱の人生
 亮子内親王は安徳、後鳥羽、順徳帝の准母、以仁王は平家に抗し挙兵、敗死。

・11才~21才 丸十年 賀茂斎院 病を得て退下(式子は病弱だった)
 →俗世間から離れ神の妻となって神に奉仕する。
 但し洛中賀茂神社の斎院は伊勢斎宮ほどの隔絶感はなかったようだ。
 紫野斎院御所では女房・貴族たちの歌宴・楽宴もしばしば。
 (一方同母姉妹3人は伊勢斎宮に出仕している。ここは大変)

・斎院退下後は親族の御所御殿に住んだが概ね後白河院の庇護下にあった。
 この間住居は変わったが式子内親王家は姉の亮子内親王家(殷富門院)に次ぎ力を持つ存在であり、俊成は娘たちを女房として出仕させ、定家も家司として出仕させた。
 →御子左家と式子内親王との関わりである。

・親族を呪詛したと疑いをかけられたりで苦悩、浄土宗法然を戒師として出家。
 1191@43才 死去は1201@53才
 →経済的に豊かだったからこそ色んな騒動に巻き込まれたのだろう。
 →法然の教えは心に響いたようで法然を慕っていたとの説も見られた。
 →少女~青年期は神に仕え、晩年は仏に仕える。朝顔の姫君もそうだった。

②歌人としての式子内親王 
・現存する和歌は400首に満たないがその内157首が勅撰集に入集(新古今集は49首)
 私家集に「式子内親王集」(他撰) 歌合には出てない。百首歌が中心。

・俊成に師事。式子は大変な勉強家だったようだ。
 →俊成も全力投入で式子に歌を教えたのであろう。
 俊成の歌論書「古来風躰抄」は式子に差し上げたもの。

・式子は後鳥羽院には叔母にあたる。後鳥羽院は歌人としての式子を高く買っていた。
 後鳥羽院御口伝
 近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これこれ殊勝なり。斎院は、殊にもみもみとあるやうに詠まれき。
 →「もみもみと」、、心を砕き言葉を考え尽して必要にして十分な様に詠むということか。叔母とはいいながら大変な誉め言葉であろう。

・式子の歌 百首歌 即ち題詠の歌が中心だが実生活に基くものもある。
 いつき(斎院)の昔を思ひ出でて
 ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ
(新古今集)

 斎院に侍りける時、神館にて
 忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野辺の露のあけぼの
(新古今集)

・91良経との贈答 九条家歌壇が政変で逼塞していたとき
 式子 ふるさとの春を忘れぬ八重桜これや見し世に変はらざるらん
 良経 八重桜折知る人のなかりせば見し世の春にいかであはまし

・各解説書に載せられている式子の歌。恋歌が中心。何れもすばらしい。
 はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにかよふ夢の通ひ路
 我が恋は知る人もなしせく床の涙もらすな黄楊の小枕
 見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
 生きてよもあすまで人もつらからじこのゆふぐれを訪はば訪へかし
 忘れてはうち嘆かるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を
 我が恋は逢ふにもかへすよしなくて命ばかりの絶えや果てなん
 恋ひ恋ひてそなたになびく煙あらばいひし契りのはてとながめよ
 あはれあはれ思へば悲しつひの果て忍ぶべき人誰となき身を
 しづかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき

 →こういう詠み方を「もみもみと」と言うのであろうか。題詠とは言え心に迫るものがある。

・定家は二十年にも亘り式子内親王家の家司として仕え、病気がちだった式子の見舞に過剰すぎるほど訪れている(式子は定家より13才年長)。ここから定家と式子内親王の恋愛説が生まれ、否定肯定入り乱れている。
 →謡曲「定家葛」
 →公平に見て定家が内親王と情を通じたなんてことはなかったであろう。
 →ただ定家が内親王に憧れ恋愛幻想を抱いていたことはあったのだろう。

③89番歌 玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
・「玉の緒」=玉(魂)を繋ぎ止めてる緒、即ち命
  万葉集に多出
   玉の緒の絶えたる恋の乱るれば死なまくのみぞまたも逢はずして
   恋ふることまされば今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ

 「玉の緒」を詠んだ先行歌
   緒を弱み絶えて乱るる玉よりも貫きとめがたし人の命は(和泉式部)
   絶え果てば絶え果てぬべし玉の緒に君ならんとは思ひかけきや(和泉式部)
   →いかにも和泉式部が好みそうな詞である。

・百首歌 「忍恋」
 題詠であり観念的な歌なのだが実際にあった現実の恋のような響きである。
 →繰り返し唱えていると実にビビッドな感じが伝わってくる。

 「忍恋」 漏らしてはならない秘めねばならない禁忌の恋
      →我慢しなければならない絶えねばならない辛い恋とは違うのだろう。

・百人一首中の「忍恋」とされるのは40番歌
  忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで(平兼盛)
  →でもこれは漏れてはいけない度合いが89番歌ほどではない感じがする。

・派生歌
  思ふことむなしき夢のなかぞらにたゆともたゆなつらき玉の緒(定家)
  →式子内親王への「忍恋」に耐えていた定家。
  →定家は万感の想いを持ってこの歌を百人一首に撰んだのであろう。

・89番歌は式子が男になり代わって詠んだ男歌だとの指摘もあった(田淵句美子)。
 →他解説書には男歌とは書かれていない。
 →確かにこういう禁忌な恋は男がするものだと思う。
 →定家の式子への想いはまさに89番歌そのものだったのかも。

④源氏物語との関連
・皇女の結婚について
 皇女は特別な存在で中々結婚は容易ではない。式子内親王の時代にあっては皇女の結婚の例はないのではないか。平安中期も皇女は不婚が原則だったと思うのだが(63道雅が三条院の皇女で前斎宮の当子内親王との密通事件を起こし三条院の逆鱗に触れたことが思い出される)、源氏物語では皇女も結構結婚している。

 →先帝の皇女藤壷は桐壷帝と結婚。桐壷の妹大宮(皇女だろう)は左大臣と結婚
 →朱雀帝の皇女女二の宮(落葉の君)は柏木と結婚。そして女三の宮が源氏に降嫁してくることで六条院がひっくり返るのでありました。

 平安中期以降入内は藤原摂関家からというのが定例になり、皇女は不婚が原則になったということか。

・89番歌 忍恋の心情
 これぞ源氏の藤壷への想い&柏木の女三の宮への想いそのものであろう。
 特に「あはれ衛門督」柏木は玉の緒をつなぎとめられず身罷るのでありました。

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88番 忠通、崇徳院につながる皇嘉門院別当 難波江の

皇嘉門院別当、全く知らない人でした。でも色々調べてみると定家がこの歌人を入れたのには深い理由があった。当時の人からすれば皇嘉門院の名はなくてはならなかったものなのでしょう。待賢門院と同じです。

88.難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき

訳詩:    難波江の仮寝の宿の一夜の契り
       蘆の刈り根の一節ほどのそんなはかない
       その行きずりの恋ゆえに 私はこうして
       身を尽し 捧げ尽して 波のまにまに
       恋いわたらねばならないということでしょうか

