11番 唐でなく隠岐に流れた小野篁 

11番に入りました。ここからは全て実在の人となります。先ずは流人参議篁から。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
11.わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:   大海原に横たわるあまたの島を経めぐって
      はてに配流の身を横たえるため
      この篁は舟に乗り揺られて去ったと  
      告げてくれ漁夫の釣舟よ
      都に残るあの人にだけは

作者:参議篁(小野篁)(802-852)51才 
出典:古今集 羈旅407 (羈旅と言っても島流しなんですが、、)
詞書:「隠岐国に流されける時に、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣はしける

①小野家は代々武勇で知られた家系であるとともに学者・書道家の家柄でもある。古くは遣隋使小野妹子。篁がいて小野道風(三跡の一人)は孫。小野小町も孫との説あり。

 篁自身も漢詩文に優れ和歌も書も能くした。折しも平安初期漢詩文全盛期から古今調和歌への変わり目にあった。目崎徳衛は小野篁を「最初の古今歌人」として評価している。
 →光琳かるたでは武者のいでたちをしている。文武に秀でた男、何となく体育会系でマッチョな男に思えるのだがどうだろう。

 直言実行の変り者、融通のきかない一徹者の感じ。
 37才の時遣唐船のことで異議を唱え嵯峨帝の逆鱗にふれ「隠岐に行ってまいれ!」
 →この時の一部始終を吟味する余裕もないが2年後に許されて帰ったところをみると篁の言い分にも一理あったのであろう。

②さて、隠岐は言うまでもなく後に後鳥羽院が流されたところ。定家がこの歌を選んだのには勿論隠岐配流のことが頭にあったのであろう。

 11番歌が詠まれたのは隠岐に船出する難波津(出雲説もあるようだが難波を出て瀬戸内海経由の方がしっくりする)。

 「京なる人のもとへ遣はしける」
 →これは妻でしょう。

③小野篁の逸話(冥界往来説話)(今昔物語)
 小野篁は夜な夜な地獄に通い閻魔大王の判定補佐役を務めていた。六波羅珍皇寺の入口から入り嵯峨清凉寺近くの井戸から戻った。
 →閻魔大王の信頼を得てアシスタントに駆り出されるとは並大抵の男ではできない。文武に優れ権威をも恐れず直言できる篁だからこそであろう。100人中一番の武人かもしれない。

④さて、歌の鑑賞。
 11番歌は「わたの原や」。76番歌に「わたの原こ」がある。即ち上5だけでは決められず6字目を聞いて確定する所謂「大山札」である。

 悲劇の人の悲壮な歌とか言われるが爺にはそんな風に響きません。むしろ「俺は何も悪いことはしていない。恥じることもない。堂々と行って来るぞ!(と勇ましく、、)」と言う風に聞こえるのですがいかがでしょう。ちょっと例の後鳥羽院の歌に感じが似てると思いませんか。

   我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け

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10番 見えぬ蝉丸 見て詠める

さて、10番歌です。しつこいようですが復誦やっておられますか。10首、このあたりが境目です。そうです、この逢坂の関を乗り越えば100番まで行けます。源氏の須磨返りならぬ逢坂返りは勿体ないですぞ。 

10.これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

訳詩:  これがかの 名にし負う逢坂の関
     東下りの旅人も 京への人も
     知り人も 見知らぬ人も
     たとえこの地で東に西に別れようと
     きっとまた逢う日もあろう
     名にし負う 逢坂の関

作者:蝉丸(生没年・伝未詳)
出典:後撰集 雑一1089
詞書:「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに、行きかふ人を見て 蝉丸

①蝉丸も生没年・伝未詳。さらに僧なのか僧でないのか、盲人なのかそうでないのかも分からない。というより色んな伝承が飛び交っていて訳が分からない。

 今昔物語では宇多帝の第八皇子(琵琶の名手)の雑色で自ずと琵琶の名人になった盲目の僧侶として登場、平家物語ではこれを発展させ醍醐帝の第四皇子としている。
 →次々に尾ひれがついていくのが伝承というものであろう。
 (光琳かるたでは目をつむっているが盲目なのか単に眠たげな目をしているだけかよく分からない)

