年末年始書き込み帖

押し迫りました。みなさまそれぞれにお忙しい年末をお過しのことと思います。

今週は登載をお休みさせていただきます。遊びごととは申せ読んでいただくのにもコメントを考えていただくのにも時間がかかります。まあ正月くらい「談話室」は忘れてゆっくりしましょうということです。「談話室」の代わりにほんものの「小倉百人一首」でかるた取り。これぞ日本の由緒正しきお正月の過ごし方、、、、。ウチでも「どんじゃら」やら「人生ゲーム」やら恒例のゲーム大会をやりますので今年から「百人一首」も種目の一つに加えたいと思っています。爺の思いはさることながら小学生はともかく若い人たちがチンプンカンプンなので難しいかもしれませんが。。

3月から始めた「談話室」、本当にお世話になりました。厚くお礼申し上げます。当初どんなものになるか不安で一杯でしたが今やコメント欄は百花繚乱、誠に楽しく気持ちのいいサロンになっていると思っています。これも連日「談話室」を訪問いただき多彩なコメントでサロンを盛り立てていただいているみなさまのお陰であり、厚くお礼申し上げます。先に書きましたが本サイトへは外部検索からのアクセスも日々数を増しており昨日は200件を越えました。百人一首で何か調べようと思ったら「談話室」へ来て見れば何かヒントが得られる、そんな風に使っていただけるのは望外の喜びであります。

先日は爺の住む地区の自治会から百人一首の講座を依頼され2日に亘り2時間ずつ百人一首のお話しをさせてもらいました。身内を入れて20人ほどでしたがみなさん熱心に話を聴いてくれました。これも百人一首が馴染みのある魅力的なコンテンツだからこそだと思いました。本稿末尾に講座で使用したレジメを載せておきます。キイワードを羅列しただけの簡単なものですが百人一首を概観するのに参考にしていただけばと思います。

「談話室」の年初めは1月4日48番歌からとなります。休み中の諸々は本稿コメント欄に何なり書き込んでください。

それではみなさま、良いお年をお迎えください!!

【百々爺 百人一首講座レジメ (2015年12月)】
メリー クリスマス!! 百人一首をご一緒に

100人の歌人たちが詠んだ100の歌に600年の歴史と人間模様がよみがえります。今宵、ご一緒に百人一首で楽しみましょう。

○百人一首って? どんなイメージでしょう。
 かるた取り お正月の一家団らん
 競技かるた 近江神社 マンガちはやふる
 坊主めくり 坊主は100人中何人でしょう?
 →折角馴染みのある百人一首 思い出してみましょう。

○百人一首 一人一首 百人で百首
 成立 1235年 藤原定家 古今の和歌 小倉山荘 襖に歌の色紙を
 
 和歌って? やまとうた 五七五七七 民謡俗謡から 
 万葉集(漢字) 古今集(ひらがな)勅撰集 和歌の力
 専門家人→権門の武器に→武家も受け継ぐ 公家が家元
 明治 短歌 正岡子規 短歌革新運動
 歌会始め 天皇・皇后 皇族、一般公募も 1月14日 題「人」
 
○百人一首のカバーする時代 650-1250 600年間
 平安時代は400年 実に長い 江戸は260年 明治維新から150年
 
  大化の改新645~白村江663~壬申の乱672~大宝律令701~
  奈良時代710~平安京794~源氏物語・道長摂関政治全盛1000~
  保元の乱1156~平家滅亡~鎌倉幕府1192~承久の変1221 

 600年 日本の国が形作られた時代 万世一系の天皇制
 海外からの国防上も平和な時代だった。

○百人一首 100人 時代順 背番号 人物 人間模様
 男 79人 天皇7 親王1 官人58 僧侶13(8枚に1枚が坊主) 
 女 21人 天皇1 内親王1 母2 女房17 
 親子 18組 多い 夫婦はいない 兄弟は行平と業平

  →平安時代の天皇観 神ではない 神を祀る人 おおらか
  →1000年頃 平安京 10万人 貴族五位まで200人 狭い社会
  
○百人一首 歌の内容 
●四季32首 春6首 夏4首 秋16首 冬6首
 日本が世界に誇れるもの=四季があること 

春15 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ
    光孝天皇 若菜 新年の祝い 春の七草

 33 久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ
    紀友則 古今集 春駘蕩 古今集編纂途中で没
 
夏81 ほととぎす鳴きつる方を眺むれば ただ有明の月ぞ残れる
   藤原実定 ほととぎす、夏の象徴、有明の月21,30,31

 98 風そよぐ楢の小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける
    藤原家隆 定家のライバル 上賀茂神社 夏のみそぎ 

秋79 秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ
    藤原顕輔 歌壇の牽引者 詞花集撰者 月の影

 23 月見れば千々にものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど
    大江千里 秋=愁い 物悲しい 白氏文集を和歌に

 32 山がはに風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり
    春道列樹 京~近江山越え しがらみの一語が決め手

冬28 山里は冬ぞ寂しさまさりけり 人目も草もかれぬと思へば
    源宗于 光孝帝の孫 賜姓源氏 寂しい山里 枯れる・離れる

 31 朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪
    坂上是則 朝ぼらけ(暁・東雲・曙)吉野 壬申の乱    
  
●恋43首(女14首)
 王朝時代の恋 
 結婚の形態 通い婚 婿取り婚 嫁入り婚
 性に関しておおらか、オープン でもルーズではない 
 一夫多妻制? 必ずしもそうではない 
 儒教、朱子学で女性に貞節を求める武士の世の中とは異なる

 恋の歌 男女とも相手の心変わりを嘆き恨むような歌が多い
 19 難波潟短き葦のふしのまも あはでこの世をすぐしてよとや
    伊勢 恋多き女流歌人 情熱の歌 宇多帝&その親王
  
 43 逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり
    藤原敦忠 時平の子 早死38才 「逢う、見る」 事前・事後 

 天徳歌合 960年 村上帝 空前の大イベント 20番勝負
 40 忍ぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで
    平兼盛 平家武士ではない歌人 未だ逢わざる恋 

 41 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか
    壬生忠見 大勝負 天気左にあり、、忠見失望死

●その他25首
 親の歌、子の歌、孫の歌はない。友だちも少ない。
 別れ16 旅7,11,24,93
 後は雑 8,10,12,26,34,55,57,60,62,66,67,68,75,76,83,84,95,99,100

代表歌・有名歌
1日目 11首

1 秋の田のかりほの庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ
  天智帝 豊作を祈る聖帝 あらみ48、77 平安では特別な天皇
  大化の改新 戸籍、統一租税制度、律令、
  唐・新羅の侵攻に備え軍事制度 近江京 国史編纂 漏刻

2 春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山
  持統帝 藤原京 初夏 大和三山 ほすてふ41 「天上の虹」
  日本史上最強の女帝 天智の子 天武の妻 壬申の乱~ 
  日本の国作りを完成させた 

4 田子の浦にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ
  山辺赤人 柿本人麻呂と並ぶ歌聖 富士山讃歌 
 万葉集原歌 
 田子浦ゆうち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける
  万葉集=率直 雄大荘厳 古今集=優美 理屈っぽい 観念的 
 
7 天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも
  安倍仲麿 遣唐使605-894 20回 唐で高官に 李白・王維 
  春日大社 鑑真和上

9 花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に
  小野小町 平安初期 宮廷女房 絶世の美人 小町伝説
  眺め・長雨 経る・降る

12 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ
   僧正遍昭 桓武帝の孫 仏教界の重鎮 五節の舞姫 
   11月新嘗祭(五穀豊穣に感謝)

17 ちはやぶる神代も聞かず龍田川 からくれなゐに水くくるとは
   在原業平 平城帝の孫 伊勢物語 落語ちはやふる 龍田川

24 このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
   菅原道真 天神さま 漢学者 藤原時平讒訴 大宰府に左遷 没
   祟り 時平一族は早死に 復権 神さまに 北野天満宮 
   宇多帝の奈良~吉野行幸で 紅葉のきれいさを称賛

  東風(こち)吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ

35 人はいさ心も知らず古里は 花ぞ昔の香ににほひける
   紀貫之 和歌権威 古今集編纂 序 土佐日記 梅の花 
   初瀬 長谷寺 観音信仰

42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは
   清原元輔 清少納言の父 79才肥後守 83才没 
   契りきな 末の松山 あり得ないことの象徴 東北大震災

46 由良の門を渡る舟人梶を絶え 行方も知らぬ恋の道かな
   曾禰好忠 丹後 由良 偏屈孤立の人と言うが 革新歌人だった

2日目
○競技かるた
 かるた ポルトガル語 かるたの形式江戸初期か
 読んで取る、世界に類を見ない。
 覚えるのが教養、百人一首は嫁入り道具 全部暗記して
 大石天狗堂の「光琳かるた」 今でも30万円 

 近江神宮(S15 天智天皇) 名人位・クイーン位戦  
 畳の上の格闘技 気力・体力・知力 スポーツ

 100枚中50枚 25枚づつ 自陣・敵陣 3段に並べる 横87cm
 暗記15分 2分間素振り 送り札 自陣の札がなくなれば勝ち
 
 序歌 古今集序 王仁
 難波津に咲くやこの花ふゆごもり今を春べと咲くやこの花 

 決まり字
 一字きまり む87 す18 め57 ふ22 さ70 ほ81 せ77
 大山札 あさぼらけ30・54きみがため15・50わたのはら11・76
 あ で始まる歌 16首もある
 下の句が「ひと」で始まる歌 9首もある 素人にはややこしい

