すみません、ちょっとお休みをいただきます。

40番を終わりいよいよ佳境に入ってきたところですが10日間ほど(3回分)お休みをいただきます。実は以前からの鼠径ヘルニア(脱腸)でして何時までもそのままにしておくのもまずいので手術してもらうことにしたものです。来週初に入院して退院は11月第一週の予定です。予約投稿にしようかと思ったのですがコメントの返信もせず投稿だけ進めるのも失礼だし談話室の趣旨にもそぐわないと思いお休みさせていただきことにしました。41番歌は11月6日掲載となります。予定を立て予習されている方もおられると思います。6月に次ぐ2度目の休載で申し訳ないのですがどうぞご理解のほどお願いいたします。

コメントをいただいているみなさま、談話室を訪問いただいているみなさまには改めて厚くお礼申し上げます。みなさまのお蔭で40番まで来れました。私の投稿は歌によりバラつきが激しく一貫性もなく独善的で見苦しい面多々あると思います。まあ素人経営の談話室だとご容赦ください。
 →参考資料もドンドン増えて来て面白いのは面白いのですがまとめるのに苦労しているのが実情です。

明日ゴルフに行って翌日入院です。入院など中3の時に盲腸で入院して以来なのでちょっとビビッてます。お酒なしでちゃんと寝られるか心配であります。それじゃあ。。

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40番 右方 平兼盛 ~~忍ぶれど~~

39番歌は賜姓源氏(源等)そして40番歌は賜姓平氏(平兼盛)。源平が「忍ぶれど」でつながっています。それにしても「平兼盛」っていかにも武将の感じ、恋を詠む歌人となかなか思えませんでした。

もう一つ40番歌と41番歌(壬生忠見)は天徳歌合で勝負を争った歌として有名。どの解説書でも二つの歌はセットとして述べられている。定家が隣り同士に並べたのも歌合からでしょう。

晴儀歌合の典型で後世の模範になったとされる歌合についてまとめておきましょう。
【天徳内裏歌合せ】=天暦の御時の歌合とも呼ばれる
・時:天徳4年(960年)3月30日 16:00~夜を徹して
・場所:内裏 清涼殿
・主催者:村上帝(当時35才 インテリで芸術を愛好し歌も詠んだ) 
・題目:霞、鶯2、柳、桜3 、山吹、藤、暮春、首夏、郭公2、卯花、夏草、恋5 計20番
・登場歌人:
 左方:藤原朝忠(7番)壬生忠見(4番)大中臣能宣(3番)源順(2番)坂上望城(2番)少弐命婦(1番)本院侍従(1番)
 右方:平兼盛(11番)中務(5番)藤原元真(2番)清原元輔(1番)藤原博古(1番)
・判定者:藤原実頼(忠平の長男当時左大臣)その補佐に源高明(大納言)
  (※源高明 醍醐帝の第十皇子(村上帝の兄)歌人(後撰集10首 勅撰集22首)
    969安和の変で失脚 大宰府に配流 光源氏のモデルとも目される)
・結果: 左方の11勝4敗5分 
    (平兼盛は4勝5敗2分、壬生忠見は1勝2敗1分)

・天皇、后、公卿たちが全員衣裳をこらし見つめる中での歌合せ。歌人は勿論、読みあげ人も判定者も単なるお遊びを越えて必死だったはず。 

 →題は1ヶ月前に示されたとのことだが誰が決めたのだろう。
 歌人のラインアップはどう決められたのだろう。兼盛は11番も出ている。いくら何でも偏り過ぎではないか。左右両陣営で予選でも行われたのであろうか。
 →疑問点は多々あるものの天暦の聖代を象徴する大国家イベントであったことに間違いはない。

さて、前置きが長くなりました。40番歌です。
40.忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで

訳詩:    胸のうちに秘め隠し 忍びに忍んできた恋なのに
       あわれ面にまで出てしまったか
       「恋わずらいをなさっておいでか」
       そう人から興味ありげにたずねられるほどに

作者:平兼盛 生年未詳~991 光孝天皇系 五位 三十六歌仙 後撰集時代の代表歌人
出典:拾遺集 恋一622
詞書:「天暦の御時の歌合」

①平兼盛 光孝帝の玄孫(やしゃご=曾孫の子)臣籍降下し平姓を賜与される
 受領階級 最終官位は従五位上駿河守 80才近くまで生きた
 →卑官に甘んじたと言われるがまずまず公平な所ではなかろうか。 

 兼盛のエピソード
・例によって官位役職を得ようと申文で朝廷に訴えている。
  一国を配する者は、その楽しみ余りあり。金帛蔵に満ち、酒肉つくえにうずたかし。況や数国に転任するをや。諸司に老ゆる者は、その愁ひ尽くる無し、、、、、。
   沢水に老い行くかげを見るたづの鳴く音雲井に聞こえざらめや

  →これで70才にして駿河守を手に入れた。受領の役得の程が知れる文章である。

・59赤染衛門(やすらはで)は平兼盛の娘との説あり。
 兼盛のモト妻が赤染氏と再婚し赤染衛門を生んだ。兼盛はモト妻は離婚したとき既に子を孕んでおり父親は自分だと訴えたが認められなかった。
 →どっちなんでしょう。まあ父親の実感を信じ兼盛の子と考えておきましょう。

②歌人としての平兼盛
・後撰集時代の代表歌人 後撰集2~3首 拾遺集38首 勅撰集計約90首 三十六歌仙
 漢文にも通じていた。

・大和物語によると平兼盛は何人もの女性に歌を詠みかけている。
 第56段 藤原兼成の娘に
  夕されば道も見えねどふるさとはもと来し駒に任せてぞ行く(後撰集恋)
 第57段 平季長の娘に
  をちこちの人めまれなる山里に家居せむとは思ひきや君(後撰集恋)
 第58段 陸奥の娘に
  みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか(拾遺集雑)
 →官位は低かったが皇室に繫がる風流貴公子であり女性にはもてたのだろう。

・他に兼盛作とされる歌 後撰集より
 けふよりは荻の焼け原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむ(後撰集春 大和物語第86段)
 雨やまぬ軒の玉水かずしらず恋しきことのまさる頃かな(後撰集恋)

③さて肝心の40番歌 忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで
・じっと胸に秘めて隠していた恋心が顔色に出てしまった。
 →歌合のために一ヶ月もかけて考えてきた訳で実話に基づく歌ではない。
 でもよく思いが込められた歌だと思う。現実感あり、体験に基づくものだろうか。

・技巧の歌と言われるが調べはいいしリズミカル、好きな歌である。

・天徳の歌合 20番勝負の20番目 左方が忠見の41番歌
 この時の判定の模様はどの解説書にも詳しい。
 判定者(藤原実頼、源高明)は迷ったが村上帝の顔色を伺い40番兼盛の勝ちとした。
 →兼盛は雲にも昇る気持ちであったとか。
 →でもそれまでに兼盛は既に10番戦って3勝5敗1分け、既に負け越している。
 →忠見は3番戦って1勝1敗1分け。それこそ勝ち越しをかけて大一番だった。