  平家物語巻十 海道下り(平重衡を鎌倉に下向させる道行文)
   四宮河原になりぬれば、ここはむかし延喜第四の王子蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶をひき給ひしに、博雅の三位と云いし人、風の吹く日もふかぬ日も、雨のふる夜もふらぬ夜も、三年が間あゆみをはこびたち聞きて、彼三曲を伝へけむ、藁屋の床のいにしへも、思ひやられて哀れなり。

②琵琶の名手 琵琶は盲目の法師(琵琶法師)の得意とするところ。
 源氏物語では明石入道・明石の君が琵琶の名手。あの末摘花も琵琶を弾いたし宇治の姫たちも。女性が弾く琵琶の音に貴公子たちは心をときめかしたのである。

③逢坂の関、不破の関(美濃)、鈴鹿の関を平安三関というとあるが、実際には平安時代には既に逢坂には関所はなかったらしい。でも交通の要所であり、ここまでが京内で逢坂の関を越えると京外ということだったのだろう。

 62番歌「夜をこめて」(清少納言)も逢坂の関が詠まれている。

 源氏物語関屋ではたった一度だけ契った人妻空蝉が常陸より帰ってくるのと石山詣でに出かける光源氏が12年ぶりに邂逅する場面に逢坂の関が使われている。
  →出来過ぎの舞台設定だが

  行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ(空蝉)
  →この歌も10番蝉丸歌を下敷きにしている。

④この歌何ともリズミカルで覚えやすい。これも8番歌「わが庵は」同様世をはかなんでるような暗い響きはない。むしろウキウキと弾むような感じがする。
 →前半か行が多く後半はさ行で始まる。語尾の「も」も効いている。

この蝉丸の歌、百人一首でも人気の歌であろう。人物も面白いし歌も分かりやすい。「これ」→「しる」の2字決まりだしかるたでも得意札にしている人多いのでは。

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9番 小町 花の色は永久に不滅です!

さて、お待ちかね妖艶美女の登場です。どんな談話に花が咲くか楽しみであります。

9.花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に

訳詩:   春は爛け 我にかえって眺めやれば
      花はもう盛りをすぎ 色あせてしまった
      ああ この長雨を眺めつくし
      思いに屈していたあいだに 月日は過ぎ
      花はむなしくあせてしまった そして私も

作者:小野小町(生没年・伝未詳) 仁明朝(8世紀前半)ころの宮廷歌人 六歌仙
出典:古今集 春下113
詞書:「題しらず

①誰もが知っている小野小町ですがこの人も生没年・伝未詳であります。
 任明朝(833-850)頃の女房で歌人と言われている。古今集に18首。大女流歌人です。
 出自として11番小野篁(802年生まれ)の孫とか出羽郡司小野良真の娘とかの説もあり。
 →まあよく分からないということです。
 →仁明天皇の更衣であったとも書かれていたがそうだろうか。更衣なら当然お手はついた筈だが、、、。

②古今集序での小野小町評
 小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて強からず。
 いはばよき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは 女の歌なればなるべし

 →「衣通姫の流れ」=絶世の美人、そして「強からず」 いいじゃないですか。

 (余談)
  世に言う本朝三美人は衣通姫、光明皇后(聖武天皇の皇后)、53番藤原道綱母
  →小野小町は入っていない。誰がどう決めたのか知りませんが、、。

 小野小町の他の歌
  思ひつつ寝ればや人のみえつらむ夢としりせばさめざらましを
  うたたねに恋しき人をみてしより夢てふものは頼み初めてき

  →夢の歌が多い。夢の中に生きた女ということか。

③古今集で歌人たち(安倍清行・小野貞樹・文屋康秀)と歌の贈答をやっている。
  文屋のやすひでが三河の掾になりて「あがたみにはえいでたたじや」と、いひやれりける返事によめる
  (小野小町)わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ

  →小町さん文屋さんを訪ねて三河まで来たんですかね。どうでしょう多寡秀どの?

