百首も三分の一を過ぎ爺の雑記ノートも2冊目に入りました。誰もが知っている大物歌人紀貫之の登場です。話に花を咲かせましょう。
35.人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香ににほひける
訳詩: あなたはさあ いかがでしょうか。
あなたの心ははかりかねます
でもこの見なれた懐かしいふるさと
さすがに花は心変りもせず
昔ながらに薫って迎えてくれていますね
作者:紀貫之 868-946 79才(長生き) 五位 古今集撰者(リーダー)
出典:古今集 春上42
詞書:「初瀬に詣づるごとに、宿りける人の家に、久しく宿らで、ほどへて後にいたれりければ、かの家の主人、かくさだかになむ宿りはある、といひ出して侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる」
①紀貫之
・父は紀望行(と言っても無名だが) 母は内教坊の妓女だった
内教坊(朝廷内の舞踏音楽研修所、いわば国立の宝塚みたいな所(田辺))
→母の芸能人の血は貫之の人格形成に少なからず影響を与えたのかもしれない。
・紀氏については33番紀友則&18番藤原敏行の項参照
・もう一つ、先日31番歌の項で源智平どのに紹介いただいた論文によると、
「紀氏は坂上田村麻呂の坂上家と並ぶ部門の家で貫之の五代の祖船守は恵美押勝の乱に武功をたてた桓武朝の功臣であった」
→整理すると紀氏は名門だが貫之の世代政界では既に没落氏族だったということか。
・紀貫之 中央では御書所、少内記、大内記といった文書官吏 地方官としては越前、加賀、美濃、土佐の諸官を歴任(最後の土佐は土佐守) 五位にまで出世
→芸(歌)が身を助けたということであろうか。
②歌人としての紀貫之
・古今集に101首、勅撰集に435首
→古今集撰者のリーダーだったとは言え古今集1111首の1割近い数はすごい。
これでもかという感じ。貫之の強烈な自負が窺える。
・25藤原定方、27藤原兼輔の庇護のもと26藤原忠平にも認められ18藤原敏行、19伊勢、28源宗于、29凡河内躬恒、30壬生忠岑、31坂上是則、33紀友則、36清原深養父らとも交流を持つ。
→和歌の絶対的権威者(wiki)として君臨した感があるがいかがでしょう。
・何と言っても古今集仮名序がすごい。
(29番歌凡河内躬恒の所で議論しました)
冒頭 やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
それにしても六歌仙(と後に崇められるようになった)に対するこきおろし方は強烈。一部だけだが、
僧正遍昭は、歌のさまは得たれども誠すくなし。
在原業平は、その心あまりて言葉たらず。
文屋康秀は、言葉たくみにて、そのさま身におはず。
僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。
小野小町は、あはれなるやうにて、強からず。
大伴黒主は、そのさまいやし。
→女性の小町にはやや遠慮が見えるが他の5人にはまるで喧嘩売ってるみたい。
貫之は自身の歌を評するとしたらどう書くんでしょうねぇ。
貫之は、歌のさまよけれども心通はず。いはば依頼人に媚びる歌の売人のごとし。
→なんて言ったら怒られるでしょうね。
・歌合せの題詠や屏風絵に添える屏風歌が圧倒的に多い(貫之集約千首の内半分以上が屏風歌とのこと)公的な晴れ舞台での歌やら個人的な慶賀の歌やら。
→皇族や大貴族は争うように貫之に歌の注文をしたのではないか。
→「貫之」と言うだけで歌は売れた。ブランドってそんなものでしょうね。
・土佐日記を著した。
934年4年間の土佐での勤め(土佐守)を終えて京への帰途55日間の出来事を綴った紀行文(虚構も交えた)。57首歌あり。ほとんどが平仮名。日記文学の草分け。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり
→仮名文字で文章を書いたのは貫之の土佐日記が始まり。
→女として書いている。「屈折した感情の持ち主だったらしい」(白洲正子)
→まあそれほどでもないのでは。
・数えきれないほどある貫之の有名歌から列挙すると(何れも古今集)、
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん
霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける
さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける
色も香も昔のこさににほへどもうゑけん人のかげぞ悲しき
吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし
→理知的・分析的・合理的・秩序整然、、、ということらしい。
③35番歌について 人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香ににほひける
・長い詞書
宿の人は男か女か →まあ女(愛人ではないにせよ)とした方が面白いでしょう。
宿は初瀬か奈良のどこかか →そりゃあ、初瀬の椿市でしょう。
・長谷寺の十一面観音 長谷寺信仰は当時から根強い。
長谷寺の登廊入口に35番歌ゆかりの梅が植えられている。
・自然に比べての人の心の移ろいやすさを詠んだもの(通説)
→女の心は「あら、お久しぶりねぇ、お変わりなくって」くらいの軽い気持ちじゃなかったろうか。軽い挨拶代りのやりとりでいいのでは。
・家人の返歌は(貫之集)
花だにも同じ香ながら咲くものを植ゑたる人の心知らなむ
・梅 万葉集時代は花と言えば梅だったが平安時代では花と言えば桜になっている。
百人一首で梅が詠みこまれているのは35番歌だけ。
④源氏物語との関連
・紀貫之は源氏物語に2ヶ所で実名で登場する。
1.桐壷9.
亭子院の描かせたまひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ枕言にせさせたまふ。
→最愛の桐壷更衣亡き後、桐壷帝は伊勢や貫之の和歌や長恨歌で心を慰める。
2.絵合6.「竹取物語」の絵が登場
絵は巨勢相覧、手は紀貫之書けり。
→竹取物語の絵の詞書を貫之が仮名で書いたものが実在してたのだろう。
・初瀬椿市は右近が玉鬘に巡り合うところ(玉鬘7.)
→源氏物語屈指の名場面
二人の歌の贈答、喜びがほとばしる。
ふたもとの杉のたちどをたづねずはふる川のべに君をみましや(右近)
初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへながれぬ(玉鬘)
→長谷寺へ行かれたら「二本の杉」(登廊入口付近を右に)をお見逃しなく。
・時を経ての人の心の移ろいが話題となるのは、須磨・明石での謫居を経ての帰京後源氏が末摘花や花散里を訪ねる場面(上坂)
→そりゃあそうかもしれないが、末摘花も花散里も源氏にはほったらかしにされてたわけで心変わりしてても仕方ないところでしょう。
(勿論二人とも光源氏さま一筋なのですが)
松風有情さんから35番歌の絵をいただきました。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/08/KIMG0222-2.jpg
→有情さん、ありがとうございました。コメントもよろしくお願いします。