53番~62番に9人並ぶ女流歌人を野球のラインアップと考えると、要の3番バッターの登場です。ポジションは華麗に動き回るショートストップ。「小野小町と並んで、平安時代の女流歌人の双璧」(白洲正子)とされる和泉式部。球場の盛り上がりは最高潮に達してることでしょう。
56.あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
訳詩: 私は死ぬかもしれません こんどこそ
死んであの世に ただ魂魄となって生き
この世のことを思い出すばかり---
ああそのとき きっと思い出すために
いまひとたび あなたにお逢いしたいのです
作者:和泉式部 978ころ- 父は大江雅致 中宮彰子女房の一人
出典:後拾遺集 恋三763
詞書:「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける」
①和泉式部(和泉は最初の夫橘道貞の和泉守から、式部は父大江雅致の式部省勤務から)
・父大江雅致(まさむね)越前守 典型的な受領階級 官位も高くない
大江氏(古代豪族、土師氏から、学者家系)については23番歌大江千里を参照
→越前守と言えば紫式部の父為時も越前守だった。紫式部も同道している。面白い。
・母越中守平保衡の娘(朱雀帝の娘昌子内親王の近くに仕えた女房だった)
→和泉式部も幼少時母と宮中暮らしだったか。御許丸(おもとまる)と呼ばれた女童だったとも。
・和泉式部の生涯
978 @1 誕生
995 @18 橘道貞(和泉守)と結婚 和泉へ 997小式部内侍誕生
1001 @24 為尊親王25才(冷泉帝第三皇子=母は兼家の娘超子)と交際始まる
1002 @25 為尊親王死去
1003 @26 敦道親王23才(冷泉帝第四皇子=母は兼家の娘超子)
4月交渉始まる 12月敦道親王邸へ召人として入る この間が「和泉式部日記」
1007 @30 敦道親王27才死去 宮邸を去る(1006 敦道親王の子を生む=岩蔵宮→永覚)
1009 @32 中宮彰子に出仕
1016 @39 この頃藤原保昌と結婚(保昌 平安武者の原点 四天王の一人)
1020 @43 保昌丹後守に 同道して丹後へ
1025 @48 小式部内侍死去29才
1027 @50 詠歌の記録あり これ以降消息不明 没年未詳
橘道貞 - 弾正宮為尊親王 - 帥宮敦道親王 - 藤原保昌
→男性遍歴、二子の出産、娘の若死に、宮中出仕、地方暮らし。これぞ波乱万丈。
→感想・評定はコメント欄にお願いしましょう。
(一つだけ、為尊親王25才没、敦道親王27才没。死因は書かれてないが何でだろう。疫病にでもかかったとしか思えないのだが)
②歌人としての和泉式部
・中古三十六歌仙 拾遺集以下勅撰集に246首!! 後拾遺集は67首でトップ
・奔放華麗な生涯を映した情熱的、哀切な歌。強引破格な詠みぶり 独自の世界 天才歌人
→各解説書には過激な評語が並ぶ。何れも肯定的な賛辞である。
・既成の歌語やら形式にこだわらない天性のほとばしりを少し並べてみましょう。
有名歌
黒髪の乱れもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき(後拾遺集)
白露も夢もこの世もまぼろしもたとへていへば久しかりけり
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(拾遺集)
物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂たまかとぞみる(後拾遺集)
津の国のこやとも人を言ふべきにひまこそなけれ葦の八重葺き(後拾遺集)
和泉式部日記冒頭
式部 薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると(千載集)
帥宮 おなじ枝になきつつをりし郭公声はかはらぬものとしらずや
敦道親王を悼んで詠んだ歌122首(帥宮挽歌群)より
なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む里や魂なきの里
捨てはてむと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにし我が身と思へば
思ひきやありて忘れぬおのが身を君が形見になさむものとは
なけやなけ我がもろ声に呼子鳥よばばこたへて帰り来ばかり
娘小式部内侍を悼んで
留めおきて誰をあはれと思ひけん子はまさるらん子はまさりけり
この身こそ子のかはりには恋しけれ親恋しくは親を見てまし
(残された孫に呼びかけた歌、涙が出てくる)
もろともに苔の下には朽ちずして埋もれぬ名を見るぞ悲しき(金葉集)
(娘が亡くなった翌年彰子が贈ってくれた衣服へのお礼の歌)
道長に「うかれ女」と戯れかけられて
越えもせむ越さずもあらむ逢坂の関守ならむ人な咎めそ
→随分と歌を並べてしまいました。題詠やら歌合せやら形式的なものでなく何れも自分が感じたままに自分の言葉で歌を紡ぎ出している。正に生身をぶつけた歌。稀代の天才は間違いないでしょう。
・紫式部日記の和泉式部評
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されどけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざらめ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらんは、いでやさまでは心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるずぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
→理知の人紫式部は「口惜しいけど男のことと歌のことは勝てないわ」と呟いたのでは。
・「和泉式部日記」は自作か藤原俊成作か其の他作か?
和泉式部日記ざっと読んでみましたが正直怪しいですね。
「日本文学史」小西甚一は「藤原俊成の作であろうといわれる『和泉式部日記』は頽廃的な愛欲生活を描きながらも、文章にはそれに適わしい情熱が乏しく、ほとんど文藝精神の閃きが認められない」とバッサリ切り捨てている。
→ヤヤコシ問題です。有識者のコメントをお待ちしたいと思います。
③56番歌 あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
・私は死んでしまう、死後の思い出のためにもう一度逢いたい。。。
→歌の時期は? 相手は?
→男性依存症気味の作者の観念的妄想(実際に病気ではなかった)による歌かもしれない。
・こんな歌を詠みかけられたら相手の男は何をおいても駆けつけるのではなかろうか。
→「あら、来てくれたの、ありがとう」女はしてやったりとウインクして迎えたりして。
・独創的、独走気味の和泉式部の歌にしては比較的穏やかで理解しやすい歌との解説もあった。
→百人一首中でも人気ランキングは高いのでしょうね。
・下句(いまひとたびの)が大山札
26番歌 小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
④源氏物語との関連
・紫式部と和泉式部は同時期に彰子中宮のサロンに勤めている(紫式部の方が3-4年先輩)。
→「散華」では幼い頃からの馴染になっているがそこは作ったお話し。
・あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
重篤の床にいた柏木、女三の宮に何とか最後の想いを伝えたい。最後の力を振り絞って柏木が贈った歌は、
行く方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ
→でも柏木が一番贈りたかった歌こそ正にこの56番歌ではなかったろうか。
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな