1番 始まりは天智の「秋の田」

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
1.秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:  稲が実った田のかたすみ
     番をするため仮小屋をたてて私は泊る
     屋根を葺いた苫は即製 目はあらい
     隙間から洩れ落ちる露に
     濡れそぼつ袖は 乾くまもない
  

作者:天智天皇(626-671)46才 38代天皇 父は舒明天皇
出典:後撰集 秋中302 
詞書:「題しらず

原歌:万葉集 読人しらず
   秋田刈る仮蘆を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける

さて1番歌から気ままなコメント始めます。よろしくお願いします。

①何故天智天皇のこの田舎くさい歌が王朝文化讃歌集たる百人一首の栄えある冒頭を飾るのか。それこそ定家の確信に基づくものでしょう。
 ・天智は平安王朝では(平安貴族にとっては)特別な天皇(平安王朝の祖先)であった。
 ・歌の内容もさることながら天智詠と言うことが重要。
 ・歌の解釈は二の次、何とでもなる。
  →爺は農民の労苦を思いやり豊作を祈る聖帝の地道で真摯な歌、、と感じています。

②さてその天智(中大兄皇子)、大王(まだ天皇ではない)・豪族が入り乱れる世の中を天皇を頂点とする中央集権律令国家にするべく第一歩を踏み出した強力なリーダーであった。

 天智天皇
 645 @19 大化の改新(乙巳の変) 蘇我氏(入鹿・蝦夷)を討伐
      →白昼宮中、母皇極天皇の御前で入鹿を斬殺。歴史が動いた瞬間である。
       
 663 @37 白村江で敗れる(唐が本土に迫るかも、日本国存亡の危機であった)
 667 @41 飛鳥から近江(大津)へ遷都 翌年即位(@42)
      →大津にある近江神社で毎年カルタ大会が開かれる。
 671 @46 没 ここから壬申の乱へと続く

 天智天皇の業績(大化の改新)
 ・全国的戸籍の作成(庚午年籍)統一的租税制度のため
 ・法治(律令)国家へ向け近江令制定
 ・唐、新羅の侵攻に備え軍事制度を作る
 ・国史編纂を企図(完成は奈良朝になってから)
 ・漏刻(水時計)をつくる
 →日本の国づくりが天智により大きく動き出したと言えるのではないか。

③乙巳の変(クーデター)で組んだ中臣鎌足(後藤原姓に)が藤原家の祖先。
 →定家を始め藤原貴族にとっては天智天皇+中臣鎌足が尊敬すべき大祖先
 →百人一首が乙巳の変から始まるのも納得である。

④さて、歌としての感想、どうしましょうかね。
 ・労働歌なのであろうがどうにも田舎くさい歌である。
  →田が出てくるのは他に71番歌(夕されば)

 ・源氏物語の優美な世界からは一番遠い歌であろうか。
  →源氏物語には田んぼ描写はなかったと思います。
   田んぼ、農夫はマイナスイメージで出でくる。

   袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき
             (六条御息所 @葵)
    →源氏との恋が行き詰まり苦しみを源氏に訴えた贈歌。
    →物語中第一の歌とも目される(細流抄)

 ・「とまをあらみ」 ~~~を~~~~み
   この言い方百人一首では3首、他の2首は、
   48番 風をいたみ~
   77番 瀬を早み~
   →この古語形式は俳句には使えないんでしょうかね。

第一首、固くなってしまいました。反省です。もっと柔らかくしないとね。。 

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百人一首の拡がり カルタ・絵・異種・パロデイ そして 難波津に~~

百人一首、日本の文化伝統が詰められた600年のアンソロジー、その裾野の広がりは大きく私たちの文化教養の基礎として大いに貢献していると痛感します。

百人一首が単に古典和歌集としてお高くとまっておればこれほど普及はしなかったでしょう。かるたの形式になったのが大きい。かるたゲームになったお蔭で庶民レベルまで普及した。読み札・取り札を一対として読み手が読み、取り手が早く取ることを競い合う。この方式は外国にはない日本独自のものとのことで、百人一首かるたの発明は国民栄誉賞ものであろう。