・40番歌の本歌とされている歌 
 思ふには忍ぶることぞ負けにける色にはいでじと思ひしものを 古今集恋503 よみ人知らず 

④源氏物語との関連
・「忍ぶ恋」源氏物語では一に藤壷との恋、次いで朧月夜との恋でしょうか。

 源氏 逢ふことのかたきを今日にかぎらずはいまいく世をか嘆きつつ経ん
 藤壷 ながき世のうらみを人に残してもかつは心をあだと知らなむ
  →寝所に忍び入る源氏、必死に逃れる藤壷(官能シーンです)(賢木16)

 朧月夜 木枯の吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさのころもへにけり
 源氏 あひ見ずてしのぶるころの涙をもなべての空の時雨とや見る
  →源氏の訪れを促す朧月夜からの歌。積極的だった朧月夜。

・天徳歌合をモデルとした「絵合」については41番歌のところで。

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39番 参議等 類型句に託す忍ぶ恋

呼び出しに「39ば~ん、さんぎのひとし~~」なんて触れられてもピンときませんね。どんな人なんでしょう。

39.浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき

訳詩:    浅茅の野に生い茂っている篠竹の原
       しのぶ思いに屈する心
       それももうしのびきれない
       胸に溢れて隠しおおせぬほどにどうして
       あなたがこんなに恋しいのだろう

作者:参議等(源等)880-951 72才 嵯峨天皇の曾孫 参議四位 後撰集に4首
出典:後撰集 恋一577
詞書:「人につかはしける」

①源等は嵯峨帝の曾孫(ひまご) 嵯峨源氏 官位は参議
・父(嵯峨帝の孫)は源希 官位は中納言
 父の父(嵯峨帝の子)は源弘 官位は大納言
 →天皇から世代が遠ざかるにつれて官位が一つづつ下がっている。仕方なかろう。

 参議とは令外の官で納言に次ぐ重職 四位以上 左右大臣、内大臣を補佐

・源等、880-951 参議だけに生没年はきっちり分かっている。
  宇多朝~醍醐朝~朱雀朝~村上朝の初めまで
  三河守・丹波守・美濃権守・備前守・大宰大弐・山城守、、正に受領であった。

  光琳かるたもそうだが源等の絵は武者姿が多い。でも武家には関係なさそう。
  序でだが光琳かるたの下句の絵は浅茅でなく蓬だと思うのだがどうしてだろう。

②歌人としての源等 
・後撰集に4首のみ 歌合にも出てないし他歌人との交流も見当たらない。
 世代としては定方、兼輔、貫之らとほぼ同じなのに。
 →どうみても群小歌人で百人一首に撰ばれる歌人とは思えない。
 →定家は人でなく歌そのものを評価したのであろう。
 →その意味では32春道列樹と同じく一発屋と言えよう。

・源等の39番歌以外の歌
 東路の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなき(後撰集)
 かげろふに見しばかりにや浜千鳥ゆくへもしらぬ恋にまどはむ(後撰集) 
 →39番歌と同じで上句が序詞のスタイルの歌が多いようだ。

③さて定家が歌で撰んだ39番歌について
 浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき
・「浅茅生の小野の篠原」は「忍ぶれど」を導く序詞
  殆ど常套句と言っていいほど類型が多い
 
 本歌とされるのは、
 浅茅生の小野の篠原しのぶとも人知るらめやいふ人なしに 古今集読み人しらず

・浅茅、蓬、葎は荒れた土地、屋敷の象徴として源氏物語には頻出
 浅茅生の「生」は生えているところの意
 浅茅生、蓬生、粟生、芝生、麻生、園生

 浅茅は39番歌 「浅茅生の小野の篠原」
 葎は47番歌 「八重葎」 荒廃した河原院

・小野は洛北の小野のではなくて普通名詞 野原
 篠原 篠竹が繁る原っぱ 人気がなく寂しいイメージか。

・歌意 今までじっと忍んできた恋心がついに抑えきれなくなってしまった、、、。
 抑えきれない恋、次の40番歌「忍ぶれど」につながる。
 →定家は類型の上句を使いながら下句で細かくたたみこむ口調で恋心を積極的に歌い上げたとして高く評価している(島津)。

・後撰集の詞書は「人につかはしける」
 →折角忍んできた恋心を相手に吐露したということか。
 →これでは忍ぶ恋でなく真っ向から挑む恋ではなかろうか。

・39番歌を本歌とした定家の歌
 霜うづむ小野の篠原しのぶとてしばしもおかぬ秋のかたみを

④源氏物語との関連
・荒れた屋敷と言えば源氏が須磨明石に謫居となり3年近く訪れることのなかった末摘花邸、この屋敷の叙述がすごい。

 かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉ぢ籠めたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞめざましき。蓬生3 
 →これでもかの表現である。この荒れ屋敷を源氏が忠臣惟光を従えて訪れる。
 →「国宝源氏物語絵巻 蓬生」の有名場面である。

・源氏物語中の忍ぶ恋と言えば、、、、
  源氏と藤壷 源氏と朧月夜 源氏と玉鬘
  柏木と女三の宮
  夕霧と落葉の君
  匂宮と浮舟
  それぞれの恋模様が頭をよぎります。

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38番 モテモテ右近 恨み節

19番伊勢以来久々の女流歌人の登場です。主として村上朝歌壇で活躍した右近、まさにモテモテのナンバーワン女房であったようです。

38.忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

訳詩:    私はいいのです 忘れられてしまおうと
       わが身のことは いいのです
       でもあなた あれほどに変らぬ愛を
       お誓いになったあなたのおいのち それが
       ひとごとならず心にかかってなりません

作者:右近 生没年未詳 右近衛少将藤原季縄の娘 醍醐帝中宮穏子に仕えた女房
出典:拾遺集 恋四870
詞書:「題しらず」

①父は藤原季縄(すえなわ)(?-919)(藤原南家の系統)右近衛少将 従五位上
 鷹狩りの名手で交野少将と呼ばれた。
 「交野少将物語」色好み少将の物語、今や散逸だが当時は有名だった。
  
 源氏物語帚木の冒頭、源氏はまじめ男で交野少将には負けるとの叙述あり。
 さるは、いといたく世を憚りまめだちたまひけるほど、なよびやかにをかしきことはなくて、交野の少将には、笑はれたまひけむかし。

 →色好み男として物語のモデルにもなった父を持つ右近。ポイントでしょう。

・右近自身のこと 「右近」の呼び名は父の官職名から
 醍醐帝の中宮穏子に仕える。穏子(885-954)は藤原基経が醍醐帝に投じた切り札で朱雀帝・村上帝を生む。中宮穏子の局は延喜の聖代最も華やかで重要な局であった。醍醐帝亡き後も穏子は二代の国母として政治的にも君臨。時平・忠平は穏子の兄であり摂政・関白として穏子の局はしばしば訪れたことであろう。
 