  他に12番僧正遍昭とも親しかったようで軽妙な歌のやりとりをしている。
  →美人で歌が上手で気がきいて機智に富んで、、、アイドル女房だったのでしょうか。

④さて9番歌、「すばらしい歌である」と田辺聖子は絶賛している。
 「眺め」と「長雨」、「降る」と「経る」の掛詞
  →長雨ときくと「雨夜の品定め」を思い浮かべる。
  →「世に経る」の「世」は男女のなからい、異性との愛情関係を表す言葉。

  この歌から爺が抱く小野小町像は、
   美人で頭もよく仕事もよくできるすばらしい女性だった。ただ身分的な壁があり天皇の寵を得たりトップ貴族の妻になることはできなかった。さりとて並の貴族と所帯を持って並の女性になってしまうには美人過ぎた。結局美人たる人生を孤独に生き抜いた女。そんな女がアラフォーくらいになって心境を詠んだのが9番歌ではなかろうか。

  →「源氏物語作中の美貌女性の中でこの歌の心に共鳴するのは晩年の六条御息所であろうか」(上坂信男)
   ⇒爺も賛成です。

⑤小野小町、数々の伝説を生み小町物の謡曲などいっぱいあるようですね。

 →先日山梨に花見に行った帰りにたまたま御開帳をやっているというので甲斐善光寺に立ち寄ったらその宝物館に小野小町の髑髏像があったのでびっくりしました。あまりいい気持ちのものではないですね。 

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8番 ♪都の東南 喜撰の杜に~~

6番家持、7番仲麿は実在確かな人物でしたがまた8番から10番まで訳の分からない人が続きます。そこが百人一首のいいところでして、、、。

8.わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり

訳詩:   庵はどこかとおたづねですか
      都からは東南にあたる
      そうそうその宇治山 澄んだ泉の湧くあたり
      心澄まして住みついておりますのに
      なんですか世間では 失恋でもして
      世を憂し山と引込んだように噂しているとか・・・・

作者:喜撰法師(生没年・伝未詳) 六歌仙の一人
出典:古今集 雑下983
詞書:「題しらず

①喜撰法師、例によって生没年・伝未詳。喜撰の歌として残されているのはこの8番「わが庵は」一首のみ。その喜撰を貫之は六歌仙に選出し、古今集仮名序で次のように論評している。

 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終り確かならず。
 いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。
 よめる歌多く聞こえねば、かれこれを通はしてよく知らず

 それにしても「一首のみで六歌仙とはこれいかに!」そして上の仮名序の評もいい加減で褒めてるのかけなしているのかよくわからない。百人一首に撰ばれたことよりも古今集に載せられ六歌仙として崇められたことが摩訶不思議である。

②喜撰法師「世を憂しと思い宇治の山中で心静かに過ごした遁世者」としておきましょう。
 しかぞすむ=このように心を澄まして、鹿といっしょに、、掛詞

 →遁世者が世を嘆く歌というより機智・ユーモアの歌と解釈するのでいいのでは。
  川柳「お宅は?と訊かれたように喜撰よみ」

③宇治の山に鹿はいたのか。源氏物語宇治十帖椎本の匂宮・大君の歌の贈答に出てくる。

  (匂宮) 牡鹿鳴く秋の山里いかならむ小萩がつゆのかかる夕暮
  (大君) 涙のみ霧りふたがれる山里はまがきにしかぞもろ声になく

 →宇治の姫君に秋波を送る匂宮、頑なに心を閉ざす大君

④宇治山=喜撰山(416M) 三室戸寺から少し入ったところ。それでも随分と山深かったのであろう。そこに庵を作って喜撰は世を忍んで過した。

 この「都のたつみ」の歌を定家が撰んだ理由、「絢爛たる暗号」によると、
  後鳥羽院が流された隠岐からみると「たつみ」は京、即ち定家自身がいるところ。
  この歌は後鳥羽院に対し自分は京で世を愁いながら過ごしていますよ、、、というメッセージだった。
  
  →なるほどよく考えたものですね。さて地図を見てハタと思いました。
   隠岐 の東南は 京 の東南は 宇治 の東南は 津 ではありませんか!
   (別にどうってことありませんが)

⑤宇治と言えば源氏物語宇治十帖、何故紫式部は光源氏亡き後の物語の舞台を宇治に設定したのか。宇治は京にほど近く宇治川の南岸は高級貴族の避暑別荘地帯、北岸はひっそりした遁世隠遁者が庵を結ぶ土地柄であった、、、というのが定説です。

 →爺は紫式部はこの8番歌を拠り所として宇治=憂しのイメージから宇治を舞台に撰んだと思ってます。そして喜撰法師に倣って宇治の阿闍梨を登場させた。ただこの阿闍梨、人情・ユーモアを解さない堅物のみの偏屈法師だったですねぇ。。

 →更に言えば源氏物語宇治十帖によって宇治は「憂し」土地柄と規定づけられたのであろう。

昨年末源氏物語完読記念旅行で訪れた三室戸寺、花のお寺、つつじ・あじさいの時が最高とのことだった。さぞかし今ごろはつつじで賑わっていることでしょう。

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7番 遣唐使仲麿 ~もろこしより月をみて~ 望郷の歌

7.天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

訳詩:   大空ははてもなく東へかたむく
      ふりあおげば夜空に円く
      鏡のような月がかかって―――
      ああふるさと 春日なる三笠の山 かの山に
      さしのぼっている同じ月を
      私は今この遥かな岸にみつめている

作者:安倍仲麿(701-770) 70才 遣唐留学生
出典:古今集 羈旅406
詞書:「唐土にて月を見てよみける」
   古今集 左注
   「この歌は、昔、仲麿を唐土にものならはしに遣はしたりけるに、数多の年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より、また、使まかりいたりけるに、たぐひてまうで来なむとて出でたりけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、むまの餞しけり。夜になりて、月のいとおもしろく出でたりけるを見てよめる、となむ語り伝ふる

①百人一首中唯一海外から日本を詠んだ貴重な歌。この歌のお蔭で当時の国際情勢、日本の立ち位置に思いを馳せることができる。

②安倍仲麿の一生
 701 @ 1 大和国で誕生 幼少より秀才 安倍氏は奈良朝に仕えた古代史族
 717 @17 第9次遣唐使として唐、長安へ(同期生 吉備真備・玄昉) 
      科挙に合格、玄宗皇帝の寵を得て昇進を重ねる 唐の最盛期
      →あの超難関の科挙に日本の留学生が合格!アンビリバボーである。
      その間李白・王維らと親交を重ねる(すごい文化人である)
 753 @53 遣唐使船で帰国を図るが遭難、ベトナムへ漂着
      →この船で鑑真和上がやっと渡日を果たす
 755 @55 長安に戻る 帰国はあきらめる
 770 @70 没

 仲麿の唐での私生活がよく分からない。結婚して妻はいたのか、子どもはいなかったのか。その辺が分かるともっと親しみがわくのでしょうが。

③遣唐使について
 第1回は630年、以降894年菅原道真の建議により停止されるまで20回に亘り派遣された。
 この意義は大きい。当時世界の最先端国として隆盛を極めた唐(長安)の文化・制度を学び、仏教が伝播した。
  →山上憶良も701年、第7次遣唐使として渡唐している。

④歌の由来
 帰国を前に同僚が開いてくれた送別会の席上で仲麿が詠んだ歌とされる(詞書より)が、誰がどのように日本に伝えたのは不詳であること、詠みぶりが万葉調というより古今調であることから仲麿が詠んだ歌ということに疑念をはさむ説もある。
  
  →「もっとも可能性の高い人物は貫之であろう」(吉海直人)
  →古今集のプロデューサー紀貫之なら納得である。

⑤歌の場所
 春日なる=現在の春日大社のあたりであろう 
 三笠山は現在の若草山ないし御蓋山 
 
 遣唐使たちは出発に際し春日大社(創建768年)或いはその前身の神社に道中の無事を祈願した。奈良の春日は思い出いっぱいの場所であった。

⑥歌の鑑賞
 この歌中学校の教科書にも出てきたのでは。超有名な歌である。
 口に出してみると異国で遠い故郷を想う留学生の切ない心に胸打たれるものがある。

  →年老いた親を日本において海外で駐在生活をしていたとき、「いい日旅立ち」の一節を聞くと涙がこぼれたものである。

    あ~あ~、日本のどこかで~わたしを待ってる人がいる~~

  →今では飛行機便も発達し行き来も簡単だしテレビ電話もある。でも20年前ですら大変だった。ましてや1300年の昔、命がけの渡航。想像を絶するものがある。

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6番 万葉のトリ 家持

6.かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける

訳詩:   七夕の夜 かささぎが羽を連ね
      思われ人を向うの岸に渡してやった天上の橋よ
      今は冬 かの天の橋にも紛う宮中の御階に
      まっしろな霜が降りている
      目に寒いこの霜ゆえに しんしんと夜は深まる

作者:中納言家持(大伴家持)(718-785) 68才 大伴旅人の長男 歌人・政治貴族
出典:新古今集 冬620
詞書:「題しらず

①この歌、古来百人一首の秘歌とされてきた(「百人一首」有吉保)。不思議な歌である。新古今集に家持作として載せられているが万葉代表歌人で万葉集の編纂者である家持なのに万葉集には載せられていない。そもそも家持の時代にあったのかも不明。。。。ということでこの歌は家持の歌ではないとされている。
 →百人一首は歌が先ず大事、秀歌としてこの歌が選ばれた。
 →詠者も大事(家持も入れておきたい)、ええぃ、家持作にしておこう!ということか。

②大伴氏は古代からの名門氏族。藤原氏の攻勢を受け徐々に勢力を削がれていく。家持も受領として全国を転々とした(左遷され戻されまた左遷される繰り返し)。
 大宰府(父旅人と)-越中守-難波-因幡守-薩摩守-陸奥按察使
 (大宰府には山上憶良もいて旅人と筑紫歌壇を作っていた。家持も参加していたか)
 (難波で防人の事務に従事、この時防人の歌を収集した)
 (最後は多賀城で没したという説もある)
 →これだけ地方色豊かな歌人も珍しい。 

③さて、歌の鑑賞。「かささぎの渡せる橋」について二通りの解釈。
 1 地上(宮中)説。賀茂真淵以来主流。
 2 天上(天の川)説。七夕伝説を踏まえたもの。
 →平安王朝人は宮中に馴染があったろうから地上説かもしれないが我々としては天の川の方が現実味があるのではなかろうか。冬の寒空を見て七夕伝説に思いを馳せる。どうでしょう。

④この歌に関し正岡子規が「歌よみに與ふる書」で29番凡河内躬恒「心あてに」をボロクソにけなした後次のように褒めて?いる。

 「鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」面白く候。躬恒のは瑣細な事を矢鱈に仰山に述べたのみなれば無趣味なれども家持のは全く無い事を空想で現はして見せたる故面白く被感候。嘘を詠むなら全く無い事とてつもなき嘘を詠むべし
 →6番と29番、どっちもどっちだと思うのですが、、。

⑤家持の歌は473首も万葉集に入れられている(というより自分で入れた)。柿本人麿が万葉前期の代表歌人なら大伴家持は万葉後期のトップ歌人であろう。

 有名なのは、

  うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば(万葉集巻十九)
  新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(万葉集巻二十 4516番最後の歌)

 →万葉歌人大伴家持も平安王朝歌人からは重きをおかれていなかった感じがする。

⑥余談 七夕伝説は源氏物語に頻出する。7月の記述があると喜びの場面でも悲しみの場面でも必ず七夕のことが言及されている。

 紫の上の一周忌を前に故人を偲ぶ源氏(ああ、今年は共に星を見るひともいない、、、)
  七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれの庭に露ぞおきそふ(源氏@幻)

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5番 猿が聞く鹿の鳴き声

5.奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

訳詩:   秋深い奥山に紅葉は散り敷き
      妻問いの鹿が踏みわけ踏みわけ
      悲しげな声で鳴きながらさまよう
      あの声をきくと
      秋の愁いはふかまるばかりだ

作者:猿丸大夫(生没年・伝未詳)
出典:古今集 秋上215
詞書:「是貞親王の家の歌合の歌」

①生没年不詳・伝未詳ってどういうことでしょう。居たか居なかったかも分からない、、、いい加減なものです。この歌古今集215番に「よみ人しらず」として出ている。即ち古今集が編まれた平安前期(905)では不詳だった。それを中期の公任が三十六歌仙の一人として猿丸大夫をあげ、この歌を猿丸の歌とした。ここに猿丸はレジェンドとして確立されたということか。