そして婦女子にとっては嫁入りに際しての啓蒙・教養の道具としてまた書道の教材として重要視される。人間動機づけが肝心。「百人一首くらい覚えておかないとお嫁に行けないよ!」というように女子は必死に百人一首を覚えたのであろう。逆に男子は「なよなよした大和言葉の百人一首なんぞ」と敬遠し百人一首を苦手とするのが多かったのではなかろうか(まあ今でもそうでしょうかね)。

異種百人一首
有名な小倉百人一首に倣って同様形式の和歌集が編纂されたのは当然
著名なものとしては、
 ①後撰百人一首: 二条良基&その子孫 14世紀
 ②新百人一首: 室町九代将軍足利義尚 1483
 ③武家百人一首: 姫路城主榊原忠次 江戸初期

そして昭和戦時下で「愛国百人一首」
 →真に国を愛するならもう1年早く降参してほしかった。

江戸時代あたりから各種パロデイも生まれる。
大田南畝の「狂歌百人一首」1843 が有名
二つほど挙げておきますと、
 1番 秋の田のかりほの庵の歌がるたとりそこなって雪はふりつつ
 8番 わが庵はみやこの辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治

ヨルタモリの日本古典文学講座も百人一首のパロデイである。
 →どうしても下ネタ風になるのは致し方ないところか。

狂歌・川柳の類を楽しむには本歌が分かってなければならない。狂歌・川柳の流行は百人一首が一般人の基礎教養として定着してきたことを意味するのであろう。
 →一首づつ川柳を作るというのはどうでしょう。九代目仁王どの、松風有風どの、枇杷の実どの考えてみてください。

他に異種百人一首として、
 ①「新々百人一首」丸谷才一(新潮文庫) 高尚過ぎて読み切れません。
 ②「平成新選百人一首」宇野精一編(文藝春秋) 
   これは記紀万葉から現代まで著名な歌が選び抜かれていて秀逸だと思います。
   目次だけでもご一覧ください。

ということで、ウオームアップを終了します。4月から本番です。うまくリードできるか全く自信ありません。みなさまのバックアップをお願いするのみです。どうぞよろしくお願いいたします。

では、始めるにあたり競技かるたに従って序歌を、、、
  
 難波津に咲くやこの花ふゆごもり今を春べと咲くやこの花
  王仁(生没年不詳 渡来人) 古今集仮名序

 ・古今集仮名序でもう一つ歌の父母と称されているのは、
   安積香山影さへ見ゆる山の井のあさき心をわが思はなくに
    前采女(生没年不詳) 万葉集

 ・この二つが和歌を習い始める基本、書道(手習い)の教材でもあった。

 ・源氏物語「若紫」で10才の紫の上を所望する源氏に祖母尼君が「まだ難波津をだにはかばかしうつづけはべらざめれば、、、」と躊躇するところでこの二つの歌が引かれている。誰もが知っている基本中の基本だったのだろう。

それではこれでウオームアップ終了、いざマウンドへ!!

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登場人物100人の人間模様

登場する100人、男女の比率や身分・官位については先に概観しましたが登場人物相互の人間関係・人間模様について考えてみました。先に触れましたが平安時代中期の時点で全国の人口規模は400万人台、平安京が人口十数万人 内貴族(五位以上)200人前後 家族入れて約1000人程度。
 →現代に比べようもないちっぽけな狭い世界です。
 
百人一首の歌人たちは五位ならずとも名のある貴族でありその数は限られていた。即ち同時代に生きていた貴族たちはお互い面識はなくても名前くらいは知っていた、そんな間柄だったのではないか。従って政治的ライバル・恋のライバル・恋愛関係・仲良し友人・親子兄弟血縁関係・勝者敗者など色んな人間模様を随所に見ることができる。政治上の勝者敗者が背番号を連ねて登場する。二人の想いや如何ならん、、、なんて想いを馳せるのが百人一首を味わう醍醐味だと思っています。

「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)「百人一首の歴史学」(関幸彦)あたりからピックアップした人間模様の塊り(注目ポイント)を列記しておきます。