 マンガ「ちはやふる」少女が主人公 青春漫画 映画化も
 高校にも「百人一首倶楽部」競技かるたと文学探究両立を

○百人一首 花鳥風月 気象天文
●草・木・花
・桜6首(9花の色は・33久方の・61いにしへの・66もろともに・73高砂の・96花さそふ)
66 もろともにあはれと思へ山ざくら 花よりほかに知る人もなし
   大僧正行尊 三条帝曾孫 天台座主 私も花よお前も

・紅葉5首(5奥山に・24このたびは・26小倉山・32山がはに・69嵐吹く)
 5 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ秋は悲しき
   猿丸太夫 伝説の人 有名な歌 83俊成が本歌取り 世の中よ

・松4首(16立別れ・34誰をかも・42契りきな・97来ぬ人を)
34 誰をかも知る人にせむ 高砂の松も昔の友ならなくに
   藤原興風 官位低い藤原氏 古今集時代の代表歌人
   兵庫県高砂 白砂青松

・葦3首(19難波潟・71夕されば・88難波江の)
・稲1,71、さしも草(蓬)51,75、しのぶ草(羊歯類)14,100 各2首
・若菜15、さねかずら25、菊29、梅35、八重葎47、浅茅39、笹58、
 真木87、藻97 各1首

菊29 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花
    凡河内躬恒 古今集 正岡子規こきおろし 観念的真実味がない

八重葎47 八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
     恵慶法師 河原院 葎・蓬・浅茅 荒れた土地を表す

 →意外と梅が少ない 35番「人はいさ」のみ

●百人一首に出てくる動物
・鹿2首(奥山に5・世の中よ83)
・やまどり3、かささぎ6、にわとり62、千鳥78、ほととぎす81、
 きりぎりす91 各1首

・6 かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける
   大伴家持 万葉集編纂者 かささぎ 韓国の国鳥 七夕伝説

●風 風の歌は実に多い。百人一首に10首
 (12.22.32.37.48.58.71.79.94.98)
 「嵐」の歌は百人一首に3首(22.69.96)
 「颪」の歌は百人一首に1首(74)
  合計すると13首(22番がダブルので)が風関連の歌。

・風 22 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ
     文屋康秀 専門歌人 六歌仙 言葉遊び的な歌

  「雨」9,87、「雪」4,15,31,96、「霧」64,87、「露」1,37,75,87
  「霜」6,29,91、「霞」73

●月 百人一首に12首 7.21.23.30.31.36.57.59.68.79.81.86
・月 68 心にもあらで憂き世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな
     三条院 道長との確執 目の病気 月を詠んだ道長の歌は
     この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

○詠まれた場所 土地 ―― 歌枕
●大和(奈良)12
 天の香具山(2春過ぎて)・三笠山(7天の原)・竜田川(17ちはやふる) 手向山(24このたびは)・吉野(31朝ぼらけあ)・初瀬(35人はいさ)奈良(61いにしへの)・大峰山(66もろともに)・三室山竜田川(69嵐ふく)初瀬(74うかりける)・興福寺(75契りおきし)・吉野(94みよし野の)

・三室山竜田川 
69 嵐ふく三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり
   能因法師 諸国を行脚して歌を詠んだ 奥の細道 白河関 象潟 

●京都近辺 10
 宇治(8わが庵は)・逢坂(10これやこの)・逢坂(25名にしおはば)
 泉川(27みかの原)・志賀の山越(32山がはに)・由良(46由良の戸を)
大江山(60大江山)・逢坂(62夜をこめて)・宇治(64朝ぼらけう)
 比叡山(95おおけなく)

・逢坂の関 
10 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬ逢坂の関
   蝉丸 伝不詳 盲目の人 調子のいい歌 逢坂(京~滋賀の境) 

●近畿 10
 住の江(18住の江の)・難波(19難波潟)・難波(20侘びぬれば)
高砂(34誰をかも)・伊吹山(51かくとだに)・有馬山(58有馬山)
 高師浜(72音に聞く)・淡路島(78淡路島)・難波(88難波江の)
 松帆の浦(97来ぬ人を)

・難波 
20 詫びぬれば今はた同じ難波なる 身をつくしても逢はむとぞ思ふ
   元良親王 陽成帝の第一皇子 一夜めぐりの君 澪標 大阪市章

●その他(北から)10
 雄島(90見せばやな)・末の松山(42契りきな)・沖の石(92わが袖は・信夫郡(14陸奥の)
佐渡(100百敷や)・筑波山(13筑波嶺の)・鎌倉(93世の中は)
 富士山(4田子の浦に)・稲葉山(16立別れ)・隠岐(11わたの原や、99ひともをし)

・信夫郡 
14 陸奥のしのぶもぢずり誰故に 乱れそめにし我ならなくに
   源融 河原院豪邸 福島県信夫山 伊勢物語初段
   奥の細道 早苗とる手元や昔しのぶ擦り

・筑波山
13 筑波嶺の峯より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる
   陽成帝 若くして廃位 筑波山 東国歌枕 常陸国 恋歌

・観点は違うが7番歌(天の原)は外国(唐)で詠まれたもの

代表歌 有名歌
2日目 14首

53 嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る
   道綱の母 藤原兼家の妻 蜻蛉日記 文学価値高い 夫を待つ妻

54 忘れじの行末まではかたければ 今日を限りの命ともがな
   儀同三司(藤原伊周)中宮定子の母 宮廷女官長 夫道隆への歌

55 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ
   藤原公任 博学 和漢朗詠集 三十六歌仙 大覚寺 おんなひとり 
    ~~塩沢がすりに 名古屋帯 耳を澄ませば 滝の音

56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな
   和泉式部 恋多き女房(彰子)為尊親王→敦道親王 和泉式部日記
     
57 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな
   紫式部 昔の女友だち 源氏物語 一条帝-彰子 道長 雲隠

58 有馬山猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする
   大弐三位 紫式部の娘 有馬山 有馬稲子 後冷泉帝の乳母                  

59 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな
   赤染衛門 倫子→彰子の女房 栄花物語 40平兼盛の娘  

60 大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
   小式部内侍 生野・行く 踏み・文 藤原定頼 機智の応酬 

61 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな
   伊勢大輔 奈良八重・京九重 一条帝前で 紫式部に代って 

62 夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
   清少納言 枕草子 中宮定子 藤原行成との応酬 函谷関の故事  
 
77 瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ 
   崇徳院 出自 母待賢門院璋子 保元の乱 讃岐配流 落語

86 嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな
   西行 鳥羽院北面武士 璋子 23才で出家 放浪歌人 奥の細道       
   願わくば花の下にて春死なむ この如月の望月のころ

93 世の中は常にもがもな渚漕ぐ あまの小舟の綱手かなしも
   鎌倉右大臣=源実朝 28才で暗殺さる 万葉風 子規絶賛
   箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ
   大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけて裂けて散るかも

97 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ
   藤原定家 松帆の浦 新古今集 和歌家元(二条・京極・冷泉) 
   後鳥羽院 式子内親王 源氏物語

99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は
   後鳥羽院 和歌に傾倒 承久の変 隠岐配流 19年で崩御
   承久の変=天皇・貴族制→武士社会へ 600年の節目 
   我こそは新島守よ隠岐の海の 荒き波風心して吹け

○お勧めの百人一首本
 「田辺聖子の小倉百人一首」田辺聖子・角川文庫 ――平易 楽しい
 「百人一首の作者たち」目崎徳衛・角川ソフィア文庫 ――100人の人物像
 「百人一首 今昔散歩」原島広至・中経の文庫 ――絵、図が豊富 雑学事典的

○百々爺のブログ
 「百人一首 談話室」 現在進行形 47番歌掲載中
 「源氏物語 道しるべ」 終了 源氏物語講読のご参考に

お役にたちましたでしょうか。ありがとうございました。

カテゴリー: 番外 | 10件のコメント

47番 恵慶 八重葎の河原院に往時を偲ぶ 

38番~46番、恋歌が続きました。一転して法師による秋の歌。源融の築いた豪壮な河原院の寂れた様を詠っています。歌の主題は何なのでしょう。

47.八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり

訳詩:    むぐら生い茂る屋敷のさびしさ
       訪れてくる人もない
       けれどごらん そんなに見捨てられた庭だから
       忘れずに訪れてくる秋の姿は
       かえってこんなに眼にしみる

作者:恵慶法師 生没年未詳 10世紀後半の人 出自未詳 播磨国の講師だった
出典:拾遺集 秋140
詞書:「河原院にて、荒れたる宿に秋来たるといふ心を、人々よみ侍りけるに」

①恵慶法師 
・生没年未詳→親交のあった42清原元輔(908-990)と同じ時くらいに生きた人と考えておきましょうか。村上~冷泉~花山朝における中堅歌人。三十六歌仙に入っている。
 →拾遺集18首 勅撰集計55首。中堅よりもうちょっと上位であろうか。

・出自未詳、、、親も先祖も奥さんも子どもも出家の経緯も何もかも分からない。
 →48源重之・42清原元輔・49大中臣能宣・40平兼盛・紀時文らと仲良しだったので王氏末流或いは賜姓源氏末流かとも言われている。まあそんなところか。藤原氏が入っていない。

 →花山院(986熊野御幸に供奉)や権門(源高明、藤原頼忠ら)に出入りしてた由でこの辺は素性法師に感じが似ている。

・播磨国 国分寺の講師僧を務めた(ことがある程度かも)。
 【注】:国分寺・国分尼寺:741年聖武天皇が国家鎮護のため各国の国府に建立した寺院
     僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を配置 総国分寺は東大寺、総国分尼寺法華寺