作者:皇嘉門院別当 生没年未詳 源俊隆の女 皇嘉門院(崇徳院皇后聖子)の女房
出典:千載集 恋三807
詞書:「摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」

①皇嘉門院別当 父源俊隆(村上源氏)ともに生没年が分からない。
・別当は1175兼実家の歌合に出詠、皇嘉門院が没した1181には存命であった。
 →まあ生年はご主人たる皇嘉門院(1121-1181)と同じとしておきましょう。
 →西行1118生、崇徳院1119と同年代。保元・平治の乱をまたいで生きた人であった。

・別当その人については何も分からない。恋をしたのか結婚したのかも不詳。
 ご主人として仕えた皇嘉門院が重要。
 (別当=家政を担当する部署の長、皇嘉門院の身の回りを取り仕切っていた女官長)

 皇嘉門院聖子=77崇徳院の皇后 76忠通の娘
 ずっと摂関家からの入内(立后)は途絶えていた。80年ぶりに摂関家から皇后が出た。
 →ここで聖子に皇子が生まれてれば歴史は変わっていた。残念ながら子ができなかった。
 →崇徳院の跡目に皇子がつき忠通が外祖父。保元の乱は起らなかっただろう。
 (この辺、76番・77番と重複している) 

 子ども(皇子)ができなかった聖子の悲痛な歌
  何とかや壁に生ふなる草の名よそれにもたぐふ我が身なりけり

②歌人としての皇嘉門院別当
・皇嘉門院聖子は忠通の娘、九条兼実の異母姉。即ち九条家が実家。
 別当は九条兼実家の歌合(1175、1179)に頻繁に出詠。
 →皇嘉門院後宮を代表して登場してたのであろう。

・千載集以下 勅撰集に9首
 →これは少ない。百人一首に入選する大歌人とは言えないだろう。

・何故88別当の難波の歌が入選したのか。
 「別当は、皇嘉門院という名が冠されていることによって、自動的に崇徳院の悲劇を蘇らせる仕掛けになっている。もしそうなら、かつて宮であった難波も、栄枯盛衰の象徴として浮上してくるし、澪標も身を滅ぼす意を内包していることになる」(吉海直人)

 →定家はとにかく「皇嘉門院」(崇徳院后)という名を百人一首に入れたかった。
 →繋がりとしては76番忠通-77番崇徳院-88番皇嘉門院である。

・皇嘉門院はさておいて別当の歌
 摂政右大臣(兼実)の時の百首歌の時、忍恋の心をよみ侍りける
  忍び音の袂は色に出でにけり心にも似ぬわが涙かな
(千載集)
   →本歌 40忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで(平兼盛)

 うれしきもつらきも同じ涙にて逢ふ夜も袖はなほぞかわかぬ(新勅撰集)
  →逢えなくて泣く、逢えて泣く。。。いいですねぇ。こんなのきいたら男は愛おしく思ってしまう。

・千人万首でも別当の歌は全て恋の歌。別当が実際どんな恋をしたのか分からないが、女房たちが艶を競い合った華やかな皇嘉門院後宮にあって歌の上手な別当にはさぞ貴公子たちが群がり集まったことであろう。

③88番歌 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
・「旅宿逢恋」 旅先での恋 一夜の情事
 兼実家歌合での歌、何年の歌合か不詳だが1175年の歌合とすると皇嘉門院聖子は53才。別当もそのくらいの年令だったのだろう。
 →若かりし昔を詠んだ歌である。

・短い旅での一夜の契り。これを背負って生きていかねばならないのか、自問
 答えは「そう、そうしよう」という決意。
 →旅先かどうかはともかく別当にも遠い昔忘れられない一夜の契りがあったのであろう。

・刈り根=仮寝、一節=一夜、澪標=身を尽し、恋ひ=乞ひ 掛詞のオンパレード
 技巧を尽した歌、定家はこの技巧を評価したのであろう。

・難波江 淀川の河口 京から瀬戸内海への出口 水上交通の要所
 百人一首には難波は3首出てくる(「18住の江の」を入れると4首)

 19 難波潟みじかき蘆のふしのまも逢はで此の世を過ぐしてよとや(伊勢)
    →私は伊勢のこの情熱的な歌が好き、88番歌よりいいと思っている。

 20 わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ(元良親王)
    →88番歌の本歌ともされる。
    →「一夜めぐりの君」と言われた元良親王。御集には遊女も登場する。

・難波は交通の要所で旅宿は勿論、遊郭も建ち並んでいた(江口、神崎)。
 作者(別当)は自分を遊女に見立てて女の宿命を詠みこんだとの説も多い。
 →後宮の高級女房と下賤な遊女。面白い対比だと思う。

・「女は一夜の恋にも身を尽すほどの宿命を背負ってしまう」(大岡信)
 →空蝉や花散里のことを思い出す。

④源氏物語との関連
 20番歌「わびぬれば」でも触れたが源氏物語第十四巻「澪標」がそのまま思い起こされる。

・明石から帰京した源氏はお礼詣りに住吉大社に出かける。そこには偶然明石の君も来ており源氏の喜びの歌に身分違いの自分の行末を案じる歌を返す場面

 (澪標11)
 堀江のわたりを御覧じて、「いまはた同じ難波なる」(元良親王)と、御心にもあらでうち誦じたまへるを、御車のもと近き惟光うけたまはりやしつらむ、さる召しもやと例にならひて懐に設けたる柄短き筆など、御車とどむる所にて奉れり。をかしと思して、畳紙に、
 (源氏)みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな

 (明石の君 返し)
     数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ

 →こまめで用意周到な惟光は筆と紙を差し出す。
 →源氏の子を生んだものの源氏は京へ帰ってしまいこれから自分はどうなるか分からない。明石の君の不安と決意は88番歌の歌意に通じるのではないか。 

・続いての京への帰りの描写には遊女も登場している。
 (澪標11)
 道のままに、かひある逍遥遊びののしりたまへど、御心にはなほかかりて思しやる。遊女どもの集ひ参れる、上達部と聞こゆれど若やかに事好ましげなるは、みな目とどめたまふべかめり。

  →源氏一行の華やかな帰路行列。声をかけてくる遊女たちにお供の若者たちが応じる。

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87番 さりげなく定家に御子左家を譲った寂蓮 村雨の

さて、西行法師に続くは一枚札「むすめふさほせ」の「む」。百人一首カルタでは三本の指に入る人気札。寂蓮法師「むらさめの」の登場です。寂蓮さん、定家の兄というか、従兄弟というか、ライバルというか、御子左家の同僚というか、、、。何故出家して寂蓮と名乗ったのかなかなか興味深いご仁であります。

87.村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮

訳詩:    ひとしきり降って過ぎた村雨の露は
       まだ真木の葉に光っているのに
       はや霧が 万象をしっとり包んで
       立ちのぼる さわやかに・・・・・
       秋の夕暮れ

