ゴールデンウイーク、いかがお過ごしだったでしょうか。1回お休みしました。さて、和泉式部と並ぶ女流歌人とされ、長く宮廷女房として歌合にも参じた相模です。今まであまり馴染がありませんでした。どんな人なのでしょう。
65.恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
訳詩: 世間はどうしてこんなにも口さがないのか
さもなくてさえ情ない人は恨めしく
わたしは侘しく 袖の乾くひまさえないのに
世間はどうして噂ばかり・・・・この浮名ゆえ
涙に浸って朽ちはてるのか 哀れ わたしは
作者:相模 生没年不詳 大弐三位・小式部内侍らと同世代の歌人
出典:後拾遺集 恋四815
詞書:「永承六年(1051年)内裏歌合に」
①生没年 wikiにならい998-1061以降と考えましょう。
大弐三位・小式部内侍(999生まれ)と同世代です。
→紫式部・和泉式部からすると子どもの世代になります。
・父源頼光(養父とも)=鎮守府将軍源満仲の子、大江山の鬼退治で武勇を馳せる。
武家の祖とも目されるが道長の家司的存在で道長に莫大な進物を贈ったことで有名。
歌人でもあり勅撰集に3首入撰している。
母は慶滋保章(詩文の家)の娘。この人も歌人だった。
→源頼光のイメージから武骨な家柄かと思ったがそうでもない。
・10代に橘則長(清少納言と橘則光の息子)と結婚、やがて離婚
20才ちょっとで大江公資の妻に。任国の相模に4年間同道
公資は現地で女を作り相模はそれを恨んで百首歌を箱根権現に奉納している。
結局うまくいかず5年ほどで離婚
→その頃から「恨みわび」の人生だったのだろうか。
【相模国について】
箱根を越えたすぐ。関八州の一つ、上国。国府は小田原とも平塚とも海老名とも。
歴代の相模守には28源宗于、48源重之(権守)、34藤原興風(掾)
→夫の任国ということで女房名は「相模」となった。ちょっと可哀そう。
地名だけの女房名としては他に19伊勢、72紀伊
・相模から帰り64藤原定頼と恋仲に。
公資に相具して侍りけるに、中納言定頼しのびておとづれけるを、ひまなきさまをや見けむ、絶え間がちにおとなひ侍りければよめる
逢ふことのなきよりかねてつらければさてあらましに濡るる袖かな(後拾遺640)
→もうこの頃から相模の袖は濡れていた。
→定頼を通わせたって大弐三位や小式部内侍に並ぶ勲章みたいなものでしょうか。
・その後脩子内親王(一条帝・定子中宮の第一皇女)に出仕、さらに後朱雀帝(父一条帝・母彰子中宮)の皇女祐子内親王に仕えた。
→このキャリアはすごい。清少納言・紫式部・和泉式部世代が去った後、宮廷で一人輝いていた女性歌人だったのだろうか。
→祐子内親王に仕えた女房としては72紀伊がいる。相模と紀伊は同僚だった。
(相模と紀伊の仕えた年代は重なってはいないようだが)
②歌人としての相模
・後拾遺集に40首、勅撰集計109首
御朱雀・後冷泉朝で数々の歌合に出詠、若手の歌人たち(和歌六人党)に歌の指導もしている。
・56和泉式部、69能因法師、71源経信などと交流
→歌人でもあった夫大江公資を通じての交流もあったようだ。
→何十年に亘り宮廷歌壇に重きを占めていたのだから当然だろう。
→紅白歌合戦に出続けていた島倉千代子みたいな存在だったのだろうか。
・千人万首から
正子内親王の、絵合し侍りける、かねの草子に書き付け侍りける
見わたせば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里(後拾遺175)
→絵合って紫式部の創作だと思っていたのですが。源氏物語に倣って行われるようになったのかも。
男の「待て」と言ひおこせて侍りける返り事によみ侍りける