 →そういう華々しい局に仕えた歌才に秀でた女房。右近がモテモテだったのは当然でしょう。

 右近を通り過ぎたとされる貴公子たち
 ❤藤原敦忠43 時平の三男 38番歌の相手 大和物語は後述
 ❤藤原師氏  忠平の息子 大和物語85段の桃園の宰相の君
 ❤藤原師輔  忠平の息子 醍醐帝の皇女3人を妻に 藤原摂関家の主流 道長の祖父
 ❤藤原朝忠44 定方の息子 右近への思いやりの歌あり
 ❤源順    百人一首には入ってないが勅撰集51首入集の大歌人 三十六歌仙
 ❤元良親王20 一夜めぐりの君 ほととぎすの歌の贈答あり
 ❤清原元輔36 清少納言のお父さんも、、
 ❤大中臣能宣49 「みかきもり」の神祇官も、、
 →噂の真相やいかに。そりゃあ火のないところに煙は立たずと申しまして。。。

・後宮は妃たちが帝寵を争うところ、女主人を盛り立てるにはお付きの女房が優秀でなくてはならない。そんな後宮は自ずと高級貴族たちの社交場になる。お付きの女房はいわばホステス。歌才・技芸に秀で教養深い女房は崇められた。
 →右近はナンバーワンホステスとして引く手あまただったことだろう。
 →19伊勢と違うのは帝のお手がつかなかったことか。

②歌人右近について
 天徳、応和の内裏歌合などに出詠、村上朝歌壇で活躍
 後撰集5首 拾遺集3首 新勅撰集1首 勅撰集計9首入集

 右近の歌、後撰集より
 おほかたの秋の空だにわびしきに物思ひそふる君にもあるかな(後撰集)
 とふことを待つに月日はこゆるぎの磯にや出でて今はうらみむ(後撰集)
 身をつめばあはれとぞ思ふ初雪のふりぬることも誰に言はまし(後撰集)
 →何れも来なくなった男への恨み節っぽい歌でしょうか。

③38番歌 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
・「題しらず」となっている。独詠だろうか、それとも男に言いやった?
  相手の男は誰だろうか→大和物語からして43敦忠でしょう。

  大和物語は81~84段を右近と敦忠の話として右近の歌を載せている。
  81段 忘れじと頼めし人はありと聞くいひしことのはいづち往にけむ 
  82段 栗駒の山に朝立つ雉よりもかりにあはじと思ひしものを
  83段 思ふ人雨と降り来るものならばわがもる床は返さざらまし
  84段 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
  →敦忠との恋は長続きしなかった。来てくれない敦忠への恨み節が続く。

・歌の解釈 2句切れか3句切れか
 2句切れ 誓ったのは相手の男、男が神に見捨てられて死ぬのは惜しい。
      女の恋心の悲しさが出ている歌(定家の解釈)
 3句切れ 誓ったのは私。あなたもご存知でしょう。そんな私から去っていった貴男でも身を滅ぼすのは惜しい。

 →よく分からないがこの歌は女心の誠(純情)を詠ったものなどではなかろう。「裏切られた男なんか許せない、バチが当たって死んじまえ!」という女心の本音をオブラートに包んでぼやかしただけ、、、と思うのだがいかがでしょう。

 →当時「神仏への信仰」「神仏への誓い」は絶対的なものであった(破れば必ずバチが当たる)ということを前提として考えないとこの歌は解釈できないだろう。

・38番歌を気に入った定家は本歌取りもしている。
 身を捨てて人の命を惜しむともありしちかひのおぼえやはせん

④源氏物語との関連
 紫式部は先輩女房として右近を強烈に意識していたのではないか。
・明石19 明石から帰った源氏が明石の君のことを紫の上に打ち明ける。紫の上はショックを受けるがさりげない風を装う。
    
 その人(明石の君)のことどもなど聞こえ出でたまへり。思し出でたる御気色浅からず見ゆるを、ただならずや見たてまつりたまふらん、わざとならず、(紫の上)「身をば思はず」などほのめかしたまふぞ、をかしうらうたく思ひきこえたまふ
 
 源氏は紫の上に永遠の愛を誓った筈、それなのに明石の君が登場し、後には女三の宮が正妻として降嫁してくる。自分への愛の誓いを破った源氏、源氏には神の天罰が下るかもしれない。紫の上は我が身のことはうちおき源氏の身の上を思いやった。
 →紫の上の切ない思いに胸がつまります。ホンに源氏はお阿呆さんであります。

・源氏物語には二人の「右近」が重要脇役として登場する。
 1.夕顔&玉鬘の女房の右近
  夕顔が取り殺されるシーンでの右近
  執念で夕顔の遺児玉鬘を探し出す右近(35番歌の所で述べました)

 2.浮舟の乳母子の右近
  薫と匂宮の三角関係に振り回され進退窮まっていく浮舟。その浮舟を同僚侍従とともに支える右近。ウソにウソを重ねて薫からの追及をかわしていく筋運びは圧巻でした。

 →もっと書きたいのですが長くなりました。この辺で止めにします。

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37番 文屋朝康 玉ぞ散りける

36番歌「夏の夜は」で古今集からの出典は終わりです。2番目の勅撰集は後撰集。これまでも1「秋の田の」、10「これやこの」、13「筑波嶺の」、20「侘びぬれば」、25「名にしおはば」が後撰集からですがここで後撰集のことをまとめておきましょう。

【後撰集】「古今集の後の勅撰集」の意
・古今集に次ぐ2番目の勅撰集。勅は村上帝。951年宮中の梨壺(昭陽舎)に和歌所が設けられ5人が撰者に任命される(成立は不明だが951年と考えておきましょう)。
 →古今集から40年程たって世代が変っている。

・撰者=梨壺の五人と呼ばれる
 源順:嵯峨源氏 学者・歌人 五位能登守 漢詩文に長け 歌合の常連
    勅撰集に51首 三十六歌仙
    →百人一首に漏れた中では一番有力だったかも。
 大中臣能宣:49番歌「みかきもり」の所で
 清原元輔:42番歌「契りきな」の所で
 坂上望城:何と31番坂上是則の息子! 勅撰集に2首 入集
 紀時文:これも何と紀貫之の息子!勅撰集に5首 貫之も草葉の蔭から応援していたか。

・全二十巻 総歌数は1425首 撰者の歌は入れていない(どうしてだろう)
 紀貫之(92首) 伊勢(72首) 凡河内躬恒(27首) 藤原兼輔(24首)が上位入選者
 古今集に比べ四季の歌の比率が少なく恋歌・雑歌が多い

