65番 貫録のベテラン歌人相模 恨みわび

ゴールデンウイーク、いかがお過ごしだったでしょうか。1回お休みしました。さて、和泉式部と並ぶ女流歌人とされ、長く宮廷女房として歌合にも参じた相模です。今まであまり馴染がありませんでした。どんな人なのでしょう。

65.恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ

訳詩:    世間はどうしてこんなにも口さがないのか
       さもなくてさえ情ない人は恨めしく
       わたしは侘しく 袖の乾くひまさえないのに
       世間はどうして噂ばかり・・・・この浮名ゆえ
       涙に浸って朽ちはてるのか 哀れ わたしは

作者:相模 生没年不詳 大弐三位・小式部内侍らと同世代の歌人
出典:後拾遺集 恋四815
詞書:「永承六年(1051年)内裏歌合に

①生没年 wikiにならい998-1061以降と考えましょう。
 大弐三位・小式部内侍(999生まれ)と同世代です。
 →紫式部・和泉式部からすると子どもの世代になります。

・父源頼光(養父とも)=鎮守府将軍源満仲の子、大江山の鬼退治で武勇を馳せる。
 武家の祖とも目されるが道長の家司的存在で道長に莫大な進物を贈ったことで有名。
 歌人でもあり勅撰集に3首入撰している。
 母は慶滋保章(詩文の家)の娘。この人も歌人だった。
 →源頼光のイメージから武骨な家柄かと思ったがそうでもない。

・10代に橘則長(清少納言と橘則光の息子)と結婚、やがて離婚
 20才ちょっとで大江公資の妻に。任国の相模に4年間同道
  公資は現地で女を作り相模はそれを恨んで百首歌を箱根権現に奉納している。
  結局うまくいかず5年ほどで離婚
  →その頃から「恨みわび」の人生だったのだろうか。

 【相模国について】
  箱根を越えたすぐ。関八州の一つ、上国。国府は小田原とも平塚とも海老名とも。
  歴代の相模守には28源宗于、48源重之(権守)、34藤原興風(掾)

  →夫の任国ということで女房名は「相模」となった。ちょっと可哀そう。
   地名だけの女房名としては他に19伊勢、72紀伊

・相模から帰り64藤原定頼と恋仲に。
  公資に相具して侍りけるに、中納言定頼しのびておとづれけるを、ひまなきさまをや見けむ、絶え間がちにおとなひ侍りければよめる
   逢ふことのなきよりかねてつらければさてあらましに濡るる袖かな(後拾遺640)
   →もうこの頃から相模の袖は濡れていた。
   →定頼を通わせたって大弐三位や小式部内侍に並ぶ勲章みたいなものでしょうか。

・その後脩子内親王(一条帝・定子中宮の第一皇女)に出仕、さらに後朱雀帝(父一条帝・母彰子中宮)の皇女祐子内親王に仕えた。
 →このキャリアはすごい。清少納言・紫式部・和泉式部世代が去った後、宮廷で一人輝いていた女性歌人だったのだろうか。
 →祐子内親王に仕えた女房としては72紀伊がいる。相模と紀伊は同僚だった。
  (相模と紀伊の仕えた年代は重なってはいないようだが)

②歌人としての相模
・後拾遺集に40首、勅撰集計109首
 御朱雀・後冷泉朝で数々の歌合に出詠、若手の歌人たち(和歌六人党)に歌の指導もしている。

・56和泉式部、69能因法師、71源経信などと交流
 →歌人でもあった夫大江公資を通じての交流もあったようだ。
 →何十年に亘り宮廷歌壇に重きを占めていたのだから当然だろう。
 →紅白歌合戦に出続けていた島倉千代子みたいな存在だったのだろうか。

・千人万首から
 正子内親王の、絵合し侍りける、かねの草子に書き付け侍りける
  見わたせば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里
(後拾遺175)
  →絵合って紫式部の創作だと思っていたのですが。源氏物語に倣って行われるようになったのかも。

 男の「待て」と言ひおこせて侍りける返り事によみ侍りける
  頼むるを頼むべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせむ(後拾遺678)
  →「頼む」「頼む」って相手はやはり「定頼」なんでしょうか。

③65番歌 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
・「永承六年(1051年)内裏歌合に」
 →例の40番41番歌の天徳歌合に次ぐ華やかな歌合せと言われている。

 永承六年(1051)5月5日京極院内裏で行われた菖蒲の根合に併せ歌合も行われた。主催は後冷泉帝、判者は藤原頼宗。中宮章子、皇后寛子も臨席

 華やかな催しの様子を栄花物語(36根合)より
 内には根合せさせ給ふ。左頭資綱の頭中将、右頭四条中納言の子の経家の弁、若く華やかに覚えある人々なり。左右廿人づつわきて、えもいはぬ州浜の垣根を尋ねつつ、まだ知らぬこひ地におりつつ、ひきいでたる、一丈三尺の根などもありけり。又だい、打敷、花足などの有様いふべきにもあらず、中宮・皇后宮などのぼらせ給へり。中宮の女房の装束は、ただいとうるはしく、殊更に菖蒲の衣を皆うちて、撫子の織物の上衣、萌葱の唐衣、楝の裳なり。皇后宮のは、菖蒲、楝、瞿麥、かきつばたなど、かねして花鳥をつくり、くちおき、いみじき事どもを盡させ給へり。折々につけてをかしき事のみ多かり。 

 永承六年五月五日殿上歌合
 五番 左勝 恋 相模
   恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
  
   右 右近少将源経俊朝臣  
   下燃ゆる歎きをだにも知らせばやたく火の神のしるしばかりに

 →華やかな根合・歌合の記述は源氏物語絵合の様子にそっくりである。
 →女性は相模ただ一人。この時54才。堂々たる貫録の勝利だったのだろう。

 (一丈三尺=約4メーターの根ってあるんですかねぇ~)

・「袖は朽ちずあるを」説と「袖だに朽ちてあるを」説
 →難しく考えず「涙で袖の乾く間もない」ということでいいのでは。

・「恨みわび」=相手の不実を恨む、詰る。
 「名こそ惜しかれ」=自分の名を惜しむ。
 →これだけ考えると自分本位のイヤな女に聞こえるのだが。

・定家は八代抄の中で65番歌を高く評価している。
 65番歌の前後に和泉式部の「濡るる袖」「朽ちる袖」が並ぶ 
  さまざまに思ふ心はあるものをおしひたすらに濡るる袖かな 和泉式部 後拾遺集
  ねを泣けば袖は朽ちても失せぬめり猶憂きことぞつきせざりける 和泉式部 千載集

・「袖濡れる」 さめざめと泣くことの常套句 百人一首でも5首
 42「契きな」65「恨みわび」72「音に聞く」90「見せばやな」92「わが袖は」

65番歌、やはり歌合の題詠であり恋の臨場感がない。「紅白歌合戦」というより「思い出のメロデー」の方にぴったりだと思うのですがいかがでしょう。

④源氏物語との関連
・栄花物語根合のくだり(この部分は赤染衛門筆ではなかろう)は源氏物語絵合の叙述を参考にしたのだろうか。5月5日の菖蒲の根合、騎射も源氏物語の中で語られている。

・「名こそ惜しけれ」
 王朝貴族・貴夫人は人から笑われること世間体の悪いことを極度に嫌った。
 源氏物語の中でも特に光源氏の第一の人、紫の上はことあるごとに人目を気にしていた。もっとふてぶてしく振る舞えばいいのに。この辺が紫の上の好ましいところであり弱いところでありましたねぇ。

・相模は大弐三位と同年代なので当然源氏物語は読んでいたでしょう。
 父頼光が道長の家司的存在であることから彰子の後宮に勤めるのが自然かと思うのだが何故か定子中宮の忘れ形見脩子内親王に出仕している。
 →まあそんなこともあるでしょう。窮屈に考えない方がいいのかも。

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1回お休みをいただきます。

いい季節になってきました。みなさまにはいかがお過ごしでしょうか。
本日よりゴールデンウイーク。遊びにファミリーイベントに何かとお忙しいことと思います。爺はもとより毎日が黄金の日々の身ではあるのですが、世の中の空気を読んで来週1回お休みすることにしました。