  →播磨国の国分寺20人の僧のリーダー格だった。けっこう偉かったのだろうか。でもあまり線香臭い感じはしない。

②47番歌の舞台 河原院について
・14番歌の項参照 風流貴公子源融が六条に造営した贅を尽くした邸宅。
 (風流人のサロン。奥州塩釜の風景を模した庭園、池には難波から毎日二十石の海水を運ばせ海の魚介を飼育、塩焼きを行った)

・河原院の推移
 850(推定)河原院最盛期 源融、風流人を集め悦に入る。
 895    源融没 河原院は融の次男源昇が相続
 910(推定)源昇、宇多上皇に献上(仙洞御所に)
       宇多院、寵姫京極御息所との愛の巣として活用
       源融の幽霊が出たが宇多院が一喝、幽霊は引き下がる(今昔物語)
       (他にも怪異・猥雑な説話が残っている)
       →この頃はまだそこそこの状態を保っていたのか。

 その後   宇多院は源融の三男仁康に返却
       →持て余したのだろう。それとも幽霊で気持ち悪くなったのか。
 
 920(推定) 仁康は河原院を寺にする。この頃からすたれ始まる。
       →贅を凝らし過ぎてるだけにちょっと手を抜くと荒れ方も凄まじいのだろう。

 950(推定) 寂れた寺、源融の曾孫安法法師が住んでいる。
       ここに昔を偲ぶ歌人らが集い河原院サロン(河原院歌人)となっている。
       (重之・元輔・能宣・時文ら、取分け恵慶は安法と親友だった)
       →そうして詠まれたのが47番歌ということ。

・一世を風靡した豪邸が寂れていく様は歌人の詠み心を刺激したのであろうか、幾多もの歌が詠まれている。

 紀貫之 融が亡くなって間もなくの歌だろうか    
  君まさで煙絶えにし塩竃のうらさびしくも見えわたるかな 古今集852
  問ふ人もなき宿なれど来る秋(春)は八重葎にもさはらざりけり 古今六帖

 曽禰好忠 好忠集より
  八重葎茂れる宿に吹く風を昔の人の来るかとぞ思ふ 
   
 恵慶法師 47番以外にも多数詠んでいる。恵慶集より
  すだきけむ昔の人もなき宿にただ影するは秋の夜の月
  草茂み庭こそ荒れて年経ぬれ忘れぬ物は秋の夜の月
  跡絶えて荒れたる宿の月見れば秋となりになりぞしにける

 藤原定家
  月かげを葎の門にさしそへて秋こそきたれとふ人はなし 拾遺愚草

③47番歌 八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
・八重葎=カネムグラ つる性の雑草、荒れたる屋敷の象徴
 光琳かるたの絵はまさにカネムグラである。

 →39番歌の項参照 以下はコメント返信欄より抜粋
  【「葎」 カナムグラ(八重葎) これは盛夏でしょう(夏の季語です)。夏になるとつる性植物が木を伝い垣根を伝い屋根にまで生え上る。カナムグラ、ヤブカラシ、カラスウリ。それと秋にかけては葛(クズ)がすごい。伝わる物がなくてもつるを伸ばし風に揺られる様は恐ろしくさえなります】

 →当地(流山)の様子だが、今12月初旬でまだカネムグラは青々として衰えていない。一方あれだけ猛々しかった葛はすっかり枯れ果てている。

・「人こそ見えね」 一般の人か、住人か、源融か?
 →全てを包含しているか。でも源融の面影は当然あってのことだろう。

・「人こそ見えね秋来にけり」
 →解説本にもあるが18藤原敏行の古今集秋の冒頭の名歌に通じるのであろう。
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

・本歌は年月の推移(河原院の荒廃・王氏源氏の衰退・藤原の興隆)季節の推移(廻り来る秋)を同時に詠んだものであろうか。
 →盛者必衰、栄枯盛衰世の習い。

④源氏物語との関連
・八重葎・葎は荒廃した(主人を亡くした)宿の象徴として描かれている。
 1.源氏物語桐壷8 野分の段(桐壷帝の名代で命婦が故桐壷更衣の里を訪れるシーン)
  草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎にもさはらずさし入りたる。
  →「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」(桐壷更衣)
   源氏を残して逝かざるを得なかった更衣の絶唱であります。

 2.源氏物語帚木4 雨夜の品定め
  恋の道の先輩左馬頭が源氏に中の品の女の素晴らしさを説く場面
  さて、世にありと人に知られず、さびしきあばれたらむ葎の門に、思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ限りなくめづらしくはおぼえめ。
  →そして葎の門で巡り合ったのがかの末摘花でありました。

・荒れ果てた河原院をモデルにして紫式部は夕顔の巻を書いた。
 源氏物語夕顔11 源氏が中秋の名月の夜、夕顔を連れ込んだ「なにがしの院」
  
  日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見わたされて、木立いと疎ましくもの古りたり。け近き草木などはことに見どころなく、みな秋の野にて、池も水草に埋もれたれば、いとけ疎げになりにける所かな

  →紫式部は光源氏の人物形成に源融をかなり意識していたのであろう。

【年末、1週お休みします】
 年末28日は休載とします。それぞれにお忙しく百人一首どころではないかと思いまして、、。爺宅も年末は10人家族になる予定で26日以降は民宿のあるじ業に専念するよう仰せつかっております。年始は1月4日に48番歌を登載します。どうぞご理解方お願いいたします。
 →28日にご挨拶がてら「年末年始書き込み帖」を載せますので休みの間の思いの丈はそちらにコメントください。 

カテゴリー: 41~50番 | 18件のコメント

46番 平安中期の革新歌人曽禰好忠、行方も知らぬ恋の道

王朝の恋シリーズから離れ「曽丹」と軽んじられる曽禰好忠の登場です。どうも一筋縄ではいかない人のようです。偏屈孤立の人と片付けずじっくり考えてみましょう。

46.由良の門を渡る舟人梶を絶え行方も知らぬ恋の道かな

訳詩:    由良の門をゆらゆら渡る舟人は
       櫓をなくして波に漂う
       ああ その行方も知らぬさまよいに似て
       行方も知らぬ私の恋は
       由良の門の波に漂う 道もなく

作者:曽禰好忠 生没年未詳 10世紀後半の人 出自未詳 丹後掾であった
出典:新古今集 恋一1071
詞書:「題知らず」

①曽禰好忠 曽禰氏は物部氏から派生する一族。もはやマイナー氏族だったろう。
・生没年未詳では困ります。見当だけでもつけてみましょう。
(ネットの千人万首によると)
  生年923か? 諸歌合せに名前があり1003道長の歌合にも出ている。
  →これだと80才でまだ存命。何れにせよ円融~花山~一条朝で名を残した歌人だった。

・官位は六位、長く丹後掾を務めた。曽丹後、曽丹と呼ばれる。
 →悪意が感じられる。いじめであろうか。
 →でも官位六位(正か従か不明)は六位、無位ではない。
  33紀友則、34藤原興風、37文屋朝康、40壬生忠見 彼らが六位 まあまあであろう。

・丹後掾を長く務めたというのが不審。普通はローテーションで転勤を繰り返すのだろうに。

・その他官職も私生活(女性関係、家族のことなど)も一切書かれていない。家集の歌の贈答なんかにヒントがあるのかもしれぬが。。。

・一つ有名な逸話があるのみ(大鏡・今昔物語)
 985年正月 円融上皇が紫野に御幸。歌人に和歌を詠ませ鑑賞する催しがあった。
 この時召されてた歌人は平兼盛、清原元輔、大中臣能宣、源重之、紀時文の5人。
 曽禰好忠は呼ばれていないのに入り込み人々の顰蹙をかってつまみ出された。
 好忠は「歌人召集と聞いてやってきた。自分は居並ぶ歌人たちに劣るものではない!」と抗弁した、、、とのお話し。 
 
 →説話にはデフォルメがつきもの。いくら何でも呼ばれてないのに出かける馬鹿はいないでしょう。主催者側の手違い勘違いか、悪意をもって嵌められたのか。
 →他の歌人たちに劣るものではない! どう言ったのか知らないが少し下手に出て「私目もそれなりには詠めると思いますのでどうぞ一つ聞いてやってください、、」と懇願すればよかったのに。

②歌人としての曽禰好忠
・拾遺集に9首、詞花集(崇徳院勅、藤原顕輔撰)には最多の17首、勅撰集合計90首
 →これってすごい。単に嫌われ者の偏屈爺さんではなかったようだ。

・一首で表現しきれないテーマを百首の連作で詠む、これが百首歌。その手法を初めて編み出したのが曾禰好忠(960年、天徳歌合の年である!)。百首歌はその後複数歌人で詠まれたり、一人に百首歌を出させて勅撰集選定の資料とするようなことも行われた。
 →新しい事に挑戦するって素晴らしい。ファーストペンギンって今朝の連ドラに出て来た。

・百首歌の後、360首を1年間に割り当てる新形式の毎月集を発明した。
 →歌集の形式も歌の内容(言葉、対象)も新しく。革命的だけに疎まれもしたということか。

・曽禰好忠の和歌史上における位置づけについて(「日本文学史」小西甚一より引用)

 和歌は、拾遺集時代すなわち十世紀の末から十一世紀の初めにかけて、ひとつの頂点に達したといえる。古今集時代に出来あがった智巧的表現は、洗練に洗練をかさね、これ以上どうしようもないというところまで磨きあげられて、行き詰まりの形となった。この行き詰りを打開するために、両様の試みがなされ、そのひとつは、きわめて平淡な表現のなかに智巧性を溶解してしまい、やすらかな自然さにおいて良さを求めようとするものであり、他のひとつは、これまでに無かった表現を自由に駆使して、新鮮な把握をめざすものである。前者は藤原公任によって代表され、後者は曽禰好忠がひとりで代表する(「日本文学史」小西甚一)

 →万葉集に傾倒し古語を用いたり、斬新な歌材を詠んだり、、、革新歌人であった。
 →それだけに保守的な歌壇からは偏狭者扱いをされる。万事につけよくあることである。
 →でも平安後期の新派歌人藤原顕輔らからは評価されるにいたる。よかったな、ソタン!