 後撰集から百人一首に撰ばれたのは7首 1,10,13,20,25,37,39
  
 村上帝も父醍醐帝の古今集を意識して大事業に取り組んだ筈。これで和歌の地位はますます高まったと言えよう。

前置きが長くなりました。37番歌です。
22番で父(文屋康秀)が秋の山風(嵐)を詠み、37番で息子(文屋朝康)が秋の野分を詠んで親子入選とは。。。偶然にしては出来過ぎじゃないでしょうか。

37.白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける

訳詩:    夜明けの原いちめんの秋の野草
       そのうえにおくいちめんの露
       風がしきりに吹き寄せるたび
       ぱらぱらときらめいて散る
       まだ糸を通していない 真珠の玉

作者:文屋朝康 生没年未詳 六歌仙22文屋康秀の子 古今集に1首 後撰集に2首
出典:後撰集 秋中308
詞書:「延喜の御時、歌召しければ」 

①文屋氏については父22文屋康秀の項参照。
 天武天皇の孫から発しているが、、、
  「要するに、摂政藤原良房が権力をにぎった九世紀半ばの貞観の頃、名族文室氏はかの紀氏と同様に、精力衰退の過程で和歌に心を寄せるに至ったのだ」(目崎)

 父-息子の重代歌人は12僧正遍昭-21素性法師、13陽成院-20元良親王に次いで3例目
 →百人一首に父子で入っているだけで文屋氏は十分に歴史に名を留めている。
 →1100年後には多寡秀という子孫も名乗り出ているし???、、、。

 文屋朝康 最高官位は従六位下・大舎人大允
  父文屋康秀は最高官位 正六位上、縫殿助 ちょっと父の方が上である。
  →こんなことはどうでもよろしい。朝康にしたら父がもっと頑張ってくれたらオレだってもっと上に行けたのにと思ってたかもしれない。

②歌人としての文屋朝康
・歌合には出ていたようだが(親の七光りもあったか)古今集に1首、後撰集に2首のみ
 →六歌仙を父に持つ朝康としては忸怩たるものがあったかもしれない。

・勅撰集入集の朝康の歌 
 秋の野におく白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸すぢ(古今集)是貞親王歌合
 →秋の野、白露、玉 37番歌とよく似ている。

 浪わけて見るよしもがなわたつみの底のみるめも紅葉ちるやと(後撰集)

・是貞親王歌合、寛平御時后宮歌合といった有名歌合せに出ている由だが歌合の常連だった友則・貫之・興風らとの交流も伝えられていない。
 →ちょっと寂しい。貫之も古今集序で父康秀をあんな風に(文屋康秀は、言葉はたくみにて、そのさま身におはず。いはば商人のよき衣きたらんがごとし)言った手前、仕返しが怖くて近づかなかったのかも。。

③37番歌 白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける
・後撰集詞書は延喜の(醍醐朝)時の歌とあるが既に寛平御時后宮歌合(宇多朝)に載せられている。
 →混乱しているようだが別に寛平の歌合で詠んだ自信作を醍醐帝に奉ったのでもいいのではないか。

・解説書を読んでいるとこの歌けっこう評価が高い。
 「定家はこの歌を寂しい秋の野分のながめの中に白露の美しさを見出したとして高く評価している」(島津忠夫)

・白露= 草葉の上の露(雨つぶではない)
・風の吹きしく=風がしきりに吹く、野分である
・玉 白玉 真珠とする説、水晶とする説あり。
 つらぬく=玉をつないで首飾りやら腕飾りにするということか
 →白露、玉、つらぬく一連の類型で派生歌は実に多い

・定家も本歌取りしている
 手づくりやさらす垣根の朝露をつらぬきとめぬ玉川の里
 むさし野につらぬきとめぬ白露の草はみながら月ぞこぼるる

・「露」の歌、百人一首では他に、
 1 秋の田の
 75 契りおきし
 87 村雨の

〇爺の感想
 野分といえば激しい風で草葉の上の露は散るなんて悠長なものでなく一瞬にして吹き飛んでしまうのではないか。優雅な世界というより激しいすさまじい情景かと思うのだがどうでしょう。 

④源氏物語との関連
 野分については22番歌の所で書きました。
 今回は「露」で考えてみました。

 露ははかないものの象徴、源氏が生涯最も愛した紫の上が天に召される場面です。
 晩秋風の激しく吹く夕暮、源氏と明石の中宮が紫の上を見舞い歌を唱和する。
 国宝源氏物語絵巻「御法」の有名場面です。

 紫の上  おくと見るほどぞはかなきともすれば風にみだるる萩のうは露
 源氏   ややもせば消えをあらそう露の世におくれ先だつほど経ずもがな
 明石中宮 秋風にしばしとまらぬつゆの世をたれか草葉のうへとのみ見ん

 宮は御手をとらへたてまつりて泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して限りに見えたまへば、御誦経の使ども数知らずたち騒ぎたり。さきざきもかくて生き出でたまふをりにならひたまひて、御物の怪と疑ひたまひて夜一夜さまざまのことをし尽くさえたまへど、かひもなく、明けはつるほどに消えはてたまひぬ
 →臨終にあたり紫の上は自分の人生を幸せだったと思ったのか、源氏は紫の上の死をどう受け止めたのか。色々考えさせられる場面でありました。

〈オマケ〉
 露ははかないもの。秀吉の辞世と伝えられる歌です。
  露とおち露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢

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36番 清原曽祖父 「夏は夜、月の頃はさらなり」

さて紫式部の二人の曽祖父(25藤原定方、27藤原兼輔)に対抗し清少納言の曽祖父清原深養父の登場です。枕草子にも敬意を払って色々考えてみたいです。

36.夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづくに月宿るらむ

訳詩:    夏の短夜に興じて 私は月を眺めていた
       まだ宵のくちと思っていたのに
       なんとはや白々と明けてしまった
       この速さでは 月は沈む間もなかったろう
       いったいどこの雲の中に宿っているのかしら

作者:清原深養父 生没年未詳(889?-931?) 五位 清少納言の曽祖父
出典:古今集 夏166
詞書:「月のおもしろかりける夜、あかつきがたによめる

①清原氏は天武帝の皇子舎人親王(日本書紀編纂者)を始祖とする一族。舎人親王の時代から200年も経っており中堅貴族(受領階級)に落ちぶれている。パッとした人は出ていない。
 →「百人一首の作者たち」(目崎)にも筆をおかれてしまっている。

・清原深養父 五位 内蔵大允 (地方勤務はなかったのだろうか)
 孫が42清原元輔、曾孫が62清少納言
 →何と言ってもこれが大きい。紫式部派(であろう)定家もよく清原家の3人を入れたもの。エライ!