 ・休みの最中65「恨みわび」なんてつぶやいてると周りの人から「アホかいな」と言われるのが関の山でしょうから。

 ・爺も最近何かとバタバタしてて机に座る時間が少なく準備が思うに任せないという事情もありまして。

では、「宇治の川霧」も「恨みわび」も忘れ存分によき季節をエンジョイしてください。

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64番 父公任は若紫、長男定頼は宇治の川霧

藤原定頼、55公任の長男です。60小式部内侍に「大江山~~」の歌を詠ましめた男。
時代は11世紀に入ってきます。宇治と言えば源氏物語。この辺も考えてみましょう。

64.朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木

訳詩:    朝ぼらけ 川霧がうごく 宇治の川霧が
       瀬音は澄んで空にのぼる
       あちらの網代木 こちらの網代木
       川霧のたえまたえまに姿を見せるや
       はや 晴れ晴れと白波たてて 網代木の姿

作者:権中納言定頼(藤原定頼)995-1045 51才 55藤原公任の長男
出典:千載集 冬420
詞書:「宇治にまかりて侍りける時よめる」

①藤原定頼 小野宮流藤原公任の長男 母は昭平親王(村上帝皇子)の娘
・父は一世を風靡した文化人(三舟の才) 道長と同年齢で政治的にも無難に勤める
 →父の期待も大きかった。凄いプレッシャーであったろう。

・定頼、最初は武官畑(近衛少将)、後文官に転じ蔵人頭(出世コース)
 ただ官人として心配りに欠けるところもあったようで昇進は左程でもなかった。
 人を嘲笑する時摂政頼通の名前を出し、頼通に謹慎させられたり。
 →頼通・教通兄弟対立の構図の中で妹が教通の妻になっていたこともあり教通派と目されていたのかも。
 →やはり時代の勝ち馬に乗ることが出世への一番道なのだろう。

 三条帝の春日大社行幸で行事役でありながら従者同士のいさかいで相手方を打ちのめしお役御免になったことも。
 →63荒三位ほどではないが乱暴はいただけない。父公任も心を痛めたことだろう。

・どうも定頼は道長・頼通への滅私奉公ぶりに労を惜しんだようで人事評価を下げられている。
 →「定頼才能ありて賢きことは賢けれど緩怠なる事またはなはだし
 →本心はともかく上司にそう思われては昇進は覚束ない。
 →ずぼら、軽率、かっとなる。処世に不器用だったということか。

・女性関係 
 超有名人の二世で歌も良し、書は名人、経も抜群、容姿端麗。
 →そりゃあモテたでしょう。
  58大弐三位、60小式部内侍、65相模と恋の遍歴を重ねている。

・父公任には孝を尽し76才まで生きた公任の晩年まで寄り添っている。
 →父には終生頭が上がらなかったのであろう。でも孝行息子は好ましい。

②歌人としての藤原定頼
・後拾遺集以下勅撰集に45首 私家集として定頼集
 →女性上位の年代にあって気を吐いた男歌人ではなかろうか。

・一条帝の大堰川行幸で歌を詠んだとき父公任も同行し、息子がどんな歌を詠むかハラハラドキドキしていた。
 定頼:「水もなく見え渡るかな大堰川~~~」(上の句)
 公任:「えっ、水もない? なんじゃこれは、どう続けるんじゃ」
 定頼:「峰の紅葉は雨と降れども~~」(下の句)
 公任:「おっ、そうか。やりおった、さすがオレの息子だ」
  →場所は大堰川、先年公任が道長による風流イベントの際「三舟の才」と褒めたたえられた所。
  公任 三舟の才の歌:をぐら山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき

・千人万首より
 大弐三位への贈歌
  梅の花にそへて、大弐三位に遣はしける
  来ぬ人によそへて見つる梅の花散りなむ後のなぐさめぞなき
(新古今集48)
   大弐三位 返し
   春ごとに心をしむる花の枝に誰がなほざりの袖か触れつる(新古今集49)
   →これは昔の恋人時代をお互いに懐かしんで詠んだ歌だろうか。  

 父公任への贈歌(父と息子で風流に歌の贈答、いいですねぇ)
  雨のいとのどかにふるに、大納言公任につかはしける
  八重むぐらしげれる宿につれづれととふ人もなきながめをぞする
(風雅1795)
   →47番歌が思い出される。
    八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶法師)

③64番歌 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木

・読んでいくと冬の朝の宇治川の景色が頭の中にはっきりと現れてくる。
 「たえだえにあらはれわたる」というのがいい。
 各解説書とも冬の早朝の実景に基く叙景歌として評価は甚だ高い。
 「百人一首中、屈指の佳作の一つだと、私は思う」(田辺聖子)

・出典は千載集(定家の父藤原俊成が撰者)
 百人一首中千載集は14首 初出が55公任の「滝の音は」、2番目が64定頼の「朝ぼらけ」
 →俊成父子は公任―定頼を藤原の歌詠みとして高く買っていたのであろう。
 →父子対決としては定頼の「朝ぼらけ」の方が断トツにいいでしょうね。

・舞台は宇治
 .平安時代貴族の別荘地であった。源融の宇治別荘。その後道長のものになりそれを頼通が引き継いで寺院にしたのが平等院(1052)この時定頼は没している。
 .初瀬長谷寺詣での際の中宿りの地 蜻蛉日記にも出てくる。
 .宇治川は琵琶湖が源流、瀬田川~宇治川となって山崎で木津川・桂川と合流し淀川となって大阪湾に注ぐ。
 .宇治は憂路
  8喜撰法師 わが庵は都のたつみしかぞ住む世を宇治山と人はいふなり

・本歌とされるのは柿本人麿(万葉集)
  もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行く方知らずも
  →「人間の生死流転が寓意されている」なんて見かたもあるようだが、、、よく分かりません。単純でいいのでは。

・唱歌「冬景色」 大好きです。YOUTUBEで3回聴きました。
 ♪~~さ霧消ゆる 湊江の 舟に白し 朝の霜
    ただ水鳥の 声はして いまだ覚めず 岸の家

・「朝ぼらけ」で始まるのは31坂上是則があり大山札である。
  朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪

④源氏物語との関連
・宇治と言えば源氏物語宇治十帖
 (八の宮)宇治といふ所によしある山里持たまへりけるに渡りたまふ。思ひ棄てたまへる世なれども、今はと住み離れなんをあはれに思さる。網代のけはひ近く、耳かしがましき川のわたりにて、静かなる思ひにかなはぬ方もあれど、いかがはせん。(橋姫5)
 →四苦八苦、半年かけて宇治十帖に取り組んだ日々が懐かしい。
  椎本~総角は長かったシンドかった。東屋で浮舟が登場しホッとしたものです。

・いつも宇治川の急流、瀬音、川霧が叙述され宇治十帖の世界を象徴していた。
 薫が大君を想った宇治橋、匂宮が浮舟を小舟に乗せて渡った宇治川、そして浮舟が身を投げた宇治川。

 宇治十帖より思い出深い歌を3首
  橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる(薫@橋姫)
  橘の小島の色はかはらじをこの浮舟ぞゆくへ知られぬ(浮舟@浮舟)
  ありと見て手にはとられず見ればまた行く方もしらず消えしかげろふ(薫@蜻蛉)

・さて定頼は64番歌を詠んだ時源氏物語の宇治十帖を既に読んでいたのだろうか?
 父公任が紫式部の局を訪れ「若紫やさぶらふ」と言ったのは1008年、その後源氏物語は書き続けられ宇治十帖も定頼の時代には流布していたのではないか。宇治十帖は大弐三位の作だという説もあるくらいで定頼は恋人だった大弐三位から源氏物語のこと、宇治十帖のことは詳しく聞いていたのではと考えます。

・定家は63番の前斎宮と名門貴公子(道雅)の悲恋を、64番宇治十帖の薫と大君・浮舟との悲恋の中に置いて眺めている。。。。とは安藤次男の説
 →源氏物語を信奉してた定家が百人一首に源氏物語をできる限り取り込もうとしていたことは間違いない。
 →63番、64番は源氏物語絡みの名歌選と言えよう。

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63番 中関白家の荒三位 道雅 今はただ~

華麗なる女流歌人が続いた後に登場するはかるた絵にも武者姿、荒三位の悪名を轟かせた藤原道雅。何が彼をして左様な悪しき振舞いをなさしめたのでしょう。

63.今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな

訳詩:    今はもうふっつりとあきらめます
       あなたとの恋は・・・・・もうふっつりと
       けれどそれを人づてにお伝えするのは
       いやなのです ああ どうしても
       これを限りにお逢いして言うのでなければ

作者:左京大夫道雅(藤原道雅)992-1054 63才 中関白家の嫡流 伊周の長男
出典:後拾遺集 恋三750
詞書:「伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守目などつけさせ給ひて、忍ぶにも通はずなりにければよみ侍りける