作者:寂蓮法師 生年未詳-1202 60余才 俊成の兄弟の子、俊成の猶子
出典:新古今集 秋下491
詞書:「五十首歌奉りし時」

①寂蓮法師 俗名藤原定長 父は俊成の弟僧俊海(何時何故僧になったか不詳)
・生年不詳だが1138頃との説あり、これに従っておきましょう。没年1202 65才
・13才頃伯父俊成(この頃はまだ葉室顕広)の養子になる。
 →父が出家してしまったこと。俊成に歌才のある息子がいなかったこと。
 →それで俊成は歌にも才能のありそうな定長を養子に迎えたのだろう。

・俊成の押しもあったか、官位も進み従五位上中務少輔に至る。
 →まあ順当な出世コースだったのだろう。
 その間、妻を迎え男子4人女子1人の子どもができる。
 ところが1172 35才で妻子を残し出家してしまう!
 →ここがポイント。

・俊成は艶福家で多くの妻を娶り子どもも多数なしたが、御子左家を継がせる才のある息子に恵まれなかった。それで甥の定長を養子にし彼に家督をと考えていた。ところが美福門院加賀を妻に迎えて二番目にできた息子(定家)が利発にして歌才あり。行末御子左家の跡目争いになりかねない。そんな状況下、定長は考える。このままでは俊成も自分も定家も不幸になってしまう。自分が身を引くのが一番。それには妻子には悪いが出家しかない。
 →定長が寂蓮になったのはそんな具合だったのではなかろうか。
 →定長は分を弁え争いを好まぬ温厚な性格であったのだろう。正解だと思う。
 (この時、俊成59才、定長35才、定家11才)

 (オマケ)一粒種鶴松を亡くし甥の秀次を養子にし関白にしたら秀頼が生まれた。
      秀次の悲劇を思い出してしまう。

・定長が出家したのは35才の時。以降諸国行脚(高野、河内、大和、出雲、東国)、その後洛北嵯峨に居を構える。
 →半僧半俗。西行を慕い、西行に憧れての出家・諸国行脚だったのかも。
 →経済的には御子左家が定長の妻子も含めバックアップしたのだろう。

②歌人としての寂蓮
・養父俊成が英才教育を施したのだろう、出家前から宮中・貴族の歌合に出詠。
 →そりゃあ御子左家の後継ぎにと考えていた俊成も力が入ったことだろう。

・千載集、新古今集初め勅撰集に117首 私家集に寂蓮法師集

・1201後鳥羽院の勅を受け新古今集の撰者になるが翌1202新古今集成立前に死去
 →これは悲しい。続詞花集を撰進するも二条帝の死で撰者になれなかった清輔を思い出す。

・85俊恵主宰の歌林苑の常連メンバー
 →形としては御子左家と一線を画しているから気軽に集い談論に興じることができたのだろうか。

・九条兼実(摂政関白太政大臣)―91良経親子の九条家歌壇を支える。
 九条家歌壇メンバー 83俊成、87寂蓮、91良経、95慈円、97定家、98家隆
 →五摂家の一つ九条家。有職故実の公家。和歌も重要な項目一つであった。

・後鳥羽院は寂蓮の歌を誉めている(後鳥羽院口伝)。
 寂連はなをざりならず歌詠みし物なり。折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき。
 →後鳥羽院は寂蓮を買っていて新古今集撰者にも入れたし、五十首歌合にも召集している。

・人柄は温厚であったが歌論については譲らず六条藤家顕昭との「独鈷鎌首」論争は有名
 六百番歌合 1193年 91良経が主催 歌人12名x100首=1200首 六百番
 →とてつもない歌合。歌もさぞ玉石混淆、議論噴出大変だったことだろう。

 この歌合で顕昭が独鈷(とっこ)(密教僧が持つ法具)を振りかざし、寂蓮が蛇の鎌首のように首を伸ばし延々議論したことから「独鈷鎌首」と呼ばれる。
 →寂蓮の和歌への執念が感じられる。90才にして歌合で講師近くに陣取った82道因法師を思い出す。

・新古今集三夕の歌の一人
  さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮(寂蓮法師)
  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行法師)
  見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(藤原定家)

・寂蓮の有名歌から
  葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古今集)

③87番歌 村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮
・1201年後鳥羽院主催の歌合で寂蓮が詠んだ歌
 「老若五十首歌合」春夏秋冬雑 各人十首づつ詠み合う
 (老)忠良、95慈円、97定家、98家隆、87寂蓮
 (若)99後鳥羽院、91良経、宮内卿、越前、94雅経
  →すごい歌合。世は鎌倉時代。京の公家は歌でも詠んでおとなしくしてる他なかったのか。

 *忠良=藤原忠良、76忠通の孫、95慈円の甥、91良経の従兄弟。勅撰集69首

・村雨(にわか雨)、雨の露、夕霧
 真木(杉、槇、檜など常緑大木の総称)
 秋の夕暮
 →墨絵の世界 静かな風景
 →寂蓮は諸国行脚もし嵯峨にも住んだ。実生活体験に基く歌であろう。

・歌としても名歌との評判で新古今集中の秀歌の一つとされる。
 田辺聖子も若い時は自然諷詠に興味がなかったが、年を重ねていかにも新古今風な、奥ふかいそれでいて優艶なところが汲みとれるようになったと書いている。
 →分かりやすい歌で昔から知っていた。
 →寂しさ、侘しさを強調した三夕の歌よりさらりとしてて気持ちがいいのではないか。

・「むすめふさほせ」一字決まり。覚えやすいしカルタでは人気札であろう。
 因みに「す」=18住の江の、「め」=57めぐり逢ひて、「ふ」=22吹くからに、
 「さ」=70さびしさに、「ほ」=81ほととぎす、「せ」=77瀬を早み

・本歌
  消え帰り露もまだひぬ袖の上に今朝は時雨るる空もわりなし(道綱母 後拾遺集)

・類想歌
  いつしかと降りそふけさの時雨かな露もまだひぬ秋の名残に(俊成)
  かきくらし空も秋をや惜しむらん露もまだひぬ袖に時雨て(忠良)

・京では嵯峨の時雨が特有とされる。
 定家が百人一首を編んだのが小倉山荘「時雨亭」、百人一首の殿堂が「時雨殿」
 (オマケ)
 「京のにわか雨」 小柳ルミ子 詞:なかにし礼
   雨だれがひとつぶ頬に 見あげればお寺の屋根や
   細い道ぬらして にわか雨がふる ~~

④源氏物語との関連
 あまり思いつきませんが無理矢理こじつけで(真木が出てきたので)。

 明石13 仲秋の八月十二三日 源氏が初めて明石の君を訪れる場面
(明石の入道が娘のために粋を凝らして造った岡辺の宿の素晴らしい描写)
 、、、、三昧堂近くて、鐘の声松風に響きあひてもの悲しう、巌に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。むすめ住ませたる方は心ことに磨きて、月入れたる真木の戸口けしきことにおし開けたり。

 源氏を迎えるように戸口はさりげなく開けられている。
 「この月入れたる真木の戸口は、源氏第一の詞と定家卿は申侍るとかや」(花鳥余情)
  →定家は「月入れたる真木の戸口」を気に入っていたようだ。新古今調の趣を感じたのであろうか。