・深養父の寓居は大原の小野の里にあり、晩年は洛北岩倉に補陀落寺を建立、隠棲した。平家物語後白河法皇の「大原御幸」の段に記載あり。
  
  鞍馬どほりの御幸なれば、彼清原の深養父が補陀落寺、、、、を叡覧あって、それより御輿に召されけり
  →深養父のことも補陀落寺のことも有名だったのだろう。

②歌人 清原深養父
・宇多朝・醍醐朝で歌人として活躍 歌合には列席しているが屏風歌は詠んでいない。
 古今集に17首、勅撰集に41首 公任は三十六歌仙に入れておらず清輔、俊成、定家らに再発見されている。

・27兼輔、35貫之、29躬恒らと親交あり。おだやかな人柄だったらしい。
 深養父は和歌とともに琴の名手でもあり、宴会での花形であった。
 
  或る夏の夜、兼輔邸に貫之や深養父らが集まり楽宴が開かれた。この時深養父の琴を聞いて兼輔、貫之が唱和した歌が後撰集に載っている。
   
   夏の夜深養父が琴をひくをきゝて
   みじか夜の更けゆくまゝに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く(兼輔)

   同じこゝろを
   足曳の山下みづはゆきかよひ琴の音にさへなかるべらなり(貫之)

   →酒を飲み楽を奏で歌を詠み月を愛でる。これぞ風流の極み、最高じゃないですか(加えて是則が蹴鞠の妙技でも披露すればねぇ)。
   →兼輔・深養父・貫之が同席。歴史的な一幕ですね。
   →曾お爺ちゃん同士の親交、紫式部も清少納言も後撰集を読んで先刻ご存知だったことでしょう。

・36番歌の他に古今集に採られた深養父の歌を3首
 花ちれる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり(春)
 神なびの山をすぎゆく秋なれば龍田川にぞ幣は手向くる(秋)
 冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(冬)
 →何れも36番歌同様機智に富んだ理知的な歌と言えようか。

③さて36番歌  夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづくに月宿るらむ
月のおもしろかりける夜、あかつきがたによめる
 →月は照っていたがあかつき(夜が明けようとする時)になってどこかへ隠れてしまったということか。

 月を耽美し愛惜する心を詠んだ歌(有吉)
 →でも月は見えていない。誇張と機智の歌ということか。

「まだ宵ながら明けぬるを」
 →これは名文句である。矛盾した言い方という向きもあるがそこがいい!

・それこそ後撰集の兼輔邸で月を愛で琴を弾いて明かした夜のことと思えばいいのではないか。
 →それとも恋人との短すぎる夏の夜を恨んで詠んだものか(源氏物語藤壷との密通の項参照)

・「短夜」夏の代表的季語である。
 夏の夜の短さを詠んだ歌
 夏の夜の臥すかとすれば郭公鳴く一こゑにあくるしののめ(貫之 古今集)
 暮るるかとみればあけぬる夏の夜をあかずとやなく山郭公(忠岑 古今集)
 →ほととぎすが付き物である。

・36番歌への定家の派生歌
 夏の月はまだ宵のまとながめつつ寝るやかはべのしののめの空
 宵ながら雲のいづことをしまれし月をながしと恋つつぞぬる

④先ずは曾孫清少納言の枕草子関連から、
 枕草子初段  「、、、、夏は夜。月の頃はさらなり
 枕草子34段 「七月ばかりいみじう暑ければ、よろづの所あけながら夜もあかすに、月の頃は寝おどろきて見出すに、いとをかし
 →清少納言は曾お爺ちゃんの「夏の月」を意識しながら書いたのであろうか。

・源氏物語で「短夜」と言えば物語中最大の官能場面、藤壷との密通場面が思いおこされる。

 何ごとをかは聞こえつくしたまはむ、くらぶの山に、宿りもとらまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり。
  源氏「見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな」
と、むせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、
  藤壷「世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を醒めぬ夢になしても」
 思し乱れたるさまも、いとことわりにかたじけなし。命婦の君ぞ、御直衣などはかき集めもて来たる。
(若紫13)

 →この短夜の陶酔の一夜で藤壷は源氏の子を宿したのであります。

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35番 トップ歌人貫之、 初瀬の梅を詠む

百首も三分の一を過ぎ爺の雑記ノートも2冊目に入りました。誰もが知っている大物歌人紀貫之の登場です。話に花を咲かせましょう。

35.人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香ににほひける

訳詩:    あなたはさあ いかがでしょうか。
       あなたの心ははかりかねます
       でもこの見なれた懐かしいふるさと
       さすがに花は心変りもせず
       昔ながらに薫って迎えてくれていますね

作者:紀貫之 868-946 79才(長生き) 五位 古今集撰者(リーダー)
出典:古今集 春上42
詞書:「初瀬に詣づるごとに、宿りける人の家に、久しく宿らで、ほどへて後にいたれりければ、かの家の主人、かくさだかになむ宿りはある、といひ出して侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる」

①紀貫之 
・父は紀望行(と言っても無名だが) 母は内教坊の妓女だった
 内教坊(朝廷内の舞踏音楽研修所、いわば国立の宝塚みたいな所(田辺))
 →母の芸能人の血は貫之の人格形成に少なからず影響を与えたのかもしれない。

・紀氏については33番紀友則&18番藤原敏行の項参照

・もう一つ、先日31番歌の項で源智平どのに紹介いただいた論文によると、
 「紀氏は坂上田村麻呂の坂上家と並ぶ部門の家で貫之の五代の祖船守は恵美押勝の乱に武功をたてた桓武朝の功臣であった」

 →整理すると紀氏は名門だが貫之の世代政界では既に没落氏族だったということか。

・紀貫之 中央では御書所、少内記、大内記といった文書官吏 地方官としては越前、加賀、美濃、土佐の諸官を歴任(最後の土佐は土佐守) 五位にまで出世
 →芸(歌)が身を助けたということであろうか。

②歌人としての紀貫之
・古今集に101首、勅撰集に435首
 →古今集撰者のリーダーだったとは言え古今集1111首の1割近い数はすごい。
  これでもかという感じ。貫之の強烈な自負が窺える。

・25藤原定方、27藤原兼輔の庇護のもと26藤原忠平にも認められ18藤原敏行、19伊勢、28源宗于、29凡河内躬恒、30壬生忠岑、31坂上是則、33紀友則、36清原深養父らとも交流を持つ。
 →和歌の絶対的権威者(wiki)として君臨した感があるがいかがでしょう。

・何と言っても古今集仮名序がすごい。
 (29番歌凡河内躬恒の所で議論しました)

 冒頭 やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

 それにしても六歌仙(と後に崇められるようになった)に対するこきおろし方は強烈。一部だけだが、

 僧正遍昭は、歌のさまは得たれども誠すくなし。
 在原業平は、その心あまりて言葉たらず。
 文屋康秀は、言葉たくみにて、そのさま身におはず。
 僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。
 小野小町は、あはれなるやうにて、強からず。
 大伴黒主は、そのさまいやし。

 →女性の小町にはやや遠慮が見えるが他の5人にはまるで喧嘩売ってるみたい。

 貫之は自身の歌を評するとしたらどう書くんでしょうねぇ。
  貫之は、歌のさまよけれども心通はず。いはば依頼人に媚びる歌の売人のごとし。
  →なんて言ったら怒られるでしょうね。