①万葉集の時代
 飛鳥万葉 何と言っても天智・持統帝 & それを支えた柿本人麻呂
 奈良万葉 山辺赤人・大伴家持

②平安初期
 小野小町を中心に
 比較的大らかな交遊関係が偲ばれる。

③陽成院-源融-光孝天皇-元良親王 
 皇位を巡る四巴え。歯車が一つ狂っておればそれぞれ人生は暗転・明転していたかも。
 賜姓源氏源融、一夜めぐりの君元良親王 光源氏のモデルである。

④政治的敗者 在原行平・業平
 菅原道真と藤原忠平
 道真の敗北により藤原氏全盛時代が確立する。

⑤古今集撰者たち 専門歌人たち
 紀友則 紀貫之 凡河内躬恒 壬生忠岑
 天徳の歌合せ 平兼盛vs壬生忠見

⑥一条朝 定子後宮vs彰子後宮 藤原道長摂関政治の全盛期
 ずらりと並ぶ寛弘の女房たち
 道綱母・儀同三司母・和泉式部・紫式部・大弐三位・赤染衛門・
 小式部内侍・伊勢大輔・清少納言

(白河朝 待賢門院璋子・西行)
 →この話も強烈、是非話題にしていきたい。

⑦保元の乱
 崇徳院 藤原忠通

(平家の全盛~後白河院の暗躍~源平の戦い)
 →「紅旗征戎は吾が事にあらず」とは言うものの百人一首の行間を読んで平安王朝終焉について考えたい。

⑧源平~承久の変
 式子内親王-藤原定家 
 後鳥羽院-藤原定家

またまた、歴史事項の羅列みたいになりました。実際には個々に突っこんで人間模様に踏み込んでみたいと思っています。 

(追記)親子で入っているのが17組(18組説もあり)ちょっと多すぎないだろうか。
  天智(1)-持統(2) 遍照(12)-素性(21) 陽成院(13)-元良親王(20)
  文屋康秀(22)-朝康(37) 定方(25)-朝忠(44) 壬生忠岑(30)-忠見(41)
  清原元輔(42)-清少納言(62) 伊尹(45)-義孝(50) 公任(55)-定頼(64)
  和泉式部(56)-小式部内侍(60) 紫式部(57)-大弐三位(58) 
  経信(71)-俊頼(74)-俊恵法師(85) 唯一親子三代に亘り入選!
  忠通(76)-慈円(95) 顕輔(79)-清輔(84) 俊成(83)-定家(97)
  後鳥羽(99)-順徳(100)
以上が17組

  平兼盛(40)-赤染衛門(59)も親娘という説もある。この方が面白いか。

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出典は勅撰集!

百人一首の100首は全て勅撰集から採られています。逆に言うと勅撰集に選ばれていない歌はどんな有名な歌でも対象とされていません。「出典は勅撰集!」そこがミソなのです。

何故定家は勅撰集からに拘ったのでしょう。それは勅撰集の重みだと思います。勅撰集とは天皇・上皇・法皇が勅により当代の和歌の達人を撰者として選ばせた公的和歌集でそれこそ権威の塊であった。撰者も名誉にかけて下手な歌は入れられない。選ぶ方も選ばれる方も歌人としての生命を賭けた一大事だったのでしょう。

 〇勅撰集に入ってないために選ばれてない筆頭としては古代史中最も華麗な宮廷才女と言われる額田王でしょうか。
  熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(万葉集)
  茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(万葉集)
  →天武の妃にして後に天智に寵愛される(源氏と朱雀帝に愛された朧月夜を思わせる)
  →額田王が入っていれば百人一首の華やかさはいや増していたものを。。

 〇勅撰集に載せるべく都落ちに際し俊成に必死の訴えをし千載集に詠み人知らずとして入れられた平忠度(平家物語巻七 忠度都落)
   
  其後世しづまって、千載集を撰ぜられけるに、彼巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、故郷花といふ題にて、よまれたりける歌一首ぞ「読人知らず」と入れられける。
    さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな 

     
     →この段、歌人師弟としての俊成・忠度の思いに胸が詰まります。

ここからは百人一首の出典となった勅撰集のリストです(数字の羅列ですみません)
(鈴木知太郎「百人一首」による)

     成立  総数  百首  勅   撰者
古今集  905年 1100首 24首  醍醐  紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑   
後撰集  951年 1425首 7首   村上  能宜・元輔・源順他(梨壺の五人)    
拾遺集  1005年 1351首 11首  花山  花山院
後拾遺集 1087年 1218首 14首  白河  藤原通俊
金葉集  1126年 650首 5首  白河  源俊頼
詞花集  1151年 415首 5首  崇徳  藤原顕輔
千載集  1188年 1288首 14首  後白河  藤原俊成 
新古今集 1205年 1978首 14首  後鳥羽  藤原定家・飛鳥井雅経・寂蓮・他
新勅撰集 1235年 1374首 4首  後堀河  藤原定家
続後撰集 1251年 1371首 2首  後嵯峨  藤原為家
     合計 12170首 100首

 ①太字は百人一首に入っている歌人 崇徳・後鳥羽を入れて14人
 ②対象となった勅撰集の合計は12170首、ここから100首が選ばれた。
 ③何と言っても最初の勅撰集古今集の意味合いは高い。醍醐帝の延喜の治の象徴として和歌の重要性を定着させた。
 ④百人一首には古今集が一番多く24首(36番歌までは大半が古今集)、続いて後拾遺集・千載集・新古今集が14首(新古今は万葉集から各代のものを広く採っている)。
 ⑤勅撰集を作らせた天皇も醍醐・村上・花山・白河・後白河・後鳥羽と和歌を好んだ文人帝が並ぶ。

この表をじっと眺めていると和歌の持つ力、勅撰集の重みが伝わってくると思うのですがいかがでしょう。

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詠まれた舞台、歌枕

百人一首の歌はどこで詠まれたのか或いはどこが詠まれているのか、地理的舞台を考えてみました。

 ・平安時代京都に住む人たちが詠んだ歌が中心なので地方性はあまりなかろう。
 ・当時京都人たちが地方へ行くような機会はめったになかっただろうし。
 ・京都に近い所はけっこう詠まれているかもしれない。

これが一般的考えでしょう。予想通りでもあり意外に広がってるなあとも思います。

1.先ず日本最古の歌集万葉集をみてみました。
 万葉集(770年ころ成立)での歌の地理的分布(「万葉の旅」犬養孝より)
 奈良897 大阪218 滋賀145 兵庫142 京都127 和歌山126 (上位6県)
 →当然大和が圧倒的に多い。まだ京都は少ない。
 ゼロは北海道・青森・秋田・山形・沖縄
 →逆に言えば宮城以南は九州四国まで万遍なく詠まれている。
 →この頃までに東北以北を除き日本国家ができあがっていたことが分かる。
 (万葉集4500余首中地名の出てくる歌は約2900首に及ぶ)

2.百人一首で地名が詠みこまれているもの或いは背景に土地があるもの
 ・大和(奈良)12
  天の香具山(春過ぎて)・三笠山(天の原)・竜田川(ちはやふる)
  手向山(このたびは)・(吉野)朝ぼらけあ・(初瀬)人はいさ
  奈良(いにしへの)・大峰山(もろともに)・(三室山竜田川)嵐ふく
  初瀬(うかりける)・(興福寺)契りおきし・(吉野)みよし野の

 ・京都近辺 10
  宇治(わが庵は)・逢坂(これやこの)・逢坂(名にしおはば)
  泉川(みかの原)・志賀の山越(山がはに)・由良(由良の戸を)
  大江山(大江山)・逢坂(夜をこめて)・宇治(朝ぼらけう)
  比叡山(おおけなく)

 ・近畿 10
  住の江(住の江の)・難波(難波潟)・難波(侘びぬれば)
  高砂(誰をかも)・伊吹山(かくとだに)・有馬山(有馬山)
  高師浜(音に聞く)・淡路島(淡路島)・難波(難波江の)
  松帆の浦(来ぬ人と)