 【蛇足】
  「日本文学史」(小西甚一・講談社学術文庫)200頁余の小冊子ながら内容は素晴らしい。ドナルド・キーンさんがこの本と出会えて目が開かれたと絶賛している。中古本でご購入あれ。

・当時革新的とされた好忠の歌をピックアップしてみましょう。
  三島江につのぐみわたる蘆の根のひとよのほどに春めきにけり(後拾遺集)
  榊とる卯月になれば神山のならの葉がしはもとつ葉もなし(後拾遺集)
  わぎもこが汗にそぼつる寝たわ髪夏のひるまはうとしとや見る(好忠集)
  なけやなけ蓬が杣のきりぎりすすぎゆく秋はげにぞかなしき(後拾遺集)
  岩間には氷のくさびうちてけり玉ゐし水もいまはもりこず(後拾遺集)
  かやり火のさ夜ふけがたの下こがれ苦しやわが身人しれずのみ(新古今集)
  →確かに観念・抽象的な古今調とは違い万葉の匂いがするように思えるがいかがでしょう。

③46番歌 由良の門を渡る舟人梶を絶え行方も知らぬ恋の道かな
・「梶を絶え」 櫂をなくして
 「梶緒絶え」 櫓をつなぐ綱が切れて
  →何れにせよ舟人が舟をコントロールできなくなって、、、でよかろう。

・上句が下句(行方も知らぬ恋の道かな)を導く序詞
 →具体的で豪快な比喩、上品なお公家さまの歌ではない感じ。

・「由良の門」はどこか。万葉以来の歌枕紀淡海峡の由良か。曽丹後が長らく赴任してた丹後宮津近辺の由良か?
 →紀伊の由良と考えるのが多数説(大岡・田辺・白洲・島津・一夕話・定家も)のようだが、丹後も捨てがたいのでは(由良川は丹波~福知山~宮津市~若狭湾と流れる一級河川)。

④源氏物語との関連
 さて、困りましたね。何か関連したことないでしょうか、、。
 やはり舟に揺られてということになると浮舟でしょうか。

  橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ(浮舟@浮舟17)

  →匂宮に抱かれて川を渡る浮舟、、、「行方も知らぬ恋の道かな」、、、期待と不安が交差したことでしょう。

〇〇〇松風有情さんから46番歌絵を投稿いただきました〇〇〇
 http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/10/KIMG0234.jpg

〇〇併せて有情さんから「匂宮に抱かれて川を渡る浮舟」の絵を投稿いただきました〇〇
 http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/10/KIMG0237.jpg

 有情さん、ありがとうございました。コメントもよろしくお願いします。

【お知らせ】
ブログ管理人である在六少将どのに談話室で爺が挙げている推薦図書を「お勧め本一覧」として右側欄に載せてもらいました。また「日本文学史」も下記にて紹介させていただきます。日本文学・文藝の流れを整理分析するのに格好のガイドブックだと思います。

カテゴリー: 41~50番 | 25件のコメント

45番 藤原の主流となれなかった伊尹 あはれとも言ふべき人は、、

権門の人藤原伊尹。事と次第によっては藤原摂関家を牛耳れたかもしれないのに、結局は弟の兼家―道長ラインに流れが行ってしまう。どこに狂いがあったのでしょう。
(43敦忠(時平の子)44朝忠(定方の子)45伊尹(師輔の子)と藤原の貴公子たちが3人並ぶのも意図的なものだろうか)

45.あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな

訳詩:    ああかわいそうに と
       いとおしんでくれそうな人も思い当たらず
       つれない方に むなしくこがれつつ
       わが身のむなしく消えゆく日を
       ただ手をつかねて待つだけなのか

作者:謙徳公(藤原伊尹これただ)924-972 49才 師輔の長男 二位太政大臣
出典:拾遺集 恋五950
詞書:「もの言ひ侍りける女の、後につれなく侍りて、さらにあはず侍りければ」

①藤原伊尹 一条摂政太政大臣 謙徳公は諡
 父は藤原師輔(九条流の祖)父の父は26忠平 摂関家の本筋である。
 母は藤原南家筋の盛子=伊尹、兼通、兼家、安子(村上帝皇后)を生む
 →この母がすごい。安子は冷泉帝・円融帝の生母となる。
 →伊尹にとっては妹(安子)が皇后、甥が天皇(冷泉・円融)である。

 忠平の跡目争い(摂関家筆頭)は忠平の長男実頼に行きそうだったが実頼は外戚になり得ず結局は安子を通して外戚となった次男師輔の一族に移る。その筆頭が伊尹。

(父師輔については43敦忠の項参照。好色、内親王狂い。いい意味でのやり手だった)
(師輔のもう一面は倹約家、倫理家 子孫に家訓「九条殿遺誡」を残している)

 960 父師輔死亡 (天徳歌合の直前のこと)
 967 冷泉帝即位 (冷泉帝には精神的障害があった)
 969 円融帝即位  伊尹摂政に ここからが腕の見せ所だったが、、
 972 伊尹死亡@49才  何故死んだのか、、、、次項以降
 984 花山帝即位 (花山帝の生母は伊尹の娘懐子、ここまで伊尹が生きていたら!)
 986 一条帝即位  伊尹の弟たち(兼通→兼家→道長)の覇権争いへと移っていく

  一つ重要なのが「安和の変」969
  冷泉帝の後をどうするか、普通なら冷泉帝の次弟の為平親王となるところ、為平親王には源高明の娘が嫁いでいた。源高明に外戚になられては拙いということで強引に源高明を陥れ大宰府へと左遷した。この黒幕が伊尹だったとも言われている。この変が藤原氏による他氏排斥の最後。以降は藤原一族(兄弟間)内部の熾烈な内輪争いとなる。

  50藤原義孝は伊尹の三男だが974 21才で夭逝している。
  能書家で51藤原実方との諍い、62清少納言との応酬で有名な藤原行成は義孝の子だから伊尹の孫にあたる。

 →以上権門の人伊尹についてですがゴチャゴチャしてうまくまとめられませんでした。すみません。「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)がp188-196詳しく論じています。

②藤原伊尹の人物像
・歌人としては後撰集2首 勅撰集に38首 相当な歌人 風流人であった。
 後撰集編纂951にあたっては和歌所別当として梨壺の五人を統率

・「一条摂政御集」藤原伊尹による3部194首からなる歌物語集
  倉橋豊蔭なる曳官の男を主人公に数々の女性たちとの恋模様をえがく。
  →登場する女性たちは伊尹の実体験によるものらしい。
  →自分を業平に見立てたわけでもなかろうに(読んでないので分かりませんが)
  →ちょっとエエかっこしいの特異な男だった感じがする。

 一条摂政御集より1首あげておきます。 
  恨むること侍りて、さらにまうでこじと誓言して、
  二日ばかりありてつかはしける

  別れては昨日今日こそへだてつれ千世しも経たる心ちのみする(新古1237)
  →恨んだりすねたり言い訳したり、、、悩める恋模様の歌のオンパレードのようです。

・43敦忠は父師輔の従兄弟、敦忠の死後哀悼の歌を詠んでいる。
  中納言敦忠まかりかくれて後、比叡の西坂本の山庄に人々まかりて花見はべりけるに
   いにしへは散るをや人の惜しみけむ花こそ今は昔恋ふらし 
拾遺抄

・伊尹 49才にして病に倒れ死亡。死因は何か。色々書かれている。
 .父師輔の遺誡を守らず贅沢三昧をしたバチがあたった。
 .44朝忠の弟朝成に官職を譲る約束をしたが破った。朝成の生霊に祟られた。
 .栄花物語「御心地、例ならずのみおはしまして、水をのみここしめせど」糖尿病か。
  →相当無茶な贅沢三昧だったようで「複合成人病」でしょうか。
  →死後の諡「謙徳公」は皮肉か洒落か。。

 結局伊尹は絶好の出自、血縁を生かせず中途半端に終わってしまった。自らを律し他を圧倒していくという政治的資質に乏しかった男と言えましょうか。

③45番歌 あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
・あはれとも言うべき人は思ほえで、、
 心弱い純情ぶりをうたった異色の歌(大岡信)
 ハートブレークの歌、女々しいやさ男の歌(田辺)
 →「ボクってこんな可哀そうな男」って訴えてる感じか。
 →一条摂政御集の巻頭歌。いかにも虚構っぽい。本心からの歌ではなかろう。

・言ふべき人 世間一般の人か相手の女性か
 →歌を贈ってる相手の女性に訴えてるというのでいいと思うのですが。

・身のいたづらになる、、
 恋死にしてしまう。強烈な歌である。こんなの贈られたら女性も後味悪いことだろう。
 恋するのもスカッと爽やかに行かなくっちゃ、、(それじゃ文学にならないでしょうが)