・歌合せの題詠や屏風絵に添える屏風歌が圧倒的に多い(貫之集約千首の内半分以上が屏風歌とのこと)公的な晴れ舞台での歌やら個人的な慶賀の歌やら。
 →皇族や大貴族は争うように貫之に歌の注文をしたのではないか。
 →「貫之」と言うだけで歌は売れた。ブランドってそんなものでしょうね。

・土佐日記を著した。
 934年4年間の土佐での勤め(土佐守)を終えて京への帰途55日間の出来事を綴った紀行文(虚構も交えた)。57首歌あり。ほとんどが平仮名。日記文学の草分け。
 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり
 →仮名文字で文章を書いたのは貫之の土佐日記が始まり。
 →女として書いている。「屈折した感情の持ち主だったらしい」(白洲正子)
 →まあそれほどでもないのでは。

・数えきれないほどある貫之の有名歌から列挙すると(何れも古今集)、
 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん
 霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける
 さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける
 色も香も昔のこさににほへどもうゑけん人のかげぞ悲しき 
 吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし

 →理知的・分析的・合理的・秩序整然、、、ということらしい。

③35番歌について 人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香ににほひける
・長い詞書 
 宿の人は男か女か →まあ女(愛人ではないにせよ)とした方が面白いでしょう。
 宿は初瀬か奈良のどこかか →そりゃあ、初瀬の椿市でしょう。

・長谷寺の十一面観音 長谷寺信仰は当時から根強い。
 長谷寺の登廊入口に35番歌ゆかりの梅が植えられている。

・自然に比べての人の心の移ろいやすさを詠んだもの(通説)
 →女の心は「あら、お久しぶりねぇ、お変わりなくって」くらいの軽い気持ちじゃなかったろうか。軽い挨拶代りのやりとりでいいのでは。
   
・家人の返歌は(貫之集)
 花だにも同じ香ながら咲くものを植ゑたる人の心知らなむ

・梅 万葉集時代は花と言えば梅だったが平安時代では花と言えば桜になっている。
 百人一首で梅が詠みこまれているのは35番歌だけ。

④源氏物語との関連
・紀貫之は源氏物語に2ヶ所で実名で登場する。
 1.桐壷9.
  亭子院の描かせたまひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ枕言にせさせたまふ
  →最愛の桐壷更衣亡き後、桐壷帝は伊勢や貫之の和歌や長恨歌で心を慰める。

 2.絵合6.「竹取物語」の絵が登場
  絵は巨勢相覧、手は紀貫之書けり
  →竹取物語の絵の詞書を貫之が仮名で書いたものが実在してたのだろう。

・初瀬椿市は右近が玉鬘に巡り合うところ(玉鬘7.)
 →源氏物語屈指の名場面

 二人の歌の贈答、喜びがほとばしる。
  ふたもとの杉のたちどをたづねずはふる川のべに君をみましや(右近)
  初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへながれぬ(玉鬘)

 →長谷寺へ行かれたら「二本の杉」(登廊入口付近を右に)をお見逃しなく。

・時を経ての人の心の移ろいが話題となるのは、須磨・明石での謫居を経ての帰京後源氏が末摘花や花散里を訪ねる場面(上坂)
 →そりゃあそうかもしれないが、末摘花も花散里も源氏にはほったらかしにされてたわけで心変わりしてても仕方ないところでしょう。
 (勿論二人とも光源氏さま一筋なのですが)

松風有情さんから35番歌の絵をいただきました。
 http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/08/KIMG0222-2.jpg
 →有情さん、ありがとうございました。コメントもよろしくお願いします。

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34番 誰をかも知る人にせむ 藤原興風

有名な33紀友則と35紀貫之に囲まれた34藤原興風。今までよく知りませんでした。折角百人一首に撰ばれたのにそれじゃあ可哀そう。ちょっと調べてみました。

34.誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

訳詩:    親しい友はみな世を去って
       私ひとり老いさらばえて息づいている
       高砂の松はいのち長く生い茂っているが
       松は昔の友ではない 見れば寂しさはいやまさる
       ああ どこの誰を友と呼んだらいいのだろう

作者:藤原興風 生没年未詳 藤原だが官位低い 三十六歌仙 専門歌人 
出典:古今集 雑上909
詞書:「題しらず

①藤原京家の流れ。参議・浜成の曾孫。相模掾・道成の子。正六位上・治部少丞。
 →と言ってもよく分からない。藤原4家に遡ってみましょう。

 藤原4家とは藤原不比等の4兄弟を祖とする4つの家系。
 南家(武智麻呂)北家(房前)式家(宇合)京家(麻呂)

 →持統帝のパートナーだった偉大なる不比等の4兄弟、この4家が奈良朝~平安朝初期に勢力争いを繰り広げる。数多の政乱・政変(藤原広嗣の乱、仲麻呂の失脚、薬子の変)を経て主力争いは南家→式家→北家と移り冬嗣の時から北家がトップに立ち以後北家が藤原家を牛耳っていく。

 不比等の四男麻呂を祖とする藤原京家(ふじわらきょうけ)は全く影が薄い。麻呂の子浜成がいたが事件で失脚以後京家は没落する。

 藤原興風はそんな没落藤原の流れ。相模・上野・上総といった関東地方の地方官を勤め六位治部少丞まではあがった。
 →京家出身としては精一杯のところか。
 →京家出身で百人一首に撰ばれたのは藤原興風のみ。これはエライ。

 京家の祖、麻呂の子に浜成がいて現存する最古の歌論書(歌経標式)を著した。
 →和歌とはどうあるべきかを論じた最初の書。これはスゴイ。

②藤原興風 官位は低かったが有名歌人だった。古今集に17首、勅撰集に38首
 貫之と同時代(古今集編纂時代) 数々の著名な歌合に出ている(高子の五十賀の屏風歌・寛平御時后宮歌合・亭子院歌合等)
 →古今集撰者にはなりそこねたが当時の有力歌人で32春道列樹なんかよりはずっと著名であった。

 和歌の傍ら管弦(笛も琵琶も琴も)に秀で、同じく管弦好きの宇多帝に目をかけられていた。
 →地方回りが多かったろうに大した文化人(芸術家)ではないか。
 →「興風」という名前も一風変っていて何となく風流。「風」がいい。

 興風の他の歌を見てみましょう。

 后の宮(高子)の五十の賀の御屏風歌
  いたづらにすぐす月日は思ほえで花見て暮らす春ぞすくなき(古今集春)

 寛平御時后宮の歌合
  さく花は千ぐさながらにあだなれど誰かは春を恨みはてたる(古今集春)
  契りけむ心ぞつらきたなばたの年にひとたび逢ふは逢ふかは(古今集秋)
  浦ちかくふりくる雪は白波の末の松山こすかとぞ見る(古今集冬)
  