①藤原道雅 基経-26忠平-師輔-兼家-道隆-伊周-63道雅
 藤原北家の主流。中関白家(道隆が始祖)の三代目。
 54儀同三司母(高階貴子)は祖母 中宮定子は叔母

 先ず中関白家の没落を年譜で(54番歌の項参照)
 992 道雅誕生(祖父道隆は摂政で第一の人、道長とつばぜり合い中)
 995@4 祖父道隆死去(酒の飲み過ぎ、糖尿病=藤原長者の自覚不足)
     道隆の跡目争いで父伊周、道長に敗れる
 996@5 長徳の変(自ら起した花山法皇襲撃事件を基に伊周は道長に政治的に葬られる)
     →何ともアホな事件。女性関係で自ら墓穴を掘る。道長の思う壺に。
     これで伊周は大宰府に左遷される(道長のほくそ笑みが察せられる)
     54母貴子 心痛もあったか直後に死去(親不孝なり伊周)
     その後伊周は帰洛を許されるが道長の下に甘んじることになる。

 1001@10 中宮定子死去(享年25才)3人目の子(媄子内親王)を出産、その直後に。
      →5才にして父は失脚、10才にして叔母を亡くす。
      →中関白家はここに衰退の一途をたどる。

 道雅の行状
 1011@20 春宮権亮(敦成親王=彰子が生んだ道長の切り札)に任ぜられる。
      →これは大変なお役目ではないか。ちゃんと勤めれば栄達も可能。       
 1013@22 敦明親王(三条帝皇子)の従者を拉致暴行、瀕死の重傷を負わす
      →なんで? 折角の出世コースを自ら断つのであろう。
 1016@25 当子内親王(三条帝皇女、前斎宮)と密通 勅勘を受ける。
      三条院は間もなく崩御、当子内親王も出家
      →大変なスキャンダル。でもお蔭で63番歌が生まれた。
 1024@33 花山帝皇女殺害事件を主導
 1027@36 賭博場での取っ組合い喧嘩事件
 その後  さしたる悪行事件も見当たらないが鳴かず飛ばず
 1045@54 左京大夫
 1054@63 死去

②藤原道雅の人物像
・後拾遺集に5首 勅撰集計7首
 →殆どが当子内親王密通事件にかかわるもの。
 晩年は歌会を催すなど風流の道に時を過していたかに見える。
 
・正妻は藤原宣孝の娘で、娘に上東門院中将(歌人)
 →宣孝と言えばあの紫式部の夫である。

・さて道雅について2点考えてみたい。不遇な貴公子なのかただの荒くれなのか?
 1 何故粗暴な悪行に走ったのか?
   瀕死を負わせるまで打ちのめしたり女房を殺害させ路上に放置し野犬に食わせたり、、、
   やり方が凡そ貴族の御曹司にあるまじき蛮行である。
   →それぞれ事件には動機があったのであろうがよく分からない。
   →というよりさしたる理由もなく単に気に入らない、頭に来たからやったのかも。
   →どうも情状酌量の余地なさそうに思うのだがどうでしょう。

 2 何故三条院の皇女で前斎宮の当子内親王との密通事件を起こしたのか?
   別に以前から知ってた訳でもあるまいに何故唐突に当子内親王なんだろう。
   皇女しかも前斎宮と密通、事件が露見すれば身の破滅は必定。
   何か謂れのある人との相思相愛燃え上がる恋であれば分からんでもないがどうもそうではなさそう。道雅の独りよがりの感じがする。
   →身の程知らずにも程がある。元より病気がちの三条院も激怒して寿命を縮めたし、相手の当子内親王も出家して程なくして没してしまう。罪作りな男と断じる他なかろう。
   →当子内親王の身になって考えれば神に仕えて帰ってきたら純潔を踏みにじられ親にも勘当され仏の道に入らねばならなくなった。神から仏へ、これも可哀そう。

 没落する中関白家で思うに任せず若さの至りで人の道を踏み外すこと一度くらいなら許せもしようがここまでやると弁護する気にもなれない。

 36才賭博場事件以降は名前通りおとなしく雅の道に勤しんだのでしょうかねぇ。。

③63番歌 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな

・当子内親王への一連の恋歌が後拾遺集に並んでいる。   
 逢坂はあづま路とこそ聞きしかど心つくしの関にぞありける748
  →逢坂の関、62番歌に繫がる。
 さかき葉のゆふしでかげのそのかみに押し返しても似たる頃かな749
  →伊勢神宮とあらば榊。
 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな750
 陸奥の緒絶えの橋やこれならむ踏みみ踏まずみ心惑はす751

・63番歌の評価は高い。百人一首中屈指の名歌(田辺聖子)とも。
 真っ直ぐで素直 全くの技巧がない歌。
 題詠ではこんな迫力のある歌は生まれ出ない。
 →爺もこの歌は素晴らしいと思います。歌い手は嫌いだが歌は大好きです。

・伊勢の斎宮絡みとなると伊勢物語第五段
 業平 人知れぬわが通路の関守は宵宵ごとにうちも寝ななむ
 →そう言えば「在原業平が斎宮恬子内親王と密通してできた子が高階家の養子となった」件について54番歌(儀同三司母)のコメント欄が賑わいましたね。
 →道雅をして当子内親王に向かわしめたのは祖先業平の血のなせる業だったのかも。

・63番歌の本歌
  いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君に語らむ 43敦忠 後遺集

④源氏物語との関連
今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな
 →これはそのまま柏木が女三の宮に宛てた歌と言っていいでしょう。
  思ひ絶える:あきらめると言う意味だが「思ひ」「絶える」と二つに分ければ「思い死ぬ」という意味にもなるのではないか。
 →そう言えば女三の宮も若くして出家する羽目になった。

・六条御息所の娘が斎宮に行って帰ってきた。前斎宮を好きだった朱雀院は入内を望むが源氏と藤壷が強引に冷泉帝に入内させてしまう。朱雀院が残念がって前斎宮に詠みかけた歌。

 わかれ路に添へし小櫛をかごとにてはるけき仲と神やいさめし 絵合1
 →斎宮・斎院を勤めてくるということは大変なことでありました。

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62番 清女 函谷関はゆるせども 逢坂の関はゆるさじ

さあ居並ぶ女性陣のトリは「トリの空音」、かの枕草子の「清女」であります。爺が敬愛する「紫女」のライバル。さてどんな論調で書きましょうかね。

62.夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ

訳詩:    夜も明けないのに鶏の鳴きまねをして
       関所の門を開けさせようとなさるのですね
       函谷関ならいざ知らず
       逢坂の関の関守はだまされませんよ
       逢おうったって 私の関所はとてもとても

作者:清少納言 生没年未詳 42清原元輔の娘 36清原深養父は曽祖父 
出典:後拾遺集 雑二939
詞書:「大納言行成、物語などし侍りけるに、内の御物忌にこもればとて、いそぎ帰りて、つとめて、鳥の声にもよほされて、とひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関のことにや、といひつかはしたりけるを、たちかへり、これは逢坂の関に侍る、とあればよみ侍りける

①清少納言 生没年不詳では不便なので通説とおぼしき966-1025 60才と考えましょう。
 父 42清原元輔(42番歌参照)元輔59才の時の子(お父さんガンバッたものです) 
 清原氏は天武帝の皇子舎人親王(日本書紀編纂者)を始祖とする一族(36番参照)

 清少納言
 966 誕生 
 974 父元輔周防守 4年間周防(国府は現防府市) 清女は9-13才を周防で過す。
 981 @15 橘則光(後に陸奥守)と結婚 翌982年長男則長誕生
    数年(3-4年とも)にして離婚、則光が武骨だったとも
    →則光、普通の男だったのでは。普通の男には清女の夫は難しいのかも。
でも離婚後も仕事仲間として宮中で接触したり普通に付き合っている。
     さっぱりしたものである。 
 その後
    藤原信義(歌人)と結婚とも。子がなかったせいかあまり書かれていない。
 その間
    藤原頼忠(公任の父)次いで藤原為光(52道信の父)に出仕
    →父の聞こえもあって引く手あまただったのか。
     宮仕えがきちっとできる才女であったということ。

 991-993ころから1001(定子崩御)まで中宮定子に仕える。
    →清女 26-8才から35才まで。万事を弁えた分別女房だったのだろう。
    この定子中宮サロンで交流があったのが(枕草子に登場)、
    51藤原実方(恋愛関係)、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源常房ら
    →中宮居所となれば一条帝の官房たる蔵人所の貴人たちが日々訪れる。
     彼らとの取り計らいを清女が行った。種々関係ができるのは当然である。