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86番 和歌・仏道の象徴的存在 西行法師 嘆けとて

             謹賀新年

お正月いかがお過ごしだったでしょうか。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、西行法師のご登場です。歌壇が題詠中心のお公家歌道になっていく中、独自の歌境を貫いた大歌人とお見受けしました。ちょっとパフォーマンス過剰で反発する向きもあるようですが、その生き様みていきましょう。

86.嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

訳詩:    うつけ者よ 月が嘆けと言っただろうか
       物思いにふけれと言っただろうか
       月にかこつけ溢れおちる
       この涙 このわたしの涙
       うつけ者の うつけ涙よ

作者:西行法師 1118-1190 73才 俗名 佐藤義清
出典:千載集 恋五929
詞書:「月前恋といへる心をよめる」

①西行法師 俗名 佐藤義清(のりきよ)

西行年表
1118  佐藤義清誕生(平清盛も同年生)(この年璋子鳥羽帝中宮になる)
1135@18 左兵衛尉、鳥羽院の北面武士
1140@23 出家、円位→西行を名乗る(妻と二人の子を捨てて)
     洛外に草庵を結ぶ 第一回東北・陸奥旅行
1149@32 この頃高野山に草庵、しばしば吉野に入る
     吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ
1156@39 保元の乱、崇徳院讃岐へ配流
1167@50 四国行脚、没後の崇徳院を偲ぶ
     よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何かはせん
1180@63 伊勢二見浦に草庵を結ぶ(1181平清盛死去)
     ここもまた都のたつみしかぞ住む山こそかはれ名は宇治の里
1186@69 東大寺料勧進のため陸奥へ、途中源頼朝と会見
     年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(新古987)
1189@72 河内国弘川寺に草庵を結ぶ
1190@73 寂 願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ

・祖先は藤原秀郷(百足退治で有名な俵藤太)
 父は左衛門尉佐藤康清(代々左衛門府勤めが多くそれで佐藤姓に)
 徳大寺家(徳大寺実能-公能-実定)に仕える。
 →徳大寺家出身の待賢門院・崇徳院につながる。

・18才で左衛門尉、20才で鳥羽院の北面武士
 北面武士:白河院創設の院の直属護衛武士。院御所の北側(北面)に詰めた。
 →和歌・故実に詳しく教養深い若きイケメンの武者姿。
 →かっこいい!女性たちが騒いだのも無理なかろう。

・23才で突如出家、円位を名乗る。
 出家の原因は、、、謎とされる。
 親友の急死説、失恋説(待賢門院・美福門院・上西門院・上臈女房)、将来をはかなんで。
 →やはり女性がからんでのことだろう。こんがらがり切羽詰まってニッチもサッチもいかなかったのかも。
 →待賢門院は40才、美福門院22才、上西門院15才。何れもありそうな気がします。

・出家後、高野山~吉野、伊勢二見の草庵をベースに諸国行脚(東北・陸奥・四国讃岐・再び東北)、折々京の歌壇にも顔を出し皇族・貴族・歌人たちとも交流。
 →出世をきっぱり捨てて歌に生きる生き様と歌の上手さで崇徳院・平清盛・源頼朝らトップにもお目見えし、世人の尊敬を一身に集める存在であった。
 →出家後も後宮に出入りし女房たちとの歌の交流も盛ん。

②歌人としての西行
・詞花集初め勅撰集に205首(新古今は94首でトップ) 家集に「山家集」
 説話集として「撰集抄」(自身作か)、「西行物語」

・生得の歌人 遁世歌人
 歌風は率直、質実、平明、真率、具体的、、歌語にとらわれない自由な詠み振り。
 →題詠でこねくり回した歌とは異なる。

・後鳥羽院が絶賛している(鳥羽院御口伝)
「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり
 →近世和歌の大成者とも謂われ後世に与えた影響は大きいとされる。

・宮廷貴族の歌合には出詠を拒んだものの歌人たちとの交流、歌の贈答は極めて多岐にわたる。
 「百人一首の作者達」(神田龍一)による交遊人は、
 待賢門院璋子、80待賢門院堀河、95慈円、平清盛、源頼朝、85俊恵、90殷富門院大輔、98家隆、87寂蓮、97定家、83俊成、81実定、77崇徳院
 →これはすごい。やはり誰しもが一目をおく自由人であったからだろう。

・西行の歌 春の桜と秋の月 そしてこれらが恋につながる。
 分かりやすいいい歌が多い。二三ピックアップすると、

  仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
  春風の花をちらすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり

  何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる(@伊勢神宮)
  心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮(三夕の歌)
  さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里

・西行に関する逸話はいっぱい。どうぞこれといったエピソード、コメントで紹介してください。

③86番歌 嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
・「月が嘆けと言って物思いをさせるのか、月のせいで涙がこぼれ落ちることよ」
 →恋の歌って感じがしない。

 およそ魅力のない歌、おもしろくもなんともない、西行にしては技巧的な歌、、、。
 解説書は挙って何故この歌が撰ばれたのか疑問を呈している。
 →確かに分かりにくいし「月前恋」の心が伝わってこない。
 (西行の歌はたいがい一読で理解できるがこの歌さっぱり分からない)
 →何故この歌か。定家の我ら後世の人に対する挑戦状かもしれない。

・23番歌が本歌との説もある。
  月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
 それと伊勢物語第四段 業平の歌
  月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして

  →どうでしょう。23番歌は恋歌ではないし、ちょっと違う気がします。

・千人万首にも西行の月を詠んだ恋歌が多数載せられているがそちらの方がよさそうな気がする。その内の一つ、
  面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて(新古今集)

④奥の細道との関連
・西行と言えばやはり芭蕉でしょう。芭蕉は西行を信仰的に尊敬していた。西行の500回忌ということで1689年(元禄2年)に奥の細道の旅に出た芭蕉。奥の細道に登場する西行をピックアップしておきましょう。

1. 遊行柳(黒羽を出て北に向かう芭蕉、芦野の里の西行ゆかりの柳を訪ねる)
  又清水ながるるの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。。。今日此の柳のかげにこそ立ちより侍りつれ
      田一枚植ゑて立去る柳かな
   
   →道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ(西行 新古今集)

2. 象潟(象潟で西行が詠んだとされる(伝承)桜を訪ねる)
  其の朝、天能く晴れて朝日花やかにさし出づる程に、象潟に舟をうかぶ。先づ能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。

   →象潟の桜はなみに埋れてはなの上こぐ蜑のつり船(伝西行)

3. 汐越の松(加賀と越前の境にある汐越の松、西行の歌をそのまま引用し絶賛している)
   越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。
     夜もすがら嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松
   此の一首にて数景盡きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。

4. 色の浜(敦賀の浜辺)
  前日中秋の名月を雨で見られず「名月や北國日和定めなき」と詠んだ翌日

  十六日、空晴れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種の濱に舟を走す。。。。
       波の間や小貝にまじる萩の塵

   →汐そむるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいうにやあらん(西行 山家集)