 ・その他(北から)10
  雄島(見せばやな)・末の松山(契りきな)・信夫郡(陸奥の)
  佐渡(百敷や)・筑波山(筑波嶺の)・鎌倉(世の中は)
  富士山(田子の浦に)・稲葉山(立別れ)・隠岐(わたの原や、ひともをし)

 ・観点は違うが7番歌(天の原)は外国(唐土)で詠まれた唯一の歌ということで憶えておきたい。

歌枕とは古歌に詠みこまれた諸国の名所(広辞苑)。この名所が繰り返し詠まれるにつれ俳句の季語同様歌枕そのものが意味を持ち歌の雰囲気を醸し出すことになる。

百々爺の感想
 ①100首中42首が歌枕関連、思ったより多い。京都の貴族たちも自分が行ったことはないにせよ地方(歌枕)への興味は高かったのであろう。

 ②でもやはり万葉集と比べると畿内を除く地方は圧倒的に少ない。特に西国はゼロ。道真の「東風ふかば」でも入っていればよかったのに。

 ③当時辺境というと配流の場、左遷の場というイメージでもあったろうか。
  隠岐(小野篁、後鳥羽院)佐渡(順徳院)讃岐(崇徳院)
  陸奥(実方)須磨(行平) 
  

 ④爺は茨城に近い千葉なので筑波山にはなじみが深い。13番の歌は大事にしたいと思ってます。
  →みなさんそれぞれ所縁の歌枕が出てきたら思いをこめてコメントしてください。
  →奈良在住の在六少将には忙しくなりそうですね。

(追記)平安中期の国勢について(源氏物語で調べたもの)
  日本 総人口 (諸説あるが) 400万台
  行政区画 畿内 & 七道
   大国13 上国35 中国11 下国9 計68国だった(格差あり)
  平安京 人口 十数万人 内貴族(五位以上)200人前後 家族入れて約1000人

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百人一首 詠み人の構成・歌の内容

さて、時代や歴史はそれ位にして100首の中味を概観しておきましょうか。

先ず歌には1番から100番まで番号がつけられています。まあ背番号みたいなものでしょうか。順番は概ね時代順(厳密ではないしそこがいい)と考えてください。歌を憶えるときにはこの番号とともに憶えるのをお勧めします。
 →「1番 天智 秋の田の~~~ 」って調子です。
 →憶えるにはひたすら繰り返すしかありません。小学生に戻りましょう。

①詠み人の構成
 ・男性79人 女性21人
  →男が圧倒的に多い。女性は平安中期(50番60番台)に9人

 ・男性79人の内訳
  天皇7人(天智・陽成・光孝・三条・崇徳・後鳥羽・順徳)
  親王1人(一夜めぐりの君 元良親王)
  官人58人(藤原氏25人、源氏8人 藤原氏が圧倒的に多い)
  僧侶13人(蝉丸を含む)
  →純粋の歌人あり、政治権力者あり、得体の知れぬ者(猿丸・喜撰・蝉丸)あり

 ・女性21人の内訳
  天皇1人(持統)
  内親王1人(定家との関係が取沙汰される式子内親王)
  貴族の母2人(道綱母・儀同三司母)
  女房17人(宮廷あるいは藤原家の女房、女流文学黄金時代の担い手)

 男女比、身分での配分など絶妙じゃないでしょうか。

②歌の内容
 (100首は全て勅撰集から採られているが分類は勅撰集における分類)
 (即ち業平の「ちはやふる」、道真の「このたびは」は共に紅葉が出て来るが前者は「秋」後者は「羈旅」に分類されている)
 
 ・四季32首
  春6首(花の色は・君がためは・久方の・人はいさ・いにしへの・高砂の)
  夏4首(春過ぎて・夏の夜は・ほととぎす・風そよぐ)
  秋16首(多すぎて書けません)
  冬6首(田子の浦に・かささぎの・山里は・朝ぼらけあ・朝ぼらけう・淡路島)
  →秋が圧倒的に多い。定家の理念の表れか。

 ・羈旅4首(天の原・わたの原や・このたびは・世の中は)
 ・離別1首(立別れ)
 ・雑部20首(わが庵は・これやこの、、、など)