 定家は勅撰集では「よみ人しらず」となっているのに公任に倣いこれを猿丸大夫の歌として百人一首に入れた。即ち猿丸に日の目を見せたのは公任と定家の合作だったということでしょうか。

②定家が入れたのはこの歌を「暮れゆく秋山の寂寥を表す」ものとして高く評価していたからであろう。83番に自分の父(藤原俊成)の歌として採ったのは猿丸歌を本歌としたもの。

  世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

 →俊成には他にいい歌あるのに何でこんな二番煎じをという声が多い。爺もそう思います。
 →定家は「山の奥の鹿の鳴き声」が余程お好きだったのだろう。

③さて、その鹿の鳴き声。秋になると妻を求めて鳴く声が切ない、、、ということだがどんな声なのでしょう。YOUTUBEで聞いてみたが「ひゅう~~ぴゅう~~」ってあまり切なく聞こえない。まあ鳴き声には色んな状況があるのでしょうからこれが求愛の時の声かどうか分かりませんが。

④この歌の詠み方として二つ問題提起がされている。
 ・紅葉を踏み分けたのは人か鹿か?
  →人でいいと思うのですがどうでしょう。

 ・古今集の並びではもみじは萩の黄葉(晩秋でなく初秋)であるべきではないか。
  →いや、これは紅葉でしょう。萩は7月イノシシに決まってるじゃないですか。

⑤その他: 
 1 明治の「鹿鳴館」、賓客をもてなす宴会で歌われた漢詩から取られた。
  「なぜか歌仙絵では風体いやしきオッサンに描かれている」(田辺聖子)
   →光琳かるたではひょうきんな感じで描かれている。鹿の夫婦が素晴らしい。

 2 伝未詳の猿丸ながら各地に猿丸大夫ゆかりの地がある。
   →伝未詳故に勝手に作られたものであろうか。

   猿丸神社 京都府宇治田原 = 鴨長明の「無名抄」「方丈記」に言及あり。
   猿、猿田彦、猿楽、、、芸能につながるこっけいなパーソナリテイの感じか。

 3 宗祇の百人一首古注に「猿丸大夫を弓削道鏡と号す」と書かれており道鏡説もある由。
   →道鏡のことよく知りませんがまさかねぇ。道鏡が山の奥に鹿の声聞きに行くわけないでしょうに。

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4番 赤人の歌う白き富士

出だしのワン・ツー・スリーを終わり第4番歌に入ります。3番までの歌毎日復誦されてますか? 始めが肝心です。「まあまだいいや、10首くらいたまってからやろう」と考えているとしたらオシマイですぞ。1~5番、覚えやすい(馴染のある)歌が集まってると思います。是非毎日の復誦を習慣づけてください。

4.田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

訳詩:   田子の浦から振り仰げば
      富士の峰の雪の輝き
      いま あそこには
      新雪がさらに積っているのだ

作者:山辺赤人(生没年未詳)奈良時代初期の宮廷歌人
出典:新古今集 冬675
詞書:「題しらず」

万葉集原歌:
  田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

①万葉集の歌の方が雄大荘厳ではるかに勝る、新古今の歌は改悪だ!との評価がもっぱらのようです。まあそうなのかも知れませんが新古今は定家も与って編まれた勅撰集でそこから定家が百人一首に採用したのですから文句をつけることもないでしょう。二通りあると思えばいいじゃないですか。

 なお、この万葉集原歌は官命をおびて東国に旅した時富士の崇高な神性を謳い上げた長歌の反歌です。

②山辺赤人 生没年不詳ながら柿本人麿の20年くらい後、奈良朝初期の宮廷歌人と考えておきましょうか。身分は低く天皇貴人が各地に出かけるとき(行幸)同道し天皇を讃え叙景を詠むことがお役目だった歌人。歌は上手だったようで古今集序では柿本人麿と並び称されています。

 古今集序
 又、山の辺の赤人といふ人ありけり。歌に、あやしく妙なりけり。人丸は赤人が上に立たむ事かたく、赤人は人麿が下に立たむ事かたくなむありける

 山辺赤人の代表歌とされる万葉歌を二つ
   和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ芦辺をさして鶴鳴き渡る(万葉集)
   春の野にすみれつみにとこし我ぞ野をなつかしみ一夜ねにける(万葉集)
   →これも女性(すみれ)を訪れたことを暗示しているのであろうか。 