    (この間に枕草子が書かれる→後述)
    (定子・中関白家の悲劇については次回63番藤原道信で考えましょう)

 1000 定子崩御 翌年清女致仕
    →その後定子の生んだ脩子内親王・媄子内親王の養育に関ったとも。
     清女は本当に定子を尊敬し崇めていたのであろう。枕草子の定子誉めはやらせとは思えない。

 その後 藤原棟世(摂津守)と再婚し娘・上東門院小馬命婦(勅撰歌人)を儲ける
     →娘小馬命婦は彰子中宮に仕えている。彰子も可愛がったのであろうか。

 晩年は元輔の山荘のあった東山月輪(定子陵の近く)に住み、55公任、56和泉式部、59赤染衛門らと交流があった。その後のことは不詳で例によって有名人を陥れるような落魄説話が横行している。
  →小野小町も紫女も清女も。何でそう死者に鞭打つようなことするんだろう。

②歌人としての清少納言
・後拾遺集以下勅撰集に15首 清少納言集42首
 紫式部も源氏物語の作者である面が強すぎて和歌はあまり評価されてないように、清少納言も枕草子の方が有名で歌は苦手だと言われている。

・曽祖父に36深養父、父に42元輔という大歌人を身内に持って清女は委縮していた。
 枕草子93段(講談社学術文庫)
  定子とのやりとり
  定子 元輔が後といはるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる
  清女 その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞよままし
  →やはりプレッシャーはあったのでしょう。でも快活な清女のこと、そんなこと気にせず「下手かま精神」でドンドン詠めばよかったのに。

・51実方への送別歌
 実方の君の、みちのくにへ下るに
 とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川そでのわたりはあらじとぞ思ふ(清少納言集)
 →昔の恋人実方が歌枕を見に陸奥に下ったのは991年 清女が定子に出仕し始めた頃。

・清少納言代表歌(吉海)
 よしさらばつらさは我にならひけり頼めてこぬは誰か教へし 詞花集316

・「枕草子」について
 断片的にしか読めていないが間違いなく源氏物語に次ぐ王朝文学の傑作であろう。
 .成立は出仕時の995くらいから出仕を終えて1010ころまで断続的に書かれた。
 .類聚、随想、回想章段 合計約300段
  一口に随筆と言われるが内容は多岐に亘っており諸々雑文集と言った方がいいかも。
  短文あり長文あり。時代も前後している。誰か整理してくれないだろうか。
  →日々の感想が主体だがそれだけに終ってる感じがする。勿論それでも文学性は高いと思うが。
 
 .小西甚一「日本文学史」の枕草子評(抜粋)
  清少納言の傑作「枕の冊子」はまことにふしぎな作品
  こんな種類の作品はこれまでに無かったことは確か
  些末的リアリズムを出るものではないけれど、瞬間的な印象の把握においてはじつにすぐれた感覚を示す。その感覚には生の「日本人」が躍動しており共感させるがあまりにも日本人すぎてしみじみとした真実の深みにとぼしい。

 →定子・中関白家礼讃が目的であることは間違いあるまい。でも強制されて書いたのではなく清女の本心を綴ったものだと思う。歴史に沿って回想章段をつぶさに読めば面白いのではないか。ただ礼讃ばかりで悲劇の場面はわざと書かれてないので一面しか見れないだろうが。

③62番歌 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
・作家事情は詞書&枕草子128段(講談社学術文庫)に基き解説本にも詳しく書かれているので詳細は省略
 行成(50藤原義孝の長男・三蹟の一人・道長の寵臣)とのやりとり。
 題材は清女お得意の漢籍 「史記」の孟嘗君、函谷関の故事
 行成とは恋人関係だったのか、単なる友人関係だったのか。
 →この歌のやりとり自身は恋歌の贈答ではなく単なる教養のひけらかしゲームだと思うが、行成と清女そりゃあ一度や二度はあったでしょうね。

・歌の鑑賞、評価としてはいかがでしょう。
 →「あなたには許しませんよ」恋歌の体裁をとりながら実は教養ひけらかしゲーム。
 →大体恋をしかけられても「よに逢坂の関はゆるさじ」なんて断り文句はないでしょうに。
 →あくまでおふざけ。勅撰集に入る歌かはチト疑問。後拾遺集も「恋」でなく「雑」の部に入れている。

・62番歌に対する行成の返歌もレベルが低い(62番歌と同レベル)。
 行成 逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか 

④源氏物語との関連について
 紫式部vs清少納言 これぞ永遠・宿命のライバルである。
 実に沢山の小説がこの二人の対立対比を材料として書かれている。書きやすいからであろう。

・紫式部の清少納言への酷評(紫式部日記)
  清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ

  →いくら何でも酷すぎる。そのまま「紫式部こそ、」と読み替えても通じるのではないか。
  →末摘花、源典侍、近江の君。筆を極めての描写を思い出す。男性に対しての酷評は思い出さないが。

・枕草子を読み込んでないので単なる感覚に過ぎないが清女はなかなか「いい女」だったのではないか。枕草子は自分誉め、自慢話が多いが清女の人となりはひょうきん爺さん元輔譲りで機智とユーモアに富む愉快な女房だったと思う。
 
 →自慢話をする時も明るくあけっぴろげに「私ってすごいのよ、こんなことも知ってるし何でもできるわよ、あなた知らないなら教えてあげるわ」って調子で嫌味を感じさせなかった。。。と思うのですがいかがでしょう。
 
清少納言という大題材に気後れして長いだけで雑然とまとまりのないものになりました。清女、ごめんなさい。 

松風有情さんの62番絵です。ありがとうございます。解説をお願いします。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/04/KIMG0267.jpg

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61番 伊勢大輔 けふ九重に~~  宮中鼓動す 

何というタイミング!!桜の季節に桜の歌。東京も奈良も京都も満開のころでしょうか。
「いにしへの」、九代目仁王さんが大好きでハンドルネームにした歌です。百人一首中でも高人気の歌でしょう。伊勢大輔、49大中臣能宣の孫、伊勢神宮ゆかりの女人の登場です。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
61.いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:    そのかみ
       奈良の都に咲きほこった八重桜
       京の都の九重の宮居のうちに
       今日照り映えて 咲きほこって

    
作者:伊勢大輔 生没年未詳 正三位神祇伯大中臣輔親の娘 49大中臣能宣の孫
出典:詞花集 春29
詞書:「一条院御時、奈良の八重桜を人の奉りけるを、その折、御前に侍りければ、その花を題にて歌よめとおほせごとありければ」

①伊勢大輔989-1060 @72才としておきましょう。
・祖父は49大中臣能宣(正四位神祇大副)、父は大中臣輔親(正三位神祇伯)
 何れも著名歌人かつ伊勢神宮のおえらいさんである。
 →大中臣氏&神祇官、伊勢神宮については49番歌参照

・伊勢大輔の名前は伊勢神宮+父の輔親の輔からか。

・1008頃(20才頃)中宮彰子後宮に出仕。新人女房で61番歌を詠む。
 紫式部が先輩女房としていた。後に和泉式部・小式部内侍が入ってくる。
 →「いにしへの」で名声を博したことでもあり、後宮ではモテモテ女房だったのだろう。

・この伊勢大輔を仕留めたのは高階成順(五位筑前守)。恋の経緯はよく分からない。
 高階成順、高階氏の登場。成順の父は明順、54高階貴子の兄弟である。
 →従って成順は中宮定子の従兄弟にあたる(定子は既に1001に死亡しているが)。
 →58大弐三位も高階氏(高階成章)と結婚していた。

・高階成順との結婚生活で伊勢大輔は二男三女を儲けている。
 三女は康資王母・筑前乳母・源兼俊母で、何れも優秀な歌人であった。
 →49大中臣能宣からずっと勅撰歌人を輩出している。すごい家系である。

・60小式部内侍が次々に5人もの男性と関わりを持ったのに対し、伊勢大輔はずっと高階成順の妻で成順の子どもを産み続けている。
 →こちらの方がまともに思える。
 →小式部内侍の相手は何れもトップ貴族だったが、伊勢大輔の高階成順は受領階級。身分的にも釣り合いがとれていた(或いは伊勢大輔の方が上かも)からだろうか。