④源氏物語との関連
 これは「あはれ、衛門督!」柏木物語に尽きるでしょう。
 若菜下26柏木が女三の宮の寝所を襲い想いを遂げる場面、柏木は女三の宮に「あはれ」との言葉さえ掛けてもらえさえすればそれでいいと繰り返し訴える。

 柏木→女三の宮
 「さらば不用なめり。身をいたづらにやはなしはてぬ。いと棄てがたきによりてこそ、かくまでもはべれ、今宵に限りはべりなむもいみじくなむ。つゆにても御心ゆるしたまふさまならば、それにかへつるに棄てはべりなまし」、、、、、
 「かう、いとつらき御心にうつし心も失せはべりぬ。すこし思ひのどめよと思されば、あはれとだにのたまはせよ」 

 以後密通が源氏にバレ源氏にいびり殺されるようについには亡くなってしまう柏木。
 若菜下~柏木には「あはれ」という語が何十回となく繰り返される。源氏物語が「もののあはれ」の物語と言われる所以である。

 百人一首で「あはれ」が出てくるのは本45番歌と66番歌の2首。意外と少ない。
 66もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし 大僧正行尊 

カテゴリー: 41~50番 | 22件のコメント

44番 中宮彰子の母の母の父朝忠 人をも身をも

43番敦忠に続くは44番朝忠。アツタダとアサタダ。どちらも中納言、ちょっと紛らわしい。朝忠も嫡流ではないものの藤原北家の御曹司。歌も笛(笙)も上手だった。敦忠とはほぼ同年代、お互いライバルとして意識し合ってたのでしょう。
 →43番・44番の並びは意図的なものでしょう。

44.逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

訳詩:    あの人と逢う
       そんなことがただの一度もなかったなら
       いっそこんなに恨むこともなかったろうに
       あの人のこのつれなさをも
       わが身のこのつらさをも

作者:中納言朝忠(藤原朝忠)910-966 57才 25定方の五男 三位 三十六歌仙
出典:拾遺集 恋一678
詞書:「天暦の御時の歌合に」

①25定方の五男、、、、ということは待てよと考えました。
・定方の姉胤子が宇多帝妃だから朝忠にとって宇多帝は義理の伯父。醍醐帝は従兄弟。
 定方は紫式部の曽祖父だから朝忠は紫式部の大伯父(朝忠の異母姉が紫式部の祖母)。
 さらに今度は下ると、
 朝忠の娘(穆子=ぼくし)が源雅信に嫁ぎ源倫子を生む。倫子は道長の正室となり彰子を生む。
 →朝忠は倫子の母方の祖父で彰子の曽祖父。これってけっこうすごい!
 →紫式部と中宮彰子は定方家系で繋がっている(定方は紫式部の曽祖父で中宮彰子の高祖父)

・上記の血筋だが世の中は藤原時平→忠平の時代。出世は43敦忠(時平の子)に比べ遅い。中央では武官畑、地方での受領勤務を経て晩年にやっと従三位中納言。

②歌人としての朝忠 
・後撰集に4首 勅撰集に21首 笙の笛を能くした。
 →管(笙の笛)の朝忠 vs 弦(琵琶)の敦忠  これも面白い。

・晴れの歌人であり慶祝歌、屏風歌を多く詠んでいる。

・天徳内裏歌合(960)への出詠
 朝忠は左方のエース。7番に出て6勝1敗。抜群の成績で左方の勝利(11勝4敗5分)に貢献(wikiより)
 →文句なし天徳歌合でのMVP(最高殊勲選手)であろう。 

 では天徳内裏歌合の朝忠の歌、どんなものだったのでしょう。
 倉橋の山のかひより春霞としをつみてやたちわらるらむ
 →歌合第一番の歌で見事勝利。右方相手は平兼盛だった。
 わが宿の梅がえになく鶯は風のたよりに香をやとめこし(勝ち 相手平兼盛)
 あだなりと常は知りにき桜花をしむほどだにのどけからなむ(勝ち 相手清原元輔)
 紫ににほふ藤なみうちはえて松にぞ千代の色はかゝれる(負け 相手平兼盛)
 花だにも散らでわかるゝ春ならばいとかく今日はをしまましやは(勝ち 相手藤原博古)
 人づてに知らせてしがな隠れ沼のみごもりにのみ恋ひやわたらむ(勝ち 相手中務)

 20番中ラス前の19番に登場したのが44番歌(逢うことの)、、、後述。
 
【付記】
  天徳内裏歌合が行われた960年は聖代と目される村上朝の最盛時で華やかに歌合が行われたのだが同年末内裏は火事で焼失。世をあげてすぐに再建され、その時初めて紫宸殿前に左近の桜が植えられた(右近の橘は以前からあった)。

③朝忠の女性遍歴より
・大和物語第6段 (田辺聖子の小倉百人一首に解説あり)
 朝忠は人妻に恋して通っていた。夫が地方勤務になり離れて行く人妻に詠んだ歌。
 たぐへやるわが魂をいかにしてはかなき空にもて離るらむ
 →まあいいですが、これってちょっと許せない不倫じゃないでしょうか。
 →江戸の世なら果し合いでしょうに。。

 この歌から田辺は斎宮となった娘(後の秋好中宮)に同道して伊勢に下る六条御息所に贈った光源氏の歌を思い起こしている。
  ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖はぬれじや
  →源氏と六条御息所との恋はどうあるべきだったのか、、源氏読みのポイントであります。

・他に大輔(醍醐帝の皇太子保明親王の乳母の娘)、本院侍従(朱雀院女御の女房、天徳歌合にも登場してる歌人)、それに38右近とも何やらあったとのこと。
 →そんな遍歴はあっても娘穆子が道長の妻となった倫子を生んでるのだから家庭はちゃんとしてたということでしょう。

④44番歌 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし
・天徳内裏歌合のラス前(19番)に登場
 相手は藤原元真で朝忠の勝利だった。
  君恋ふとかつは消えつつ経るものをかくても生ける身とやみるらむ(元真)

・「未だ逢わざる恋」か「逢ってその後逢わざる恋か」
 歌合せの題目は「未だ逢わざる恋」だったが定家は解釈を変えて「逢ってその後逢わざる恋」としている。
 →その方が自然だと思う。リズムもいいし。43番歌とよく繋がっている。

・「絶えてしなくば」→やはり業平の歌が想起される。
  世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし(古今集春上53)

・定家の派生歌
  憂くつらき人をも身をもよし知らじただ時のまの逢ふこともがな
  →「人をも身をも」これも常套句。自分も相手も、、、恋は二人でするものである。

・「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)はこの朝忠の歌を未練たっぷりの恋歌として次のように評している。
 「朝忠には業平や元良親王のような灼熱の情念はない。「人をも身をも恨み」かこつ、女々しい情緒がくすぶる。それは斜陽の運命に生きた朝忠の血の衰弱といったものなのであろうか」

  →確かに摂関家嫡流ではないが別に斜陽の運命でもないでしょう。歌合せで脚光を浴び、笛を能くし、歌人たちとも交流し、平均寿命以上生きた。そして孫娘(源倫子)は道長の正妻となり一条帝中宮になる彰子を生む。。。輝いて見える男だと思うのですが。

⑤源氏物語との関連
「逢って逢わざる恋」 最たるものは源氏の藤壷への恋でしょう。
 改めて43番歌と44番歌を読むと源氏の藤壷への想いというより藤壷の源氏への想いが述べられているように感じます。

  逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
  逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

カテゴリー: 41~50番 | 19件のコメント

43番 窮極の貴公子敦忠 、、昔は物を、、、

38番歌右近に対し神にかけて愛を誓ったとされる権中納言敦忠。惜しくも年若くして亡くなったものの歌に優れ管弦に長け業平の再来ともてはやされる美男子だった由。人となり人模様を覗いてみましょう。

43.逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり

訳詩:    思いをとげるまでの苦しさ
       あんなにつらいことがあっただろうか
       それなのに 私は今胸かきむしられている
       あなたと一夜をともにしてからというもの
       あんなつらさの思い出など
       ものの数にも入らなくなってしまった

作者:権中納言敦忠(藤原敦忠) 906-943 38才 時平の三男 三十六歌仙
出典:拾遺集 恋二710
詞書:「題しらず」

①父 藤原時平 道真を陥れ天罰がくだり39才で早死にしたとされる藤原家筆頭
 母 在原棟梁(業平の孫)の娘 

【今昔物語の説話】 
 美貌の母は最初藤原国経(長良の長男、基経の兄)の妻だったが時平が国経邸に押し寄せ奪い取った。この時妻は既に国経の子を孕んでいた。即ち敦忠は時平の子ではなく実は国経の子である。
 →真偽の程はともかく敦忠自身は時平の子だと思っていたろうしそれでいいのでは。
 →大事なのは敦忠の美貌は業平の子孫である母譲りのものだったということ。

・時平一家は道真に呪われた若死にの一族と言われる
 909 時平死亡(時平39才 この時敦忠4才)
 923 時平の妹穏子が生んだ皇太子保明親王死亡 21才
 930 醍醐帝崩御 46才
 936 時平の長男(敦忠の兄)保忠死亡 47才
 →これで敦忠は自身も早死にするだろうと負の意識を持つ。
  「われは命短き族なり、必ず死なむず」(大鏡)

・さすがに権門の貴公子。順調に出世し従三位・権中納言にまで昇るが943年38才で死亡。
 →死因が書かれていない。流行の疫病だろうと思うのだが、、。
  死因は「道真公の崇り」と信じて疑われなかったのだろうか。