③富士は日本一の山! これは日本人が物心ついたときからそう感じ讃えたことでしょう。当然歌にも物語にも富士山は欠かせません。定家もよくぞ百人一首に富士山を入れてくれたものです。

 ・万葉集に見られる富士を詠んだ歌
  天の原富士の柴山木の暗(このくれ)の時ゆつりなば逢はずかもあらむ(東歌)
  富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がりとへばけによばず来ぬ(東歌)
   →赤人の歌は旅人の歌だが、これらは富士とともに暮らしていた人の素朴な歌

 ・竹取物語 かぐや姫に振られた帝が不死の薬を焼かせる最後の場面
   不死の薬の壺並べて、火をつけて燃やすべき由、仰せ給ふ。、、その山を「富士の山」とは名づけける。その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ、言ひ伝へたる。

 ・伊勢物語第九段 東くだり(から衣の段) 最も有名な段の一つ
   富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
    時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらむ
   その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。

 ・源氏物語 若紫 源氏が北山に上り京を眺め下ろす件で従者良清が京しか知らない源氏に日本は広いことを言い聞かせるシーン(この直後若紫を垣間見る)

   これはいと浅く侍り。人の国などに侍る海山の有様などを御覧ぜせられて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしの嶽」など語りきこゆるもあり。また、西国(にしぐに)のおもしろき浦々、磯の上を言ひ続くるもありて、よろづにまぎらはしきこゆ。

 羅列のみでスミマセン。。

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3番 歌聖人麿 、、、ひとりかも寝む

改めて「光琳かるた」のご紹介を。

「獺祭書屋 – 光琳かるた」http://dassai2.p2.weblife.me/p5/scrap0169.html

歌聖人麿、いかにも余裕ある恰好でそっくり返ってます。字は読めませんねぇ。

3.あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

訳詩:   山鳥は夜ともなれば 一羽一羽
      べつべつの峰に谷を隔てて眠るという
      そのしだれ尾を闇のなかへ長く垂れて―――
      ああそのようにこのひややかな秋の夜の
      長い長い時のまを 添うひともなく
      わたしはひっそり寝なくてはならないのか

作者:柿本人麿 (生没年未詳) 持統・文武朝(7世紀末~8世紀初)の宮廷歌人
出典:拾遺集 恋三778
詞書:「題しらず」

①この歌万葉集に原歌があるが詠者不詳とされておりそれが拾遺集に入れられて人麿作とされそこから百人一首に採られた。従ってこれは歴史上人物たる柿本人麿の作ではないと切って捨てる向きもある(吉海直人)。
 →まあそんな固いこと言わなくていいでしょう。歌聖人麿の作として考えましょうよ。

②柿本人麿 持統天皇の時代の宮廷御用達歌人 挽歌やら讃歌やら。
 →「天上の虹」でも人麿は持統天皇の側近として重用されている。
 →歌はまつりごとを進めるに重要な役割を果たした。

 取分け天武の直系皇統(天武―草壁―文武)を目指す持統の意に沿い「日継の歌」を謳い上げた。万葉集に長歌19首・短歌75首。古今集以下勅撰集に248首。

③柿本人麿の有名歌
 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(@近江京)
 東の野にかげろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(@宇陀安騎野)
  →軽皇子に同道天武を偲ぶ
 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ(@明石)
  →源氏物語明石の巻で何度も引用されている
  →やはりこの歌を百人一首に入れて欲しかった

 五七五七七の短歌形式を確立させた歌人という位置づけでいいのではなかろうか。

④さて「あしびきの~~」如何でしょう。
 正直歌聖として崇められるご仁の歌としてはいかがなものか、分かり易いだけが取り柄の歌かもしれません。まあでも歌聖だからこそこういう平凡な歌もいいのかもしれません。俳聖芭蕉にして「古池や蛙飛び込む水の音」ですもんね。