・晩年には白河帝(1053-1129)の養育係に任ぜられている。
 →これってすごい。和歌、文藝もさることながら人格的に余程優れていたのだろう。

②歌人としての伊勢大輔
・さすがに歌人一家のお嬢さん、後拾遺集以下 勅撰集に51首! 宮中歌合多数出詠
 
・64藤原定頼、63藤原道雅とも歌の交流(恋愛関係にはなかった模様)
 59赤染衛門、57紫式部、56和泉式部、65相模とも親しく交流
 58大弐三位とは三度の歌合に同席 
 →人付き合いのいい人気者だったのだろうか。愛敬もあり女性にももてた感じがする。 
 →小式部内侍とはどうだったのだろう。夫多数vs夫一人

・彰子の健康長寿祈願のため清水寺へ行ったとき、同じく清水寺に来ていた紫式部に詠みかけた歌。
  いにしへのちぎりもうれし君がためおなじひかりにかげをならべて
  →「ひかりの君さまを書かれた式部さんと同じく彰子さまにお仕えしてる、、、何と誇らしいことでしょう」との気持ちではなかろうか。

・61番歌と並び当意即妙の歌として挙げられてるエピソード
 52藤原道信が満開の山吹の花をかついで宮中で女房たちに詠みかけた、
  くちなしに千入八千入染めてけり
 (くちなしの黄染料で念入りに染めたんですよ)

 女房たちが逡巡する中、これに上の句をつけたのが伊勢大輔
  こはえもいはぬ花の色かな
  →「くちなし」に対する「えもいはぬ」の洒落。やんやの喝采を受けた。
 
 とここまで書いて道信の年暦をみると994に亡くなっている。すると伊勢大輔は6才でこの歌を詠んだ?? インチキくさいですね。まあ相手が道信というのが間違いなんでしょう。

・千人万首から一首
 物思ふことありけるころ、萩を見てよめる
  おきあかし見つつながむる萩のうへの露吹きみだる秋の夜の風(
後拾遺集295)
  →「萩の上露」紫の上の絶唱を思い出しました。本歌はそれほど深刻ではないですが。。

③61番歌 いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
・詞花集&伊勢大輔集の詞書から本歌が詠まれた情況がよく分かる。
 奈良興福寺から宮中に大ぶりの見事な八重桜が届けられる。宮中、一条帝に中宮彰子、それに道長が陪席。桜を受け取って歌を詠むのは紫式部の仕事だったが紫式部は新参女房伊勢大輔にその役を譲る。さて道長に「歌詠め」と命じられて詠んだのが61番歌。
 →60番歌に続くいわくつきの歌、当意即妙の歌。

・「いにしへ」と「けふ」、「奈良」と「京」、「八重」と「九重」の照応
 桜の散った京に再びもたらされた豪華な桜、宮中は華やかさでいっぱいになる。
 そんな折り詠まれた61番歌。一条朝・道長摂関家を存分に寿いだ慶賀の歌。
 →居並ぶ全員、ハッピーハッピーで有頂天になったのではないか。
 →「殿を始め奉り万人感歎、宮中鼓動す」(袋草子)

・伊勢大輔集では本歌に中宮彰子が歌を返したと出ている。
  九重ににほふを見れば桜狩重ねてきたる春かとぞ思ふ(彰子)
  →なかなかいい歌である。
  →ところが紫式部集に「卯月に八重咲ける桜の花を、内裏にて」として同じ歌が載せられている。
  →他人になり代わっての歌作は紫式部の得意技。彰子に代わって(彰子として)詠んだ歌ということでよかろう。

・一条朝の時代からすれば奈良は「いにしへ」 300年も前のことになる。
 奈良と言えば「あおによし」
  あをによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり(万葉集)
  ふるさととなりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり(古今集)

・八重桜は奈良東大寺・興福寺のものが有名で遅咲きであった。
  八重桜は奈良の都にのみありけるを、このごろぞ世に多く成り侍るなる(徒然草139段)
 京の桜を愛でた歌
  見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり(素性法師 古今集)

④源氏物語との関連
・奈良は源氏物語には舞台としても話としても出てこない。初瀬の長谷寺は何度も登場するが。北嶺の延暦寺は宇治十帖で重要なものとして出てくるが南都興福寺、東大寺は出てこない。何故だろう。

・桜を愛でると言えば当然「花宴」
 春宵一刻値千金
 照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき(大江千里 新古今集)
 →「お花見」(花よりだんご、だんごよりお酒)は最高であります!

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60番 和泉の小式部 まだふみもみず、、、

情熱の天才歌人和泉式部の娘、小式部内侍の登場です。短い人生でしたが母に負けず存分に人生を謳歌した女性のように見受けましたがいかがでしょう。

60.大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立

訳詩:    母のいる丹後の国は遥かかなた
       私はまだその地を踏みもせず
       なつかしい母の文もまだ見ていません
       大江山そしてまた生野の道
       あまりにとおい 天の橋立

作者:小式部内侍 ?-1025 享年26-7才 母は和泉式部 中宮彰子の女房の一人
出典:金葉集 雑上550
詞書:「和泉式部、保昌に具して丹後国に侍りける頃、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけむや、使ひはまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれて立ちけるを、ひきとどめてよめる」

①小式部内侍 生年は999(大弐三位と同じ)と考えておきましょう。
・父橘道貞 母和泉式部(和泉式部の初婚、20才の時の子)
 56番歌の時の和泉式部の年暦を小式部内侍の側から見てみましょう。

 995 父母結婚
 999 @1 小式部内侍誕生
1001 @3 母、父との関係悪くなり為尊親王と交際始まる。翌年為尊親王死去
1003 @5 母、敦道親王と交渉、敦道親王邸へ召人として入る。
1007 @9 敦道親王死去 母、宮邸を去る
1009 @11 母、中宮彰子に出仕 ほどなく小式部もいっしょに出仕したのか。
   その後華々しい男性遍歴を重ねる。
      藤原教通(道長の五男)と結婚 静円を生む
      64藤原定頼(公任の長男)と交際 -60番歌のエピソード
      藤原頼宗(道長の次男、右大臣、歌人でもあった)と愛人関係
      藤原範永(藤原氏傍流、歌人)と結婚、女子を儲ける
      藤原公成(藤原氏支流、歌人)と結婚、
1025 @27 頼仁阿闍梨を出産後死去@27

 幼少にして父母は離婚、父は無関係となり、母も男性遍歴を繰り返す。
 母と宮中に出仕後、今度は自分が男性遍歴。上に挙げただけで5人の男性。
 その内、3人との間では子を生んでいる。
  
 →恋多き女性と言えば聞こえはよいが、いくら何でもやり過ぎではないか。乱婚でもあるまいし、、。
 →この間、小式部はどこに居たのか。母の実家たる大江雅致邸に居てそこへ男たちが通って来て、そこで出産したのだろうか。よく分かりません。

・母とともに彰子中宮に出仕。紫式部母娘は母が引退した後、娘が入っている。
 →母娘でお仕えするってどういう感じなんだろう。お互いやりにくいこともあったのだろうか。

・小式部は内侍(天皇との取り次ぎ役内侍司の女官)を勤めている。
 →歌の才もあり、事務能力にも長けていたのだろうか。

・27才での死去は哀れである。出産がいかにデンジャラスだったか。
 重病に陥った小式部が母和泉式部に詠みかけた歌
  いかにせんいくべきかたも思ほえず親に先立つ道を知らねば
  →この時は持ち直したというが。親に先立つ不孝、切ない歌である。

②歌人としての小式部内侍
・幼い頃から美人で歌の才能ありと名高かった。
 →何と言ってもあの和泉式部の娘、当然世間は持て囃したのでしょう。

・後拾遺集以下勅撰集に4首
 千人万首より、

 二条前大臣、日頃患ひて、おこたりて後、「など問はざりつるぞ」と言ひ侍りければよめる
  死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしかいきてとふべき身にしあらねば
(後拾遺集)
  →何で見舞にきてくれなかったのかとの教通の問いかけへの返歌 当意即妙の歌

・私家集もないようだし折角の男性たちとの恋の贈答歌もあまり残っていないようだ。和泉式部とは違った感性でもあったようで面白い歌もあったと思うのだが残念である。

③60番歌 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立
・58番歌「有馬山・猪名」に対抗してのご当地ソング「大江山・生野・天の橋立」
 →大江山は京都市西北の大枝山(481M)が多数説のようだが酒呑童子伝説の丹後の大江山(800Mクラス)の方が面白いのでは。

・地名を散らし、「生野・行くの」、「文・踏み」、掛詞と縁語を巧みに取り入れた技巧的な歌。
 →中学高校の教科書に必ず出てくる有名な歌。百人一首中でも覚えている歌ランキングでは上位であろう。