 そして
 ・恋43首(男性29首・女性14首=女性は3分の2が恋の歌)
  →「恋の歌は、その喜びを真正面から歌ったものはほとんど見られず、もっぱら、しみじみと悲しく、あわれな方面のものであって、詠嘆、憂悶、怨嗟、純愛、後朝の思いなど各方面にわたってすこぶる多彩をきわめ、「みやび」と「もののあはれ」とを中心とした王朝貴族の情趣生活を遺憾なく表しているものと言えよう」(鈴木知太郎)
  →やはり恋歌をじっくり鑑賞しあれこれ議論しあうのが一番面白いのじゃないでしょうか。

③百人一首に出てくる植物
 ・桜6首(花の色は・久方の・いにしへの・もろともに・高砂の・花さそふ)
 ・紅葉5首(奥山に・このたびは・小倉山・山がはに・嵐吹く)
 ・松4首(立別れ・誰をかも・契りきな・来ぬ人を)
 ・葦3首(難波潟・夕されば・難波江の)
 ・稲、さしも草、しのぶ草 各2首。
 ・若菜、さねかずら、菊、梅、八重葎、浅茅、笹、真木、藻 各1首 
  →意外と梅が少ない 35番「人はいさ」のみ

④百人一首に出てくる動物
 ・鹿2首(奥山に・世の中よ)
 ・やまどり、かささぎ、にわとり、千鳥、ほととぎす、きりぎりす 各1首
  
以上羅列のみですが、ざっと頭に入れておくといいと思います。

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百人一首の時代、650~1250年 600年間にわたる!

百人一首が詠まれた時代(歴史)について考えてみました。

百人一首は勿論平安王朝の「やまとうた」が中心なのですが100首全部が平安時代に属するのではなく前後10首づつくらいは飛鳥・奈良時代&鎌倉時代のものが含まれています。これが実にいい。このおかげで400年間もの長きに亘った平安王朝がどのように作られどのように崩れていったかに思いを馳せることができるというものです。

以下歴史年表から主だった事項をピックアップしてみました。

 年   事項           キーワード      キーパーソン
645  大化の改新(乙巳の変)  王権国家への第一歩    天智
663  白村江の戦い       日本国存亡の危機     天智
672  壬申の乱         律令国家へ        天武・持統
 →この50年ほどで日本国家・天皇制が形作られる。百人一首がここから始まるのはすごい。

710  平城京に遷都       奈良時代へ        持統→藤原不比等
794  平安京に遷都       平安時代の始まり     天智系王家へ
 →政治的反乱・道鏡の台頭など混乱の奈良時代を経て平安時代へ

866  良房、摂政に       摂関政治の始まり     源融・業平・菅原道真 
872  基経、関白に
905  古今和歌集        延喜・天暦 国風文化   陽成院・貫之
 →古今集は勅撰集の初め、平仮名による王朝和歌が花開く

1000  二后並立        摂関時代全盛       道長・紫式部
 →平安時代の真中。道長と寛弘の女房たち 百人一首も全開

1086  白河院院政開始     藤原摂関家の衰退     白河院・待賢門院璋子
1156  保元の乱        平氏の台頭        崇徳院・藤原忠通
1159  平治の乱
 →ここからは前稿定家についての年表に続く

1192  頼朝征夷大将軍(鎌倉幕府成立)
1221  承久の変 後鳥羽院、隠岐に配流

百々爺の感想
①600年ってとてつもなく長い。今から600年遡れば1400年。室町幕府ができて義満が金閣寺を建てたころ。応仁の乱も始まっていない。遠い遠い昔です。
 →そういう悠久の昔を思いつつ定家は百人一首を編んだわけであります。

②日本の国防の危機は最初が白村江の戦いの頃(唐がもう少し安定してれば日本国は完全に征服されていたろう)。これに対処したのが天智・天武天皇。その次が元寇(1274文永の役 1281弘安の役)、北条武家政権が対応した。
 →百人一首の600年間は丁度この二つの危機に挟まれている。外敵からは比較的安全であった。日本文化が形作られ熟成していった時期だろうか。