  死ぬる命生きもやすると心みに玉の緒ばかり逢はむと言はなむ(古今集恋)
  →これは強烈(死んだも同然の私 生き返るかどうか試すべく短い間だけでも逢ってください)

  我が恋をしらむと思はば田子の浦にたつらむ波の数を数へよ(後撰集)
  →「あなた本気かしら?」と問われた興風の回答。やりますねぇ。

③さて34番歌 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに
 ・これも色々解釈があるようだが昔の友人も死に絶えた老後の孤独を嘆じた歌でいいのではなかろうか。

 ・古今集888あたりから909までずっと老いを嘆き昔を顧みる歌が続く
  寿命が短く家族も友人も亡くなることが多かった当時、一人老いを迎えるのは孤独の極みであったのだろうか。

  今こそあれ我もむかしは男山さかゆく時もありこしものを(読み人しらず)
  大荒木もりの下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし(読み人しらず)
  →例の源典侍がこの歌を引いて源氏に劣情を露骨に詠みかけている(紅葉賀)
   君し来ば手なれの駒に刈り飼はむさかり過ぎたる下葉なりとも

  さかさまに年もゆかなん年月をあはれあな憂と過ぐる齢か (読み人しらず)
  →源氏が柏木をいびる有名場面でこの歌が引かれている(若菜下)
   、、衛門督心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づかしや。さりとも、いましばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老は、えのがれぬわざなり

  そして34番歌の直前の歌
  かくしつつ世をや尽さん高砂の尾上に立てる松ならなくに(読み人しらず)
  →34番歌はこれを本歌としたという記述もあったがどうであろう。

 ・高砂は普通名詞として高くなった山を言うようだがここは古来の歌枕としての兵庫の高砂でいいでしょう。
  高砂の松 住吉の松 相生の松 松は長寿の代名詞である。
  謡曲 高砂 高砂や~この浦舟に帆を上げて~
  相撲の高砂部屋 前田山・朝潮・ジェシー高見山

 ・百人一首で高砂が出てくるもう一首は
  73高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ 大江匡房
  →この高砂は一般名詞とのこと。

 ・百人一首で「ならなくに」が出てくるもう一首は
  14陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに 源融 
  
  →「ならなくに」小町姐さんが14番で言ってましたが「松も昔の友だちだったら泣いてくれるのに、、、」って感じてしまいますね。

④源氏物語との関連
 ・源氏物語で松は千歳、千代の長寿の木として随所に出てくる。
  「小松」「二葉の松」は幼児の成長を祈るものとして
  「子の日の松」は正月の健康長寿を祈念する行事

 ・住吉大社詣ででは松が詠みこまれている。
  住吉のまつこそものは悲しけれ神代のことをかけて思へば(惟光@澪標)
  →須磨に流謫した昔のことが思い出されます、、

  たれかまた心を知りて住吉の神世を経たる松にこと問ふ(源氏@若菜下)
  →大願成就住吉大社への願ほどき詣で 明石の尼君に

 ・そしてもう一つ大好きな歌を
  年月をまつにひかれて経る人にけふ鶯の初音きかせよ(明石の君@初音)
  →同じ六条院に居るのに逢えない母娘、切ないですねぇ

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33番 風もないのに散る桜、友則会心の一作

誰もが知っている有名歌、紀友則の登場です。ゆっくりと口遊むと何となくゆったりしたいい気分になります。「ひさ」と聞いただけで札を払う競技カルタには似合わない歌であります。

33.久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ

訳詩:    ひさかたの天にあふれる日のひかり
       春の日はゆったりとすぎ 暮れるともない
       こののどかな日を ただひとり
       花だけがあわただしく散る
       なぜそのように 花よ おまえばかりが、、、

作者:紀友則 生年未詳~905? 貫之の従兄弟 大内記 古今集撰者の一人
出典:古今集 春下84
詞書:「桜の花の散るをよめる」

①父 紀有朋(下流貴族) 
 紀氏は紀州に本拠を持つ古代豪族、武内宿禰の子孫
 紀名虎が文徳朝(840年代)で娘を後宮に入れ実権を得ようとしたが失敗、その後紀氏は政治的には落ちこぼれていく。

 18番歌藤原敏行の母の父が紀名虎、紀氏つながりということで友則は先輩歌人藤原敏行と親交があった(18番歌の項参照)

 紀貫之(父紀望行)とは従兄弟。友則の方が20才くらい年長。

 友則自身は平凡な下級官人で出世が遅く40才過ぎても無官であった。
  時平がいぶかしがって友則に問うた歌 後撰集
  今までになどかは花の咲かずしてよそとせあまり年きりはする
 友則の返歌
  はるばるの数は忘れずありながら花咲かぬ木をなにに植ゑけむ
  →よほど世渡りが下手だったのか。40才までどうして食っていたのだろう。

 時平に目をかけられたのかその後、任につき904年に六位大内記(公的文書担当役人)まで昇る。そして古今集編纂者の一人にノミネートされる!
  →やった、ついにオレにも春が来た、、、と思ったことだろう。

②古今集編纂について(29番歌の項参照)
 古今集編纂の勅令が出たのは905年4月18日(仮名序)
 この時友則は大内記であった。古今集が編纂されたのは宮中のど真ん中承香殿の東、内の御書所。年上の友則がリーダーシップをとってたのではなかろうか。
 →今まで卑官の身で内裏に上がるなどとんでもなかった友則、どんなにか晴れがましい気分であったことだろう。

 ところが友則は編纂作業途中にして醍醐帝への奏覧(完成報告)前に病を得て(でしょう)亡くなってしまう。
 →友則の悔しさいかばかりであったろう!

 同僚であり先輩である友則が仕事中現役で死んだ、残された3人は悲しみにくれる。
  紀友則が身まかりける時よめる 古今集 哀傷
  あす知らぬ我が身と思へど暮れぬまのけふは人こそかなしかりけれ 貫之
  時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを 壬生忠岑

 残念だったろうが古今集編纂の栄誉を担い得た友則は幸せだったのではないか。

③歌人紀友則、古今集に45首、勅撰集に64首 寛平歌壇の重鎮であった。三十六歌仙
 紀友則の有名歌より
  君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をもしる人ぞしる 古今集
  秋風にはつかりがねぞきこゆなるたが玉づさをかけて来つらむ 古今集
  春霞たなびく山の桜花みれどもあかぬ君にもあるかな 古今集

  夕されば佐保の川原の川霧に友まどはせる千鳥鳴くなり 拾遺集 公任絶賛

 春霞かすみていにしかりがねは今ぞなくなる秋ぎりのうへに 古今集
  宮中歌合せ初雁お題で「春霞」と詠いだしたので雁は秋なのにと失笑するものあった。すると続けて見事に秋の歌に仕立てたので失笑したものはバツが悪かった。。。
  →大したエピソードとは思えないが、下官ながら歌才に長けた友則を象徴する話として伝わっているのだろうか。