・金葉集に長い詞書 このエピソードも有名
 64定頼が「お母さんからの代作は届きましたか」と問いかけたのに対する返歌。
 小式部の才能がほとばしる当意即妙な歌だとされる。

 このエピソード、色々勘ぐってみると面白い。真実に迫ってみましょう。
 *小式部の歌は母が代作しているとの噂があった。
  →和泉式部は自分の純な感情は詠めても人の代作は不得意だったのでは。
  →噂に基き小式部はこの歌を予め考えていたのではないか。

 *返歌もできずこそこそ逃げ出したとされる定頼
  →三舟の才55公任の息子としたことが恥ずかしいのでは。
   この時公任はまだ元気に活躍中、息子に説教の一つも垂れたのであろうか。
  「何だったらオレが代作してやってもよかったぜ、、、」とか。

 *詞書にある歌合せ、公任主催のものだったとの解説もあったが、一方では確たる記録が見当たらないとの記述も。
  →どうなんでしょう、定頼と小式部が組んだヤラセだったとしたら出来過ぎでしょうね。

・エピソードが先行し肝腎の歌の鑑賞が妨げられるきらいがあるが、この歌、機智に富んでいて私は大好きです。
 →「あなたが定頼だったらどんな歌を返しますか、、、」なんてのも面白いかも。
 →爺はカラオケは得意ですが和歌はできませんので悪しからず。

・定家の派生歌 
  ふみもみぬいく野のよそにかへる雁かすむ浪間のまつとつたへよ(藤原定家)

④源氏物語との関連
さっぱり思いつきません。以下苦し紛れです。
・小式部は3人目の子を産んで27才で亡くなる。
 →葵の上は初産、夕霧を産んで26才で亡くなる。

・内侍司の長官は尚侍(ないしのかみ)
 →源氏物語では朧月夜と玉鬘が尚侍になっている。
 内侍司の次官は典侍(ないしのすけ)
 →あの老熟女源典侍が有名

・「大江山」のように冒頭に〇〇山と歌枕を詠みこんだのは源氏物語では以下3首
 浅香山あさくも人を思はぬになど山の井のかけはなるらむ(源氏@若紫)
 鳥辺山もえし煙もまがふやと海人の塩やく浦見にぞ行く(源氏@須磨)
 妹背山ふかき道をばたづねずてをだえの橋にふみまどひける(柏木@藤袴)

失礼しました。お後がよろしいようで。。。

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59番 代作オバサン 赤染衛門 やすらはで寝なましものを

ちょっと入れ込み過ぎだった紫式部母娘から離れて大分先輩格にあたる赤染衛門の登場です。しっかり道長の摂関政治をみつめて生きた女性のように思います。

59.やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな

訳詩:    こんなことと知っていましたら
       ためらわず寝てしまえばよかったのに
       夜がふけて 人の気も知らぬげな月が
       西山にかたぶくまで眺め明かしたことでした
       あなたをじっとお待ちしながら

作者:赤染衛門 生没年未詳 1041年80余才で生存 父は?(二説あり) 中宮彰子の女房
出典:後拾遺集 恋二680
詞書:「中関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり、たのめて来ざりけるつとめて、女にかはりてよめる」

①赤染衛門 生没は956-1041 86才と考えましょうか。女性の長寿は少ないとどこかで書きましたがこの人も長寿でしたね。
・父は赤染時用(受領階級)か40平兼盛か? 母は出自不詳
 (赤染氏は中国からの渡来系氏族、あまり聞かない)
 この母は兼盛の妻であったが妊娠したまま兼盛と離婚し赤染時用と結婚した。
 生まれた娘は時用の娘とされたが兼盛が自分の子だと裁判を起したが敗訴。
 
 →正に民法改正で話題になっている女性の再婚禁止期間に関わるお話。
 →裁判で時用は「私はずっと前から兼盛妻と不倫してました。私の子どもに違いありません」と主張してこれが通ったとのこと。何ともけったいな話。
 →兼盛は「何を言うかオレの妻だ、オレも子づくりに励んでた」と言い返せなかったのか。
  
「忍ぶれど、、」なんてつぶやいているから寝取られてしまう。情けないぞ兼盛。
 →この話からは赤染衛門の父は「分からない」。母に聞いても「分からない」と言うのかも。

・赤染衛門、大江家の学者大江匡衡(まさひら)の妻となる。
 大江匡衡、文章博士、一条朝を学問方面で支えた、和泉式部の父大江雅致との関係は不詳
 
・赤染衛門、源倫子(道長の正室)の女房→娘彰子の女房
 衛門は倫子の12才上、道長の10才上、彰子の32才上
 →年上のしっかり女房として道長一家を支えた良妻賢母型才媛であったのだろう。
 →何となく花散里を思わせる。

・紫式部日記  
 丹波の守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやんごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。
 →和泉式部について一言言った後に続く。やはり先輩をたてて敬意を表している。
 →この後に清少納言へのコテンパン評伝が続く。

匡衡衛門とぞ言ひはべる
 女房名は夫の名前で呼ばれていた。これは珍しい。オシドリ夫婦だったとも。
 →「ウチのマサヒラったらねぇ、、、」なんてのろけてたんだろうか。

②歌人としての赤染衛門
・拾遺集以下93首入撰 和泉式部と並び称される歌人であった。
 私家集「赤染衛門集」 歌合せ出詠 歌人たちとの交流も多数。

・56番歌の所で指摘があった和泉式部(夫の親族)との歌の交流
  和泉式部、道貞に忘られて後、ほどなく敦道親王にかよふと聞きて、つかはしける
  うつろはでしばし信太しのだの森を見よかへりもぞする葛のうら風
(新古今集)

・59番歌がそうだが代作を快く引き受けた。「代作オバサン」として敬愛されたか。
  右大将道綱久しく音せで、「など恨みぬぞ」と言ひ侍りければ、むすめに代りて
  恨むとも今は見えじと思ふこそせめて辛さのあまりなりけれ
(後拾遺集)
  →これも娘の代作。相手はあの53蜻蛉の君の御曹司道綱である。

・息子の大江挙周が重病の際、住吉大社に治癒祈願で奉納した歌
  代わらむと祈る命は惜しからでさても別れんことぞ悲しき
  →子を思う母親の情!

・最晩年1041 曾孫73大江匡房(「高砂の」)誕生! 
  匡房朝臣うまれて侍りけるに、産衣縫はせてつかはすとてよめる
  雲のうへにのぼらむまでも見てしがな鶴の毛ごろも年ふとならば
(後拾遺集)
  →自分で縫った産着、ひいお祖母ちゃんよほど嬉しかったのだろう。

・紫式部、清少納言、和泉式部はさておき他に交遊があったとされる人 列挙のみ。
 61伊勢大輔、65相模、64定頼、62道雅ら

③59番歌 やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな
・姉妹に代っての代作 相手は中関白道隆(儀同三司母=貴子の夫)
 正に貴子が伊周、定子を生んでた時期。道隆は衛門姉妹の所に通っていた。
 →妻が妊娠出産時に不倫してドツカレタ議員さんいましたね。

・「たのめて来ざりける
 女は一晩中、月を眺めて一人じっと待っていた。
 →これはマズイ。約束は守らなくっちゃ。

・来ざるを嘆く歌だが53番歌「嘆きつつ」の激しさとは違い、穏やかで情感を込めて女のいじらしさを訴えた歌、、、とされる。
 →そんな調子だから男はつけあがる。末摘花じゃあるまいし、もちょっと怒った方がいいのでは。

・21番歌の類想歌との指摘も
 今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(素性法師)
 →この歌も素性が女性になり代わって詠んだ歌だった。身代わり歌だとこんな調子になるのだろうか。

・定家の派生歌
 やすらはで寝なまし月に我なれて心づからの露の明ぼの(藤原定家)

④源氏物語との関連
・約束して来ない男、じっと待つ女。
 それと三日の夜は約束と言うより必ず行かねばならなかった。
 →あまりないように思うが手紙事件で小野の落葉宮の所へ行けなかった夕霧、三日間とにかく無理に宇治の中の君の所に通った匂宮、、くらいでしょうか。

・赤染衛門作と言われる「栄花物語」について考察しておきましょう。
 栄花物語 別名世継 平安時代の歴史物語 編年体物語風史書 当時の現代文たる仮名書
  全巻40巻 凡そ890-1090 200年間をカバー
  正編30巻 宇多帝治世~道長の死まで この部分が赤染衛門の作とされる。
        当然道長の繁栄を愛でる物語となっている。
  続編10巻 道長死後~堀河帝(白河帝の子)まで