カテゴリー: 81~90番 | 18件のコメント

本年もよろしくお願いします。

謹賀新年

新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

お正月いかがお過ごしでしたか。ウチは例年通り年末3日間ほど全員集合で大賑わい。飲み尽し食べ尽し遊び尽しました。正月は疲れ癒しでダラダラ、箱根とお笑い番組とスポーツバラエテイで過ぎてしまいました。ずっと天気がよく、江戸川土手への初散歩ではオオタカの舞いとカワセミの狩りとキジの初飛びが見られてハッピーでした。

さて、「百人一首談話室」いよいよ余すところ15首、最終章に入ります。幕開けは1月9日86番西行法師、幕開けに相応しい大有名歌人の登場です。どうぞ引き続き談話室への訪問、よろしくお願いいたします。

予定ですと100番順徳院への到達は4月17日となります。何とか無事完了し祝杯をあげたいと念じています。そして完読記念旅行、行きましょうね。時期的には5月がいいでしょうかね。近江神社を含め2泊3日くらいですかね。時期、場所については追って源氏ネットで相談しましょう。

【オマケ】
・サイト管理者(在六少将)のお陰で「談話室」閲覧数が分かるシステムになってるんですが、正月は検索による訪問者が多く昨日は240名もありました。やはりお正月、百人一首について調べる人多いんですね。このサイトが少しでも役に立ってるとすれば嬉しいことです。

・ウチでも百人一首ちょっとやってみたのですが、いい大人(私の子どもたちです)が全く百人一首のこと知らず、
 「えっ、絵を取るんじゃないの? 顔覚えて取るんだと思ってたんだけど」
 とか
 「えっ、この字から始まるんじゃないの?」
 とか、チンプンカンも甚だしい。爺としてはガッカリもいいところでした。 
 

カテゴリー: 番外 | 8件のコメント

85番 三代目 俊恵 法師にして女歌 閨のひまさへつれなかりけり

本年最後の投稿になりました。予定では百番近辺までと考えていたのですが大分遅れました。俊恵法師、あまり馴染のない人ですが、71経信-74俊頼に続く三代目とくれば興味もわいてきます。家を潰すと言われる三代目。三代続けての百人一首入撰は何より一家の誉でしょう。

85.よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり

訳詩:    夜ごとわたしはまんじりともせず
       つれない人をまちつづける
       物思いに更ける夜の なんという長さ
       早く白んでくれればいいのに
       ああ戸の隙間よ そなただけでも白んで・・・・

作者:俊恵法師 1113-1191頃 79才 74源俊頼の子 東大寺の僧
出典:千載集 恋二766
詞書:「恋の歌とてよめる

①俊恵法師
・71源経信 ― 74源俊頼 - 85俊恵 と三代に亘る百人一首入選歌人
 祖父-父-本人(俊恵)の生年を調べてみるとびっくり!
 1016 経信生まれる
 1055 俊頼生まれる(この時経信40才)
 1097 経信死去(この時俊頼43才)
 1013 俊恵生まれる(この時俊頼58才!)
 1129 俊頼死去(この時俊恵17才)
 1191 俊恵死去 79才

 →祖父・父とも相当な高齢出産。俊恵は経信の死の16年後に生まれている。
  お祖父ちゃん(経信)のことを知らない俊恵
  物心ついたとき父俊頼は60才を越えていた
 →前回の顕輔-清輔の15才違いにも驚いたがこちらの方も普通でない感じ。
 (現代の核家族をベースに考えるのは妥当でないのかも)

・父俊頼が17才の時死去、後ろ楯をなくし東大寺の僧になる。
 →元服はとっくにしてたろうに17才まで官途についてないのはどうしてか。
  俊頼も年老いて授かった息子のことをもう少し考えてやればよかったのに。

・東大寺で30年ほど僧を務める。
 何故東大寺なのか。東大寺でどれほど熱心に仏道修行に励んだのか。よく分からない。
 →肩書きもないしあまり熱心な僧侶だった感じはしないがどうか。

・歌を始めた(出家前13才の時父主催の歌合に出詠した記録はあるようだが)のは40才以降。1160清輔朝臣歌合から作歌活動に熱が入ってきた。
 →6-70才から始めた道因法師に似ている。

・東大寺を辞して最初洛西の福田寺の住持を務めここで和歌サロンを始める。
 その後洛北白河に自坊を築き「歌林苑(かりんえん)」と称するサロンを運営。
 階層・年代・男女を問わず多くの歌人たちが集まり歌を詠み合ったり、論じ合ったり、身の上を慰め合ったりするたまり場(サロン)であった。騒乱の世、20年も続いた。

 集ったとされる歌人
 82道因法師、84清輔、源頼政、90殷富門院大輔、92二条院讃岐、87寂蓮、鴨長明など

 →これはすごい。官(政治)の世界に関係なく僧侶として生きた俊恵だからこそできたことだろう。俊恵の面倒見のよさ、人柄、公正さがうかがわれる。

 →世の中、保元~平治の乱・平家の台頭没落・源氏の世へ、、、と大混乱。歌林苑に癒しを求めて集った文化人たちの気持ちが分かる気がする。

 →月例(月次)の歌会、都度の歌合。みなウキウキと馳せ参じたのであろう。ホストとしてみなを迎える俊恵の嬉しそうな笑顔が浮かんでくる。

②歌人としての俊恵
・40才過ぎから始めたが残されている歌は千首を越える。
 詞花集以下勅撰集に83首 選集に「歌苑抄」「歌林抄」、家集に「林葉和歌集」

・歌道に熱心、ひたむきで評論家として他人の歌を見て様々なたとえをあげて論じている。百人一首一夕話には無名抄にある俊恵の他人歌への評論が数多く載せられている。

・鴨長明1155-1216(勅撰集22首入撰)は俊恵を歌の師と仰いだ。
 長明の歌論書無名抄に俊恵のことがしばしば書かれている。
 
 無名抄による俊恵の自讃歌
  み吉野の山かき曇り雪ふればふもとの里はうちしぐれつつ(新古今和歌集)
  →これが私の一番歌だと後世にしっかり伝えてくれと長明に頼んだようだ。
  →僧侶らしい自然詠でいいと思いますよ。

・俊恵の歌の中から
  けふ見れば嵐の山は大井川もみぢ吹きおろす名にこそありけれ(千載集)
  君やあらぬ我が身やあらぬおぼつかな頼めしことのみな変りぬる(千載集)
  →俊成とは違った幽玄を表していると。
  →俊成も俊恵は買っていたようで千載集に22首採っている。

③85番歌 よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
・よもすがら=夜通し中 よもすがら秋風聞くやうらの山(奥の細道 全昌寺)
・明けやら「ぬ」、明けやら「で」
 千載集も定家も「ぬ」を採っているが「で」の方がいいとの説も多い。
 →私も「で」の方が歌のリズム的に繋がりやすい感じがする。

