11番に入りました。ここからは全て実在の人となります。先ずは流人参議篁から。
【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
11.わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩: 大海原に横たわるあまたの島を経めぐって
はてに配流の身を横たえるため
この篁は舟に乗り揺られて去ったと
告げてくれ漁夫の釣舟よ
都に残るあの人にだけは
作者:参議篁(小野篁)(802-852)51才
出典:古今集 羈旅407 (羈旅と言っても島流しなんですが、、)
詞書:「隠岐国に流されける時に、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣はしける」
①小野家は代々武勇で知られた家系であるとともに学者・書道家の家柄でもある。古くは遣隋使小野妹子。篁がいて小野道風(三跡の一人)は孫。小野小町も孫との説あり。
篁自身も漢詩文に優れ和歌も書も能くした。折しも平安初期漢詩文全盛期から古今調和歌への変わり目にあった。目崎徳衛は小野篁を「最初の古今歌人」として評価している。
→光琳かるたでは武者のいでたちをしている。文武に秀でた男、何となく体育会系でマッチョな男に思えるのだがどうだろう。
直言実行の変り者、融通のきかない一徹者の感じ。
37才の時遣唐船のことで異議を唱え嵯峨帝の逆鱗にふれ「隠岐に行ってまいれ!」
→この時の一部始終を吟味する余裕もないが2年後に許されて帰ったところをみると篁の言い分にも一理あったのであろう。
②さて、隠岐は言うまでもなく後に後鳥羽院が流されたところ。定家がこの歌を選んだのには勿論隠岐配流のことが頭にあったのであろう。
11番歌が詠まれたのは隠岐に船出する難波津(出雲説もあるようだが難波を出て瀬戸内海経由の方がしっくりする)。
「京なる人のもとへ遣はしける」
→これは妻でしょう。
③小野篁の逸話(冥界往来説話)(今昔物語)
小野篁は夜な夜な地獄に通い閻魔大王の判定補佐役を務めていた。六波羅珍皇寺の入口から入り嵯峨清凉寺近くの井戸から戻った。
→閻魔大王の信頼を得てアシスタントに駆り出されるとは並大抵の男ではできない。文武に優れ権威をも恐れず直言できる篁だからこそであろう。100人中一番の武人かもしれない。
④さて、歌の鑑賞。
11番歌は「わたの原や」。76番歌に「わたの原こ」がある。即ち上5だけでは決められず6字目を聞いて確定する所謂「大山札」である。
悲劇の人の悲壮な歌とか言われるが爺にはそんな風に響きません。むしろ「俺は何も悪いことはしていない。恥じることもない。堂々と行って来るぞ!(と勇ましく、、)」と言う風に聞こえるのですがいかがでしょう。ちょっと例の後鳥羽院の歌に感じが似てると思いませんか。
我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け