②敦忠の恋
・歌人としての敦忠 後撰集に10首 勅撰集に計30首入手 三十六歌仙  
 管弦も抜群であり「枇杷の中納言」と讃えられた。
 加えて母譲りの美貌、モテない筈がない。

・大和物語によると
 1 38番歌右近との恋(81、82,83,84段)
   右近 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

 2 左大臣仲平の娘明子(いとこ)との恋(92段)
   物思ふと過ぐる月日も知らぬまに今年は今日に果てぬとか聞く(後撰506)

    紫式部はこの歌を借りて光源氏に最後の絶唱を詠ませている(幻19)
    もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる
    →読者はすぐ若くして亡くなった敦忠のことを思い出しただろう。

   もう一つ明子に贈った熱烈な恋文
   今日さへに暮れざらめやはと思へどもたへぬは人の心なりけり(後撰882)
   →この恋は成就し明子は敦忠の妻となっている。

 3 醍醐帝の皇女雅子内親王との恋(93段)
   敦忠が思い焦がれたが雅子内親王は伊勢斎宮になってしまう。
   (この時敦忠25才 雅子21才 斎宮にして敦忠から遠ざけたのかも)

   この時敦忠が雅子内親王に詠んだ歌 
    伊勢の海の千尋の浜に拾ふとも今は何てふかひかあるべき
    →斎宮になってしまえばもう逢えない。切ない歌である。

    そして後日斎宮から戻った雅子内親王は藤原師輔の妻になっている。
    →敦忠敗れたり。師輔が摂関家筆頭に上り詰めて行く一つのステップである。
    →師輔も右近と関係のあった一人である。

    【付記】藤原師輔=忠平の子即ち敦忠にとっては従兄弟(4才年下)
     師輔は好色だったのか内親王狂いだったのか、醍醐帝の内親王三人と密通し妻としている。先ず勤子内親王次いで雅子内親王そして康子内親王。
     臣下として内親王に降嫁された初めての男である。

 4 敦忠の本妻は藤原玄上女=保明皇太子の妻だったが保明の死後本妻に迎えた。
   →東宮に嫁いだが東宮が死亡した未亡人、六条御息所を思わせる。

   他に源等の娘(嵯峨帝につながる皇孫)も妻とし愛したとのこと。
   →敦忠の華々しい女性遍歴が窺える。
 
・敦忠は比叡山麓の西坂本に豪奢な山荘を持ち伊勢、中務(母娘)らを招いて歌宴を開いたとされている。44朝忠もこの山荘を訪れている。
  →敦忠の周りはいつも華やかで嬌声が絶えなかったのであろう。

③43番歌 逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
・歌の解釈として、実事の直後の後朝の歌と見るか逢った後しばらくたって逢えない思いや様々な心の悩みを詠んだ歌と見るかの説がある。
 →単純に後朝の歌でいいと思うがどうか。
 (定家はその後逢えない想いを詠んだ歌と考えているようだが)

・「ああ、貴女と逢えて本当によかった。今朝の歓びは昨日までとは比較になりません」
 こんな後朝の歌をもらったら女性は嬉しいのじゃないでしょうか。

・さて43番歌の相手は右近ではなく忠平の娘藤原貴子とも言われている。
 【藤原敦忠千人万首より】 
 『敦忠集』では「御匣殿の別当にしのびてかよふに、親ききつけて制すとききて」の詞書を付した「いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君にかたらむ」に続けて載せている。これによれば、ひそかに関係を持ったものの、その後親に知られ、逢い難くなった状況で詠まれた歌になる。
  →ここでいう御匣殿は藤原貴子、忠平の娘で保明親王に嫁ぎ保明親王の死後宮中勤めをした。

  さすが美貌の風流子敦忠、女性関係は複雑過ぎてまとめられません。光源氏も一目おいたのかも知れません。
  →敦忠の恋については「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)がp179-188に力を尽して述べている。

④源氏物語との関連
 この43番歌の心はやはり藤壷との逢瀬の後の源氏の心ではないでしょうか。
 逢ってよかった。やっと想いを遂げられた。歓喜の絶頂とともに忍び寄る不安。万が一にもバレたら自分も藤壷も身の破滅。
 →事前と事後では全く世界が異なって見える。
 →恋も(特に肉欲)そうだろうが何でも長年の目標を達成しえた後では歓びと同時に虚脱感を覚えるものだろう。

 源氏 逢ふことのかたきを今日にかぎらずはいまいく世をか嘆きつつ経ん
 藤壷 ながき世のうらみを人に残してもかつは心をあだと知らなむ

 里下がりの藤壷の寝所に源氏が侵入するが藤壷は塗籠に逃れて二度とは許そうとしなかった。(賢木16)

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42番 ひょうきん爺さん 元輔 山は、、、末の松山

清少納言のお父さまの登場です。西国への地方勤務あり宮中梨壺での後撰集選定勤めあり、頼まれれば恋文の代書もいとわない。権門の人たちとも同僚、下級の歌人たちとも幅広く交遊し愛される。ユーモラスでひょうきんな人柄。83才の長寿を謳歌した果報者、、、とお見受けしましたがいかがでしょう。

42.契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは

訳詩:    覚えておいでですか たがいに泣き濡れ
       かたくかたく誓い合ったあのときのことを――――
       末の松山を浪が越える
       そんな恐ろしい おぞましいこと
       けっして けっして 私にかぎって・・・・
       あなたの言葉が今も耳にはりついています

作者:清原元輔 908-990 83才 36深養父の孫 62清少納言の父 従五位上 肥後守
出典:後拾遺集 恋四770
詞書:「心変り侍りける女に、人に代りて」

①清原氏については36清原深養父の項参照
 天武帝の皇子舎人親王(日本書紀編纂者)を始祖とする一族

・地方勤務は河内権守→周防守→肥後守 受領階級である。
 なかなか官位にめぐまれずご多分に漏れず不遇を訴える歌を詠っている。
  年ごとにたえぬ涙やつもりつついとど深くや身を沈むらむ

 その甲斐あってか67才で周防守に。娘清少納言も帯同している。
 →清少納言は59才くらいの時の子どもとのこと。この時10才ちょっとだったか。

 そして何と79才で肥後守に。4年後任地で没す。熊本に清原神社あり。
 老友源満仲に別れに際し贈った歌
  いかばかり思ふらんとか思ふらむ老いてわかるる遠き別れを

 →いやあ、すごい。79才で九州(当時は地の果てであろう)。左遷されていくならともかく請い願って行きますかね。正に生涯現役を全うしたアッパレな男。とても真似ができません。

・中央勤めにあっては梨壺の五人として後撰集の撰者となったのが華々しい。
 後撰集を951年とすると元輔は44才。男盛りの時であった。

・権門の家に出入りしそのあつらえに応じて歌を詠んでいる。
 お祝いのため、長寿のため、無病息災のため、、、法師が祈祷するように目的に応じて歌を詠んだのであろうか。
 →天才的な即興歌人、サービス歌人であったようだ。

②歌人としての清原元輔
・勅撰集に100首余 三十六歌仙
 公任が三十六歌仙として買っていた歌
  秋の野の萩の錦を我が宿に鹿の音ながら移してしがな 

・960年天徳内裏歌合に右方として一番出ている。
 題 桜
 左:44藤原朝忠(勝)あだなりとつねは知りにき桜花をしむほどだにのどけからなむ
 右:清原元輔(負)  よとともに散らずもあらなむ桜花あかぬ心はいつかたゆべき
 →相手は権門の人朝忠、結果は仕方がないか。でも出詠は誇らしかったことだろう。

・歌人たちとの交流、幅広く伝わっているが取分け40平兼盛とは大親友だったもよう。
 生まれ年も没した年もほぼ同じ。80数年いっしょの時代に生きた同志だった。
 官位も従五位上駿河守(兼盛)と従五位上肥後守(元輔)と同等。
 →後撰集撰者としては元輔が上、天徳内裏歌合での関与度では兼盛が上だったか。

③42番歌 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
・契りきな=約束しましたね。永遠の愛を誓い合った二人
・それなのに心変わりをしたあなた、相手の心変わりを恨みとがめる歌。
 →38番歌と構造がよく似ている。とがめつつすねて甘える余韻も残る。

・本歌は有名な東北地方に伝わった民謡とされる古歌(女の歌であろうか)
  君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越えなむ 古今集東歌陸奥歌1093

 藤原興風にも先行歌あり
  浦ちかくふりくる雪は白波の末の松山こすかとぞ見る 古今集冬

 定家の派生歌
  思ひ出でよ末の松山すゑまでも波こさじとは契らざりきや

 →事程左様に「末の松山波こさじ」はあり得ないことの象徴として歌の常套句となっていた。

・末の松山 宮城県多賀城市 現在も宝国寺の上の丘に二本の松が植えられている。
 枕草子11段
  山は小倉山。鹿背山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。忘れずの山。末の松山

・芭蕉は奥の細道で歌枕末の松山を訪ねている。
  末の松山は寺を造りて末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終にはかくのごときと、悲しさ増さりて、塩がまの浦に入相のかねを聞く
  →連理の枝 二本の松が植えられている。この二本の松を分け放つような波は襲ってくるはずがない。変らぬ愛の象徴であった。

 派生して奥の細道象潟の項で曽良の句を載せている。
  波こえぬ契ありてやみさごの巣 曽良 @象潟

・詞書 「心変り侍りける女に、人に代りて」
 元輔は誰に代ってこの歌を詠んだのか。
 ネットより
  この歌は「惟規集」に「をんなに」の詞書を添えて載っており、元輔が藤原惟規(?-1011)のために代作したものかと思われる。因みに惟規は紫式部の弟である。