・今夜も来てくれない男を恨む女ごころの歌。
 歌林苑での歌合での歌。俊恵が女性になって詠んだ歌。
 →21素性法師「今来むと」と同じ。歌意もよく似ている。

 俊恵は17才にして出家、法師として一生を過した男。恋に縁はなかった筈。
 (出家とは精神的にも肉体的にも女性を断つことだと思うのだが)
 →若い頃華やかな官職にあり女性も知っていただろう素性とは違う。
 →歌林苑での歌合で「俊恵さん、あなたにも詠めますよ」とけしかけられたのだろうが、どうもいただけない感じがする。

閨のひまさへつれなかりけり
 悶々としていると何もかもが自分に冷たくあたるよう被害妄想的に考えてしまう。
 →確かに歌語としては新鮮な感じがする。

・夜離れを嘆く歌で、53道綱母の歌に通じるのではないか。
  嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る

・本歌
  冬の夜にいくたびばかりねざめして物思ふ宿のひま白むらむ(増基法師 後拾遺集)

④源氏物語との関連
・男の夜離れが一番堪えたのはプライド高き元東宮妃六条御息所であろう。藤壷の身代わりを求め言い寄ってきた源氏に身を委ねたものの、御息所のあまりの高貴さ故に源氏の足は遠のいてしまう。

 正妻葵の上が妊娠、車争いでボコボコにされる六条御息所。そんな物思いに乱れる御息所を源氏が訪問。ぎこちない夜を過した翌日源氏からの後朝の文に対する御息所の嘆き節。

 袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき(@葵)
 →物語中第一の歌(細流抄)とされる。

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84番 父顕輔15才の子にして歌学の大成者 清輔 長らへば 

79番藤原顕輔のところで息子の85番藤原清輔とは仲が悪かったとありました。その辺さぐってみましょう。

84.長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

訳詩:    ままよ この捨て果てて悔いないいのち
       とは言うものの 生きながらえてみればまた
       今この時が恋しくなるのは必定さ
       つらかった昔のことがこんなにも懐かしい
       人間とはまたなんという奇妙ないきもの

作者:藤原清輔朝臣 1104-1177 74才 79顕輔の子 正四位下太皇太后宮大進
出典:新古今集 雑下1843
詞書:「題しらず

①藤原清輔朝臣、父は「左京大夫顕輔」として登場するが清輔には官名が附されていない。正四位下太皇太后宮大進では役不足だったのか。
 →何か定家の意図が感じられてならない。

・清輔1104生まれ。俊成1114、俊恵1113より10才ほど年長。
 まあほぼ同じ年代と言うことだろうが83俊成、85俊恵の間に挟まった84番というのが面白い。

・父顕輔1090-1155については79番歌で詳しく書いたので参照。
 (六条藤家の始祖、人麻呂影供継承者→エリート歌人一家の長)
  
・顕輔の次男が清輔 顕輔15才の時の子!(然も次男)
 →平安貴族の結婚が早かったとは言えこれは驚き。
 (源氏物語では朱雀帝の皇子(後の今上帝)が東宮時代15才で明石の中宮13才との間に若宮を生んでいる。いくら何でも幼すぎると思ったが正に事実は小説より奇なりであります)

 「顕輔と清輔は父子ながら不和であった」と言われているが本当のところどうだったのでしょう。
 →たった15才差の息子への感情、そりゃあ普通の父親とは違うでしょう。
 (息子もさることながら自分自身だってまだ成長過程ですからねぇ)
 →若い顕輔も自分の処世(立身出世)に精一杯でとても息子の面倒まで見れなかったでしょう。

 清輔が歌人として頭角を現してからは父子ながらライバルとしての感情もあったのかも。

・そんな家庭で官位は低位にとどまっていたが52才の時父顕輔死亡。
 ここから上昇気運で53才で従四位下太皇太后宮大進に昇任。藤原多子(81実定の妹、二代后)に仕えた。
 →15才差の父とは共存共栄できなかった、、、不幸な父子だったということですかね。

②歌人としての藤原清輔
・千載集以下勅撰集に89首(wiki)或いは96首(千人万首)。私家集「清輔朝臣集」
 父顕輔の死際に人麻呂影供を継承、六条藤家の当主となり歌学を確立させた。
 実作よりも歌学の方が得意分野で「袋草子」(和歌の百科全書とも)、「奥義抄」「和歌字抄」を著す。
 →平安時代歌学の大成者。歌合の判者 歌壇の牽引者。

・六条藤家系図=人麻呂影供の継承者
 藤原顕季(始祖の始祖)―79顕輔(始祖)―84清輔(確立者)-重家(清輔の弟、勅撰歌人)
 →御子左家(俊成・定家・為家)としのぎを削るが南北朝期に六条藤家は途絶してしまう。

・崇徳帝の久安百首に参列 崇徳院の側近くにいた歌人だった。
 二代后多子に仕えてたこともあってか二条帝の勅を受け続詞花集を撰定したが奏覧直前に二条帝は退位死去。
 →父顕輔は崇徳院勅の詞花集の撰定者。
 →顕輔も勅撰集撰定者になり父に並びたかったろうに。運不運、辛いねぇ、キヨスケさん。

・歌合で俊成ともども判者を務め、歌の判定でしばしば意見が食い違った。
 「このかも」論争
 総じて10才年長の清輔の方が優勢であったようだ。
 →そりゃあ覇権争いですから論争するのは当然でしょう。お互い挑発したりされたり。 

・清輔の歌から
 清輔主催で長寿の歌人を集めて催した歌会(尚歯会)で詠んだ歌(82道因法師で出て来た)。
  散る花は後の春とも待たれけりまたも来まじきわが盛りかも
  →歌壇の牽引者として長老歌人に敬意を表したのであろう。

 恋愛模様は語られていない。八代抄に採られた恋歌も下の2首のみ。 
  難波女のすくもたく火の下こがれ上はつれなき我が身なりけり(千載集)
  逢ふことは引佐細江(いなさほそえ)の澪標深きしるしもなき世なりけり(千載集)
  →想像だが学究肌で真面目一辺倒の男だったのではなかろうか。
  →だって「清」のつく人ってそんな感じでしょう。

③84番歌 長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
・どうも人生の述懐歌が続きますねぇ。
 これから先、生きていけば今の辛さも懐かしく思いだすことだろう、、、。
 「さらりと詠んで人の共感を誘う歌」(田辺聖子)

 →生きてさえいればいいことあるさ。楽観的な歌ではないか。

 「すきま風」 杉良太郎(作詞:いではく)
    ・・・・・・
    いいさそれでも 生きてさえいれば
    いつか しあわせにめぐりあえる
    その朝 おまえは すべてを忘れ
    熱い涙を 流せばいい

・昔を懐かしむ。誰にでもある感情。
 同窓会も会社のOB会も昔の苦労話で延々盛り上がる。

・84番歌は清輔何才の時に詠まれたものか?
 私家集所載の詞書の解釈から30才説と60才説があるらしい。
 →苦労人清輔のこと。30才の時既にそんな心境だったのだろう。そしてそれ以降ずっとお経のように本歌を唱え続けていたのではないか。

・使用された言葉の類似性から68番歌との比較もされている。
  68心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)
  →68番歌には救いがない。翻って84番歌は前向きな歌でしょうよ。