 各巻に源氏物語に倣ってか和名がつけられている。
  月の宴 見果てぬ夢 はつ花 つぼみ花 御賀 殿上花見 根合 松の下枝 等々

 →栄花物語 上中下 岩波文庫版あるのですが細かく現代語訳も語釈もないので容易に読めません。
 →作者は赤染衛門かどうか確定はできないらしい。平安中期の女房であったことは確かとのことなので、長く倫子~道長~彰子に仕えた学者を夫とする才女である赤染衛門で間違いないでしょう。全くのフィクションである源氏物語を意識しながら歴史物語として栄花物語を書いたのでしょう。

「日本文学史」小西甚一の「栄花物語」評
 同じ時期に書かれた大鏡が史書であり批判意識は道長の摂関政治の功罪を描き出し文藝的効果を挙げえたとした上で、

 「これに対して、『栄花物語』は、貴族社会に身をおく人が、失われた栄光への郷愁として、摂関政治の昔を詠嘆する哀歌である。しかし、文藝精神の稀薄は、哀歌を哀歌たらしめず、退屈な史実の羅列に終わらせている」

 →それはそれで価値は高いと思うのですがいかがでしょう。

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58番 紫式部の娘 大弐三位 いでそよ人を忘れやはする

紫式部の一人娘大弐三位です。年代的には当然一世代若く小式部内侍と同年の999年(推定)生まれ。相模が一つ上の998年(推定)生まれです。母と娘を並べたのかもしれませんがこの順番はよく分かりませんね。

58.有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

訳詩:     私があなたに「否」などと申したでしょうか
        有馬山 猪名のささ原 風吹きわたれば
        ささ原はそよぎ それよそれよと頷きます
        なんであなたを忘れたりするものでしょうか

作者:大弐三位=藤原賢子 生没年未詳 紫式部の娘 父は藤原宣孝 中宮彰子女房の一人
出典:後拾遺集 恋二709
詞書:「離れ離れなる男の、おぼつかなくなど言ひたるに詠める」

(以下大弐三位では呼びにくいので「賢子」と呼ぶことにします)
①父藤原宣孝 母紫式部 生没年は999-1082推定 享年84才=すごい長寿
 →女性の長寿は珍しい(有名女性も死没年が不詳なので長寿もいるかもしれないが)
 父宣孝は3才ころ死亡、祖父為時邸で母紫式部に育てられる。
・1017 19才で母に次ぎ中宮彰子に出仕(重代女房)
 →彰子も紫式部の娘ということで可愛がったのであろう。

・出仕中、権門の貴公子たちと浮名をながす。
 藤原頼宗= 道長の次男
 64藤原定頼= 公任の息子 
 源朝任= 大納言源時中の息子(といってもよく知らないが)
 →賢子自身明るく開放的で魅力的な女性だったのだろうが、「あの紫式部の娘なんだぜ、、」ってことで寄ってくる男も多かったのであろう。

・最初の夫は道兼(道長の兄)の次男兼隆(権門だが道長には楯突けず随従)
 この時一女を儲け、タイミングが合って親仁親王(後の後冷泉帝)の乳母に抜擢される。親仁親王の父は御朱雀天皇(彰子の第二子敦良親王)
 →紫式部・賢子、二代に亘り彰子の子・孫に貢献している。因縁であろうか。
 →後に後冷泉帝即位の時、典侍に任ぜられ乳母の功績で従三位を贈られている。

 乳母の役割は極めて大きい。授乳は勿論、躾け・教育も。正に親代わりである。
 (乳母兄弟は身分を越えて固い絆で結ばれる。源氏物語では源氏と惟光、夕顔と右近が乳母兄弟姉妹であった)

・最初の夫兼隆とはいつしか離婚
 →何故だろう。お互い心が通じ合わなくなったのか。離婚は普通のことだったようだが。
 →源氏物語でも雲居雁の母が頭中と離婚して他の男と再婚したとあった。

・次の夫が高階成章(990-1058)賢子37才くらいの時
 →高階家の登場 成章の祖父敏忠と中宮定子の祖父(高階貴子の父)成忠が兄弟
 高階成章、典型的な受領階級だが処世術に富んでいたのか太宰大弐、正三位となる。
 →賢子が大宰府まで付いて行ったとは思われないが。
 成章は蓄財に長けてたようで「欲大弐」と呼ばれる。
 →特にあくどいことした様子もないが、、。まあやっかみの類なんだろう。

②歌人としての賢子
・勅撰集に37首 宮廷高級女房として歌合せにも多数出詠 私家集大弐三位集

・賢子の歌、58番歌以外全く知りませんでした。千人万首より3首ほど、
 待たぬ夜も待つ夜も聞きつほととぎす花橘のにほふあたりは(後拾遺集)
 →ほととぎす、花橘と来れば花散里 でも賢子には凡そ花散里的要素は見られない。
 つらからむ方こそあらめ君ならで誰にか見せむ白菊の花(後拾遺集)
 →かれがれなる男への誘いの歌。相手は定頼。58番歌の逆の立場の歌、面白い。
 梅の花なににほふらむ見る人の色をも香をも忘れぬる世に(新古今集)
 →彰子の出家を惜しんで。

③58番歌 有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
・かれがれなる男が心変わりを問うのに対し「そんなことありま(有馬)せん、否(猪名)です」と軽くいなした歌。

・笹原のサラサラ、「いでそよ」(あらまあ、なんで!)
 サラッとしてる。恋が命、、なんて悲愴さが感じられない。恋に対する余裕であろうか。

・有馬山と猪名はセット。文屋どののご近所。ご当地ソングですねぇ。
 有馬温泉、日本三大古湯だとか(他は道後温泉、紀伊白浜温泉)
 →有馬稲子、思春期の頃憧れてました。日経への暴露告白にはびっくりしましたが。

・有馬山を詠んだ万葉集の歌
 しなが鳥猪名野をくれば有馬山夕霧たちぬ宿はなくして(万葉集)
  息長鳥=かいつぶり

・定家の派生歌
 もろともにゐなの笹原みち絶えてただ吹く風の音に聞けとや(藤原定家)

・58番歌は後で出てくる60番歌(小式部内侍)と構造が全く同じとの指摘もあった。
 
  58番 有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
  60番 大江山生野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立
  →なるほどよく似ている。やはり二世歌人同士だからだろうか。

④源氏物語との関連、紫式部との関連
・上坂信男「百人一首・耽美の空間」では花宴における源氏と朧月夜とのめぐり逢いの場面に57番歌、58番歌を連動させているが今ひとつよく分からない。
 
 花宴2 源氏と朧月夜の契りの場面の歌の贈答、正体を知りたい源氏、ためらう朧月夜
 朧月夜 うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ

 源氏  いづれぞと露のやどりをわかむまに小篠が原に風もこそ吹け
     →笹原の風が出てくる。扇を取り替えて別れる二人

・源氏物語には二人の重要な幼い女の子が登場する。若紫(紫の上)と明石の姫君である。この描写が素晴らしいのは紫式部が賢子を生み育てた経験があったからだろうと言われている。

 二人の登場場面から、
 若紫4 紫の上が初めて読者の前に登場する。これぞ名場面!
  中に、十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

 薄雲6 大堰の別れ 明石の君は断腸の思いで姫君を二条院の紫の上に託す
  姫君は、何心もなく、御車に乗らむことを急ぎたまふ。片言の、声はいとうつくしうて、袖をとらへて、「乗りたまへ」と引くもいみじうおぼえて、
  (明石の君)末遠き二葉の松にひきわかれいつか木高きかげをみるべき
  えも言ひやらずいみじう泣けば、さりや、あな苦しと思して

  (源氏)「生ひそめし根もふかければ武隈の松に小松の千代をならべん
  のどかにを」と慰めたまふ。

・紫式部と賢子、母と娘、性格や行動力など好対照である。
  母は夫と死に別れ再婚せず源氏物語と宮仕えに終始する。
  娘は結婚、乳母仕え、離婚、再婚と前向きに長寿を全うする。

・宇治十帖は大弐三位の作であるとする説もあるようだが(与謝野晶子など)、
 →学問的なことは分からないが源氏物語・宇治十帖と読んだ感覚から言うとそれはあり得ないでしょう。宇治十帖は源氏物語と密接に繋がっており源氏物語を隅々まで知ってないと書けない。単に筋的に辻褄を合わせるだけでも大変だが源氏物語の心を引き継いでその続編を宇治に展開するのは同一人でないと無理でしょう。

 →それと宇治十帖はこれでもかというほどしつこく長い。とてつもないエネルギーと時間がかかったと思われる。ずっとキャリアウーマンで忙しかった賢子にはとてもそのような時間はなかったでしょう。