頼むるを頼むべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせむ(後拾遺678)
→「頼む」「頼む」って相手はやはり「定頼」なんでしょうか。
③65番歌 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
・「永承六年(1051年)内裏歌合に」
→例の40番41番歌の天徳歌合に次ぐ華やかな歌合せと言われている。
永承六年(1051)5月5日京極院内裏で行われた菖蒲の根合に併せ歌合も行われた。主催は後冷泉帝、判者は藤原頼宗。中宮章子、皇后寛子も臨席
華やかな催しの様子を栄花物語(36根合)より
内には根合せさせ給ふ。左頭資綱の頭中将、右頭四条中納言の子の経家の弁、若く華やかに覚えある人々なり。左右廿人づつわきて、えもいはぬ州浜の垣根を尋ねつつ、まだ知らぬこひ地におりつつ、ひきいでたる、一丈三尺の根などもありけり。又だい、打敷、花足などの有様いふべきにもあらず、中宮・皇后宮などのぼらせ給へり。中宮の女房の装束は、ただいとうるはしく、殊更に菖蒲の衣を皆うちて、撫子の織物の上衣、萌葱の唐衣、楝の裳なり。皇后宮のは、菖蒲、楝、瞿麥、かきつばたなど、かねして花鳥をつくり、くちおき、いみじき事どもを盡させ給へり。折々につけてをかしき事のみ多かり。
永承六年五月五日殿上歌合
五番 左勝 恋 相模
恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
右 右近少将源経俊朝臣
下燃ゆる歎きをだにも知らせばやたく火の神のしるしばかりに
→華やかな根合・歌合の記述は源氏物語絵合の様子にそっくりである。
→女性は相模ただ一人。この時54才。堂々たる貫録の勝利だったのだろう。
(一丈三尺=約4メーターの根ってあるんですかねぇ~)
・「袖は朽ちずあるを」説と「袖だに朽ちてあるを」説
→難しく考えず「涙で袖の乾く間もない」ということでいいのでは。
・「恨みわび」=相手の不実を恨む、詰る。
「名こそ惜しかれ」=自分の名を惜しむ。
→これだけ考えると自分本位のイヤな女に聞こえるのだが。
・定家は八代抄の中で65番歌を高く評価している。
65番歌の前後に和泉式部の「濡るる袖」「朽ちる袖」が並ぶ
さまざまに思ふ心はあるものをおしひたすらに濡るる袖かな 和泉式部 後拾遺集
ねを泣けば袖は朽ちても失せぬめり猶憂きことぞつきせざりける 和泉式部 千載集
・「袖濡れる」 さめざめと泣くことの常套句 百人一首でも5首
42「契きな」65「恨みわび」72「音に聞く」90「見せばやな」92「わが袖は」
65番歌、やはり歌合の題詠であり恋の臨場感がない。「紅白歌合戦」というより「思い出のメロデー」の方にぴったりだと思うのですがいかがでしょう。
④源氏物語との関連
・栄花物語根合のくだり(この部分は赤染衛門筆ではなかろう)は源氏物語絵合の叙述を参考にしたのだろうか。5月5日の菖蒲の根合、騎射も源氏物語の中で語られている。
・「名こそ惜しけれ」
王朝貴族・貴夫人は人から笑われること世間体の悪いことを極度に嫌った。
源氏物語の中でも特に光源氏の第一の人、紫の上はことあるごとに人目を気にしていた。もっとふてぶてしく振る舞えばいいのに。この辺が紫の上の好ましいところであり弱いところでありましたねぇ。
・相模は大弐三位と同年代なので当然源氏物語は読んでいたでしょう。
父頼光が道長の家司的存在であることから彰子の後宮に勤めるのが自然かと思うのだが何故か定子中宮の忘れ形見脩子内親王に出仕している。
→まあそんなこともあるでしょう。窮屈に考えない方がいいのかも。