・白居易の白氏文集によったとする説もある。
  老色日上面  老色、日に面に上り
  欲情日去心  欲情、日に心を去る
  今既不如昔  今、既に昔に如かず
  後当不如今  後、当に今に如かざるべし

  →古今東西普遍的な詩情であろう。
  →でも我ら現代の年寄りにはまだピンと来ませんがねぇ。

④源氏物語、奥の細道との関連
・82「思ひわびて」で宇治十帖、八の宮・大君・中の君の気持ちを忖度したが、彼らも気分のいい時には「生きてみよう、いいことあるかも」と84番歌の心境になったかもしれない。

・藤原清輔は奥の細道、白河の関に登場する。

  此の関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改めし事など、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
   卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

 →清輔が「袋草子」で69能因法師が「秋風ぞ吹く」と詠んだ白河の関を後の歌人が能因に敬意を表し正装して通ったと書いていることを引用している。
 →何度読んでもいい。名文であります。

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83番 王朝和歌の大御所 俊成 世の中よ道こそなけれ

さて王朝和歌の大御所、藤原俊成の登場です。俊成-定家、今に伝わる歌道を創り上げた大歌人父子。ポイントは91才の長寿にもあったようです。

83.世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

訳詩:    ああ濁世 道はどこにもない
       思いをひそめ分け入ってきたこの山奥にも
       哀れ 鹿が鳴いている
       妻問う声か さてはまた
       現世の未練を問うか 鹿の声よ

作者:皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)1114-1204 91才 正三位 定家の父
出典:千載集 雑中1151
詞書:「述懐の百首の歌よみ侍りける時、鹿の歌とてよめる

①簡にして要、広辞苑で「ふじわらのしゅんぜい」を引いてみました。

 【(名はトシナリとも)平安末期の歌人、俊忠の子、97定家の父。皇太后宮大夫。法名、釈阿。五条三位と称。千載集の撰者。歌学を75藤原基俊に学び、74俊頼を尊敬、両者の粋をとり、清新温雅な、いわゆる幽玄体の歌を樹立した。御子左家の基を築く。歌は新古今集以下勅撰集に四百余首載る。家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風躰抄」など、ほかに歌合の判詞が多い(1114-1204)】

・余談:名前の読み方 「トシナリ」が正しい、「しゅんぜい」は有職読み。業界用語。
 「ふじわらの」と「の」をつけるのは源・平・在原・橘、それに藤原。天皇から苗字をもらった家柄のみ。「織田信長」「羽柴秀吉」「徳川家康」に「の」は入らない。

・家系 道長-長家-忠家-俊忠-俊成-定家・・・・藤原北家である。
 長家が御子左家の祖
 (御子左とは醍醐帝皇子兼明親王が左大臣になったことから。その御子左邸を長家が譲り受け邸宅としたので長家流を「御子左家」と呼ぶようになった)
  
 祖父忠家:67周防内侍に腕を差し出した人(春の夜の夢ばかりなる手枕に、、)
 父俊忠:歌合で72紀伊に歌を詠みかけた人(人知れぬ思ひありその浦風に、、、)
     それに対する紀伊の返歌が72(音にきく高師の浜のあだ波は、、、)

 俊成の母(藤原敦家娘)の母兼子は堀河院の乳母。本邦楽道の家系。
 辿っていくと蜻蛉日記の53道綱母に繫がる。

・俊成の一生
 1114 誕生 
 1123@10 父俊忠死去、葉室家の養子となり葉室顕広を名乗る
 1140@27 述懐百首で83番歌を詠む。この時遠江守。この年西行23才で出家
 1145@32 この頃美福門院加賀と結婚(加賀の鳥羽院繋がりから俊成の昇進が早まる)
 1167@54 正三位 藤原に復帰、俊成と改名
 1176@63 出家 法名は釈阿
 1188@75 後白河院勅により千載集撰進(1288首 百人一首に14首) 
 1203@90 後鳥羽院、宮中で九十の賀(15光孝帝の12僧正遍昭への七十の賀以来) 
 1204@91 死去

 →美福門院加賀を妻としたことが大きかった。加賀は定家を始め二男六女を産む。
 →俊成と名乗った時期は短い(1167-1176)。百人一首名も釈阿がよさそうだが。

②歌人としての俊成
・若年期より74俊頼に私淑。ただ俊頼は亡くなり75基俊に入門(俊成@20、基俊@80)

・1140 堀河百首に倣い述懐百首を詠む。
 →人生の不平・不遇を愁訴。愚痴・歎きの百連発。
  いくらなんでも後向き過ぎないか。詠めば詠むほど落ち込むのでは。

・1142-44 崇徳院の久安百首 1400首の編纂(大役)を俊成が命じられた。

・1160-70年代 和歌の家元にどちらがなるか、六条藤家(藤原清輔)との壮絶な闘い。
 →清輔は1177 74才で死去。ここから俊成の長寿が功を奏することになる。

・1188 出家後の75才にして勅を受け千載集を撰進。
 歌論書 古来風躰抄 「あはれと幽玄」を和歌の基本とした。

・千載集以下勅撰集に418首 
 →定家465首 貫之435首に次ぐ歴代3位。親子で883首、すごい!

・弟子に97定家、98家隆、91良経、89式子内親王、99後鳥羽院
 →正に御子左家、歌道家元の創立者と言えよう。

③俊成の和歌、エピソード
・俊成の自讃歌
 夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里(千載集)久安百首

 伊勢物語第123段よりの物語取り
 昔、男ありけり。深草にすみける女をやうやうあきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
  年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
 女返し、
  野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
 とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。

  →在五中将、いいですねぇ。俊成も業平に成りきって深草の里と詠んだのでしょうか。

・もう一つの俊成の自讃歌 
 面影に花の姿を先立てていくへ越え来ぬ峰の白雲(新勅撰集)

・平家物語の中の俊成
 平忠度の懇請を受けて千載集に詠み人知らずとして入撰させた。

 平家物語巻七 忠度都落
  さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな
 →古文の教科書にも載ってる超有名場面。読んでると涙が出てきます。

 序でに忠度の最後 平家物語巻九
 一の谷で源氏方(岡部六弥太)に討たれた忠度、装束に結んだ文から正体が分かる。
  ゆきくれて木の下かげを宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度
 →「さざなみや」の歌ともども桜を詠んでいる。散りゆく平家の象徴として詠んだのだろうか。

③83番歌 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
・不平・不満を愁訴した述懐百首の歌。27才青年期の歌である。
 →父に死なれ葉室家の養子では思うに昇進できなかたのであろうが、愚痴の百連発はいかがなものだろう。

・世の中=太平から騒乱への過渡期、京では僧兵が暴れ回るような時代
 (平安末期の世相の不安、無常思想とかの解説もあったが、ちと早いのでは)
 道こそなけれ=そんな憂さから逃れる道はないものか。

 →この年知人でもあった西行は23才にして出家している。ここで俊成が西行のように世を捨てて出家しておれば定家もおらず百人一首もなかった。
 →歌でなんぼ愚痴っても我慢してればいいことあるってことでしょうよ。