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57番 もののあはれの原点 紫式部 めぐり逢ひて

さて、ついに来ました紫式部! 私のリタイア生活に「光」をもたらしてくれた大恩人、ちょっと緊張してます。できるだけ淡々と書きたいのですがどうなることやら。是非コメント欄で突っこんでください。

57.めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな

訳詩:    幾年ぶりにめぐり逢って
       ああ あの面輪はあの方では・・・
       なつかしさに胸おどらせる私をおいて
       はやばやと雲の中に隠れてしまった
       夜半の月 童友だち

作者:紫式部 970-1014くらいか 父は藤原為時 中宮彰子の女房の一人
出典:新古今集 雑上1499
詞書:「早くより童友達に侍りける人の、年ごろ経て行きあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひてかへり侍りければ」

①父藤原為時 正五位下 越前守 
 母藤原為信女(為信の出自はよく分からないが従五位上越後守とあった)
 →何れにせよ典型的な受領階級の娘であったということ。
 →父為時は政界ではうだつがあがらなかったが歌人、漢学者としては著名だった。

 父の祖先を遡れば、
 父(為時)の父(雅正)の父が27藤原兼輔
 父(為時)の母(定方の娘)の父が25藤原定方
 →25番歌、27番歌の所でひとしきり論じた通りです。

・紫式部略年譜
 970ころ 出生 同母の姉&弟惟規(兄との説も)あり
      幼少より和漢の学に秀でる
 996   父為時越前守へ 式部も父に同道して越前武生へ(2~3年間)
 998   帰京、相当年上の藤原宣考と結婚、3年後宣考死亡(疫病)
 1006   中宮彰子に出仕
 1008  源氏物語 若紫流布 (55公任とのこと)
 1010  彰子に皇子誕生 → 紫式部日記
 1014ころ 没(諸説あり)

・幼少より漢文を読みこなし父に「この子が男だったら」と嘆かせた話は有名
 →いや、女性だからこそあの源氏物語が書けたのです。男には絶対書けません。

・29才でやっと結婚したが夫宣孝は3年も経たず死亡、娘賢子をかかえた寡婦となる。
 →以後再婚もせず源氏物語に女の一生を尽す。
 →恋の経験もさほどないのに頭の中であれだけの恋物語を展開した。すごい!!

・中宮彰子に出仕 女房というより彰子の家庭教師役だろうか。
 →サロンの文藝顧問みたいな役割もあったのだろう。「彰子サロンに紫あり!」

 紫式部日記より
  内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり

 →男でさえ学問は専門家に任せておけばいいとの考え方だった当時。女が学問するなんて正気の沙汰とは思われなかったのであろう。

②歌人、日記作者としての紫式部
・後拾遺集3首、千載集9首、新古今集14首 勅撰集約60首
 →藤原俊成が高く評価したことが覗える。源氏作者、源氏物語和歌を評価したのであろう。

・父為時は後拾遺集3首他勅撰集に4首 弟惟規は後拾遺集以下勅撰集に5首
 →これってすごい。ぼんくら呼ばわりされた惟規だって勅撰歌人ですぞ!
 (42番歌の所で惟規が元輔に「契りきな」の歌を代作してもらったなどと茶化しましたが、とんでもない暴論だったのかも)

・紫式部集 126首 詞書がけっこうあり紫式部の生き様が一見できる。
 57番歌が冒頭歌である。

・紫式部日記 
 中宮彰子に出仕していた1008年秋から1010年正月までの日々の記録+評論・随想
 二つの面を持つ。主家(道長&中宮彰子)の公の記録と私の(プライベートな)述懐
 前者は主家賛美の女房日記で、後者は憂苦の私的心情の吐露
 →清少納言のこき下ろしなど、紫式部の人物性格を考えるのに絶好の材料となっている。

・紫式部の和歌、少し並べてみました。
  み吉野は春のけしきにかすめどもむすぼほれたる雪の下草(後拾遺集)
  世の中を何なげかまし山桜花見るほどの心なりせば(後拾遺集)
  珍しき光さしそふさかづきはもちながらこそ千世もめぐらめ(後拾遺集)
  →敦成親王誕生の七夜、主家の盛儀を寿きて
  おほかたの秋のあはれを思ひやれ月に心はあくがれぬとも(千載集)

③57番歌 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな
・詞書があって昔の女友だちとの束の間の再会、すぐの別れを惜しんだ歌と分かる。
 紫式部集冒頭の歌。詞書も同じ。
 →娘時代、すごく仲よく過ごした大事な友だちがいたのだろう。物語をいっしょに読み合ったり、歌を交したり、文芸サークルの仲間だったのかも。こういう友だちがいて文芸センスが磨かれていったのかも。

・「逢ふ」「見る」「雲隠れ」
 詞書がなければすぐ帰ってしまった男への恨み節ともとれようが、紫式部はそんな哀れっぽい歌など詠まない(でしょうよ)。

 →「雲隠れ」と言うと源氏物語「雲隠」巻(巻名だけあって本文がなく光源氏の死を暗示した巻と言われる)を想起するがこの歌は直接は関係なさそう。

・所載の新古今集も紫式部集も下五は 「月かげ」となっている。
 「月かな」「月かげ」どちらがいいか。意見は分かれるが新古今集からとったのなら「月かげ」とするべきではなかろうか。勝手に変えるのはどうでしょうかね。
 →私はずっと「月かな」で親しんでるので今さら「月かげ」と言われると違和感ありですが。

・53道綱母、54儀同三司母、56和泉式部とコテコテの女性艶歌に続いて女友だちとの57番歌はやや影が薄い。
 →紫式部の歌人として評価はちょっと落ちるのだろうから仕方ないか。
 
・「むすめふさほせ」だし、紫式部と言うことでカルタでは人気札でしょう。

④源氏物語との関連
 紫式部、歌人としての評価は和泉式部などと比べると落ちるようですが、爺は何と言われようと源氏物語全795首を登場人物になりきり一人で詠いあげた紫式部を尊敬しているのであります。

 私が選んだ歌(インパクトを受けた歌5首+2)を「源氏物語 道しるべ」(2014.11.24)から再掲させていただきます。長くなってごめんなさい。

インパクトを受けた歌 5首
見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな(源氏@若紫)
 →若紫でいきなりこの禁断の契りの場面が出てきたのにはびっくりしました。私のテキストには「こんなことってあっていいのか、病人だぜ!」と書いてありました。

なげきわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがひのつま(物の怪@葵)
 →源氏の正妻でありながら源氏と心を通じ合えることなく六条御息所の生霊に憑りつかれ死んでしまう葵の上が哀れです。現実にもこんな夫婦関係あるのだろうなと思いました。

こほりとぢ石間の水はゆきなやみそらすむ月のかげぞながるる(紫の上@朝顔)
 →紫の上の哀しい歌。源氏が一番愛したのは紫の上だと思いますが一番甘えたのも紫の上でしょう。女君のことをベラベラ喋られても困りますよね。「こほりとぢ」に紫の上の絶望感を感じます。

起きてゆく空も知られぬあけぐれにいづくの露のかかる袖なり(柏木@若菜下)
 →第二部はやはり柏木と女三の宮の密通でしょう。源氏と藤壷の密通はあっさり書かれていますがこちらは詳細に書かれています。私の投稿でも「この26段はいつ読んでもすごい、汗が出てきます」となっています。密通をしたが上まで上り詰めた源氏、密通をしたがために死んでしまった柏木。でも柏木の密通で苦しめられた(倉本先生の罰か)のは結局源氏だった。。すごい構図だと思います。

おぼつかな誰に問はましいかにしてはじめもはても知らぬわが身ぞ(薫@匂兵部卿)
 →宇治十帖は結局この歌が原点なのだと思います。第二部であれだけ書きこんだ密通事件の落とし子を主人公にしない手はありませんものね。匂宮と浮舟だけではとても宇治十帖にはならなかったでしょう。

番外
草わかみひたちの浦のいかが崎いかであひ見んたごの浦波(近江の君@常夏)
 →私は人物談義で近江の君はゴメンだと書きましたがこの歌は大好きです。源氏物語に色合いを加える登場人物としてはこの人が一番でしょう。だって忘れられませんものね。

女郎花しをるる野辺をいづことてひと夜ばかりの宿をかりけむ(一条御息所@夕霧)
 →劇的な行き違いをもたらした歌。私はこの歌一首で夕霧物語が語れると思っています。

松風有情さんに57番歌絵をいただきました。
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