③前後の動乱の時代を思う程いかに道長の摂関政治を頂点とする平安時代が文字通りの平和で安定した時代であったか(個別の争いはあろうとも)分かる気がする。
 →そして居並ぶ寛弘の女房たち、、、色好みのプレーボーイたち、、、。
 →和歌が意思疎通の手立てとしてだけでなく政治道具にまで高められた時代

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撰者、藤原定家について

百人一首の産みの親、藤原定家について考えてみました。

藤原定家 1162-1241 藤原俊成の子 最終官位:権中納言(左程ではない)
祖先は道長の六男長家で御子左家という。政治権力的にはマイナーな一族

定家が生きた80年は平家全盛~源平の乱~鎌倉幕府の成立~承久の変~北条執権政治まで実に波乱に富んだ時代。後白河院・後鳥羽院が必死に守ろうとした平安王朝(その象徴が和歌)が崩れ武家政権に変っていく節目の時代であった。その中で定家は父俊成の跡を継ぎ歌道に勤しみその後御子左家は公家文化継承の主流となっていく。

定家関係年表
(定家と主だった関係者の生没年)
  平清盛1118-1181 西行1118-1190 崇徳院1119-1164 後白河院1127-1192
  式子内親王1149-1201 藤原定家1162-1241 後鳥羽院1180-1239

  →清盛・西行は同年生まれ(崇徳院は1年下)
  →式子内親王は定家の13才上、後鳥羽院は定家の18才下)

 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1162 @1 定家誕生 (@は定家の数え年令)
 1167 @6 平清盛太政大臣に(平氏政権成立)
 1180 @19 以仁王挙兵→敗死 後鳥羽院誕生
       定家明月記を書き始める この頃から作歌活動本格化
 1185 @24 平氏滅亡(壇の浦)
 1186 @25 定家九条家に出仕
 1188 @27 千載和歌集(俊成撰)
 1192 @31 頼朝征夷大将軍(鎌倉幕府成立)
 1200 @39 この頃から後鳥羽院和歌に傾注、定家後鳥羽院に認められる
 1205 @44 新古今和歌集(定家・家隆・有家・雅経)
 1220 @59 定家、後鳥羽院と対立 勅勘を受く
 1221 @60 承久の変 後鳥羽院、隠岐に配流
 1233 @72 定家出家(法名:明静)晩年は源氏物語など古典に傾注
 1235 @74 百人一首(小倉山荘 障子絵+色紙形)
 1239 @78 後鳥羽院崩御
 1241 @80 定家死す
 
百々爺の感想  
 ①定家の明月記1180年の記として「紅旗征戎は吾が事にあらず」(私は世の中の騒乱には関与しない)が有名。年表を見ると定家の真意はともかくとして定家が如何に激しい世の中に生きたのかがよく分かる。

 ②後鳥羽院(定家の18才年下)の和歌への注力はすごい。最初は蜜月状態であったがその後対立、勅勘を受け仲違いしてしまう。そして承久の変。その後百人一首を編んだ定家が後鳥羽院(&順徳院)の処遇に困ったのも当然である。

 ③式子内親王と定家との男女関係が取りざたされるがどんなものでしょう。
  →式子内親王の歌の所で議論しましょう。

 ④父俊成は90才まで生きたし定家は80才、えらく長生き。でも定家の年譜を見ると幼少時赤斑瘡やら疱瘡やらで重病に陥っているし、同僚と殿上で諍いを起し位階を除籍されたりと波乱万丈の人生であった。後鳥羽院との確執も歌に対する頑固さのせいであったのだろう。
  →「闘う歌人」として平安王朝の心髄である和歌のために闘い、王朝文化(和歌&源氏物語など古典)を後世に伝え残したアッパレな男と言えるのではないでしょうか。

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百人一首の成立、いつ誰がどのように選んだのか。

百人一首の解説本には必ず成立について(いつ誰がどのように選んだか)の解説が載せられています。勿論それは重要であり知っておきたいところです。ところが大筋はともかく細かいところになると諸説紛々、未だ定説はないようです。まあ我々素人は細かいところなど気にせず気楽に大筋だけ捉えておけばいいでしょう。