④33番歌 久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ

 百人一首中最も有名な歌の一つであろう(仁王どのによると好きな歌ランキング第5位)
 この歌は「古今集」の心ともいうようなところがある(田辺)。
 →それだけに万葉崇拝者からは目の敵にされた。

 定家以前は左程有名ではなかったが定家が再評価し拾い上げたお蔭で超有名歌となった。

 ・しづ心なく花の散るらむ
  春、咲く桜、のどかな日、風もないのに、散る桜
  →WHY? 何故散るの? と自問自答する。
  →散る桜に何を思うか。生死無常の観念か、散り際の潔さか。
  →古今集以降、桜は日本人の一番好きな花である。

 定家の本歌取り歌
  いかにしてしづ心なく散る花ののどけき春の色と見ゆらん

 因みに百人一首に桜が詠まれているのは6首
  9花の色は 33久方の 61いにしへの 
  66もろともに 73高砂の 96花さそふ

⑤源氏物語との繋がり
 桜は源氏物語にはなくてはならない花。
 源氏が一番愛した紫の上を象徴する花であり春の町を代表する樹木であった。

 久方の 光のどけき 春の日に
 →これこそ「光の君」を詠んだ歌ではないか。

 桜が登場する重要場面を一つ(花宴の朧月夜は23番歌で取り上げたのでそれ以外で)
 若菜下36.六条院春の町での蹴鞠遊び(三月ばかりの空うららかなる日

  督の君つづきて、「花乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」などのたまひつつ、宮の御前の方を後目に見れば、例の、ことにをさまらぬけはひどもして、色々こぼれ出でたる御簾のつまづま透影など、春の手向の幣袋にやとおぼゆ

   →そしてこの後、唐猫が走り出てきて御簾を引き上げ柏木は女三の宮を見てしまうのであります。。

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32番 春道が秋の山道にみつけた永遠のしがらみ

「風のかけたるしがらみ」この名フレーズで後世までその「軽演劇の芸名みたいな名」(田辺)を残した春道列樹。人生どこにどういう「からみ」が待ってるか分かりませんね。

32.山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり

訳詩:    森閑として人里遠い山道をたどる
       眼にもさやかに走る山川
       と なんと 目もさめるようなしがらみが――
       近づいて見れば深山の秋が降りしきらせる
       これは紅葉のしがらみではないか
 

作者:春道列樹 生年不詳~920 文章生(漢文に長ける) 下級官吏
出典:古今集 秋下303
詞書:「志賀の山越えにてよめる」

①春道列樹(つらき)父は春道新名(と言っても知る由もないが)物部氏の末流
 何れにせよ没落豪族の流れで全くの下級官吏
 →藤原氏ばかりでは官僚組織は成り立たない。それを支える下の階級があってこそ。歯車と言われようが捨て駒と言われようが。

 文章生、漢文ができる文書官吏だったのだろう。その後やっと六位・壱岐守の辞令をもらうが赴任前に死没
 →壱岐!すごい赴任地。それでも一国の主として花を咲かせたかっただろうに、、、。

②歌人としての春道列樹
 古今集に3首 勅撰集に計5首 群小歌人の一人か

 歌人同士の交遊もないようだし歌合せにも出ていない(出られていない)。
 貫之・躬恒・忠岑・是則らと同世代なのに全くの孤独。
 →逆に言えば一匹狼って感じだろうか。

 32番歌の他に古今集に採られた列樹の歌
  作日といひ今日とくらしてあすか川流れてはやき月日なりけり
  梓弓ひけばもとすゑ我がかたによるこそまされ恋の心は

  →二つともちょっと理屈っぽくそんないい歌とは思われないのですが。。

③32番歌 
 「風のかけたるしがらみ」何と言ってもこれがすごい。
  →一世一代のキャッチコピー。これで末代に名を留めることになった。
  →一曲のヒットで生涯歌い続けている一発屋歌手、けっこういますよね。

  この歌が百人一首に選ばれたのは歌人列樹としてではなくこの歌ゆえである。

 ・「、、、は、、、なりけり」自問自答式の理知的な(理屈っぽい)歌
  古今集から例をあげると、

  同じ枝をわきて木の葉の移ろふは西こそ秋のはじめなりけれ 藤原勝臣
  見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり 貫之
  →理屈、説明。俳句では「止めなさい」と叱られるケース。
  →「吹くからに」よりはいいか。

 ・「しがらみ」=せきとめるもの、まといつくもの
  紅葉の葉っぱが風で吹き寄せられている。

  「しがらみ」が詠みこまれた歌
   ながれゆくわれは水屑となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ 
   大宰府に左遷された道真が宇多院に助けを求めた歌(大鏡)
   →醍醐帝・時平コンビの前に宇多院は何もしてやれなかった。
   →「しがらみとなりてとどめよ」切実な訴えである。

  定家が32番歌を本歌取りした歌
   木の葉もて風のかけたるしがらみはさてもよどまぬ秋のくれ哉
   →こんなのパクリもいいとこじゃないでしょうか。

 ・百人一首中紅葉を詠んだのは5首 
  5奥山に 24このたびは 26小倉山 32山川に 69嵐吹く
  この内散る紅葉、散った紅葉を詠んだのは 32 と 69

④詠まれた場所 :「志賀の山越えにてよめる」
 ・志賀越え=京都北白川から左に比叡山、右に如意ヶ岳を見て北大津に抜ける山道(県道30号線) 古来の街道 天智帝創建の崇福寺(志賀寺)があった。

 ・京都から近江の志賀寺へ 春は桜、秋は紅葉を愛でてのハイキングコースであった。女たちは着飾って、それを見た男たちは胸ときめいて、、、。  

  志賀越えで詠まれた歌 
  あづさ弓春の山辺を越えくれば道もさりあへず花ぞ散りける(貫之 古今集)  
  春風の花のふぶきにうづもれて行きもやられぬ志賀の山道(西行 山家集)
  袖の雪空吹く風も一つにて花に匂へる志賀の山越(定家 風雅集)
  →志賀の山越えが著名な歌枕であったことがよく分かる。

  一夜めぐりの君(元良親王)も志賀の山に住む女に通っている(大和物語第137段)
  仮りにのみ来る君待つとふり出でつつ鳴くしが山は秋ぞ悲しき(元良親王)

⑤源氏物語との繋がり
 ・宇治川の網代はあるけどしがらみはないかなと思いましたが一か所見つけました。僧都に助けられ小野の山里に匿われた浮舟が我が身を顧みて手すさびに歌を書きつけるところ。
  身をなげし涙の川のはやき瀬をしがらみかけて誰かとどめし 浮舟@手習11
  →これ見ると川の流れをせき止めるものとして「しがらみ」はよく使われたのであろう。
  →小野の山里、志賀越えとは隣り合わせの所である。

 ・紅葉は源氏物語でさまざまな場面に見られる。また改めて書きます。
  →散る紅葉、紅葉の落葉はあまり出て来ないような気がしてるのですが。

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