ひとりかも寝む
 91番にも出てきます。
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む

 山鳥の雌雄は夜間谷を隔てて寝る習性があった(ホントかいなと思いますが)。
 このことは源氏物語でも引用されています。

 よろづに思ひ明かしたまふ。山鳥の心地ぞしたまうける。(夕霧28)
  →夕霧が塗籠で落葉の宮に迫るがはぐらかされてしまう場面

  昼はきて夜は別るる山鳥の影みるときぞ音はなかれける(新古今 読人しらず)

 もう一か所、匂宮が中の君と契り薫は大君と何もできず、問題のシーン(総角10)
 うちもまどろまず、いとどしき水の音にも目も覚めて、夜半の嵐に、山鳥の心地して明かしかねたまふ。

でもこの3番歌読めば読むほど持統帝が重用した歌聖による歌とは思われませんね。定家も罪なことしてくれたものです。

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2番 続いて持統 天の香具山

お花見は楽しまれましたか。春爛漫、プロ野球も開幕しハリルジャパンも新規スタート。毎日がフリーな身とは言え何か新鮮味を感じいい気分でおります。

毎回多数のコメントをいただきありがとうございます。話題も談話室らしく多方面にわたり嬉しいかぎりです。本当はもっと歌の解釈に焦点をあてた解説をと思うのですが能力的にちょっと無理なようです。大岡信の訳詩はありきたりの現代語訳でなく斬新で分かり易いと思うのですがいかがでしょう。どうぞ日記がわりに感じたこと何でも書き込んでいただければと思います。

2.春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

訳詩:   春はいつしかすぎゆき
      夏がきたらしい
      夏ともなれば白妙の衣を干すのが習いの
      あの香具山に 今年もまた
      白い着物が並びはじめたそうな 
    

作者:持統天皇(645-702) 58才 天智天皇の第二皇女 天武天皇の皇后
出典:新古今集 夏175
詞書:「題しらず」

万葉集原歌
 春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山

①百人一首の中でも一二を争う有名な歌。爺も持統天皇が大和三山の一つ天の香具山を詠んだ夏来たりぬと言う歌、、程度に軽く考えていました。ところが天智~天武~持統という流れを勉強するにつれ持統天皇の凄さに圧倒されています。

 持統天皇=鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)
 645 @1 生まれは大化の改新の年!
 657 @13 天武(父天智の弟)の妃に
 663 @19 白村江の戦い
 672 @28 壬申の乱
 673 @29 天武天皇即位、皇后に 以後天武のパートナーとして政治に携わる
 686 @42 天武没、称制開始 大津皇子の変
 689 @45 飛鳥浄御原令施行(天武念願の事業)
 690 @46 持統天皇即位
 694 @50 飛鳥京遷都(天武念願の事業)
 702 @58 大宝律令施行を見届け没! 遺言で火葬

 →想像を絶する壮絶な人生である。日本史上最強の女性政治家ではなかろうか。
 →天智の大化の改新に始まった日本の国づくりを壬申の乱を経て天武が引き継ぎ、天武の死後持統が完成させたという図式であろうか。
 →百人一首の1番が天智、2番が持統(天智の子であり天武の皇后)というのは納得である。

②1番「秋の田」が瑞穂の実る敷島(日本国)全体を詠んだに対し2番「天の香具山」は大和国飛鳥・藤原に焦点を当てたものと言えようか。

③大和三山
 香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし
 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき

       (万葉集 中大兄皇子=天智天皇)

 →どうしても額田王を巡る天武・天智との三角関係が思い浮かぶ。

④天武&持統は相思相愛であったのだろう。天武の妻は何十人といたのだろうが持統こそ最愛のパートナー(国づくりにまい進する戦いでの戦友)の位置づけか。

 天武の死を悼む持統の挽歌が切ない(万葉集)
  燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずや会わなくもあやし
  北山にたなびく雲の青雲の星離さかり行き月も離さかりて

春過ぎて夏来にけらし、、、
 爺はとっさに「夏は来ぬ」を思い出します。
   卯の花の におうかきねに
   ほととぎす 早も来鳴きて
   しのび音もらす 夏は来ぬ

 →「白妙の」が卯の花を表しているという説もあるようです。

みなさまは2番歌から何を感じられるのでしょう。

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