 ちょっとまとめると
 「藤原定家(1162-1241)が鎌倉時代初期(1235以前)に勅撰集の中から一人一首づつ計百首を選んだ。その後、娘婿宇都宮頼綱の依頼で小倉山荘の障子絵を作りその百首を色紙に書きつけた。これが小倉百人一首である」(定家の日記「明月記」を信じて)

 まあ、こんなところでしょうか。

 ①藤原定家については次項としますが、偉い人です。百人一首の産みの親、源氏物語の育ての親であります。

 ②100という数字がいい。百人一首の対象となっている古今集~続後撰集で収録歌数は12,170首。この中から100人100首を選ぶのは大変だったろう。でも後世に残ると意気に感じ嬉々として選定作業に没頭したのではなかろうか。

 ③百人一首に先行するものとして同じく定家撰の百人秀歌があるが顔ぶれが若干異なっている。百人秀歌の時は折しも承久の変(1221)の時であり政治的配慮から99番後鳥羽院、100番順徳院を入れることができず、ほとぼりがさめてから百人一首に入れられた、、、とされている。
  →左様に百人一首は政治的産物であったと言えよう。
  →勅撰集の重みは別途考えたいがその勅撰集からベスト100を選ぶなどどえらいこと。
  →定家も大胆不敵な男である。

 ④定家はどのような観点から百人百首を選んだのか。先ず百人の人選、次いで何故その歌が選ばれたのか(有名でない歌も多い)そして順番。これらについては様々な疑問が投げかけられ謎解きも多く行われている(「絢爛たる暗号」織田正吉、「百人一首の秘密」林直道など)。
  →爺も両方ざっと読みました。個人的な解釈としては面白いと思います。ただ押し付けられるのはゴメンといったところでしょうか。
  →定家も真剣に撰歌したのでしょうが結構個人的好き嫌いで奔放にやったのではないでしょうか。 

 ⑤百人一首が小倉山荘の障子絵とのパッケージで伝えられているところが面白い。歌と絵との取り合せ。これが後世プロの歌人だけでなく広く貴族・武家に広まり江戸時代に至っては諸々の異種百人一首なども作られた要因ではなかろうか。
  →源氏物語が絵入りで作られたようなものではないか。

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談話室オープンします。よろしくお願いします!

源氏の店をクローズし百人一首の店を新しくオープンする。店主は緊張しています。新しい店がうまくいくかどうか、お客さんが来てくれるかどうか。。。

百人一首をやろうとした経緯、どう読んでいくかについては上欄の固定ページ(「Why & How 百人一首」と「読み進め方について」)をご参照ください。

百人一首はどなたにも馴染のあるものでしょうから私の投稿も基本的事項は控えめにして個性的に言いたいこと強調したいことをメリハリつけて書くようにしたいと思います。源氏の登場人物談義で好き嫌いの評価をしたように百人一首でも歌や詠者について率直な感想・意見を述べたいと考えています。
 →歌について、すばらしいとかつまらないとか訳が分からないとか
 →人物について、大人物だとか可哀そうだとか何でこの人がとか

私の中心視点は背景となる歴史、人物相関関係、源氏物語との繋がりになるかと思います。フォローアーのみなさんにはそれぞれ興味のある観点から切り込んでいただければと思います。百人一首の裾野は実に広く「千早ふる」「崇徳院」の落語を始め歌舞伎、能・謡曲、絵、各種パロデイなど迄拡がっています。古来百人一首は日本人の文化教養に欠かせないものとして尊重されてきたと言えるでしょう。

競技かるたもマンガ「ちはやふる」の影響で子どもたちにも広く浸透しています。ウチの孫(小5女)も覚え始めたと言うので正月爺と一戦交えたのですがコテンパンにやられてしまいました。100首完璧に覚えている爺としてはまだ60枚程度しか完全に覚えてない女児にやっつけられて面目丸つぶれでありました。
 →ゲーム感覚の遊びを通じ百人一首愛好者が増えていくのもいいことじゃないでしょうか。 

ではどうかよろしくお願いいたします。

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