  →あっと、驚くタメゴロー! 惟規とは父為時が姉式部ぐらいできたらいいのにと嘆いた男である。
  →紫式部の弟が清少納言のお父さんに恋文の代作を頼む!これを聞いたら式部は怒ったでしょうね。「恥を知りなさい。私なら何でも作れるわよ、何せ源氏物語で795首も詠んだのだから」

④源氏物語との関連
・38番歌「忘らるる」と同様紫の上の心境に思い至る。紫の上との永遠の愛を誓った源氏なのに晩年(源氏40才、紫の上32才)になって女三の宮(14才)が正妻として降嫁してくる。第一夫人の座を譲り寝所も移りさりげない風を装う紫の上。「二人で契ったのに末の松山を波が越えた、、、」と感じたのではないか。

 目に近く移ればかはる世の中を行く末とほくたのみけるかな 紫の上@若菜上14

・「末の松山波こさじ」も宇治十帖の重要場面で引用されています。
 薫が浮舟に匂宮との関係を糾弾する文を送りつける場面

  波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな
   人に笑はせたまふな
 薫@浮舟25

 →これは冷たい。恨むというより浮舟を逃げ場もない所に追い込んでいる。
 →42番歌は恨みもあるがなんとなくあたたかい訴えるような感じがする。

  「この歌(薫の波こゆる)にこもる、しんねりむっつりした深刻な憎悪とあてこすりは、元輔の歌(42番歌)とは全く雰囲気がちがう。―――――それはまるで、紫式部と清少納言の気質のちがいを見るようである」(田辺聖子)

  →面白いですねぇ。弟惟規も登場するし、、紫式部と清少納言、話が尽きません。

また、それぞれの歌の所で議論しましょう。

松風有情さんから42番歌の絵をいただきました。ありがとうございます。
 http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/10/KIMG0227.jpg

 →なかなか奇抜なアイデアでいいんじゃないでしょうか。
  (指と指の間にあるのは何なんでしょう)

カテゴリー: 41~50番 | 21件のコメント

41番 左方 壬生忠見 ~~恋すてふ~~

大分休みすみませんでした。40番を掲載してから半月も間隔が空きました。みなさまも(私も)試合勘を取り戻すのに時間かかるかもしれませんが、週一にペースダウンしましたのでそこは何とか乗り切りたいと思っています。中盤戦、張り切って参りましょう。

天徳歌合の大トリをかざる壬生忠見一世一代の絶唱です。
→解説書でも優劣が分かれる40番歌と41番歌。本談話室の皆さんの判定はいかがでしょうか。右か左か持(引き分け)か。一票を投じてください。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
41.恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:    この私が 恋わずらいをしているという噂
       人の口に戸はたてられぬ とはいうものの
       なんということだろう
       ひそかに ひそかに あのひとのことを
       思いそめたばかりなのに

作者:壬生忠見 生没年未詳 30壬生忠岑の息子 卑官の歌人
出典:拾遺集 恋一621
詞書:「天暦の御時の歌合」

①壬生忠見 古今集撰者30壬生忠岑の息子
・壬生氏については30番歌の項参照。大化前代親衛軍を構成していた氏族だった。 
 父忠岑は無位であり家は貧しかった。
 →古今集撰者だったのに。世渡りが下手だったのか。

・忠見は幼少時から歌が得意で宮中に召し出されることがあった。乗物がないと辞退すると竹馬に乗って来いとの仰せ。それに対して忠見が詠んだ歌。
  竹馬はふしかげにしていと弱し今夕陰に乗りて参らん 
  →名歌人忠岑の子として有名だったのだろう。宮中からお迎えの車でも出してやればよかったのに。

・身分は低かったが歌の上手として村上帝は忠見がお気に入りで摂津国で身を沈めていた忠見を中央に戻し蔵人所に職を与えた(百人一首一夕話)。
  帝 見しかども何とも知らず難波潟なみのよるにて帰りにしかば
  忠見返し 住吉のまつとほのかに聞きしかば満ち来し汐やよるかへりけん
  →村上帝の求めに応じしばしば歌を奉っている。それで天徳歌合でも左方のエースとして7番も勝負を任されたのだろうか。

・父は無位だったが忠見は正六位上・伊予掾まで上がる。
 →大したもの、歌が身を助けたと言えよう。

②歌人としての壬生忠見 
・後撰集に1首 拾遺集14首 勅撰集計36首 三十六歌仙

・村上朝歌壇を代表する歌人であったろうが卑官だったせいか歌人同士の交流は伝えられていない。

・詠み振りは素直で正直、実感がこもるとされる忠見の歌。天徳歌合に出た歌を挙げておきましょう(41番歌以外の3首)

 みちとほみ人もかよはぬ奥山にさけるうのはなたれとをらまし
 (卯の花 相手 平兼盛 負け)

 さよふけてねざめざりせばほとゝぎす人づてにこそきくべかりけれ(拾遺集)
 (郭公 相手 藤原元真 持)

 夏ぐさのなかをつゆけみかきわけてかる人なしにしげる野辺かな
 (夏草 相手 平兼盛 勝ち)

③41番歌 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
・「恋すてふ」恋をしているという。
 →百人一首ではもう一つ、2番に「衣ほすてふ」がある。

・噂がたってしまった。貴人と姫君の恋は女房を通して行われる。女房たちのネットワークはすごい。たちまちにして都中に知れ渡る。
 →この辺りの事情は源氏物語に詳しい。紫式部は女房を狂言回しにして物語を進める。

・この歌も40番歌同様題詠にしては実感のこもった素直な歌である。

・さて、歌合の判定は40番歌兼盛の勝ち。忠見は打ちひしがれてすごすご退出。
 沙石集(鎌倉中期の仏教説話集)から -ネットからコピペ 信憑性不詳-

 判者ども、名歌なりければ、判じわづらひて、天気をうかがひけるに、帝、忠見が歌をば、両三度御詠ありけり。兼盛が歌をば、多反御詠ありけるとき、天気左にありとて、兼盛勝ちにけり。 忠身、心憂くおぼえて、胸ふさがりて、不食の病つきてけり。頼みなきよし聞きて、兼盛とぶらひければ、「別の病にあらず。御歌合のとき、名歌よみ出だしておぼえ侍りしに、殿の『ものや思ふと人の問ふまで』に、あはと思ひて、あさましくおぼえしより、胸ふさがりて、かく重り侍りぬ。」と、つひにみまかりにけり。 熱心にこそよしねれども、道を執するならひ、あはれにこそ。ともに名歌にて拾遺に入りて侍るにや。

 →村上帝は先ず忠見の歌を口遊んでいる。村上帝は忠見がお気に入りだったろうに。何故天気は左にありとしたのだろう。
 →何れにせよこの歌合が単なるお楽しみのイベントではなく関係者(勿論第一は出詠歌人)には名誉と将来をかけた命がけの合戦だったことがよく分かる。

④源氏物語との関連
・紫式部は天徳歌合をモデルとして絵合(歌に代え古今の名画を左右二方に分けて勝負を競う合戦)を作り上げた。
 第17巻「絵合」冷泉帝の後宮争い 源氏・藤壷・前斎宮vs頭中・弘徽殿女御

 その日と定めて、にはかなるやうなれど、をかしきさまにはかなうしなして、左右の御絵ども参らせたまふ。女房のさぶらひに御座よそはせて、北南方々分かれてさぶらふ。殿上人は後涼殿の簀子におのおの心寄せつつさぶらふ。左は紫檀の箱に蘇芳の華足、敷物には紫地の唐の錦、打敷は葡萄染の唐の綺なり。童六人、、、、、右は沈の箱に浅香の下机、打敷は青地の高麗の錦、あしゆひの組、華足の心ばへなどいまめかし。童、青色に柳の汗衫、、、、

 →冷泉帝御前での歌合、これに源氏方が勝って前斎宮は秋好中宮になる。重要なイベントでありました。

⑤さて、40番対41番の勝負。
 爺は40番平兼盛に一票を投じます。
 両方いい歌だと思います。迷いましたが10回づつ声に出して唱え、40番に決めました。好みの問題であります。

カテゴリー: 41~50番 | 18件のコメント

退院しました。

ご心配おかけしましたが無事手術も終わり予後も順調で退院してきました。鼠径ヘルニアにしては8泊9日と随分ゆっくりで(休日もあり多分に病院の都合だったのかも)最後の方は飽きてしまいましたが人間ドックならぬ「人生ドック」に入ってきた感じ、、それはそれでよかったかなと思っています。

 →前後11日間アルコールを抜き1週間の健康食、これはなかなかできませんぞ。。
 →11月はゴルフもテニスも飲み会(除く高校同窓会)も旅行も全てキャンセルしてスケジュールが真っ白になった。これもスッキリして気持ちがいい。

以下入院感想記(あくまで爺のメモです。読み飛ばしてください)

●入院は中3の盲腸炎以来54年振り2回目。あの時は手遅れ気味で傷口が膿んでしまい2ヶ月も入院してた。手術もそれ以来、やはり緊張した。

●前日入院で色々準備が忙しい。簡単にスパッとはいかないらしい。
 入れ代り立ち代り看護士(スタッフ)が面倒みてくれる。システマティックだ。

●全身麻酔で気が付いたら病室のベッド。その夜は動けず排尿もままならずシンドかった。2~3日目やや腫れが出たがその後は安定、痛みもなく大部屋の窮屈なベッドながら楽チンに気ままに時間を過した。