・山の奥にも鹿ぞなくなる
 5番猿丸大夫歌の本歌取り
  奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

 →山の奥でも妻を恋求める鹿の切ない声が聞こえる。山の奥へ遁世しても所詮憂さからは逃れられない、、、。そう思えてよかったじゃないですか。

・歌としては5番猿丸大夫の二番煎じみたいで百人一首にはもっといい歌あるのでは、、、と思うのだが、定家はこれを一番として百人一首に入れた。
 →愛する息子が決めたこと、俊成お父さんにも異議はなかったのでしょう。

④源氏物語との関連
・俊成は理知的なものより「心」「艶」「幽玄」を追及。
 源氏物語「花宴」の巻の幽艶な情緒に言及し「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」と述べている。
 →和歌においても源氏物語の価値を唱え上げた重要な言であろう。

・山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
 源氏物語で山里と言えば、
 1 明石の君、明石の尼君が寓居した大堰の山里
   身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
    (明石の尼君 @松風)

 2 夕霧が柏木未亡人落葉の宮を訪ねた小野の山里
   山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心地して
    (夕霧 @夕霧)

 3 大君・中の君そして浮舟の宇治の山里
   涙のみ霧りふたがれる山里はまがきにしかぞもろごゑになく
    (大君 @椎本)

松風有情さんから83番絵をいただきました。ありがとうございました。
コメントもよろしくお願いします。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/12/KIMG0051_20161130085725.jpg

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82番 平安の後期高齢歌人道因 思ひわびて

百人一首中、坊主めくりの坊主に属するのは13人。大僧正が2人、僧正が1人、得体の分からぬ蝉丸。それを除く9人が「法師」。9喜撰、21素性、47恵慶、69能因、70良暹、82道因、85俊恵、86西行、87寂蓮。この内でも道因法師は知名度が低い。歌もピンと来ない。まあ我慢してお付き合いください。

82.思ひわびてさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり

訳詩:    慕いつづけ むごくつれない人を恋して
       わびしさの限りをつくした
       それでも命をつないでいる
       それなのに涙のやつ 耐え性(こらえしょう)のない弱虫め
       はふり落ち 散りいそいで

作者:道因法師(俗名藤原敦頼)1090-1182頃 従五位上左馬助 1172 83才で出家
出典:千載集 恋三818
詞書:「題しらず」

①道因法師、俗名藤原敦頼 従五位上左馬助 官人である。
・祖先は藤原北家高藤流(25藤原定方の父藤原高藤を祖とする家流)

・官人としての事績は語られていない。まあ普通の役人(中流貴族)だったのだろう。
 歌人として歌合に登場するのは1160 70才を過ぎてから。
 1172 83才で出家 道因を名乗る。
 1182頃 93才で没か
 →えらい晩生の御仁である。
 →晩年出家した人は多数いるが百人一首に出家後の名前で出ていない。道因だけ、何故だろう?
 →「藤原敦頼」では歌人としての知名度が低かったからでしょうね。

・1160-1181年間 数々の歌合に参加(主催もあり)
 千載集以下勅撰集に41首 85俊恵歌林苑の会衆の一人
 →千載集に20首だから俊成に買われたのだろう。そして百人一首に入り大歌人となる。

・1160年の歌会からと言えば道因(まだ藤原敦頼だが)既に71才
 →いつから歌を詠みだしたのか分からぬがまあ六十の手習い的に始めたのかも。

 それからの歌に対する精進ぶり、神頼みぶりがすごい。
 和歌の神さま住吉大社に毎月(京から)徒歩で参詣、「秀歌を詠ませ給へ」と祈った。
 →和歌に対する執着ぶりがすごい。「歌こそわが命」
 →晩年の道因にとって歌は生活の全て、生きる糧だったのだろう。
  (ゴルフを生きがいとして長生きしている人と同じだろう)

・道因法師を和歌に執着心を抱き続けた和歌数奇者として46曽禰好忠、69能因法師と並び称していた解説書もあった。
 →これってすごい誉め言葉であろう。よかったねえ、道因老人!

・齢90になり耳が遠くなっても歌会で一番前に座り講師の話を一言も漏らさぬよう耳を傾けていた。
 →ちょっと困った老人だったのかも。でも認知症で訳も分からない老人ではない。人々も「まあ道因さんだから、、」と大目に見ていたのだろうか。

・その他にもケチだったとか偏屈だったとかエピソードは総じて道因さんに好意的でない。
 →でも年老いてなお秀歌を求め精進する姿に俊成-定家はほだされ道因法師として堂々百人一首の撰に入れたのだろう。

②道因法師の歌から。  
嵐ふく比良の高嶺のねわたしにあはれ時雨るる神無月かな(千載集)
 
 →定家の八代抄には道因の歌としてはこの一首のみで82番歌は入っていない。
 →八代抄に入れていない歌を百人一首に採用したのは公任の55番歌と本歌。
  (百人一首は八代抄の20年後。その間の定家の心境の変化と言われている)

・千人万首から
 ちる花を身にかふばかり思へどもかなはで年の老いにけるかな(千載集)
 いつとても身のうきことはかはらねど昔は老をなげきやはせし(千載集)
 
 →どうも年寄り臭い歌が多い。そりゃあ後期高齢歌人だから仕方ないか。

③82番歌 思ひわびてさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり
・千載集 恋の部 「題しらず」
 法師になってから詠んだ歌? それとも法師になる前?
 →何れにせよ実際の恋の場面ではない。老人の回顧の歌である。

・「思ひわび」 自分に冷淡な相手を思い嘆き、、、
 →藤原敦頼、若かりし時恋に嵌まり込み一途に思い悩んだことがあったのだろうか。

・「命」と「涙」
 どうも観念的・抽象的で実感に乏しい。「ピンと来ない歌」(田辺聖子)
 →道因法師の人物像が今ひとつ分からないので恋歌と言われても女性の姿が浮かんでこない。
 
 出家して仏道修行をしていく内に辿り着いた「生と死(寿命)は天命による」という境地を詠んだ人生の述懐歌との解説もあった。
 →私には正に「ピンと来ない歌」であります。

・「涙」が出てくるのは本歌と86西行「、、、かこち顔なるわが涙かな」
 →「42袖をしぼりつつ」「65ほさぬ袖だに」「72袖のぬれもこそすれ」
  「90袖だにも濡れにぞ濡れし」「92わが袖は」
  「涙」はちょっと直球過ぎるように思うがどうだろうか。

④源氏物語との関連
・思ひわび、もう死んでしまいたいのに天命は尽きず生きねばならない。
 父八の宮を亡くし宇治の大君・中の君姉妹は途方にくれる。父の後を追い死んでしまいたい。でも天は死を与えてくれない。

 総角6.
 御服などはてて、脱ぎ棄てたまへるにつけても、片時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを思すに、いみじく思ひの外なる身のうさと、泣き沈みたまへる御さまども、いと心苦しげなり。

 →薫が大君に二度目のアタックをかける場面です。

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