●病院食 あんなもの(粗末)をあんな風に(超薄味)あれだけ(少量)食べていれば人間は生きていける(しかも健康に)んだとつくづく思った。それにしてももう少し工夫できないものか。

●ベッドに横たわっているとどうしても昼夜逆転気味になってくる。TVと本とパズルで時間をつぶした。

●TV 普段見ない分までよく見た。750分見れるカードを4枚使ったから計3000分(50時間) 主としてスポーツ観戦 & 映画

 ・日本シリーズ:山田の3連発はすごかった。ソフトバンクが強すぎる。イデホもさることながら2番明石のしぶとさが光っていた。爺ひいきの松田は今イチだった。

 ・ワールドシリーズ:ロイヤルズの逆転劇は神がかっていた。メッツ(昔のシェイスタジアムでなく新しいシティフィールド)にはエラーが多すぎた。第5戦、2-0でリードしてた9回先発を続投させたのは間違いだろう。満を持していた抑え投手が交代後打ち込まれたのも仕方あるまい。メッツフアンは憤懣やるかたなかったのではないか。

 ・ナビスコ杯 3-0で鹿島の圧勝。ガンバはなすすべなく敗れた。アジアクラブリーグなんて余計なものに出ててスケジュール的に大変だったのだろう。
 →鹿島のFW金崎夢生 ヘッドでの中押し点など大活躍
  三重県出身とは知っていたが調べてみると何と津市安濃町の東観中学出身(高校は兵庫の滝川二高)。爺の中学時代はまだ津市に入ってなかったが東観中は知っていた。経ヶ峰の麓、大里の近く。今朝の新聞によると全日本代表に復帰とのこと。ガンバレ!夢生(ムウ)

 ・ゴルフ日本シニアオープン NHKで4日間やってくれた。
  場所が三重県津市だというのでなんじゃいなと調べたら
  COCOPA RESORT CLUB 白山ヴィレッジゴルフコース(三重県津市白山町)
  →こんな所にレゾートがあったのだ、然も津市になったなんて。知りませんでした。
  →平石が米山の追い込みを1打差で制して優勝。最終18番の両者のショットには鳥肌がたった。
  →18番はホテルのテラス越し。何発も打ち込まれているらしい。名物ホールかもしれないがいくらなんでもやり過ぎ。危ないではないか。

 ・全日本大学駅伝 名古屋熱田神宮→伊勢神宮 
  地元津市上浜町の第5中継点、周りの風景は変わっていない。懐かしかった。
  →青学の山の神(神野大地)も負傷休養明けらしく追いつけなかった。東洋大の圧勝。

 ・女子ゴルフ Pontaレディス 渡辺彩香が優勝(久しぶりに日本人!)
  →最終組で渡辺と回ったアマチュアの畑岡 奈紗(高2 16才)、プロでもロングヒッターと言われる渡辺よりドライバーが飛んでいた。楽しみである。

 ・天皇賞 ラブリーデイ 乗り替わりもあったけど横綱相撲、強かった。
  →爺のやってた頃は3200M、かったるい競馬だった。東京の2千は面白い。
  →久しぶりに競馬新聞(スポーツ新聞だが)の細かい欄を読んだ。懐かしかった。 

 ・ラグビーW杯 ニュージーランドvsオーストラリア
  真夜中だったけどこれ幸いと見せてもらった。
  NZカーターのキックはすごかった。どんな角度でも遠距離でも決めていた。
  後半途中4点差まで追いすがったもののやはり地力の差かNZが34-17ダブルスコアで勝利。日本(特にいつも見ている大学・高校ラグビー)のラグビーとは異次元のものを見せてもらった感じ。

●ラジオ NHKの深夜便なるものにもお世話になった。ゆっくりとした話しかけ調で聞くともなく眠るともなくぼんやり過すのにはむいているのかも。

●本
 ・「あの家に暮らす四人の女」三浦しをん
  例によってしをんちゃんの抱腹絶倒調の文章には笑わせられる。面白かった。
  →4人の何となく中途半端な女性たちの話だが4人とも何らかの意味でしをんちゃんの分身なのかなと思った。

 ・植物図鑑、昆虫図鑑
  定期的に眺めると復習ができる。少しづつアカデミックに憶えていくのもいいのかも。

 ・数独とともに「面積迷路」なるパズルを1冊やった。
  なかなか面白いし手強い。今度みんなでやってみよう。

●映画
 ・「居酒屋兆治」高倉健 それにしても兆治さん、寡黙過ぎませんか。
 ・「有頂天ホテル」三谷幸喜 ドタバタ群像劇 罪がなくていい。
 ・NHK「小林一三物語」 阪急、宝塚界隈のことが分かり大分スッキリした。
 ・仏映画「最強のふたり」 付随の富豪と黒人の介護人 ラストシーンは感動的だった。

。。。。平安時代からすっかり遠ざかった2週間ほどでありました。さあ、そろそろボチボチ天徳の歌合せ会場にタイムスリップすることにしましょうか。。。。

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特別番外 小町姐さん、御在所岳にて陽希くんに会う

ご無沙汰です。無事手術も終わり予後も順調で帰って来ました。入院記は追って書きますが先日コメント欄に小町姐さんから貴重なる余談を載せていただきました。コメント欄では見逃す人もいるかもと思い本欄に掲載させていただきます。小町姐さん、ありがとうございました。

(百々爺よりの付記: 談話室再開(41番歌)は11月9日(月)からとし以後毎週一回月曜日に掲載とします。ちょっとペースダウン、ゆっくり楽しく進めたいと思っています)

【以下、小町姐さんからの投稿です】

余談15 {陽希さんとの再会}
二転三転と行きつ戻りつしていた陽希さんの御在所岳(標高1212)登山の日程がやっと数日前に11月2日と確定する。
毎日陽希さんのタイムラインを追う日々であった。
昨日満を持して冷たい雨の中、御在所まで会いに行ってきました。
ロープウエイで10時半過ぎ山頂に到着、陽希さんはまだですか?と聞いたらまだですよと。間にあった!!良かった!!
傘が要るほどの雨ではないが山頂の気温はかなり下がっている。
更に上下のレインウエアーを着こんでホカロンを温めて待つ。
陽希さんは琵琶湖西岸の高島時雨の中、琵琶湖大橋を渡り前夜日野町に宿泊していることまでは判っていたので少々遅くても追い抜かれる心配はないと踏んで少し遅いスタートを切った。
これがもし湯の山温泉泊まりならとても間に合わなかっただろう。
待つこと一時間半余、上は赤、下は黒、ザックカバーは若草色の颯爽とした姿で陽希さんが現れた。雨でぬれた手袋を絞り絞り。一斉に拍手で迎える。
山頂の応援者は時間と共にドンドン増えていた。
待っていたメンバー全員で「ようこそ御在所へ!!」と歓迎のエールを贈った。
陽希さんの笑顔が弾けた瞬間である。
そこには気軽に握手し記念写真に応じる陽希さんがいた。
私は握手だけに留めた。
基本的にはサイン、写真撮影はご遠慮くださいとあるが陽希さんの優しい性格上やはり応援者に応えたい気持ちが強い様である。
真の応援者ならば陽希さんの負担やストレスにならない程度に心得たいものである。
雄叫びをあげる陽希さんを見るのは忍びない。
全員で記念撮影もしたし元気な姿で再会できただけで満足であった。
陽希さん、カメラマン、インタビューアー合わせて4人。
雨のためドローンは飛ばなかった。
いろいろなポーズを陽希さんに要求するカメラマン。
彼達も陽希さんの前になり後になり大変な仕事である。
陽希さんもモデルやタレント並みの忙しさで大変だな~と思う。
でも嫌な顔一つしないでむしろひょうきんで明るく応えているのはすごいことだと思う。
一緒に山を下ったがその早いこと早い事、あっという間に姿が消えた。。
ロープウエイ山上レストランで食事をするとのことで私も後を追ったが着いた時彼はもうカレーうどんを食べる前でカメラマンが写真を撮っていた。
そうかあの美味しそうなかつ丼や鰻や鮪丼は彼たちが撮っているんだ。
近くに腰を下ろし身近に話もでき、小一時間ほどの時間を共有した。
身近で見る彼のスタイルの良さに圧倒された。
黒半そでのTシャツに黒スパッツ姿はウエストがぐっとくびれて細く締り筋肉質でカッコ良かった。
春に会った時は少し身体がゆるんでいて10キロほど体重が増えたと聞いた。
200名山に挑戦を始めて過酷な毎日の緊張感と刺激が良い身体を作っているのだろうか。
美しい彫刻のシルエットが想像される。
最終地九州の佐多岬までの無事を祈って陽希さんとは別れた。

御在所に来たのは実に何年振りのことだろうか?
記憶にないぐらい昔の話である。
一度は登山、そしてもう一度はロープウエイであった
頂上の様子も忘れるぐらい大昔のことで大三角点や山口誓子「雪嶺の大三角を鎌と呼ぶ」
の句があることにも今回初めて気づいた次第である。
あいにくの雨とは言えロープウエイから見下ろす眼下の紅葉は素晴らしいものであった。
壮大な緑の渓谷に赤、橙、黄色のグラデーションが鮮やかに広がっていた。
行って良かった。帰りは湯の山温泉で温まり満足度100パーセントの一日であった。
一転して今日文化の日は快晴である。皮肉なものである。
でも陽希さんにとっは今日から大峰山系の釈迦ヶ岳に向って南下。
絶好のロングロードである。陽希さん、がんばって!!

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